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1 魔女姫はおちこぼれ

 カリカリカリ。

 月のない夜。真冬の冷たい風の抜ける漆黒の静寂に、奇妙な音が微かに聞こえている。

 カリカリカリカリ。

 何かを引っ掻いているようなその音は絶えず続き、しばらくして「ふう」という、気の抜けた呼吸音と共に止まった。

 星しかない闇夜に目が慣れれば、ぼんやりと青い光が浮かんでいるのが見えてくる。そして、その光に照らされる、少女の姿も。

 目深にかぶられたフード付きの外套のせいで、目の色まではわからない。しかし、鼻から下の輪郭からは若い娘であろうことが見え、覗くくちびるの形は愛らしい。フードの左右から漏れる髪は、今日は姿の見えない月の色だ。

 しかし、その姿は一風変わっていた。飾りのない外套の色は、闇に溶け込む黒。左手に書物、右手に蝋石。足元には、青い光を放つカンテラ。

「……よし、魔法陣の記述にミスなし、術具に欠けなし。呪文の選択も大丈夫……なはず」

 手に付着した白い粉をはたきながら、少女はぐい、と腰を伸ばした。


「これで、問題ない、はず」


 よし、と小さく拳を握る。――今度こそ、と。

 呼吸を整え、息を深く吸う。背を伸ばすとパンパンと、2回柏手を打った。そして、花弁にも似た小さなくちびるから、歌うような声をこぼした。


『ロカス・トランスタス』


 パリン。硝子の割れるような音がして、少女の足元が青く発光した。それは蛇のようにうねり、地を這う。燐光に浮かび上がったそれは、小ぶりな魔法陣だった。


「……やった!」


 ごくり、喉を鳴らし、少女は右の人差し指で、宙に円をなぞる。

 慎重に、慎重に。髪の一筋ほどだって、間違えてはいけない。だって、わたしは……


「おいでなさいませ、<白百合の――っきゃーーーーー?!」


 絹を裂くような悲鳴とともに、ガシャンパリンとあらゆるものが砕かれる音が響く。その瞬間、魔法陣の中心からは、蛍光に輝く緑の煙が噴き出した。


「ヴェニー!!」


 闇に紛れて潜んでいた、少女の背後から飛び出した人物が、さっと宙をなぎ払う。

 それは、赤く輝く刀剣だった。その刃に触れると、緑の煙は徐々に薄れ、しばらくして消失した。

「…………大丈夫か?」

 人影が振り返る。少女は呆然と、まだわずかに光を残す魔法陣に腰を落としていた。吹き出した霧に煽られて、フードを吹き飛ばされた少女の顔立ちがあらわになっている。

 ふっくらとした白い頬に、深緑の森を映しこんだまま固まった宝玉ような、丸い瞳。風で乱れた月色の髪は夜風になびき、まだほのかに幼さを残す顔立ちは、美しいよりは愛らしい。

 しかし、その人形のような顔立ちは今、見事なまでに青ざめて、絶望そのものだった。顔を覗きこんだ人影――青年はぎょっとして、少女の前でひらひらと手を振り回す。


「ヴェニー?」

「ま……」

「ま?」

「また失敗、しちゃった……」


 なんてこと。

 つぶやくなりがくりとうなだれ、魔法陣のど真ん中でぴくりとも動かなくなった少女の名は、ヴェネフィシカ・ウィリデ・エル・フロース。

 最初の魔女の血を継ぐと言われる、フロース家の魔女姫――のはず、だった。





「ヴェネフィシカ」

「……はい」


 ヴェネフィシカはブルブルと震えながら、全力で縮こまっていた。

 彼女が腰を降ろしているのは、淡青と濃い青のストライプが美しい、猫足のソファである。部屋の壁紙も同色で、けれどこちらはより淡く、部屋全体に穏やかな調和をもたらしていた。壁際には猫足のソファと同じあつらえの調度が並び、窓にかかるカーテンは優美な花模様だ。絵に描いたような『貴婦人の部屋』である。

