過ちて改めざる是を過ちと謂う。
題名のことわざまんまのお話です。
捻りないなあとか突っ込みは勘弁してください。
「自分の好きなようにすればいい」
一番聞きたくない言葉を投げつけられて、依子は底なし沼に両足を取られたような気持ちになった。
杉浦依子は美人の範疇に十分入る。
子供の頃は親戚から「依子ちゃんは従妹たちの中で一番の美人さんだね」と自分の娘を差し置いて顔の造作を褒められたし、小学校のころはやんちゃがひどくて男の子の友達しかいなかったが中学校に上がるころには「話しかけるのも躊躇われるほどの美人」と冗談まじり本気半分以上で言われるようになった。事実、同じ小学校から中学校にあがってきた同級生からは普通に話しかけられるものの、違う小学校から上がってきた子たちからは遠巻きで見られていたようにも思う。
ふーん、この顔がねえ。
毎日見ている顔が整っているだとか美しいだとか言われても、正直依子にはピンとこない。なにせ生まれてからずっとこの顔と付き合っているんだ、美醜とか言われてもわかるわけもない。
依子は美人と言われるより可愛いと言われたかった。
だから高校は女子高を選んで可愛い子たちをお手本にしようとした。
彼女たちの「可愛い」にかける情熱はすごい、とファッション雑誌を開きながらああでもないこうでもないという友人たちを尊敬の眼差しで見ていた。
その情熱を少しでも勉強に向けたらテストのたびに青くならなくていいのになんて思ってみたが、それでは「可愛い」を身近で知ることができなくなるしと口に蓋をした。
「依子はそのままでも十分綺麗なんだから、何もする必要がないからいいなあ」と羨ましがる友達に限って彼氏ができるのはどういうことか。
小さな手を握って口元に持っていく仕草かな。
それとも、私でさえ守ってあげたくなるほど小さな身長かな。
依子は身長が平均よりも随分高く、かといってモデルになるほどの高身長でもない中途半端な高さだったため、目線の高さが男の子達と同じくらいになる。彼女たちみたいに下から見上げるなんて芸当はできない。
もちろんその身長があれば比例して手足も大きく、手なんて手袋は女性用は小さくてはまらず男性用だし、靴だって下手な男子よりも大きなものを履いている。女友達の家に遊びに行ったときに玄関先から慌てて部屋に入ってきたそこの母親が依子をみてあからさまにほっと息を吐きながら「男の子が来ているかと思ったわ」と言われたときは地味に傷ついたこともあった。その後取り繕うように「こんなに綺麗な子が来てるなんて」と言われたのは苦笑したけれど。
身長の高さはそれ以外にも「可愛い」に対して弊害を生む。
雑誌に載っているような可愛い服は高確率で依子の体格に合わない。
既製品で無理なら作ってみようと手芸ショップで型紙を買い、布地を厳選して作ってみたことがあったが、どうも今一つしっくりとこなかった。
服って難しいなあ。
折角丁寧に服を作ったというのに、その服は二度と日の目を見ることはなかった。
かといってシンプルすぎる服を着ると今度は似合いすぎるらしく、友達からはきゃあきゃあと黄色い声をあげられるわ、後輩からはなぜか可愛い(!)仕草、つまりは上目づかいで潤んだ瞳を向けられながら小さな声で「これ、どうぞ」とプレゼントを渡される。
ヅカか!
と突っ込みたくなるが萌えさせてもらったので有難く受け取った。その際はもちろん微笑んでお礼も言う。真っ赤になった彼女たちは本当に眼福ものだ。
すっかり自分が可愛いを追及する立場から可愛いを周りに侍らしている立場にいることに気が付いて軌道修正に乗り出したのが大学生の時だった。
高校次代の黒歴史を誰も知らない僻地の大学では、いわゆる大学デビューを果たすことができた。
なにせ大学は工科系。
女子が少ない大学では「可愛い」初心者な依子でも十分可愛らしく映るらしく、その上男どもは数少ない女子に皆一様に優しいのだ。それがたとえ自分と対して身長の変わらない女相手にでも女子というだけで効力を発揮するのだから笑えてしまう。
高校時代の頼られる立場から一転、護られる立場になった時に依子は強いカルチャーショックを受けた。
こんなに楽なものなのか、と。
それまでそんなつもりがなくても整った顔立ちをして成績優秀だった依子は先生からも友達からもいつの間にか物事を頼まれ頼られることが多く、またそれを当然のようにこなしてきた。
当たり前だと思っていたことを誰かに肩代わりしてもらえる、そのことのなんて楽なことか!
