3 華やかなりし賢者
「……ヴェ、ヴェニ―・フローズ、と、も、申します。じゅ、十七歳です」
「お話は聞いていますよ。魔法不全を起こしているそうですね」
「…………は、はい」
「すみませんねえ、私が長年、身を隠していたばかりに。ご両親に探されていたなんてつゆ知らず、のんびり隠居などしていまして。復帰したのは三年前なのですよ。もう少し早く診てあげられればよかったのですが」
「い、いえ、そそそ、そんな」
ヴェネフィシカはガチガチに固まっていた。
飴色に磨きこまれた床や数多の物珍しい魔法具、使い込まれた魔術の道具はほとんど美術品か工芸品だ。しかしそれらに囲まれていても、ちっとも心浮き立たない。
目の前で柔らかく微笑んでいるその人は、人外の美貌の持ち主だった。魔女の中で五指に入る母親も、貴族令嬢たちには大人気らしいふたりの兄も、兄弟子かもしれないと名乗った少年も、それぞれに美しいのだが、この人は別格だ。
背に流れ落ちる髪と穏やかな瞳は、本物の金と見まごう輝きで、面差しも体つきも、芸術の都で生まれる至高の彫刻のようなのだ。いや、おそらくは彫刻の方が、この人を写しとったものに違いなかった。身にまとうローブは魔法使いの定番の、珍しくもなんともない形だというのに、手足の先と頭しか表に出ないその姿が、美しすぎる危険なものを隠しているかのようなのだ。この形状の衣類が生まれたのは、この人物のためなのではないかと思うほどに悩ましく、地味な装いが正装にさえ見える。
美は度が過ぎれば、力に変わり、いずれ狂気となる。ヴェネフィシカは教科書にあった言葉を身をもって実感し、息苦しささえ感じて喉を鳴らした。
多分この方は、妖精か精霊の流れを組んでいるのだ。そうでなければ、これほどに左右均等の顔立ちはありえない。ヴェネフィシカはそうあたりをつけて、より一層に硬直した。
魔力を持つものにとって、精霊や妖精は、ひとつ上の次元の存在である。彼らは魔法使いよりも純粋な「力」に近い。それ故に、己だけでは制御しきれぬ甚大な魔力を扱うときに、乞い願って手を貸してもらうのだ。魔力を持てど魔術を使えぬヴェネフィシカにとっては、神に等しい畏れ多い存在なのだ。
それが、イエンスに連れられてやってきた屋敷の主、賢者シレオの『存在』だった。
「おやおや、ずいぶん緊張しているようですね。私の顔はそんなに怖いでしょうか?」
「えっ、い、いえ、そ、んなことは」
「どうぞ気を楽にして。そのあたりに適当に腰掛けて下さい」
「あ、あの……」
そんな存在だというのに、賢者は気安く微笑んで、雑な指示を出す。しかも、周囲を見渡しても、座れそうな場所などどこにもない。どうしていいのか分からず立ち尽くすヴェネフィシカの後ろから、呆れたような吐息が聞こえた。
「師匠、ソファの上に書類を散らかすのはやめて下さい。彼女が困っている」
「あー、イエンス、その辺適当に片付けてください。ちゃっちゃっと」
「……自分でやれ!!」
「い、いえ、わたしが、わたしがやります!!」
「師匠のわがままに付き合うことはないぞ。この人は賢者などと名乗らされているが、態度通りの適当な人格だし、それこそ『ちゃっちゃっと』魔術で片付けられるのだからな」
「い、いえ、でも、わ、わたしがやりますから!!」
賢者シレオの弟子だというイエンスは、この美貌にもすっかり馴染んでいるらしく、ぞんざいな口をきいている。それすらも恐ろしくて、ヴェニーは慌てて紙を束ねながらブルブルと震えた。
こんな力の塊みたいな人に、魔術を使える人間が、どうして気さくに振る舞えるというのだろう! ヴェネフィシカなんて、目の前にいるだけで、わけもなく土下座して謝り倒したくなるというのに。この力に流されないイエンスも、賢者の弟子にふさわしい、強大な魔力を持っているに違いない。
こんもりと盛り上がった紙の束をそっと机の上に移動し、ヴェネフィシカは震えながら、ソファに腰をおろした。
「期間限定で弟子が増えるとは聞いていたが……。フローズと言ったな。お前はフロース領から来たのか」
師匠の許可を得ることなく、イエンスはヴェネフィシカの隣に腰掛けると足を組み、視線だけを投げて聞いた。ぞんざいな態度とは裏腹に、ヴェネフィシカに向けられた瞳は怜悧で、探るような色をしている。堂々として、自分がここの主かのような態度だ。多分、身分の高い家の人間なのだろう。