 その主である『貴婦人』は今、ヴェネフィシカの正面に仁王立ちとなって、壁のごとくに立ちふさがっていた。彼女の髪は、ヴェネフィシカと同じ月色で、その瞳は星空のような藍色だ。顔立ちは冴え渡って美しい。貴族の夫人たちの間でも、五指に入ると言われる美貌のその人は、フロース伯爵夫人。ヴェネフィシカの母だ。


「また、失敗したと?」

「…………はい」


 しかし、彼女の月に例えられる美貌は今、魔物もかくや、という鋭さを帯びていた。

 ――魔王だ。魔王がいる。ヴェネフィシカはとにかく小さく小さく身を縮め、なんとかソファと一体化しようと試みた。


「魔法陣は完璧だったと聞きました」

「……はい」

「魔法具にも問題はなかったと」

「……はい」

「発動はしたそうですね?」

「…………はい」


 ソファ化は完全なる失敗だ。ヴェネフィシカはぎゅう、と目をつむり、絞りだすように声をあげた。伯爵夫人は眉を寄せ、深々と息を吐く。 


「……では何故?」


 麗しき母が机を叩く。ヴェネフィシカはヒッと叫んで更に縮こまった。


「どぉして1135回も失敗できますの!!  ただの! 転移の! 魔法陣を!!」

「おちこぼれですみませんーーーーー!!」


 大音声が降り、ヴェネフィシカは頭を抱えた。


 その美貌から『宵月の魔女』と呼ばれるフロース伯爵夫人は、呼び名の通り『魔女』である。

 魔術と学問の国――ウェルバム王国は小国ながら、その二つ名で諸国に名高い。彼女の夫が治めるフロース領は最も魔力の濃い土地と呼ばれ、学問の中心地であるスコラ市と並んで、国にとって重要な拠点だった。建国の昔から魔術が最重要視されるこの地に、伯爵夫人はその美貌以上に、高い魔力と優れた技術を望まれて輿入れしたのだった。

 そして、二男一女に恵まれた彼女は、周囲の期待に応え、重圧を蹴散らし、一番上の息子を優秀な魔術師に育て上げ、二番目の息子を素晴らしい魔術剣士に鍛え上げた。

 誰もが認め、敬愛する伯爵夫人。魔法の豊かな土地の麗しき魔女。

 ――しかし。


「貴女はフロース家唯一の娘です」

「……はい」

「魔力は女性に強く遺伝するものです」

「……はい」

「フロースの魔力を強く受け継いでいるのは、兄上たちではなく、貴女なのですよ?」

「…………はい」

「だのに! 何故! 最も初歩的な魔法陣でつまづきますの?!」

「分かりません……!」


 彼女の持てる業の全てを引き継ぐことができるはずの末の娘だけが、十七歳の今になっても、魔術を使えないのだった。

 ぐすん、鼻を鳴らしてヴェネフィシカはしょぼくれる。理不尽だ、失敗したくてしているわけじゃない、一番それを知りたいのは自分だ、と思う。なにせ、魔法陣は何度見なおしても正しく、魔法具にも一点の問題もなく、選ぶ呪文にも間違いがないのだから。

 しかし、母の言い分も分かる、と落ち込む胸の内でため息をつく。

 近くにあるものを魔法陣の中に呼び寄せる魔術は、初歩中の初歩であり、魔術を学び始めた子どもたちが最初の数年のうちに修得するものである。目の前にあるものをほんの数歩分動かすようなそれは、ある程度経験を詰んだ魔術師ならば、魔法陣なしでも実現できるような易しいものだ。

 だというのにヴェネフィシカは、魔術をきちんと習い始めた七つの時から、一度も成功できたことがないのだった。非常に簡単なそれを何度も何度も繰り返し、魔術書を見なくても魔法陣が書ける程に打ち込んでも、狙ったものを呼び出せないのである。


