[8]ありがとう!【挿絵あり】
アネッサは眉間にしわを寄せ、不機嫌極まりない顔をしてみせる。リュヴァルトはにこやかな面持ちで口角を上げた。
「夫人が飲んでくれたらさ、ウィルが喜ぶと思ったんだ」
「……ウィル?」
「うん」
少年が母を想って、母のために作ったレモン水。好き嫌いやそのときの気分を気遣って「飲めなくても仕方ない」というのは大人の考え方だ。そういう我慢はまだ知らなくていい。
「……ウィルのこと考えてくれたのは嬉しい。ありがとう」
アネッサはしおらしく頭を下げた。それからウィルの方を眩しそうに見やった。犬のハレと一緒になって楽しそうに転げ回っている。
「本当に良い子なんだあの子。優しいし素直だし、教えたことはきちんとこなすし。探究心も向上心も持ってる」
「自慢の甥っ子なんだね」
リュヴァルトの言葉に彼女は嬉しそうに微笑んだ。けれど紫紺の双眸にはすぐ憐憫の色が宿った。
「でも家族の愛は薄いかもしれない。兄さんほとんどいないし、母はあれだから。あの子は何も言わないけどそこだけが不憫でね」
「アンがいるじゃないか。自分のことをちゃんと見てくれてる人がいるっていうのはウィルにとって自信に繋がってると思う。ウィルを見ればわかるよ。アンがどれだけ心を砕いてるか」
「……」
「アン?」
不意に黙ってしまったアネッサの顔を何気なく覗きこんだ。その瞬間、アネッサはリュヴァルトの背中を思い切り叩いた。全くもって予想外の仕打ちに青年は呻き、咳きこんだ。
アネッサはすっくと立ち上がった。
「あたしのことはいいのよ。あんたはどうなの!? 兄さんの言ってたこと、どうするかもう決めた?」
「え……、あの、いや……」
「いつまでも悩んでないですぱっと決めちゃいなさいよ! ここを出るんだったらあたしが協力するって言ってるでしょ!? 兄さんがまず勝手なんだから、あんたも好きにすればいい」
無理に言うこと聞かなくていいと憤るアネッサをリュヴァルトはぽかんと眺め、次いで吹き出した。笑う青年を見て彼女の顔はますます赤く膨れるのだが、どうにも可笑しくて堪らない。赤の他人のことにこんなにむきになって怒る人に出会ったのはいつ以来だろう。
「リュー!」
幼い声が飛んできた。我に返ったときにはもう目の前に子どもの顔が迫り、彼は両手を伸ばして胸に飛びこんできた。
「うわっ!」
少年もろとも背中から倒れる。リュヴァルトにしがみついたままウィルはくすくすと笑みをこぼした。
「リュー、ありがとう! ぼくやっぱりレモン水作ってよかったって思ったの。お母さんのためにできることがあってほんとによかった! リューが教えてくれたからだよ。リュー、ありがとう! 大すき!」
少年が全身で発する喜びや好きという気持ちにリュヴァルトは圧倒された。彼の想いにも媚だとか下心の類いは一切ない。純粋なる好意が大きな波となって伝わってくる。
驚きすぎて言葉を継げないでいると、
「いつまでもそうしてたらリューが重いよ?」
アネッサが窘めた。ぺろりと舌を出してウィルはリュヴァルトの上から身体を退ける。それでも小さな手はリュヴァルトの手をしっかり握ったまま離そうとはしなかった。とても、とても温かい手。
「他にもできそうなことがあったら、また教えてくれる?」
顔を覗きこむように聞いてくる。その様がなんとも愛らしく、リュヴァルトは目を細めて頷いた。
リュヴァルトの胸に爽やかな風が吹いていた。自分のような者に対しても本気で心配してくれて、心から感謝してくれる人がいる。見返りなしに好意を寄せてくれる人間がいる。
――こんな人たちもいるんだ。
ここに来てからというもの馴染みのないことだらけで戸惑いっ放しだ。
だけどその戸惑いも案外悪くない。
しばらくしてウィルは邸に駆けていった。お勉強の時間らしい。
「リュー」
小さな呼び声にリュヴァルトは座りこんだまま振り仰ぐ。アネッサの視線は少年が入っていった邸に注がれていた。
「……あんた、本当は行きたいところあるんじゃないの?」
「え?」
「旅してるんでしょ。目的地があるからリトを出た。リトを出て、目指さなきゃいけないって思った。そうだよね?」