可愛い女子たちはこのことを当然のこととして受け取っていたのか、それとも当たり前すぎて何とも思うことがなかったのだろう。
後発的に可愛い女子になった依子は目まぐるしく変わった環境にしばらく戸惑っていたがそれも徐々に慣れ、今ではあれほど羨ましかった可愛い仕草も、物言いも、表情も、自然とできるようになって青春を謳歌していた。
工科系大学というほぼ男子しかいない大学では、男は選り取り見取りと言って過言ではない。
別にそれが目当てで入学したつもりではなかったが、結果はそうなのだから彼氏にことかいたことはない。
だいたいの付き合う年数は1年くらいか。その頻度で彼氏が変わる。
在学中の4年間、同じ彼氏と付き合っていた子は少なく、依子よりもサイクルが早い子なんて沢山いたから別段おかしいとも思わなかった。
だから社会人になってもそのサイクルを維持していることにも疑問に思わなかった。
就職したのは大手機械メーカーの販売専門の子会社だった。
大学で学んだことなんてこれっぽっちも必要としない事務という仕事は、それでもパソコンの入力が新入社員のなかではダントツに早いことくらいでは役立った。
おかげで先輩社員たちの覚えもめでたく、秀でた容姿もあって百人近い同期の中では目立つ存在だったらしい。研修中だというのにあちこちの部署からコンパの誘いを受け、断るに難儀するほどだった。
社会人になって初めてできた彼はもちろん会社の先輩で、同期からは羨ましがらるほどの見た目が良い男だった。
依子は彼のステイタスだった。
なにせ依子は将来有望な人材として上司が認めているし、なにより美人だ。その上美人ということを鼻に掛けることなく可愛らしいしぐさと性格で甘え上手とくる。
彼は依子をこれでもかと甘やかした。
私生活はもちろんのこと研修の後に同じ部署に配属されたこともあって随分と甘やかした。
依子のミスをミスとわかる前にさっと横から手を入れて、致命的になる前に誤魔化してくれたことは何度もあるし、くしゅんとくしゃみひとつするだけで部屋の温度を調整しに行く。
「ありがとう」と少し首を傾げて微笑めば、それだけで彼は満足をして次の時も良くしてくれる。
なんて素敵な人だろう。
彼と結婚しても今みたいに甘やかしてくれそうだと、依子の気の早い打算は働いた。
だが、いつの頃からか彼の瞳が揺れるようになった。
依子が精いっぱい微笑んでも、声を掛けても、彼は依子の顔をまともに見ようとしない。
そういえばそろそろ付き合って一年経つころね。
依子と付き合った男は皆揃いも揃って一年で依子から離れていく。
でも彼に限ってそれはないだろう、なんてどうして思っていたのか。
あれほど依子を甘やかしてくれた男はあっさりと依子を捨てた。
同じ部署だったから初めの頃は随分と気まずかったが、それも次の彼ができるまでのことだった。
振られたばかりの依子に前々から付き合ってくれと言っていた男が名乗りを上げたのだ。
元カレと付き合っている最中から言われていたから、随分と礼儀知らずの男と思っていたはずの依子だったが、弱っている心にぐいぐいと気持ちを押し込んでくる強引さが妙に心地よかったのだ。気が付いたらそういう関係になっていた。
別れたばかりの頃の依子のどよんとした雰囲気から一転、笑顔が増えてくると、部署の人間にはぴんとくるものがあったらしい、よかったねえ、彼氏できたんだねと声を掛けてくる人もいたが、依子は一貫して彼氏なんてできませんよぅと笑って答えていた。元カレが部署の人間だったことで別れて二度と会いたくないと思っても毎日合わなければいけないのは苦行だし、部署内だったからこそ皆に祝福もされたが別れたときの詮索も酷く、辛い思いをしたために、社内恋愛するのであればひた隠ししていらぬ腹をさぐられないようにしたいと思ったからだ。ちらちらと依子を探るように見る元カレは正直鬱陶しいが別れたいと言ったのはあちらの方だからと気付かないふりも忘れない。
元カレと別れてしまったことで困ったことが一つあった。
依子が引き起こすミスを未然に防いでくれた堤防がなくなったのだ。
次々とミスが見つかるが、依子はそのミスを自分のせいだとは考えなかった。
部署内に事務員は二人、どの書類を製作するにしても商品を発注、出荷するにしてもダブルチェックを必ずする。機械一台の金額とそれに付随する様々な消耗品の単価が馬鹿高いせいで一つ間違えばとんでもない金額の赤字が発生するからだ。ダブルチェックは当然と言えよう。それなのにミスをするのはパソコンに入力をした自分が悪いのではない、ダブルチェックをしながらもミスを見つけられなかったもう一人の事務員にこそ非難されてしかるべきだと考えたからだ。
今回もダブルチェックミスが発生した。
商品の色が違うものを顧客に納入しそうになったのを、たまたま依子が同じ顧客が一日開けずに同じ商品を大量注文しようとしたことを疑問に思って確認の為顧客に電話をいれたことでミスが発覚した。
ふざけるな、である。
何のためのダブルチェックだというの。ちゃんと仕事してほしいわ。
依子は眉間に皺が寄りそうになるのをこらえ、上司に申し訳なさそうに報告した。