「母上、そう叱らずとも……。先ほどは失敗でしたが、まあ、発動はしましたし」

「そうですよ、ヴェニ―は間違った手順を踏んでいるわけではないのですから」


 恐る恐る、それでも庇うように声を掛けたのは、ヴェネフィシカの後ろのほうに影のように立っていたふたりの兄である。

 ヴェネフィシカと三つ離れた長兄と二つ離れた次兄は子供の頃、ちっとも魔術を習得できない妹を、からかったり馬鹿にしていた。しかし、失敗の回数が百を超える頃には、彼女の身体に問題があるのではと疑い始め、今ではすっかり、ヴェネフィシカの存在そのものが、彼らの心配の種になっていた。

 魔力はある。発動するための手順も正しい。それなのに発動しないのは、ヴェネフィシカの身体の方に、何らかの歪みがあるのではないか。ひょっとしたら何かの病気なのではないか。普通の人間でいうところの、虚弱体質のようなものなのではないか――。

 いつからかそう考えるようになったのは兄達ばかりではなく、父も母も、魔女や魔術師の身体に良いと言われるものがあれば何でも試し、転地療養さえも試した。しかし、あらゆる試みの甲斐はなく、ヴェネフィシカは千回を超える失敗を繰り返している。


「魔力はあれど魔術を学んでも魔術が使えない、という人は極稀に存在するそうですよ。そんな人の中にも、ある日突然、魔術が使えるようになった者がいるとか。ヴェニ―もきっと、身体に魔力があっていないのでしょう。もう少し歳を重ねれば、多分その身に馴染むように……」

「おだまりなさい!」


 長兄の弁護を跳ね返し、母は傲然と立っていた。


「ヴェネフィシカはもう十七なのですよ! 諦め、切り替えるには、瀬戸際なのです!」

「まあ、それは……」


 母親の言葉に、兄はモゴモゴと口ごもった。母親の焦りはそのまま、妹を父親の如くに庇護する兄の焦りなのだ。


「それにね、この子は幼いころ、つたない魔術を使っていました。母は覚えていますよ。小さな切り紙細工の蝶を、ふわりと飛ばして見せたところを。そう、この子が使えないはずがないのです! ……ヴェネフィシカ!」

「は、はいぃ?!」


 兄達と母親のやりとりを、まるで他人事のように呆然と眺めていたヴェネフィシカは、慌てて顔をあげ、そして震え上がった。悪鬼の如き三白眼。この顔をしている時の母の発言は、決して覆らないと、経験上知っていたからだ。

 ――自分が役に立たない娘であることは、ヴェネフィシカは百も承知だった。

 ヴェネフィシカは冬のはじめに十七歳になった。魔女としては、駆け出しとして師匠の元を独立する歳であり、貴族の令嬢としては、そろそろ婚約話がまとまるような歳である。

 しかし、十七になったというのに、ヴェネフィシカのところには、ひとつの縁談も舞い込んではいなかった。魔法貴族からの縁談がないのは当然としても、普通の貴族からの縁談さえもないのは、魔術修行に明け暮れるヴェネフィシカが未だに、社交界デビューすら果たしていないせいだ。

 魔法貴族の娘は良い魔女でなければならない。それは、良い魔術師に嫁ぎ、魔力の強い子を残すことが、家と国を守る上での宿命だからである。力ある魔女であれば、容姿や性格さえも横において、縁談が殺到するものなのだ。強い魔女であり美貌も持っていた母のところに届いた縁談は、お誘いの手紙を焚くだけで、ちょっとした火祭ができるほどだったという。

 魔女としてどころか、ごく一般的な貴族の娘としてさえ役に立っていない。ヴェネフィシカはごくりと喉を鳴らした。ひょっとしてこのままでは、自分は勘当されるのではないだろうか。

 しかし家を追い出されたとして、魔術修行くらいしかしてこなかった自分が、食べていけるとは思えない。その魔術修行が実を結んでいるならばまだしも、今のところ完全な無駄である。貴族の娘のたしなみくらいは身についていなくもないが、『貴族の娘』でなければなんの役にも立たない技術だろうことは、ヴェネフィシカでも分かる。

