[7]悪い人には見えなかったけどなぁ【挿絵あり】
探し人は思いのほか早く見つかった。エントランスを出たリュヴァルトの目は、降り注ぐ木漏れ日にきらきら輝く金の髪を見逃さなかった。
「ウィル!」
大きな木の下で少年が振り向く。ウィルはこちらに手を振りつつなぜかステップを踏んでいた。小ぶりの器を両手で高く掲げ、目線は下方のあちこちを行ったり来たり。
近づいて理解した。彼の足下にまとわりついているのは――猫。察するに餌が入っているということか。
アネッサは木の幹に凭れかかるようにして座っていた。何か言いたげなふうにも見えたがおおよそ夫人についてだろう。
「お友だちはご飯の時間かい?」
「うん。でもこまってるの。ヒョウにあげたいんだけど、ミルクがもっとほしがっちゃって、はなれてくれないの」
「じゃあ手伝うよ。ミルクは――こいつかな? ほら、おまえはもう終わりだってさ。こっちにおいで」
リュヴァルトはウィルの足にじゃれ回っていた白い子猫をひょいと摘み上げた。途端にウィルが抗議した。
「それ、ヒョウだよ。ミルクはこっちの白と黒のやつ」
「ええ!? だってミルクって、真っ白だから〝ミルク〟にしたんじゃないの?」
「ミルクは食いしんぼうなんだ。アンがごはんあげるとき、いっつも『ミルクだよー』ってよんでたから〝ミルク〟が自分の名前だって覚えちゃったの。ぼくはコハクって名前にしたかったんだよ? だってね、目がとってもキレイなんだもん!」
確かにブチ猫の目は澄んだ琥珀色をしていて美しかった。
「ミルクをあげるんだから『ミルクだよー』って声かけるのは当たり前でしょ」
アネッサは膝の上で寝そべる灰色猫のアメをなでながら憮然と反論した。その通りだねとリュヴァルトは苦笑を浮かべる。
ちなみに白猫につけられたヒョウという名前の由来は「雹がふってたときにアンが拾ってきたから」だそうだ。
リュヴァルトは改めてミルクという名をつけられたブチ猫を捕まえた。一目で食いしん坊だとわかる身体つきをしていた。
青年の手を離れた白猫ヒョウはようやくウィルの元で餌にありついた。
猫たちを優しく見守る少年の隣にリュヴァルトはそっと座った。
「ウィル、お母さんの話なんだけどね」
「あっ……うん、あの……わかってるよ、ぼく」
ウィルは明らかに動揺しつつも笑顔を作って青年を見上げた。
「飲んでくれたらいいなって思ったけど、飲みたくないときだってあるでしょ。のどかわいてなかったかもしれないし、もしかしたらレモン水があんまりすきじゃなかったかも……。お母さん、おなかに赤ちゃんがいて大変だもんね。ぼくはお兄ちゃんになるんだから、ワガママは言わないんだ」
少年は考え考え話した。口に出しながらきっと自分にも言い聞かせているのだろう。せっかく考えてくれたのにごめんなさいと、リュヴァルトへの気遣いまで見せる健気な少年に心を打たれた。
「お母さん、飲んでくれたよ」
リュヴァルトはまるで大事な内緒話を打ち明けるかのごとく囁いた。ウィルは一拍置いて「え?」と首を傾げた。固まってしまった少年にリュヴァルトはにこにこと笑顔を向け「飲みやすいって言ってたよ」と続けた。
ぽかんとして聞いていたウィルは、やっぱり内緒話のようにそうっと囁いた。
「……ほんと?」
「ほんとほんと。俺、嘘は言わないよ」
大きく頷いてやるとその顔は次第に輝き、やがてわぁいと飛び上がった。
ウィルがアネッサに振り向いた。
「おいで! ハレ!」
瞬間、アネッサの凭れる木の陰から中型犬が飛び出した。そこに犬がいるとは思っていなかったリュヴァルトは悲鳴とともに上体を反らし、そのまま尻餅をついた。犬は青年の上を軽々と飛び越え、笑顔で駆け回るウィルを追いかけていった。
今度はリュヴァルトが呆気に取られる番だった。
「ハレ……って言うの? あの犬?」
「そうだよ」
「えーと……もしかしてあの子を拾ったときのお天気は……」
「言いたいことがあるならはっきり言って?」
にっこり笑みを浮かべたアネッサ。その背に不穏な空気がまるで陽炎のように立ち上っているのが見える……気がする。
青年は口許を引きつらせ、緩く首を振って辞退した。
少年の楽しそうな声が響く。目を細めて眺めていると後ろから服を引っ張られた。
「ねぇ、さっきの本当? 義姉さん本当に飲んだの? レモン水」
「アンまで疑う? 本当だよ。飲んでくれたし、飲みやすいって言ったのも本当。全部本当のこと」
「あたしあの人嫌い」
