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藪小路花恋は由緒正しい悪役令嬢である。
彼女は元々は聖人や聖女に憧れを抱く、信心深く純真でまっすぐな心優しい子供だった。
その彼女が令嬢から悪役令嬢にクラスチェンジを果たす切っ掛けとなったのは幼少期に出会ったカーライルの言葉である。
その日、早熟だった彼女は屋敷の図書室で大人が読むような本を漁っていて見つけたのが19世紀イギリスの評論家であるカーライルの著作集だった。
読み取れる漢字の数少ないながらも、何が書いてあるのか好奇心に駆られた彼女は辞書を片手に目についた所を拾い読みしていく。
そんな彼女は幸か不幸か、それとも偶然、いや、必然だろうか、ある一文と出会ってしまった。
その一文にトーマス・カーライルはこう書いている――
聖人とは悪において本物以上の能力を発揮した者のことである。
そして、邪悪な人間とは聖人にあと一歩及ばなかった者のことだ。
この言葉に藪小路花恋は大きな衝撃を受けた。
「聖人になる方法を見つけた……!」
なんという観の転換だっただろう。
続けて紐解いた本にはこうも書かれていた――
――正義とは悪の一形態にすぎない。
――地獄への道は善意で舗装されている。
――大悪は大善に似たり。
――小善閑居して不善を為す。
――善人猶以て往生を遂ぐ況んや悪人をや。
――善意があれば何でもできる。
徐々に花恋の中の世界観が書き変わっていく。
そうして読み進めるうちに悪の智慧を求めた彼女が聖書に導きを求めるようになったのは当然のことだった。
まさにイエスが「求めよ、さらば与えられん」と述べたように、聖書は彼女に対して雄弁に悪の智慧を語りだす。
ヤコブが兄から相続権を騙し取るために何をしたか、
ダビデが人妻を己が物とするために何をしたか、
他民族を絶滅させるために聖書の民は何をしたか――
これらの事例を通して聖書が花恋に悪の叡智と悪としての在り方を教え述べるたびに自分の中で何かが確実に変わっていくのが彼女にはわかった。
そして彼女は速やかに行動を起こす。
彼女の実家である日本有数の藪小路財閥の力を駆使して、将来、悪の道を歩むのに必要なものを揃えるために動いていたのを、実の娘に甘い彼女の父親が気づくことはなかった。
父親に意図を気取られずに世界中から集めたボディーガードに近接格闘と武器戦闘の手ほどきを受けて育った彼女は高校に入る頃には悪の世界では名の知られた存在になっていた。
そんな花恋の前に立ち塞がったのはたった一人の学生刑事。
彼女は幾度となく花恋の悪事を打ち砕いたのみならず、花恋の婚約者とも急速に交流を深めていく。
そんな二人が生死を懸けて戦うことになったのは必然だったのだろう。
悪役令嬢としてのすべてを傾けて練りに練った東京壊滅計画は卒業式の前夜に執行される。
花恋の計画は学生刑事である彼女を誘き出す罠でもあった。
この計画で彼女は花恋に斃された。
死体は見つからなかったがタンカーごと木っ端微塵になったと思えばどうということもない。
彼女の死が大きな喪失感となって襲い掛かってきたのは予想していなかったが。
なにはともあれ、一年後、学生刑事であった彼女の死を受け容れた彼女の両親が、東京郊外は多摩の霊園に墓を建ててからは月命日の日に足繁く通うのが花恋の習慣になった。
花恋が彼女の墓を離れると、傍らで待機していたボディーガードが歩み寄って周囲に目を配りつつ、駐車場の防弾車へと誘導する。
防弾車の前では屈強なショーファー(雇われ運転手)が周囲を睥睨していた。
近付いた花恋をみとめると運転手は後部座席のドアを開く。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
花恋がショーファーに頷いて車に乗り込むとドアが音を立てて閉まった。
助手席にボディーガードが座り、車が動き出す。
調布インターに入ったところで花恋の電話に着信が入った。
通話を選択する。
「……もしもし」
「……こちら警察病院の相田と申しますが、藪小路花恋さんの携帯で間違いないでしょうか」
花恋が「はい」と答えると相田と名乗る男はお悔やみを述べるような調子で語りだした。
「貴女の婚約者の入來院花音さんが昨日、緊急搬送されてきたので連絡をさせていただいているのですが……」
花恋が婚約者の花音に会ったのは一ヶ月前が最後だった。
あの時花音は何と言っていた?
思い出そうとして一月前を振り返る。
しばらく逢えなくなるかもしれない――確かそんな言い方だったと思い出す。
「それで、あの人は大丈夫なんですか!?」
息せき切って尋ねると、歯切れの悪い返事があった。
「一度、こちらに来ていただけませんか? 電話では話し辛いことなので……」
「では今からでもいいですか?」
「……あ、はい。大丈夫です」
通話を終えた花恋が運転手に指示を出した。
「亜緞、警察病院までお願い」
ルームミラー越しに花恋を見て亜緞は承知したと告げ、アクセルを踏み込んだ。