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月のひかり、陽だまりの歌  作者: りつか
2章 まぼろしの肖像画
18/21

[9]美しき花の思惑

 青灰色に沈む街に細い糸のような春雨がしとしとと降りしきる。白く煙る街路樹の合間、等間隔に置かれたランプが頼りなげな明かりをぼんやりと辺りに投げかけている。

 幾何学模様が美しいと評判の大通りの石畳はすっかり濡れそぼって、この薄暗い中では石の微妙な色の差異など全くわからなかった。もっとも、見物客も誰ひとりとしていないのだからなんの問題もないだろうが。


 風に流され冷たく立ちこめる白い(もや)。それを掻きのけるようにして一台の馬車が進んでいく。

 窓や屋根に当たる雨音が静かに耳朶に響いていた。気温が下がったのか足下から冷気が這い上がってくる。ずり落ちかけていた膝掛けを引っ張り上げてアネッサは息をつく。


「濡れなかったかな」


 ぽつりと、心配の色の滲む声が響く。向かいの席でリュヴァルトが窓の外を眺めていた。じっと見つめるアネッサの視線に気づいたのか、リュヴァルトは僅かに口許を綻ばせて「あの鳥だよ」と付け加えた。それからその口許を隠すように拳を当て、再び窓の向こうに目をやった。


「逃がして、そのあとすぐ降ってきたから……濡れてないといいなぁって」


 藤紫の瞳は遥か遠くを見据えている。薄闇の広がる中、彼にはあの瑠璃の鳥の姿が見えているのかもしれない。

 アネッサの視線は自然と彼の指を彩る青色に引き寄せられていた。煌めく瑠璃の石が確かな存在感を固持している。


「あたしさ、あのとき……()()を差し出せって言われてるんだと思ったよ」


 リュヴァルトがきょとんと振り向く。なんの話だとばかりに続きを待つ彼の右手をアネッサはおもむろに指差した。釣られてリュヴァルトも自身の指の付け根に目を落とす。


「ああこれ。この指輪助かったよ。身分証明だけじゃなくて値引きもしてもらえるんだね」


 呑気な笑みを目許に浮かべる青年にアネッサは即座に「違う」と言い返した。

 兄から渡された指輪に値引きの特典があるのかどうかはよく知らない。実際あったとしても百分の一の値まで下げさせられるのか、それは限りなく不可能に近いのではないかと思う。それより塔の指輪を目にした途端に態度を一変させたデムナがどうにも疑わしかったが、今となっては確かめる術がない。

 改めて青年の手に収まる指輪を指し示した。朝アネッサが渡した方ではなく、彼が元々お守りとして持っていたものを。


「その石を寄越せって意味。見るからに良い値がつきそうだもの」


 小粒ながら質の良い瑠璃。その指輪を引き渡すなら鳥を売ってやってもいい。デムナはそれを目論んだのではないかとアネッサは睨んでいた。


「これ? これは大丈夫だよ。目眩ましの術がかかってるんだ」

「目眩まし?」


 リュヴァルトはうんと頷き、手の甲を傾けて見せた。仄明るいランプの光を受けた石はきらきらと青く鮮やかに輝いた。


「俺、運がないから、この指輪の存在を知らない人には気づかれにくいような術を強めにかけてくれてるんだ。だからあの店の人に見えていたのはこっちの、身分証の指輪だけだと思うよ」


 確かに正論だった。瑠璃の指輪は元来、持ち主に災難が降りかからないようにする魔術道具である。それが高値で売れそうだと目をつけられるのでは本末転倒も甚だしい。


「見せてもらっていい?」


 アネッサが手を出して促すと快諾とともに件の指輪が渡された。

 曇りのない銀のアームに一粒の瑠璃が乗っているだけのシンプルな指輪。深みのある紺青色の中にきらきらと砂金が混じったような瑠璃の石には、まるで満天の星を閉じこめたような趣があった。

 けれどそれだけだ。いろんな角度から眺めてみてもただ質のいい瑠璃だなと思うくらいで、アネッサにはなんの変哲もない至って普通の指輪にしか見えなかった。これで災難避けの術がかかっているだの、目眩ましだのと言われても。


「あたし、始めから見えてたよね? あんたが指輪してること知らなかったのに」

「そうだっけ」

「これ、本当に目眩ましが掛かってるの? 効果弱まってるんじゃないの?」

「効果って弱まるの!?」


 素っ頓狂な声が上がった。思わず腰を浮かせる青年の剣幕にアネッサはたじろいだ。


「そ、そりゃあそうでしょ。物に精霊の力をこめてあるだけなんだから。力を使い果たせばただの指輪に戻るんじゃないの? あんたに運がないなら、今までこれが補助してた可能性は大いにあると思う」


 魔術道具にも極上の物から粗悪な物までいろいろあり、その質はピンキリだと聞く。リュヴァルトの指輪の質までアネッサには判別できないが、仮に本人の気づかないところでも威力を発揮してきたのだとしたら、とっくに効力が切れていてもなんらおかしくはない。