リュヴァルトが振り返った先でアネッサは膝を抱え、遠くを眺めていた。その顔には思いきり不満だと書かれている。
「自分しか見えてないんだあの人。頼りないしいつまでも少女気分で甘いことばっかり。しばらく大人しくしてたのに母さんが亡くなった途端にしゃしゃり出てきてさ……兄さんもあれのどこがいいんだか」
「母さんって、アンのお母さん?」
「そう。二年前に亡くなったんだけどね。――ほらあたし、あんたを見つけたって言ったでしょ? 母さんのお墓に行ってたんだよ」
ああ、とリュヴァルトは頷いた。ウィンザール家の墓地は塔の下、つまり崖のすぐそばに位置すると言っていたのを思い出す。アネッサは「そういうこと」と微笑んだ。
不意にリュヴァルトの胸に夫人の言葉が浮かんだ。
「アン、あのさ……ウィルはお義姉さんの、実の息子なんだよね?」
「そうだけど。……なに? 何か言われた?」
今にも怒り出しそうな彼女に慌てて否を告げた。言ったところで火に油を注ぐ結果にしかならないのは目に見えている。
リュヴァルトはゆるりと宙を見上げた。早春の柔らかな陽射しが頬に温かい。目を閉じれば瞼裏に物憂げな佳人の横顔が蘇った。
――やはり空耳だったのだろう。なぜ頑なに女児を産むことにこだわるのかという点については疑問が残るものの、もはや知りようもない。
「そんなに悪い人には見えなかったけどなぁ……」
謝ることと感謝することを知っていた。このふたつがきちんとできる人に悪い人はいないはずだ。
アネッサはつんと顔を上げた。
「あたしはできるだけ顔を合わせたくないね。いっつも不機嫌な顔してろくに挨拶もしない人なんて。こっちの気まで滅入るもの」
「体調が悪いときに険が出るのはある程度仕方のないことだよ」
ぼんやりと答えた青年をアネッサはじっと見つめた。にじり寄って斜め後ろからその顔を覗きこむ。
「……リュヴァルト。まさかとは思うけど……。もしかして、力使った?」
怪訝そうに尋ねてきた彼女に青年はごく軽い調子で頷いた。その途端、耳元で怒鳴られた。
「何考えてるの!? あんた、力使いすぎたせいで倒れたんでしょ!」
咄嗟にリュヴァルトは耳を押さえた。とんでもない声量だ。アネッサは話を聞けと言わんばかりにその手首を掴み、耳から外しにかかる。
その瞬間、リュヴァルトの全身を流れる血が逆流するような錯覚がした。不思議な高揚感が青年を襲い、考える力を奪う。くらくらと目眩がしてきてまるで強い酒に当てられたようだった。
――なんだこれは。こんな感覚は今まで経験したことがない。
「兄さんだって言ってたじゃないの、義姉さんのは病気じゃないんだから気にするなって……。……え、ちょっと大丈夫? 顔真っ青だよ?」
激しい口調で当たり散らしていたアネッサはハッと顔色を変えた。蒼白な顔で押し黙ってしまった青年の顔を心配そうに覗きこむ。
今度は純粋な労りの想いが流れこんできた。気遣いの類いはまま馴染みのある感情だ。けれどそういうとき少なからず含まれている疚しさや下心といったものは彼女のそれからは全く感じられない。
目の前がチカチカする。
リュヴァルトは大丈夫と一言返した。捕われていない方の手で彼女の縛めをそっと解くと、両目を覆って深く息を吐いた。
「……少し、目眩がしただけだよ。どうもまだ本調子じゃないみたいでさ」
いつもであればここまで他人の感情に圧倒されることはない。激情が奔流となって押し寄せるたびに熱を出していたのは子どもの頃の話だ。それから必死で力をコントロールすることを覚え、自衛に励んだ。知らなくていいことは極力知りたくなかった。
「だから余計な力を使うなって今……。部屋に戻って休む?」
「大丈夫。落ち着いてきた」
ゆっくりと目を開ける。すぐ近くに心配そうな色を滲ませた紫紺の双眸を見つけ、リュヴァルトは笑みを浮かべた。
「……夫人の、病気と違うって言うのはさ、子を産み落とすことでしか本当の意味での症状改善はないってことだから。期間も長いし、本人にとっては病気と同じくらいつらいかもしれない」
「でもそれは」
「まあ聞いて。さっきのレモン水のこともね、気持ち悪くなるから飲めないって言うなら、気持ち悪くならないようにすればいいんだ。幸い、俺にはその力がある」
そのくらいならそんなに難しくもないんだよ。リュヴァルトがそう結べば、言われたアネッサは再びむうと膨れた。話の内容は理解できる。青年の言い分もわかる。だが納得はしたくない、というところか。よほど気に入らない存在らしい。