 つまりだ。勘当イコール路頭に迷って野垂れ死にだ。ヴェネフィシカは震え上がった。


「おおおおお母さま、も、もっと頑張りますから、勘当だけは……ッ!」

「貴女、『学園』へお行きなさい」

「勘当だけはおやめくだ……はい?」


 頭を抱え、必死に言い募ろうとしていたヴェネフィシカは、母の口から飛び出した言葉に、ぽかん、間抜けに口を開けた。よっぽどな顔をしていたのだろう、背後の兄達が噴き出す音がする。しかし、ヴェネフィシカはぱちくりとまばたきし、繰り返した。


「がくえん?」

「スコラにある『ウェルバム王立魔学術学園』です。まさか知らないとはいいませんね?」

「え、いや、し、ってます、が」


 知らないわけがない、とヴェネフィシカは呟く。

 ウェルバム王立魔学術学園――通称『学園』は、王立研究院、王立大学、王立高等学校の三つの学術機関から成る、ウェルバム王国の最高学府であり、この西大陸でも頂点と言われる学園都市である。西大陸に住まう、学問を志すものの聖地と言われ、山がちで決して豊かではないウェルバム王国の国土を支える礎とも呼ばれるものだった。


「む、無理ですよぉ……! だ、第一わたし、もう、十七ですから、高等学校にもはいれませんし、大学なんて無理中の無理ですし……!! サフィラス兄様がギリギリだったところにわたしが入れるとかどう考えてもありませんから……!!」


 天才的な魔術師と呼ばれている長兄の名をあげ、ヴェネフィシカは身震いして立ち上がった。

 彼女にとって、母の話しはあまりに荒唐無稽だった。国の最重要施設の一つである『学園』は、とうぜん、所属するには厳しい試験や条件があり、たとえ王族だとしても、無条件に進学できるものではない。失敗を繰り返す魔術のみに短い人生を捧げてきたヴェネフィシカが、そう簡単に突破できるものではないのだ。今から受験のための勉強を始めたとして、一体何年かかれば準備が整うのかさえ分からない。


「いやヴェニ―、僕が入れるのだから君だってきっと入れるよ」

「そうそう俺より賢いぞヴェニ―は」

「無茶言わないで下さい! それにスマラグド兄様は士官学校に行かれたじゃありませんか!!」


 母ゆずりの美貌で謎の太鼓判を押す長兄と、父そっくりの切れ長の目で無責任な援護射撃をする次兄を涙目で睨みながら、ヴェネフィシカは母親にすがった。


「おおおお、お母様、も、申し訳ありません、その条件はあまりに険しい壁、いえ崖、北方山脈、最早氷河です……! それならもういっそ、かかか、勘当してください!」

「何を馬鹿なことを言っているのです。母だって分かっていますよ。今の貴女があそこに入るためには、五年は基礎学問を学ばねばならないでしょう」


 入学できるのを待っていたら、貴女きっとおばあさんになってしまいますよ。

 母の言葉に、ヴェネフィシカは小さく唸る。それはつまり、無理難題を押し付けて花婿候補を追い返すような話ではないか。ヴェネフィシカは民話を思い出す。数多の求婚を受けた美しい娘が、魔術師でもない男に向かって、縫い目のない服を縫えだとか、針の穴の中に象を入れろだとか、砂浜で野菜を育てろだとか、無茶を言う物語だ。

 性格が悪い、とこぼしたヴェネフィシカに、民話を読み聞かせた母は言った。これは男たちを追い返すための方便なのですよと。つまりだ。学園に入れなければ勘当だが、学園に入れる学力はないので、どっちにせよ勘当ということだ!

 暴走寸前の娘の前で、母は深く深く、ため息をついた。


「貴女は、生徒として『学園』へ向かうのではありません」

「は」

「『被験体』として、『学園』にいる『賢者』さまのところへ行くのです」

「ひ……?!」


 ひけんたい、ですと。

 それってひょっとして、勘当よりまずいのでは。そんなことを胸の内に浮かべながら、ヴェネフィシカは華麗に昏倒した。

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