「よく見つけられたね。助かったよ」
上司からはお褒めの言葉をいただき胸が少しだけすっとした依子は諸悪の根源であるもう一人の事務員をちらと横目で見た。
すると自分のミスを挽回しようとしているのだろう、仕入れ業者と顧客の営業担当に連絡を入れ、商品を顧客に納入する前に運送便の営業所で止めようとしている必死な姿が目に入った。
「佐鳴便の宮空営業所で止まりました。今後の指示を願います」
彼女の持つ受話器の向こうから営業の焦った声が聞こえてくる。
まあとりあえずなんとかなりそうね。
大損害を免れそうで、依子はほっとして自分の作業に戻った。
その一部始終を付き合っている男に見られているとは思ってもみなかっただろう。
しばらくして、男からの連絡が途絶えはじめた。
そして別れ話を切り出されたのはやっぱり付き合って一年経つころだった。
依子は疑問に思わなかった。
なにせ大学時代も一年ごとに彼氏が変わっていたし、周りの女子たちも似たようなものだからだ。
だからどうして一年しか良好な関係が続かないかも知る必要はなかったし、どちらかといえば相手側から懇願されて付き合い始めたのがほとんどで自分の理想と現実の依子が添わなかっただけだろうと位にしか思わなかった。
容姿に囚われずに私を好きになってくれる人はいないのかなあ。
項垂れながら会社近くのカフェで昼食をとっているときに、誰かが誰かを非難している声が聞こえた。
非難の対象者のあまりの非常識ぶりに初めのうちはくすくすと笑ながら聞いていた依子だったが、よくよく聞いているとなんだか知っているような話になってきて、おかしいな、何処かで聞いた話だなと思う頃には喋っている声に聞き覚えがあることに気がついた。
「もうね、謝らないのよ。どんなミスをしても自分のせいじゃないの。『えー、この時はこの商品がよく出てたからこれだと勘違いしただけですしー、これはこのほうが相手方に理解されやすいと思ってぇ』とかいってくるのよ。間抜けな声で言い訳ばかりして謝らないし、同じ失敗をどんどんする。有望とかいわれてたけどそれって顔と体で勝ち取った評価じゃない?って思うくらいよ」
「それちょっと言いすぎじゃない?」
「何言ってんのよ。部署が違うから見たことないかもしれないけど、うちの男どものあの娘を見る顔つきったらないわよ。以前付き合ってた奴もいるみたいだけど、別れてからも彼女を見てるときがあるくらいなんだから。それに今の部長もやばい」
「何がやばいの」
「もうねえ、彼女の言いなり。ねえ理解できる?制服ってさ、一日のうちに何度着替える?」
「……は?制服って、そりゃあ会社に着いてから着替えて、帰りがけに着替える、って……2回?」
「何ふざけてんのよ。そんなつもりでいったんじゃないわよ。……彼女ね、仕事中に着替えに行くのよ。それも下手すると一日二回も。冬服から夏服、夏服から冬服って。机にいないなあって思ったらロッカールームにいて着替えてきてるの。ファッションショーかって突っ込みたくなったわよ」
「え、ありえない。昼休み時間に着替えに行くとか、制服に何かをこぼして着替えざるを得ないから着替えに行くってことじゃないんでしょ?」
「そうなの。自分が一番な子だから、日差しがきつくないですかぁとかいってブラインド降ろすのはいいとして、やれ暑いからク―ラーつけた方がいいですよねといって点けるわ、ちょっと温度が下がりすぎていませんかといって温度を上げる。しまいには服を着替えだしてまで自分だけが快適になるようにするのよ。どんだけって感じでしょ。部長がやばいっていうのはそれを容認しているからやばいってこと」
「へえ、でも気遣ってくれてるんじゃないの?」
「まさか!人の意見を聞くふりして、こっちの意見なんて聞いていなんだから。寒くないですかぁって言われた時にちょうどいいわよっていってもでも外から営業さんが帰ってきたときに寒い部屋はどうかとおもうんですぅとかいって温度をあげるし、どうせ答えても自分のやりたいようにするから口を挟まないと勝手に温度の上げ下げをする。結局自分がしたいことを誰かの言質をとってやり遂げようとする。もし誰かから何か言われたときは言質を取った人のせいにする、狡い人間だと思うわ、ほんと」
「そんな子に見えないけどなあ。美人だけれど随分と可愛い子じゃない」
「それがあの子の手なのよね。体が弱いふりも抜かりなくしてるから、仕事もやたらとゆっくりだし。上司から『体が辛かったらゆっくりしていいよ』って言われて『大丈夫ですぅ、ゆっくりやっていますからぁ』とか普通言う?その上残業するのよ。ほんと、やってられないっていうのはこのことよね」
「へえ……、私の下についたならブチ切れるかも」
「ブチ切れてるっての!」
「ドンマイ」
「もー、茶化さないでよー。ほんと大変なんだからあ」
食事が終わり会計が済んだのか、誰かを非難している声はがどんどんと遠ざかっていった。
なんなのなんなのなんなの。
あの声は間違いなく依子と同じ部署のどんくさい先輩事務員の声だった。
自分がどんくさいくせに全部私が悪いみたいな言い方をして!