振り向いたアネッサと目が合った。彼女が一体どんな返事を求めているのか、その最適解がわからずリュヴァルトは何も言うことができない。
アネッサはそっと微笑んだ。
「やっぱり行くべきだよ。あたし、あんたには後悔のないようにしてほしいと思ってる。なるようにしかならないってあんたは言ったけどね、時には自ら動いて掴むことも大事だと思う。……ウィルのこと気にかけてくれて嬉しかった。ありがとう」
ここで無駄に時を過ごすべきじゃないよ。あたしが全力で助けるから。
そう締めくくるとアネッサはリュヴァルトの肩をぽんぽんと叩き、自身も邸へと戻っていった。
彼女が触れていった肩に手を当てた。温かな想いがまだそこに残っているような気がする。
午後を過ぎてすぐ、リュヴァルトはジェラルディオンに呼ばれた。
案内された彼の書斎に入ると銀貨が一枚無造作に机に置かれた。リュヴァルトは眉を顰める。
「マリーからだ。私からも重ねて礼を言う」
「マリー?」
思わず首を傾げた。正面に座る主を見返せば訝しげな顔がそこにあった。
「力を使っただろう。朝に来たと聞いた」
「朝? あ、夫人のことか……。いや、でもあれは」
「どうした? 正当な報酬だ、受け取るがいい。それともこの額では足りぬか?」
ジェラルディオンが目配せする。控えていた執事が一歩動いたのを見てリュヴァルトは慌てて首を振った。足りないどころか多すぎるほどだ。
身の丈に合わない過分な額を貰ったところでロクなことはない。だが今受け取らねば更に上乗せされるのは必至だった。
リュヴァルトは軽く会釈をし、おずおずと銀貨を掴んで懐にしまった。
「リトから報告が上がってきた」
唐突に始まった話にハッと身を強張らせる。
ジェラルディオンは椅子の背凭れに背中を預けてリュヴァルトを眺めた。
「重要参考人として捕縛していた男がひとり、行方不明だそうだ。見つけ次第リトに送還願いたいという布礼が一帯に出た。銀髪で背が高く、何より肌が白いのですぐわかるとあったぞ……これだけでお尋ね者は雪花人だと公言しているようなものだな」
「……」
「腹は決まったか?」
リュヴァルトは思案げに目を伏せた。だがすぐに真正面の男を直視すると、すっと息を吸いこんだ。
「俺にできることなら」
毅然と答える。ジェラルディオンが唇に薄く笑みを乗せた。
細かい話を幾つか打ち合わせた。
表向きは身重の夫人の側仕えという体裁でリュヴァルトを置くらしい。他に協力を請う項目の確認や日々の暮らしにおける決まり等、話の大筋がある程度煮詰まったところでリュヴァルトは退室を命じられた。
扉を閉める自らの手に目を落とす。指輪の青い石が呼応するようにきらりと光った。
――願いが叶うかもしれない。
ずっと、心の奥底にしまい、温めてきたふたつの願い。その片方、叶うことはないだろうと早々に諦めてしまった方の願いがもしかしたらここで叶うかもしれないと思った。切望しては傷ついて、もう期待するまいと固く決めていた。最後にもう一度だけ望んでもいいだろうか。可能性に賭けてもいいだろうか。
『無駄に時を過ごすべきじゃないよ』
意志の強い声が耳に蘇り、リュヴァルトはふっと笑みを浮かべた。
もし自分の決断に文句を言う者がいるとすれば、それはただひとりしかいない。赤みを帯びた金の髪を持つ美女――勝ち気で世話焼きなアネッサ。
「兄さんにはひとまず適当に話を合わせておいて。後からこっそり抜け出させるから」
彼女はそう言っていたが、リュヴァルトは本気でジェラルディオンに協力してもいいと思っていた。これも何かの縁だろう。
「無駄な時なんてないよ、アン」
全ては必然なんだ。出会いも、別れも、何もかも。
フォルトレストに残ると、今しばらく厄介になると告げたなら、彼女はなんと言うだろう。真っ赤な顔で怒るのだろうか。少年はどうだろう。喜んでくれるだろうか。あのきらきら輝く笑顔で。
期待と不安が入り交じって落ち着かない。胸がくすぐったいようなふわふわした感覚に若干戸惑いながら、リュヴァルトは審判を受けるべく歩き出す。
これが彼と彼女の〝始まり〟であり、〝終わり〟に向かう第一歩だったとは、このときのリュヴァルトには知る由もなかった。




