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2 兄弟子、現る

「こ、こんな町で半年も暮らせるのかしら……田舎者には無理じゃないかしら……」


 魔女らしいフードを深くかぶり、逃げるように町外れまでやって来て、ヴェネフィシカはようやくホッと息を吐いた。


「……うう、胃が痛い」


 そのまま鉄柵にもたれ、暗いため息をこぼす。フードの隙間から赤い髪がこぼれたが、最早構っていられなかった。


「『学園』のある町が、こ、こんなに都会だったなんて……」


 被験体以前の問題だった。もう、無理かもしれない。



 母の命令に抗えず、ヴェネフィシカがスコラ市に到着したのは、昨日の晩のことだ。

 宿まで送ってくれた次兄に「がんばれよ」と肩を叩かれ、力尽きるように眠りに落ちた翌日、ヴェネフィシカは「賢者様」の住まいへ向かうために町に出て、驚愕した。馬車で到着した時には分からなかったのだが、学術魔術に必要なありとあらゆるものを扱っているスコラ市は、それなりの規模を持つ大きな街だったのだ。

 賑やかな客引き、道端の旅芸人に露店。漂う食べ物の匂いと、昼間からカフェーで問答する学生たち。劇場、博物館、美術館に書店、音楽堂。細い裏道まで活気が溢れ、人の気配に満ちている。

 まばゆい都会の空気は、引きこもりで人見知りのヴェネフィシカには、あまりにも刺激が強すぎた。

 魔法陣の修行に明け暮れてきたヴェネフィシカは、フロース領の城下にさえ数えるほどしか出たことがなく、出るときはいつも、兄と侍女の同行があったのだ。くさっても伯爵令嬢である。


 街の喧騒を抜けだして一息つく、ヴェネフィシカのもたれるている鉄柵の向こうは、『学園』の高等学校なのだと地図には書いてあった。ちらりと横目にした敷地の庭には、寒々しい冬の枯れ木が並び、うっすらと雪が積もっている。今は授業中の時間なのだろうか。人の気配はなく、あたりは静まり返っている。

 ヴェネフィシカは顔をしかめ、痛む胃を抱えて柵の向こうを眺めた。

 鉄柵の向こうに見える、石塀と同じ建材で出来ていると思しき建物は古い城にも似て、優美でありつつも厳格な気配を漂わせている。あの中では、国内でも有数の天才秀才たちが未来に向けて学んでいるのだろう。

 『学園』を出ることに対する付加価値は高い。平民出身であったとしても、『学園』の卒業生というだけで、貴族に準ずる地位を与えられ、王宮に仕えることを許される。他国の王宮から招聘される者もいるそうだ。ヴェネフィシカの長兄も、伯爵家の嫡子でなければ是非招きたかったと、内外の機関に声を掛けられたという。

 卒業生が飛び立つのは夏の始めだ。半年いられるならば、沸き立つ夏の街を見ることもできるだろう。


『いいですかヴェネフィシカ。貴女を「学園」の賢者様にお預けします。賢者様は貴女の症例にご興味を持たれて、研究してみたいとおっしゃっておいでです』


 母親の言葉を思い出し、ヴェネフィシカはよろりとよろめく。


『賢者様は半年あれば、貴女が恒久的に魔術が使えないのか、単に体の不調で使えないだけなのか、判別できようとおっしゃいました。ですからいいですか、ヴェネフィシカ。半年、賢者様のところに置かせて頂いて、あがいていらっしゃい』

「はあ……」


 この町は、未来の開けたまばゆい町だ。「賢者」の診断次第で未来を閉ざされるかもしれないヴェネフィシカとは、真逆のひとたちの学ぶ土地。

 惨めな気持ちになってきて、ヴェネフィシカは俯いた。深い焦げ茶のブーツと、青いドレスの裾、灰色のコート、くたびれた旅行かばんが目に映る。高等学校の女子生徒の制服だというそれは、華美ではないが凛として、美しいシルエットをしている。ヴェネフィシカがこの装束を身にまとっているのは、高等学校と王立大学で教鞭をとっているという、賢者の指示だった。


「……わたしにはこれを着る資格はないし」


 せめて、魔術だけでも飛び抜けているのなら、この服に袖を通す時にはしゃげたかもしれない。

 しかし、学力は足りない上に、魔術は発動もしないのだ。落ちこぼれ中の落ちこぼれ。


『もし、貴女が魔術の使えない子供だと分かったならば、貴女は魔女ではなく貴族の娘として、社交界にでて嫁入り先を探すしかありません』


 『学園』行きが決まってから、何度も繰り返した母の言葉が胸に渦巻く。

 結果は出なかったけれど、十年の間真面目に一途に、魔術に取り組んできた自負はある。魔術は使えないけれど、理論だったらちゃんと分かるし、筆記だけなら自信があるのだ。けれど、魔女は魔術が使えてこそ意味があり、ただの貴族の娘として嫁ぐならば、それらの知識は不要である。