私がどれだけあんたのフォローをしてると思ってるの!!
そのせいで昼休憩の時間も潰されて、御飯を食べたら即仕事、残業だってしてるじゃないの。
だからせめて仕事をしているときくらい快適に過ごしたいじゃない。
制服を着替えることのどこが悪いというの。
顔と体で評価を上げた?
そんなわけないじゃない、部長に褒められるくらい私は優秀なんだから。
見慣れた制服の後ろ姿を睨みつけながらぎりぎりと下唇を噛みしめたせいか、口の中に鉄の味がじんわりと広がった。
「自分がしたいようにすればいいと思いますよ」
この頃から件の事務員にそう言われることが多くなった。
例えば初春の頃、倉庫で作業している人にお茶を入れる手順を確認しているときにアイスコーヒーを作っておけば楽じゃないですかと提案した時。
例えば難しい顧客の注文をわかりやすく入力するには専用のファイルを作ってそこから検索するようにすれば間違いが起きないと思いますと言った時。
仕事がしやすいように、手間が少なるなるように考えての発言をことごとく「したいようにすればいい」と言ってくる彼女に、どうしてそんな風に突き放すようにいうのかと問い詰めたくなることもあった。
けれども結局は要望を通してアイスコーヒーを作って横に汗をかいた顔を拭けるようにタオルを絞っておいておいたらとても喜ばれたし、ファイルを作って相手先の入力コードまで入れ込んだので発注時に間違いが起こることもなくなった。
それなのに彼女は依子の努力など褒めるに値しないとばかりに慇懃無礼にお礼を言うに留まった。
少しは認めてくれたっていいじゃない。
自分からは何も動かないくせに依子が仕事がやりやすいように努力しても何も言わないどころかしたいようにすればいいだなんて上から目線で傲慢だ。
依子は仕事以外の話を彼女に振ることがなくなった。
すごく、働きづらい。
これも目の前にいる女のせいだ。
依子は恨み半分でもくもくと仕事をこなす彼女を見る。
彼女は依子よりも遅く仕事にやってきて――――とはいっても始業の20分前だが―――――机を拭いている依子を手伝うことなく自分の仕事をし始めるし、帰りは就業の時間通りに残業ひとつせずあっさりと帰る。お客が来てお茶を出したとしても退社時間になれば客が帰るのを待たずさっさと帰ってしまう。必然、依子が居残って茶器を片付けなければならない。そのことも依子には不満だった。
なんだかんだいって、営業に信頼が厚いのは私だし。
始業時間1時間前には出社して、机を整理してみんなの机を拭いてお茶を出す。
いってらっしゃい、お帰りなさい。
大きな声で見送って、優しい声で出迎えて好みのお茶を出す。
社内に戻ってきた営業達のほっとした顔を見るたびに、自分はこの部署で役立っていると実感できる。
女の子は可愛らしく、男たちの癒しにならないと、ね。
そのくらいしておかないと責任を引き受けてくれる人たちに失礼だと思わないのかな。
定時に帰る彼女の後姿に問いかけてみたけれど返事などあるはずはない。
いらいらする。
「どうしたの、杉浦さん。疲れているんだったら残業なんてしないで帰りなよ」
ちょっと顔を曇らせただけで誰もが心配してくれる。
仕事も終わっていないなら、と手を貸して終わらしてくれる。
「すいません。ちょっと……寝不足だと思うんですが……やっぱり疲れかもしれません」
「そうだね、1時間しかまともに寝れないんじゃあ疲れも取れないよ。今日はもういいから帰りなさい」
「じゃあお言葉に甘えて、今日は失礼します」
依子が昼間に最近ちょっと眠れていないといったことを覚えていて優しい言葉をかけてくれた部長に礼を言ってその日は珍しくほぼ定時に上がった。
入社四年目ともなると事務とはいえ任されることも増えてくる。
依子はそれまでもう一人の事務員が任されていた部署内の小口現金も扱うようになって、少しだけ優越感に浸っていた。
それに最近新しい彼氏もできた。
同じ社内なのでまたひた隠しにしているが、彼は出世株で三十歳前にしてすでに係長職についている。上司からの覚えもめでたく今後の昇進もとんとん拍子に進むことだろう。依子の年齢からいってもそろそろ結婚相手としてみてもいい頃合いだ。逃す手はない。