自分で領土を持つわけではない普通の人々は、出身地を姓の代わりに名乗ることが珍しくない。ライブラ領出身だった使用人はライブラスと名乗っていたし、ウェントス領出身だという商人は、ウェントーズと名乗っていた。だから、おかしなことはなにもないはず。それなのに、何か見抜かれたような心地になって、ヴェネフィシカは頷きながらもぞもぞと座り直した。
「は、はい、そうです。り、領主さまの、ご、ご紹介で。……わ、わたし、魔力はあるのですけれど、ま、魔術が使えなくて。技術は問題ない、そうなので、それなら、身体の方に問題があるのではないかと、言われて。それで、治ればきちんとした魔女になれるかもしれないから、み、見ていただくように、と、言って頂いて。そ、その、一人でも多くの、ま、魔女を出すことが、大事だから、と」
「その真っ赤な頭は一族の遺伝か?」
「ど、どうでしょう。親戚には、あ、あまり、会ったことがないので」
ヴェネフィシカはしどろもどろで答えた。フードを脱いだ今、ヴェネフィシカの背には豊かな髪が流れていたが、それは彼女本来の色ではなく、鮮やかな赤い色をしている。
万が一、魔女になることがかなわないのなら、貴族の娘として生きていかなければならない。そうなった時に外聞を憚ることのないよう、家の外では『ベネフィシカ・ウィリデ・エル・フロース』ではなく、『ヴェニー・フローズ』を名乗らせること。身元を少しでも誤魔化すために、髪の色を魔力で染めさせること。それが、娘を被験体にするにあたって、母が賢者に対して出した条件だという。ヴェネフィシカは月色の髪を母の魔力で赤に染め、名を偽ってフロース領を出たのだ。
あの見た目に似合わぬ剛毅な母は、この賢者に対しても対等に条件を出すくらいの気丈さの持ち主なのか……。今更目眩に襲われながら、ヴェネフィシカは何度も母と打ち合わせたセリフを、イエンスに語った。
なにをどうあっても緊張の解けないヴェネフィシカに苦笑して、シレオが言葉を継ぐ。
「私なら、魔力の流れを見ることができますからね。ひょっとしたら魔力不全の原因を解明できるかもしれないと、半年ほどお預かりすることにしたのですよ。なにせ、魔力があることは分かっていて、すべての手順を滞りなく踏んだのに魔術がきちんと発動しない、というのは至極珍しいケースですからねえ。人体を流れる魔力の回路が歪んでいるのかもしれませんし、」
放っておけば延々としゃべり続ける師匠を睨めつけて、イエンスは彼の言葉を切る。
「研究材料ということですか」
「君は少し、人の話を聞きましょう? ……まあ、悪く言えばそうですね」
「よく言えば?」
「患者さんです。君と同じね。彼女がお帰りになるまで、妹弟子として面倒を見てあげて下さい」
「…………わかりました」
わずかに顔をしかめながらも、顎を引いてしっかりと頷いたイエンスに、本当の事情を知っているせいか、シレオはくつくつと笑っている。しかし、ヴェネフィシカの頭を占めていたのは、シレオの『君と同じ』というセリフだった。
どういうことだろう。彼は魔法陣も詠唱もなく、痛み止めの魔術を使える程の能力の持ち主なのに。いったい何が同じだというのか。
「……そのう、ピアーセンさんは」
「イエンスでいい」
「い、イエンス、さんは、賢者様の、お弟子さん、なのですよね?」
「俺は……」
「まあ、彼はそもそも高等学校生ですが、弟子であり預かり子でもありますね」
「イエンスさんは魔術が使える方でしょう。わたしと『同じく患者』とはどういう意味なのですか?」
疑問を我慢できず、瞳をまたたかせて問うと、イエンスは決まり悪そうに視線を逸らした。シレオが咎めるような声を上げる。
「外で魔術をつかったのですか?」
「…………彼女に、かすり傷を負わせてしまったので、少しばかりの治癒を」
「かすり傷ならば、ここまでお連れしてからでも良かったでしょう」
「……最低出力にしましたから」
「もう少し危機感を持ちなさい」
わけも分からず首をかしげているヴェネフィシカの前で、シレオは師の声色になってイエンスを叱る。聞いてはいけないことだったのかもしれない。ヴェネフィシカは唇を噛み、慌てて手を振った。
「……ご、ごめんなさい。出すぎた質問でした。……お、お忘れくださいませ」
魔術の使えない落ちこぼれとはいえ、ヴェネフィシカは魔女もどきである。技術が伴わない分、理論や知識を増やすことには、心血を注いできた。そのせいか、気になることがあると、そのままにしては置けない性分になってしまった。謎を解こうと前のめりになる時ばかりは口調も滑らかになり、瞳も輝く。