 ずうん。音がしそうな勢いで、ヴェネフィシカは落ち込む。いっそ吹っ切って嫁入り修行にせいを出せば、魔術よりは見込みがあるのだろうか。でも、十年それだけ考えてきた事を、そんなに簡単に捨てられるものだろうか。『被験体』とやらにされることも怖いが、『魔術が使えない体質』だと判断されてしまうことは、もっと怖い。


「ああいやだ……いきたくない……」


 ひんやりを通り越して氷のように冷たい鉄柵によりかかり、ヴェネフィシカはぶつぶつと繰り返した。


「いやだいやだ、行きたくない行きたくない……このまま逃げたら駄目かしら……駄目よね……賢者様からお母様に連絡がいって兄様たちが派遣されて即逮捕よね……サフィラス兄様の転移魔術は一級品だしスマラグド兄様の追跡魔術は超高精度だし……逃げても無駄だわ……長距離転移魔術が使えれば……って使えたら万事解決じゃない……」


 青い顔でまるで呪文のように繰り返す。


「うう、無理、無理無理。永遠に使えないなんて言われたら多分寝込む……寝こむだけですむかしら……」


 ちらり、横目に壁の反対側に目をやって喉を鳴らす。スコラ市の町中を流れる川の、穏やかな水面、そこに掛かる石の橋を見て、物騒な思考が湧き上がってきた。


「ああいっそ川に飛び込む……いいえそれはあまりにもお父様お母様に申し訳が立たないわ……せめて娘として役に立ってからでないと死ねない……やっぱりきっぱり諦めて花嫁修業を……ああでもでも、やだやだ、十年頑張ったのに……死刑宣告みたい……」


 べそべそ。つぶやきが段々鼻声になってきて、ヴェネフィシカは鼻をすすった。冷たい冬の空気が胸に飛び込んできて、少しだけ意識がはっきりする。

 ヴェネフィシカは鉄柵から身を離してとぼとぼと歩き、橋の上に移動した。欄干に身を乗り出して川面を覗きこめば、この世の終わりのような顔をした冴えない娘が鼻を赤くして、ヴェネフィシカを見ている。


「うう、なんてブサイクなの……せめてお母様くらい美しかったら……魔術が使えなくてもお嫁に行けるかもしれないのに……」

「――おい! 早まるな! この川意外と流れが早いんだぞ!!」

「ひえ!?」


 水面の自分を消したくて手を伸ばしたヴェネフィシカの背を、誰かが思い切り引っ張った。

 気配に気づくことすらできなかったヴェネフィシカは勢い余ってひっくり返り、橋の上にしたたか尻を打つ。ついでに膝も擦った。手の平に血がにじむ。


「な、なん……」

「親からもらった命だろう!! 予科生が未来にどんな不安を抱くと言うんだ?! 嫌がらせでもされたのか?! 学問に躓いたのか?! 親の圧力に耐え切れなくなったのか?! 監督生には相談したか?!」


 ガシリと強く肩を捕まれ、滑らかに怒鳴られて、ヴェネフィシカは首をすくめて縮こまった。


「だ、誰?! 何?!」

「どうにも解消できない悩みがあるのなら教授陣に相談しろ、それで駄目なら俺も相談に乗る、とにかく早まるのはやめるんだ!」


 必死の問いに答えはない。掴まれた肩を揺らされながら、ヴェネフィシカはようやく、自殺しようとしていると勘違いされたのだ、と気づく。


「あ、あの……」

「人生六十年はあるというだろう! お前はまだ半分も生きていない!」

「で、ですから……」

「とにかく早まるんじゃない!!」

「ち、違うんですあの」

「考えなおせ!!」

「は、話を聞いて下さい!!」


 下を向いて震えていたヴェネフィシカは遂に顔をあげ、そして、息を呑んだ。

 すっと通った鼻梁と切れ長の瞳。凛とした眉に薄く上品な唇、無駄のそげ落とされた頬のラインは凛として整っている。役者のような甘さはなく、騎士や剣士の硬質さと潔癖さを漂わせる、ひどく均整の取れた精悍な顔立ちの少年が、ヴェネフィシカと目を合わせるようにしゃがみこんでいた。