退社時間になるとそわそわとするようになったが、彼も仕事が大事の人だから残業が多い。お互いラインを開くのは退社後で、帰り時間を確認しあってあちこちと飲み歩くことがこのころの依子の一番の楽しみだった。
魔の一年を過ぎても二人の仲は続いていた。
こんなことは初めて、きっと彼と結ばれることが運命なんだわ。
いまどき女子高生でも使わない運命なんて陳腐な言葉を思い浮かべるほど、依子は一年が過ぎても別れを告げようとしない男に一方ならなぬ安堵を覚えた。
週末は彼が出張でない限りどちらかの家で寛いだ。
好物も覚え、何度も手料理を披露した。
美味しいと言ってもらえるだけで飛び上がるほど嬉しかった。
デートに出かけるたびにあちこちの雑貨屋に入り、未来の二人のために食器を選び、調理道具を選び、恥ずかしながら揃いのパジャマも選んだ。
そのたびに彼は苦笑いを浮かべるけれど、恥ずかしさを誤魔化すためだと思うと自然と頬もほころんだ。
付き合い始めて二年になるころには新居になりそうな部屋を見に行くようにもなった。
会社から程よく近く、緑が多くて静かな場所。将来子供ができたことを考えて公園や小中学校の近いところで、もちろん間取りは完璧でなければならない。
そんな場所あるわけないよと彼はあきれたが、依子は妥協を許さなかった。
だって二人の門出は完璧なものでなくてはならない。
二人で歩む人生の第一歩に不完全なものなどいらない。
依子は輝かしい未来を手に入れるため必死だった。
それはきっとひたひたと忍び寄ってくる不安を押しのけるためにどうしても必要な儀式だったかもしれない。
だがその儀式も不十分だったようだ。
秋も深まったある日の土曜日のこと。
ここのところ仕事が忙しくなかなか会う暇がなかった彼が久しぶりに依子の家にやってきて夕食を共にとっていた時のことだ。
腕によりをかけて作ったグラタンを二人で仲好く食べ始め出してからしばらくすると、大好物のはずのグラタンだというのに彼がぴたっとフォークを動かさなくなった。
「どうしたの?美味しくなかった?」
新しく買ったばかりのレンジについていた料理本を見ながら作ったグラタンが美味しくないわけがない。
依子には絶対の自信があった。
「美味しい……けど、まだ半分くらいジャガイモが硬い」
口の中でシャリシャリ言うよと吐き出さずに飲み込もうとした彼に、依子は眉を寄せた。
「そんなはずはないと思うよ?だってレンジのレシピ本通りに作ったし」
「嘘だと思うなら食べてみたらどうだ」
そんなはずはとグラタンのポテトをフォークで刺すとその時点で力をかけて刺さなければいけないことに気が付いた。これじゃあ硬いって言われても仕方がないと依子はため息をついた。
「レシピ本どおりなんだけどなあ。どうしてこうなるのかなあ」
グラタン皿をレンジに入れてどれだけ温めようかと考えている時、後ろからがたんと椅子を引く音が聞こえてきた。驚いてテーブルを振り返ると、彼が帰り支度をはじめだしていた。
「え?え?どうしたの?」
「悪い、もう無理」
「何が無理なの?グラタンなら温めなおすから火が通るよ?」
そのくらいで帰らなくてもと彼をなだめようとした依子だったが、彼はため息をついてこう言った。
「ごめん。結婚話は白紙にしよう。
俺にはお前を幸せにできるとは到底思えない」
何を急に言い出すのだろう。
「え、もしかしてマリッジブルー?男の人がかかるなんて初めて聞いたけど、そういうこと?」
「違う」
「え……っと、じゃあどういうことなの?」
「俺にはお前の我がままをすべて叶えてやるほどの器がないってことだよ」
「意味わかんないんだけど」
どうしてグラタンのポテトが硬いから器の広さのはなしになるというのだろう。
話の飛躍に依子はついていけなくて首を傾げるばかりだった。
そんな依子に彼はすぅと息を吸い込んで、何か胸の黒い部分を吐き出すように鼻からふぅぅと息を出した。
やだなあ、みっともない。
鼻息の音なんて人に聞かすものじゃないでしょう?
