[5]金の髪の少年
敷地内に限り自由に動いていいとの許可が出た。
邸の外に出ると爽やかな風が頬をなでていった。午後の陽射しが降り注ぎ、辺りはふんわりと春の陽気に包まれている。
リュヴァルトは足の向くままに小径を進んだ。前方にちょうどいい高さの木を見つけると幹に手を添え、眺めを一望した。この邸は丘の上に建っているんだよとアネッサが言っていた通り、遥か彼方までよく見渡せた。
眼下に広がる住居群の屋根屋根。街の中心部には白い塔のようなものがそびえ立っている。すぐそばに円形の広場があり、そこから放射状に道が伸びていた。一角から先へ続く長い屋根はアーケードだろうか。その先には視界の端から端まで悠然と横たわる川面が見えていた。おそらくあれがこの街の名前の由来にもなっているフォルト川だ。陽の光をきらきら反射している。
くらりと目眩を覚え、顔を背けた。街とは反対側に目をやったリュヴァルトはそこに予想しなかったものを見つけて息を呑んだ。数日前にも目にしたはずの塔。あのときは暗く異様な雰囲気をまとっているように感じたが、天に向かって伸びる塔は穏やかな春の陽射しを受け、白く輝いていた。
アネッサの言っていた天文観測塔がこれだろう。では街の中にある塔がこちらを模して作られたという観光用のものか。確かにこの街のシンボルとして挙げられるというのも頷ける。どちらもとても優美な佇まいだった。
リュヴァルトは木の幹に背を預け、腰を下ろした。塔の姿をぼんやり眺めながら深く息を吐き出した。
あらためてジェラルディオンとの対話を思い返す。いや、あれは命令の形を取った取引だろうか。
――身の安全は保証する。
――だから被験者となって協力しろ。
彼の言葉は信頼に足る気がした。実際こうして自由を与えられている。それだけ自らの力に絶対的な自信があるともいえるが、とにかく身分の差を考えればかなり破格な提案だ。
これまでも治癒の力を使ってたくさんの人の傷病を癒してきた。とはいえこういう形での力の行使は初めてだ。実験台と言ってしまうと身も蓋もないけれど。
――それもいいか。
研究のためと治療のため、どちらも力を使うことに変わりない。長い旅だ、たまにはこういう依頼もいいのかもしれない。向こうに帰れば良い話の種になる。
右手に嵌めた指輪をぼんやり眺めていると視界の端で何かが動いた。子猫だ。灰色の毛並みに黄味がかった緑色の目をした小さな猫。纏う空気は鋭く、茂みの陰からじっとこちらを窺っている。
リュヴァルトは小さく口笛を鳴らした。
「おいで」
笑みを浮かべて右手を伸ばした。子猫は警戒しているらしくぴくりとも動かない。これは根比べだな。
他にすることもなかったのでそのまま待つことにする。子猫は少しずつ近づいてきた。手が届く位置まで来ればこっちのものだ。害意がないことが伝わったのか子猫は大人しくなでられるままになった。
気づけばリュヴァルトのそばには白い猫とブチの猫もいて、両者思い思いにくつろいでいた。
「わ、すごい。アメがなでられてる」
子どもの声がした。身なりの良い男の子だ。滑らかな金髪に藍色の瞳をした彼はしっかりした装丁の本を両手で抱え、興味深そうな眼差しをリュヴァルトに向けていた。
「アメ?」
「そのネコだよ。アンが雨の日に拾ってきたの。それで、アメ」
男の子はしゃがんで遠慮がちに子猫をなでた。二、三度なでると子猫はふいとその場を離れていった。行っちゃった、と男の子が残念そうな声を出した。
「アメ、あんまりなでさせてくれないんだ。アンが言ってたけど、いじめられて人間フシンっていうのになっちゃったんだって。アンいっぱい引っかかれてたし、ぼくもさわらせてもらえるまで一ヶ月くらいかかったの。おじさんすごいね。ねぇ、どうやったの?」
「どうって……、特に何もしてないよ。俺は、動物には割と好かれるみたいなんだ」
「いいなぁ。後から来たミルクはすぐなでさせてくれたけどアメは本当に大変なんだよ。だっこもまだできなくてさ……。ぼくもおじさんみたいだったらよかったな」
