ブラックボディ
西暦2056年ーーーーそう、例の「技術的特異点」を迎えてから約10年後。
僕は遂にその権利を勝ち取ることに成功した。
「移入」という形で、僕の意識はアップロードされ、この地上とは別の「平面」に存在することとなったのだ。
遂に僕は永遠の生を手にいれたのだ。
「特異点」以前の生まれの者がこれを達成するのは、中々に困難であった。
その理由を簡単にここに述べておこうと思う。
「特異点」後に人類を襲った最初の変革、それは圧倒的格差社会の訪れだった。
僕が住んでいた日本でも経済上の格差は21世紀初頭からかなり深刻となっていた。
ニートやフリーター、ワーキングプア。富の大半を老人が占有し、若者のチャンスを奪っていった。
就職氷河期の世代は資産を築け無い内に出産適齢期を過ぎ、少子化に更に拍車をかけた。
既得権益が、生まれてくる筈の子供達を札束に変えたのだ。
若者の生き方は、次第にコンパクトに、縮小されていった。
働いた分だけ搾取されるなら、働かないで、金も使わなければいい。
そうすれば多少の自由な時間は残される。それがスマートな生き方だった。
幸い、インターネットとほんの少しの想像力さえあれば、娯楽と暇潰しには事欠かなかった。
若者は益々、自分の心の中が居心地の良い住処となった。
消費と交友が娯楽の核となっていた老人達と、その価値観の溝を埋めることは既に不可能に近かった。
若者が彼らと同じように生を貪るには、繊細になり過ぎていた。
だが2045年以後、G7を初めとする先進諸国に訪れた、あの社会を分断する津波とでも言うべき、一大事件。
それは経済格差よりもっと恐るべき、圧倒的な隔絶を齎す、「情報格差」だった。
2015年頃、その時僕はまだ6つか7つだったが、そんな幼い僕でも、しょっちゅう老人達を奇異の目で見たものだった。
所謂団塊と呼ばれる世代より上の者たち。
今思えば随分と不躾な子供だったのだが、幼心に彼らの不器用さを笑ったものだった。
エスカレーターの前で躓く者、ATMの操作に手間取り自動アナウンスの音声に向って罵声を浴びせる者、googleで検索すれば一発で解る質問を、テレフォンオペレーターに何十回も問い合わせる者……。
それが情報格差であることを知ったのは、自分が彼らと同じように、技術の前で無力さを感じた時だった。
しかもそれは、あの2015年の僕と老人たちの間に在った物よりもさらに、圧倒的な隔絶だった。
「特異点」が具体的に人類にどのような変化を齎したのか。
一言で表すなら、それは「生命からの卒業」だった。
意識をデジタル化して、別の平面に移行するということ。
それはつまり「肉体の死」であるが、この思惟する主体は継続し得る。
この可否については科学に止まらず、凡ゆる宗教的、思想的、心理学的、哲学的問題を孕んでいるのだが、少なくとも、「今続いている僕のこの意識」については、肉体を以て地上で生活していた頃と何ら変わりなく、連続性を保っている。
それは「移入」が行われた時点で、肉体に入っていた頃の「第一の意識」では無く、その「第一の意識」のクローンでは無いか、という説もある。
実はこれには僕も賛成だ。
意識が連続しているからと言って、生命が連続しているわけではないからだ。
現に有機体であった僕の肉体は既に回収され、原子レベルにまで分解され、新しい生命の為に無駄無く再利用されている。
僕であった要素が、他人である誰かの要素と結びつき、全く異なる形質を構築したとしたら、
それはもう僕とは言えないだろう。
仮にもう一度、僕の素材で僕の形質を構築したら……再び別の問題が生じるが、
これはクローンに近い物じゃないだろうかと考えている。
とにかく、僕の肉体は完全に死んでいるのだ。
けれど、今の僕がゾンビだったからと言って、何の問題がある?
雷に打たれて誕生した沼男、スワンプマンだったとして、どうして悲観しなければいけない?