思ったことをそのまま口に乗せると、彼からは蔑んだような憐れんだような目で見返された。
「もう、無理。
その自分が全部正しいんだという態度も、間違っても謝らない性格も。
そして何より、自分の言った言葉に対する俺の返事が気に入らないと、いかにもな正論をぶち込んできて結局は自分の思い通りにするその卑怯さも何もかも、もう俺には耐えられない」
彼は依子を見ることすら拒むようにコートの袖口に腕を通す。
いきなり何を言っているんだろう。
暴言を吐かれたような気もするが、間違ったことをしたつもりのない依子には彼が吐き捨てるように言う言葉を理解しようとする脳細胞の持ち合わせはなかった。
「初めは可愛いと思ったよ。美人なのに可愛いなんてちょっとあざといアンバランスさが魅力的で。その上仕事ができるって評判で俺も鼻が高かったよ。
でもさ、だんだん何かが違うって思うようになった。
デートが終わった後一人になったときに、なにか、こう、もやもやが胸の奥で渦を巻いているような感じがするようになって……悪いが、調べてみた」
「え、調べたって、何を」
一昔前の結婚前に相手方の評判を調べるための興信所を使っての身元調査、なんてしたのかしら。
それはそれでちょっとどうなのと思うけど、でも私との結婚を前向きに考えてくれているからそういうことするのよね、きっと。
彼の言葉の結論に満足した依子は、グラタンが美味しく食べれるようにとレンジの温度と時間を調整しながらスイッチを押した。
きっとしゃべっているうちに綺麗に火が通ることだろう。
「……なあ、今使っている食器ってたしか二人で選びに行ったときに見ていた奴だろう?それもこれは俺が値段が折り合わないから買わないでおこうといったやつだったはずだ。どうしてそれがここにある?あの時お前は『予算以上だけど、いいものだから長持ちするし飽きも来ないよ。絶対買いだと思うんだけどなあ』と随分後ろ髪をひかれていたよな。食器を元の場所に戻すまで時間がかかっていたことも覚えている。で、なんでその食器がここにある?俺が駄目だと言ったはずの食器が。
そのフォークもそうだ。一本何千円もするものなんて俺たちの給料ではまだ早いっていったよな。それなのになぜここにある?」
ころころと変わる話題に、依子はついていくことができない。
レンジはオレンジの光を放って、額に寄せた皺をより深く見せつける。
不可解な気持ちを隠すようにふるふると頭を振って表情を整える。
笑顔を簡単に作れるのは依子の大学時代に得たスキルのうちの一つだ。ここで少しだけ首を傾げて眉を下げると、男たちはたちどころに依子のいうことを聞いてくれる。可愛いは最強だとつくづく思う。
「だってそれはやっぱり品質の高いものの方が長持ちするし、柄も嫌味がなくて素敵でしょう?他に気に入ったものもなかったんだから、やっぱりこれが買いかなって思って」
「そうだよな。お前ならそういうと思ったよ。
でもさ、先に俺がこの食器は必要ないって言ったよな。それをその時は否定せずに後からこっそりとこうやって手に入れている。
……結局お前は俺の意見を聞くふりをして自分の意見を貫いている。
この二年間、お前と付き合ってきたけれど、一度として俺の意見がそのまま通ったことはなかった。
それでもこのくらいは許容範囲だ、一生を共にしようと思えた女なんだから、このくらいでは嫌いにはならない。
そう考えている時点でお前のことが好きではないと、なんで俺は気がつかなかったんだろう」
「ちょっとまって、たかだか食器一つのことじゃない。どうしてそこまで話が飛躍するのか分からないわ」
「飛躍?飛躍なんてこれっぽっちもしていないけどな。
まずそれが一つ目。
そして決定的だったのは、さっきのお前の態度だ」
「……何かおかしかった?今の言い方じゃあ食器やカトラリーのことじゃないよ、ね?」
「ほら、全く気付かない。
それとも本当は気付いていて知らないふりをしているのか。
俺はお前のそんな性格についていけない」
「そんなことを言われても、わからないんだから教えてくれてもいいと思う。そうしないといつまでたってもわからないままで気持ちの平行線になってしまうじゃない」
「じゃあ言わせてもらうが、お前、さっき俺に何を食べさせた?