 目を隠してしまいそうな程に伸びたくせのある前髪は、濃い灰色。肌は冬だというのに、少し焼けて健康的な色をしている。しかし、何よりも目を引くのは、燃えるような青い目だった。


(女神様の湖――ラクス・ヴィタエの色だわ)


 幼いころ、両親に連れられて出かけた王都の湖を思い出しながら、ヴェネフィシカは呆然と見惚れた。美しい顔立ちの少年は稀に見かけるものだが、こんなに綺麗な青い瞳は、未だかつて見たことがない。今までとても美しいと思っていた母親や長兄の青い瞳が、霞んで見えるほどだ。


「お前……」


 少年の薄い唇から言葉がこぼれ出て、ヴェネフィシカはようやく我に返った。男性をまじまじ見つめて見惚れるなんて、はしたないにも程がある。


「……あ、あの、わ、わたし、飛び込もうと、していたわけじゃないです!」


 慌てて言葉を紡ぎ、ずりずりと後ずさる。


「た、ただ、川面に映った自分の顔を見て、落ち込んでいた……だけ、で……」


 説明しながら、ヴェネフィシカは再び静かに落ち込む。口にすれば、情けなさが際立った。


「授業を抜けだしてか?」

「え? ……ああ、あの、いえ、わたし、生徒ではないので」

「では何故制服を着ている」


 少年の口調が詰問に変わる。少しだけ冷静になって眺めれば、少年がまとうのは黒いコートにグレーのスラックス、磨きぬかれた焦げ茶の革靴である。『学園』高等学校の男子制服だ。

 生徒でもないのに制服を着ていれば、不審者か侵入者だろう。言外にそう問われ、ブルリと背を震わせて、それでもヴェネフィシカは口を開いた。


「き、着てきなさいと、指示を、されたので」

「誰に」

「ええと、賢者さま……シレオさまとおっしゃる方、です」

「シレオ?」


 奇妙な沈黙が流れた。ヴェネフィシカは首を傾げる。


「……あの?」

「そうか、お前が……。あの師匠め余計なことしくさって……」

「あの……?」


 少年は顔をしかめ、口の中で小さく誰かを罵倒してから息をついた。鋭い瞳がわずかに和らぐ。


「ああすまん、分かった。お前が不審者かどうかは彼に会わせればわかるということだな」

「は、はい。お話は、通っていると……」


 自殺志願者に勘違いされるよりはまだ不審者の方がいい。ヴェネフィシカはほっと息をつき、こくんと頷いた。


「ならば賢者のところに案内しよう」


 立ち上がり、少年はヴェネフィシカに手を差し伸べる。


「……あなたが?」

「そうだ。……ああ、すまない、手に怪我をさせたな」


 手を取り立ち上がると、少年の手が紫にぼんやりと光る。同時に、ヴェネフィシカの手のひらから、痛みがすっと引いた。


「治癒魔術……」


 この人は魔術が使えるんだ。それも、魔法陣もかかずに。そのことに気がついて、ヴェネフィシカは心臓がぎゅうと絞り込まれるような痛みを感じた。

 兄や両親のような優れた魔術師でなくても、魔術を使える人はいるという。魔術師は基本的に実力主義だ。血筋ばかり良くても、なんにもならない。

 暗い表情になったヴェネフィシカに何を思ったか、少年は少しだけ魔力を強くして、ヴェネフィシカの手をにぎる。


「完全に治すのは俺には無理だが……これで二、三日で消えるだろう」

「ありがとう、ございます……すみません」

「謝罪は不要だ。怪我をさせたのは俺だから」


 きっぱりと告げ、重ねて非礼を詫びた少年は、ヴェネフィシカの旅行かばんをぶら下げて歩き出す。驚いて小走りに追いかければ、少年も歩く速度を上げた。


「か、かばん、大丈夫ですから! 持ちますので!」

「気にするな。手の怪我の詫びだ」

「お、お詫びは、頂きました!」

「治したわけじゃないんだ。持ち手が傷に触れれば悪化するだろう」


 頭一つ分背の高い少年の背中を追いながら、ヴェネフィシカは慌てて聞いた。少年には何の悪意もないと分かっているのだから、これは後日改めて、お礼をすべきところだ。

 お名前くらいは聞いておかなければ。


「あ、あの、失礼ですが、あなた……は? きゃあ?!」


 突然少年の足が止まり、ヴェネフィシカはつんのめって追突した。赤くなった鼻を押さえれば、驚いたように青い瞳が瞬いて――苦笑の形に細められた。


「俺は、イエンス・ピアーセン。……多分、お前の兄弟子になる男だ」

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