「あのさ……できればおじさんじゃなくて、お兄さんかリューって呼んでくれると嬉しいかなぁ」
流し切れなくなってリュヴァルトは口許を引きつらせながら笑った。年端もいかぬ子どもからすれば三十路の自分などおじさん以外の何物でもないのだろう。が、その呼ばれ方はさすがに違和感がある。
男の子は首を傾げながらもリュヴァルトの願いを快諾した。向こうはウィルと名乗った。
「ぼくね、アンがリューをつれてきたの見てたよ。もう元気になったんだね、よかったね」
にっこり笑った顔につられてリュヴァルトの顔にも笑みが浮かぶ。ウィルはリュヴァルトの隣に座ると手にしていた本を膝の上に広げた。この年頃の子どもが読むものにしては文字が小さいような気がする。
「読書かい?」
「ここで読むのがお気に入りなの。風が気持ちいいし見晴らしもいいし、サイコーなんだ! それにほら、小さなお友だちもたくさんいるから楽しいでしょ。……でもお友だちと遊んでるとアンにおこられちゃうんだけどね。いろんな本をいっぱい読めるようにならなくちゃいけないんだって、ぼく」
後半を内緒話のごとくひそひそと囁いた男の子にリュヴァルトはつい笑った。それは大変だねと頷いたところに声が降ってきた。今度は聞き覚えのある女性の声だった。
「そりゃそうだよ。覚えることはいっぱいあるんだから。ウィルはお父さんみたいになりたいんでしょ?」
振り仰いだ先にアネッサが立っていた。ウィルは慌てたふうに声を上げた。
「ぼくサボってたわけじゃないからねアン。今来たところなの。ね、リュー?」
リュヴァルトはちゃんとウィルの身の保証をしてやった。ほんの数分前にやってきて話をしていただけだ、嘘ではない。が、誰の目にもわかるほど少年がほっと安堵の息をついたのを見て思わず笑いを噛み殺す。
ふたりの顔を交互に見比べているとアネッサが小首を傾げた。
「どうかした?」
「もしかして、ウィルはアンの子ども?」
リュヴァルトが問いかけるとアネッサもウィルも変な顔になり、一拍置いて仲良く笑い出した。
「違う違う。ウィルは兄さんの子どもだよ。あたしにとっては可愛い甥っ子」
「アンはまだ結婚してないもんね」
「こら。まだは余計」
アネッサとウィルが楽しそうに掛け合っているのを見てリュヴァルトも口角を上げた。
「そうか、じゃあウィルはもうすぐ兄弟ができるんだね」
話題を盛り上げるつもりで口にした言葉は、しかし結果として男の子の顔を曇らせた。期待した反応が返ってこなかったことにリュヴァルトの笑顔も固まる。内心どぎまぎしているとウィルは不安そうに顔を上げた。
「お母さん……ずっとねこんでるって聞いたの。だいじょうぶなのかな? お母さんも……赤ちゃんも」
「そういえば食事がとれてないって言っ……いだだだだだ」
リュヴァルトの声は途中から悲鳴に変わった。しゃがんだアネッサが彼の手の甲を思いきり抓っていた。アネッサはリュヴァルトには構わず、ウィルににっこり微笑んだ。
「大丈夫だよ。心配しないの。今の時期は大体こういうものだからね」
「うん……」
アネッサに押し切られ俯くウィルを見て、リュヴァルトは手をさすりながら考えた。
「お母さんに何か持っていってみる?」
「え?」
「例えばそうだな……果物とか、レモン水。うん、あれならサッパリしているから口にしやすいと思うな。簡単だからウィルにも作れるよ」
「本当!?」
「作ってみるかい?」
目を輝かせて食いついてきた男の子にリュヴァルトは笑顔を返した。
色を失うアネッサを余所に、ウィルは飛び上がって喜んだ。とにかく「やる! 持っていく!」と大興奮で、リュヴァルトもにこにこと目尻を下げる。
「ちょっと……! 余計なこと言わないで!」
アネッサが声を潜めながら噛みついた。リュヴァルトはきょとんとした顔で彼女を見返す。よかれと思って提案したのになぜ怒られるのだろう。
アネッサはひっそりと溜息をついた。
「……あの子、きっとがっかりする」
「がっかり……?」
リュヴァルトの疑問にアネッサが答えることはなかった。
そして疑問の答えは彼女に教わらずともすぐにわかることとなった。