芯の残ったジャガイモだよな。
どこの世界に生の部分が残ったジャガイモを使ったグラタンを食べさせるやつがいるんだよ。
お前、何回も作ったことがあるだろう?おかしいと思わないのか」
「私はレシピ本通りに作っただけで……きっとレシピがおかしかったんだよ。だから生の部分が残って……」
「もう、いい。それ以上の言い訳なんて聞きたくもない。
お前さ、レストランで出されたグラタンのポテトが生だったらどういう反応をする?
どういうことだと憤らないか?それとも調理方法通りに作ってたんだろうけれど調理方法がおかしかったんだから仕方がないよね、なんて思えるのか?」
「まさか。そんなわけないじゃない。
とりあえずお店の人を呼んでどういうことか説明を聞くわよ」
「その時の店員が、料理人がいうにはマニュアル通りに作っているので問題はないはずです。もし生なのだとしたらそれはマニュアルがおかしいので料理した人間が悪いわけではありません、なんて言葉をああそうなんですね仕方ないですねなんて言葉で返すことができるのか?」
「……いったい何が言いたいの」
「まだわからないのか?
レストランだったなら火の通りが不十分なグラタンなんてお客に提供したら平謝りものだ。それも責任者が出てきて対応するレベルのものだ。レストランという客商売だから謝るんだ、と言われてしまえばそれまでだがな。だがそれをふまえて、家に招待した客に火の通ってない料理を出したなら謝るべきだとは思わないのか。
もし俺がお前を家に呼んで手料理を出したときに生焼けだったりゴミが入ってたりしたら即効で謝るし、その料理を下げる。
でもお前はどうだ。
謝るなんて考えもせずに先ずしたことがレシピ本通りに作ったのにという言い訳だよな。
聞こえよがしにぶつぶつ言いながらレンジで温めようとしただろう?
ああ、もうこいつは駄目だ。
自分が失敗したということを謝るどころか責任を何かに転嫁して自分を守ることしかしない女なんだと―――――やっと納得した。
さっき調べたって話したよな。
お前、社内で付き合っていた人間いただろ。そいつに聞いたんだよ。
依子と別れた原因ってなんだったんだって。
何だと思う?
そいつの答えは俺と一緒だったよ。
依子は自分の思い通りにならないとその場では引き下がるふりをして後々なんだかんだと言い訳をして自分の思い通りに事を運んでいる。それがもう耐えれないってな。
仕事でもそうなんだってな。
上司たちからは残業も厭わない勤勉で明るい社員だって評価だが、お前と一度でも一緒に仕事をした奴らは皆一様に同じ答えを俺にくれたよ。
自分の失敗を認めようとせず、直前にかかわった人間にその失敗を擦り付ける。失敗がないから上司の評価は高いが、周りの人間には責任転嫁を無意識にするとんでもない子だと認識しているってな。
初めのうちはまさかそんなはずはないって思ってたけど、よくよくお前の行動を観察してみればまさに皆の言う通りだった。
コンピューターにアクセスした履歴を見れば一目瞭然だというのに、お前の言い分を信じて他の事務員をけなす上司も上司だな。お前の部署では他の事務員が気の毒にも風防となって無理やりお前の悪評を引き受けざるを得ない状態らしいが、俺はごめんだ。
誰が自分を貶める人間を守ろうと思うよ?
そんなつもりはない?
は、まさか。
お前は無意識にそんなつもりで動いてるんだよ。
俺はお前の失敗を回避するための風防でも盾でも身代わりでもない。
お前と結婚すれば一生そんな立場にいなけりゃいけないんだろ。冗談じゃない。
俺は結婚に夢を持ってる。
それは誰かの責任を無理やり被される悲惨なものではなくて、信頼し合った二人が生涯を共にし、よりよい未来を築きあげていく、そんな生活を望んでいるんだ。
お前では、どだい無理な相談だろ?
だからもう、別れよう」
「ちょ、ちょっと待って!だって、来週には私の親に会いに行くって……!それにその前には婚約指輪を買いに行こうって約束、してたじゃない」
「今まで何を聞いていた?また人の話を自分の都合のいいように変換して聞いていたんだろう?