しかし、自分の身体の不調など、人に聞かれたい話ではないだろう。今日あったばかりの赤の他人になんて尚更だ。お前は魔女のくせに魔術が使えないのかと他人に聞かれたならば、ヴェネフィシカだって傷つく。
考えなしだった。頭を下げ、膝の上で手を握りしめたヴェネフィシカに、さばさばとした声が届く。
「いや、気にしなくていい」
「で、ですが……」
「お前の魔力不全について俺は聞いてしまったから、俺が隠すのも不公平だろう」
「ああ、そうかもしれませんねえ。イエンスを追い出してからお聞きするべきでした。すみませんね、配慮が足りなかったなあ」
「え、あ、いえ、わたし、それは、気にしては」
「彼は確かに魔術が使えますが、大きな魔力を使うことには障りがあるのです。その障りを取り除くことができないかどうか、私が見ているのですよ。貴女と同じように、一種の魔力不全というわけです」
困ったように微笑んで、シレオは立ち上がる。
これ以上は聞かないで欲しいということだろうと判断し、ヴェネフィシカは口を閉ざした。立ち上がったシレオに続いて腰を上げる。
「さて、ヴェニ−。今日から貴女の身分は半年間、私の弟子、という扱いになります。弟子は『学園』の生徒ではなく、教員の私的な従者のような地位になりますから、『学園』の寮ではなく、この教授館に住むことになります」
「はい」
「中央棟には私の研究室と書庫、居間や厨房などの生活施設があります。西の塔にはメイドの部屋と下宿、客間がありまして、東の塔は使用人の部屋と下宿、私の私室があります」
「はい」
「そうですね、荷物もありますし、まずは部屋に案内しましょうか。西の塔の下宿部屋が空いていますので、ヴェニ−にはそちらに入ってもらいます。塔は反対側ですが、イエンスも弟子としてここから学園にかよっていますから、困ったら頼りなさい」
ヴェネフィシカは目を見開いた。
まさか、同じ屋根の下に、同じくらいの歳の少年がいるところで暮らすのだろうか。
社会に出ない年頃の娘が、血縁や使用人以外の男性と同じ建物の中で暮らすなど、いくら塔が違っても言語道断、というのが貴族社会では一般常識である。うっかり社交界で話が広まろうものなら大醜聞だ。嫁入りの道まで閉ざされることは間違いない。
「う、あ、え」
「年頃の娘さんにはかわいそうなのですが、弟子に男女の差はありませんからね。でも、こちらの鍵は魔力で制御していますから、不穏な開閉があればわたしのところで分かるようになっています。上の部屋にはメイドもいますし、安心してくつろぎなさい」
「…………師匠。何やら不当な嫌疑を掛けられているような気がしますが、女性の部屋に押しかけるような非礼をするつもりはありません」
「念のためですよ念のため。君ももう十八ですからねえ」
「………………修羅場はもう懲り懲りです」
「あ、う」
イエンスさん、過去になにやらかしたんですか、とか。そういう問題じゃなくて事実として問題なんじゃないでしょうか、とか。何のために通常女子寮と男子寮が分かれているのかご存じですか、とか。
様々な反論が湧き上がったが、うまく音にならない。
(絶対に、本当の名前がばれないようにしなくっちゃ……)
娘ができたようで嬉しいなあなどとニコニコするシレオと、溜息を付くイエンスに追い立てられ、ヴェネフィシカは混乱しながら、塔への階段を登った。
*
「師匠」
ヴェネフィシカを部屋に送った後、自室に下がる手前で、イエンスはシレオを呼び止めた。塔から居間へと戻ろうとしていたシレオはくるりと振り返り、首をかしげる。
「どうしました」
「何故、彼女を?」
青い瞳の奥には怒りにも似た苛立ちが覗く。シレオは目を細め、口角を上げてから息をついた。
「君の為にもなるでしょう」
「どういうことです」
尖った口調に、シレオは微笑んでみせる。
「君の『あれ』と彼女の不調は、根が同じものかもしれないからですよ」
「何を言って……」
「心当たりはあるのでしょう?」
賢者の笑みに、少年は口を閉ざす。その口元が酷く悔しげに歪んでいるのを見て、シレオはぽん、とイエンスの頭を叩いた。
「彼女以上に、君には時間がない」
「……そう、ですが」
「私は君のために呼びつけられたわけですし、君の代わりは誰にもできないのですから。……まあ、あの子にも、悪いようにはしないつもりですよ」
だから安心なさい。そう言って、シレオは踵を返す。その背をイエンスは黙って見送った。
廊下に黒々、賢者の影が伸びていた。