港町と海の悪魔
ジェラルドさんの山小屋を出て、旅を始めた私たち。
最初に向かったのは、そこからまた三日ほど歩いた場所にある、とある港町だった。
潮風が吹き、私の髪をなでてゆく。
空気は湿り気を帯びていて、なおかつ少しべたついている気がする。
港町は、私がこの世界に来て最初に見た街と比べても、さらに小規模の街だった。
でも人々の暮らしている様子に変わりはなく、活気もある。
「確かこの港町から、船で大陸に渡るんでしたよね、ジェラルドさん」
「ああ、よく覚えてたな。いい子だ」
「わぷっ」
爽やかな朝日の降り注ぐ朝方。
港へ向かう大通りを歩きながら、斜め後ろを歩くジェラルドさんに顔だけを向けて確認すると、ジェラルドさんはその手を私の頭に置いて、わしゃわしゃと私の頭をなでてきた。
ジェラルドさんは、よくこうして私を褒めてくれる。
これがどうにも結構心地が良くて、猫みたいに丸まってしまいたくなるんだけど、一方で手玉に取られているようでもあり、釈然としない部分もある。
「あの、ジェラルドさん。何度も言ってますけど、そうやって子ども扱いするの、やめてもらえますか」
だから私は、形だけでもそうやって、彼の行動を否定する。
でもそれもジェラルドさんにはお見通しなのか、さらにわしゃわしゃされる。
「分かった分かった、もうしないよ」
そして、その心地よさをまた堪能してしまう自分が恨めしい……。
うぅっ……私って、根っこが甘えん坊だからなぁ。
子ども扱いしないでと言いつつ、実際は子ども扱いしてほしいのかもしれない。
「しないよって言いながら、してるじゃないですか、もう!」
物理的に、ジェラルドさんの手をどかしにかかる。
ちょっと名残惜しい。
でもでも、私は勇者だし。
しっかりしないといけない。
勇者として、復活しようとしている魔王を、どうにかしないといけないのだ。
そのために、こうして旅をして、この港町まで来たわけなのだし。
***
「──何はともあれ、まずは大陸に行かないとな」
出掛ける前にジェラルドさんは、山小屋の奥の部屋から世界地図を持ってきて、それを広げて私に見せてくれた。
黄ばみがかった大きな紙に、水彩の絵の具で描かれた地図だ。
地図を見ると、真ん中に大きく大陸図が描かれている。
そして一方、その地図の左下の端っこに、面積にして大陸の十分の一以下ぐらいの大きさの島が一つ描かれていて、ジェラルドさんはその島を指さす。
「俺たちが今いるのが、この島だ。海を渡って、大陸に行かなきゃいけない」
ジェラルドさんは、その島から斜め右上に指を動かして、大陸への経路を示す。
海を渡るってことは──
「船ですか?」
「そういうこと。今いるこの山から、東に三日ほど歩いたところに港町があるから、そこから船に乗って大陸に行く。魔王の再封印のためにやるべきことはいろいろあるが、何にせよ大陸に渡らんと」
***
──と、まあそんなわけで、三日間の旅をして、私たちはこの港町にたどり着いた。
そして、着いたのは例によって夕方頃で、船が出るのは朝だろうということで、昨日は一晩宿に泊まって、朝になってから港に向かうことにしたのだった。
……の、だったけれども。
「あー、だめだめ。船は出せないよ」
船着き場に行くと、朝っぱらからお酒を吞んだくれた不機嫌そうな船乗りのおじさんが、地べたに座り込んだままそんなことを言ってきた。
「何だいそりゃあ。船乗りが船を出さなくて、何をするんだ。朝っぱらから飲んでいて、今日は船を出す気分じゃないってことかい?」
ジェラルドさんがそう聞くと、船乗りのおじさんはぺっと唾を吐き捨て、言い返してくる。
「バカ言え、船は出したくても出せねぇんだよ! 海の悪魔が出て、近海を荒らしてる。仲間の船がもう二隻もやられた。この港には、いま船を出そうなんて物好きな船乗りは一人もいねぇよ」
「海の悪魔……って、まさかあれかい?」
「ああそうだよ、クラーケンだ! まったく忌々しい。最近陸にもモンスターがうじゃうじゃ出るっていうし、どうなってるんだかね」
「はあ、そりゃあまた……」
私はそう言って頭をかいたジェラルドさんの服の裾をくいくいと引っ張って、質問する。
「ジェラルドさん、海の悪魔とか、クラーケンって……?」
「ああ……まあ、一言で言うなら、でかいイカのモンスターだな」
「でかいイカ? でかいって……このぐらい?」
私は両腕を左右にいっぱいに広げて、大きさを示してみる。
それを見たジェラルドさんは、少し困ったようにまた頭をかきつつ、教えてくれる。
「あー……ざっと、その十倍ぐらいかな」
「じゅっ……!? 十倍!?」
私は自分が広げた腕を見る。
確か、人間が両手を左右に広げたときの端から端までの長さって、その人の身長とだいたい一致するって聞いたことがある。
っていうことは──
「十五メートル以上あるってこと……?」
「あーそうか、それだとそんなもんか。実際にはそのさらに倍ぐらいだな。文献だと、だいたい全長三十メートル前後って記述されてるから」
「さ、さんじゅう……」
あはははは……それもう、大きさがよく分からない。
三十メートルのイカ?
十階建てのビルぐらいあるってことかな?
私は港から、海のほうを見る。
私の目の前には、かなたまで広がる遥かな海が広がっている。
その海の、港に接する場所には、大きな船が何隻か浮かんでいる。
さっきまで私はその船を見て、船って間近で見ると大きいよなぁってのん気なことを考えていたけど……。
えっと……多分あの一番大きな船の、先から尻尾までが、三十メートルより少し大きいぐらい?
「って、三十メートルのイカって、あの船と同じぐらいの大きさがあるってこと……?」
「ああ、だからクラーケンは、船を沈めるんだわ。海の悪魔って呼ばれて、船乗りから恐れられてる」
「えぇー……」
唖然としている私を尻目に、ジェラルドさんは船乗りのおじさんに話しかける。
「クラーケン出現の連絡と討伐依頼は、王都には伝わってるの?」
すると船乗りのおじさんは、やっぱり不機嫌そうに答える。
「ああ、もちろんだとも。とっくの昔に王都に遣いは送ってる。でもな、王都の騎士団もいま、各地でのモンスターの出現報告とその対応で手いっぱいになってて、なかなか人手が割けないんだと。だからしばらく待てだと。しばらくっていつまでだって聞いたら、しばらくはしばらくだって」
「あー、そりゃそうか」
そう言ってジェラルドさんは、またぽりぽりと頭をかく。
そうして少し考えてから、私のほうを見ずにこう言ってきた。
「あー、シアちゃん」
「何ですか?」
「やるしかないかも」
「やるって、何を」
「だからさ……」
ジェラルドさんは海のほうを見ながら、ぼんやりとつぶやく。
「クラーケン退治。シアちゃんが、勇者らしく」
「……はい?」
目が点になった私の肩を、ジェラルドさんがぽんぽんと叩いた。