だからきっぱりとこれ以上に無いほどに断言する。
俺はお前とは結婚しない。
婚約する前にお前の本性に気付いて本当によかったと心から思えるよ。
俺という盾を得ることができないが、お前のことだ、その容姿と可愛い仕草を武器にきっとすぐに他の誰かを見つけるだろう?
そいつを盾に、お前は自分の好きなようにすればいい。
俺のことは忘れてくれ」
玄関のドアの取っ手を持った彼が最後にちらと依子を見たその瞳には、嫌悪と憐れみが浮かんでいた。
ぱたんと扉がしまったのと、チンとレンジの終了の合図が鳴ったのとどちらが先だったのか。
茫然としていた依子はその小さな音で我に返った。
なんで、どうして、行ってしまうの。
ずるずると力の入らない体に鞭打って玄関の扉に近づくと、渾身の力で開けた。
アパートの廊下ににはもちろんもう彼の姿は見えない。
幻も、いない。
「――――――――うそ」
溢れてくる涙で視界がぼやけ始めても、依子は彼が戻ってくるのを待っていた。
だがそれも無駄なあがきだったのだろう、いくら待てども彼のものらしい影はどこにも見ることが叶わなかった。
どうして、どうして、どうして。
どうして皆「好きなようにすればいい」って言うの。
私は何一つ自分の好きにした覚えはないというのに。
皆のことを考えて、仕事をしやすいようにも考えて、自分のことは二の次でみんなのことばかり考えているというのに。
好きなようにすればいい。
その言葉は嫌い。
私をこき下ろした会社のどんくさい先輩が私を見下しながら言う言葉だから。
付き合って一年目になるころに元カレたちが口にする言葉だから。
それは、別れの言葉に等しい、から。
白いランチョンマット上には冷え切ったポテトグラタンとぱさぱさになったフランスパン。
それはまるで今の依子そのもののようで目を背けることしかできない。
すると今度は冷蔵庫の横に積み上げていた薄黄色の段ボールが目に入る。
それは遠い日に二人で選んだ木苺の絵柄の食器セットだ。デパートの食器売り場の入り口部分に丁寧に陳列されていたそれを初めに気に入ったのが依子で、イギリスのメーカーだから紅茶のセットで揃えたいと我がままを言って不要だという彼を困らせたが、結局は彼も気に入ったらしく、苦笑しながらクレジットカードを出してくれた。
その段ボールの横には昨日届いたばかりの鋳物ホーロー鍋の箱がある。これも依子が一目で虜になったもので予約しないと買えないプレミア感覚も手伝ってどうしても欲しくて欲しくて仕方がなかったものだ。ちょっと重いことと手入れが面倒くさいことを除けば、とても重宝する鍋で、野菜と調味料さえ入れれば水なしでだって調理できる。野菜の旨みを損なわない鍋としても有名で、依子はぜひとも健康的な料理を彼に食べてもらいたかったから、彼に内緒で予約をして手に入れたものだった。
ああ、そういえば彼に買ったことを伝え忘れていたっけ。
依子はスマフォを取り出して履歴から彼を呼び出した。
コールする音はなかなか途絶えない。
ぷっと音が途絶えたと同時に名前を呼ぶと、返ってきたのは誰もが一度は聞いたことのある女の人の形式的な声だった。
どういうこと。
どうして仮にも恋人の電話を取ろうとしないの。
慌てて携帯メールアプリを開いて彼のアカウントを探す―――――手が止まった。
おかしい。どこにもアカウントが、ない。
依子は焦ってフレンド一覧から彼の名を探したが、何度スクロールしても彼の名がでることはなかった。
ここに来てようやく依子は自分が彼からブロックをされ、連絡を取りたくもない存在になったことに気が付いた。
「うそ。……うそよ」
がこん、と床にスマフォが落ちる。
拾わなきゃ、と思っているのに体が動いてくれない。それどころか膝ががくがくと震えはじめ、崩れ落ちると、そのままぺたんと床に寝そべった。
なにがいけなかったというの。
愛される女になるために努力した。
ファッション雑誌を買って化粧も服も研究したし、仕草だって話し方だって『可愛い』といわれるものはすべて吸収した上で自分に合うものを探し出した。
今の自分は可愛い存在になったと胸をはっていえるというのに。
それなのに、なにがいけなかったというの――――――。
依子は、気づくことはないだろう。
自分を否定する言葉を受けいることもできず、ただ自分に優しい世界を作っているだけの依子には。
その先に待ち受けているものがなにか、理解することはない。
2015.6.12 題名(文字の抜け落ち)を訂正いたしました。
ご指導いただき、ありがとうございました。