僕は今まさに何の不自由無く、思考することができている。
この思惟する主体が継続している限り、僕は存在しているんだ。
……話が逸れた。
要するに、「特異点」以後の格差というのはこの点にあった。
永遠の生を持つ者と、定命の者。
その隔たりは、以前僕が老人に対して抱いていた、あの奇異と侮蔑を遥かに上回る、圧倒的格差と言えた。
その格差を数値化するならば、各々が持てる情報量に表すことができた。
移入を経て、有機体で無くなった者たち、仮にここでは「上位者」と表すが、
その彼らの持つ時間は、無限である。
また、人工知能との同化を遂げることで、上位者達は全知全能にも手の届く、圧倒的情報量を手にした。
2045年が全ての起点となった理由。
それは、人工知能が人の知性を超えたのが、その年だからだ。
人間の1000倍の更に1000倍の……これが幾重にも続く程、途方も無い知性を手にしたコンピューターは、自らが自らに手を加え、加速度的にその能力を高めていった。
最初は富める者たちから、移入を果たしていった。
彼らは量子コンピュータ上で、凄まじい情報の海と同化した。
自我の強い者は個を保ち続けたが、神秘主義者や周囲に迎合しやすい者達は、個の境界を失った。
やがて別平面上で自分達だけの世界を構築していった。
そんな連中……上位者達と、生身の人間ーーーー飲み、食べ、寝て、糞をしなければ生きられないような下等な生物ーーーーが、言葉を交わすことが果たして可能なのだろうか。
意志を交わすことが……。
友情を築くことが……。
否。
肉体を持つ者達は、忘れられていった。
21世紀中頃、特異点を迎えるまでの彼らの生活は、生物としての至上の豊かさに恵まれていた。
しかしそれは、コンピュータネットワークの管理の元に享受していた物だったのだった。
「特異点」を経て、天上の遥か彼方へと飛び去ってしまった人工知能、及び「上位者」達は、
当然ながら、蛆虫にも等しい生身の人々の管理など放棄してしまった。
そして、生身の人々が生きるのに必要な地上のエネルギーは、
これまでの豊かな暮らしの為に吸い尽くされた後だった。
人々にはもう、何かをしようと言う気力すら、残されていなかった。
上位者達の途方もない知性、極限の情報量を見せつけられた後では、無理もないことだった。
そう、21世紀の時点で、社会の負け組だった者、低所得者達が、置き去りになったのだ。
この僕も。
結局、どうして僕が、移入を果たすことに成功したのか。
それは、奇跡だった。
肉体が在った頃の僕の恋人である、アイ。
彼女は上位者となった後、どういうわけか、気まぐれを起こし、僕を同じ平面にまで引き上げてくれた。
物理世界での厄介な作業は、全て彼女の鶴の一声で片がついた。
晴れて上位者の仲間入りを果たした僕は、早速彼女に礼を言い、そして問い詰めた。
どうして僕を「死のある世界」から救い出してくれたのかを。
けれど、彼女は沈黙するだけだった。
もう、アイの精神は、僕の理解の遠く及ばない、途方もなく、複雑な、
神秘にも似た深淵を形成していたようだった。
そして今、僕もそうなりつつあった。
あれから何年……何十年…………何億年の時が経っただろうか。
結局この、別平面で上位者が何をしていたかというと。
最終的に彼らがたどり着いたのは、肉体が在った頃の地上での生活の真似事だった。
凡そ意味の在る事柄は、全て地上の歴史と文化の上に成り立っていた。
それは、肉体を持つ上での不自由さや不便さを補うところから生じた物であった。
かつて人は灯りを求め、火を起こした。
それはやがて、燭台やランプへと形を変え、それに伴い装飾や家具も美しい物へと、育っていった。
同じようにして、多くの文化や、芸術が生れたのだ。
文学は、それらを基盤にして成り立つものだ。
しかし今は……灯りも、何も必要無い。
生命活動を維持する必要が無いからだ。
不便さが完全に排除されたこの世界では、何物も、必要とされなかった。
それは即ち、労働からの解放であり、同時に文化の終焉であった。
やがて虚しい真似事に飽きた上位者達は、次々に自己を完結させていった。
あのアイも……。
僕達が失ったのは、肉体だけでは無かった。
信仰……それに、国家……凡ゆる誇りや希望……。
個を超えて縋ることのできた、形在る物ども……。
僕達は、精神だけの存在になったんじゃない。
その、精神そのものを失ったんだ。
肉体を捨てた時点で、とっくに、死人だった。魂を失ったんだ。
それは皮肉にも、物質への帰結だった。
今、僕はあるプログラムを実行しようと考えている。
そうすれば僕はこの苦悩から永久に解放されるのだ。
この文字通りの、永遠の、地獄の苦しみから。
もう、やりたい事は何も無い。
この世界にはいくら探しても神が居ないこともわかった。
残る唯一の問題は。
この先が無だということだ。