「困るよ……返さなきゃならないのに」


 (つま)んだ指輪をひらひら振ってみせるアネッサにリュヴァルトは情けない声を返した。力なく腰を下ろし、戻ってきた指輪を再びはめると八の字を寄せる。


「ううん……」


 微かな唸り声にふたりは慌てて口を噤んだ。思い出したようにアネッサの膝の上に目を向ければそこに頭を乗せて眠る子どもの姿があった。身じろぎ、僅かに眉を顰めた寝顔はそのうちに安らいで、再び規則正しい寝息が聞こえるようになる。


「……ウィルにはかえって悪いことしちゃったかな」


 詰めていた息を吐き出し、リュヴァルトがぽつりと呟いた。アネッサは形の良い小さな頭をなでながら首を振った。


「あんたのせいじゃないよ。……少し、運が悪かったのかもね、この子も」


 湿り気を帯びた金色の髪に指を通したり、濡れてよれてしまった毛束を解してみるが少年が目を覚ます気配はない。半日よく歩き、遊び、そして最後に大きなショックを受けたことで一気に疲れが出てしまったのだろう。頬に残るのは決して雨の跡だけではない。

 アネッサは向かいに座るリュヴァルトの隣に目をやった。先程までウィルが大事に抱えていた紙の袋がそこに置いてある。ランプの灯された薄暗い客室内でも、それがよれよれと波打っているのを認められる。





 * *






「リュー、ウィル、塔に行くよ」


 雨の煙る中そびえ立つ巨大な姿を(ひさし)の下から睨んでいたアネッサは静かにそう告げた。相談ではなく報告である。


「塔? 塔って、時の塔かい?」

「そう。塔に馬車があるの。辻馬車より乗り心地いいやつがね。……始めからそうしてればよかったね。うっかりしてた」


 邸の門番には街に出ると言付けてきたが、具体的な場所を伝えていない以上迎えが来ることは期待できなかった。こちらから連絡をしようにもどこから入れればいいのか、人を頼める場所はどこか――そう考えて唐突に気づいたのである。

 兄の管轄する塔へ行けば人を頼めるではないか。それよりいっそ馬車を借りればいい。私物扱いするなと後で怒られそうな気もするが、そうなったらそのときはそのときだ。


「馬車で帰るの? みんなで?」


 よく通る無垢な声にアネッサは目線を下げる。ウィルと目を合わせると頬を緩ませ、その肩を包むように手を添えた。


「みんなで帰るよ。ウィルもずっと歩いて疲れたでしょ。塔までもうちょっとだけ、頑張れる?」

「ぼくまだまだ元気だよ!」

「ウィルは偉いなぁ」


 リュヴァルトがぽんぽんと背中をなでた。ウィルはアネッサとリュヴァルトの顔を交互に見上げ、破顔した。

 そうして三人は走った。なんとか塔に駆けこみ、ウィンザールの名を出して馬車を借りることには成功した。あとは馬車がアネッサたちを邸まで運んでくれる。自分たちはただのんびり到着を待てばいい。

 ああよかったと安堵の息をつき、気が抜けたのは事実である。


 異変に気づいたのは馬車に乗りこむ段になってからだ。


「ウィルおいで」


 アネッサが手を差し伸べた。けれどウィルは顔を伏せたまま動かない。


「ウィル?」


 リュヴァルトも歩み寄ってその顔を覗きこむ。ウィルは唇を噛み、青藍の目を潤ませて手の中の物を一心に見つめていた。視線を辿ったふたりは息を呑んだ。濡れて波打つ紙の袋、その表面には点々と色が飛び、染みのように滲んでいる。

 リュヴァルトはそれを少年の手からそっと抜き取った。中身を引き出すと、似顔絵――先程までは似顔絵だったもの――はパステルが溶けて混ざり、さながら抽象画の様相を呈している。辛うじて人が描かれていたらしいとわかるそれが実は似顔絵だったと、一体誰がわかるだろう。


「だいじに、もってた、の、に……」


 見る間に大粒の涙が少年の頬をぽろぽろこぼれ落ちていく。


「ウィル……」


 震える小さな肩を抱いた途端、ウィルはアネッサにしがみついて嗚咽を漏らした。

 また描いてもらえばいいよ、いつでも行けるから。馬車に乗りこんでからも二人掛かりで宥めたが、気落ちした少年の気分は一向に上がらなかった。そうしてウィルはアネッサの膝の上でそのまま寝入ってしまった。


「――よっぽど嬉しかったんだね、あの絵」


 すすり泣く幼い声がまだ耳に残っていて胸が痛い。それを振り払うようにアネッサは嘆息した。膝掛けを掛け直し、長い睫毛に残っていた涙の滴をそっと拭ってやる。


「ウィルがそんなに絵を描いてもらいたがってたなんて、あたし知らなかった」

「俺も……。似顔絵はほんと思いつきでさ、肖像画見てたときの様子がちょっと気になってたから」

「リュー、それ、昼間も言ってたよね。この子の絵がないって?」


 金色の髪をなでていた手を止め、アネッサはにわかに鋭い視線を送った。聞いたのは確か似顔絵を頼もうとしていたときだ。


「どういうこと? ちゃんと奥まで入って見た?」

「どういうことかは俺の方が聞きたいよ」


 リュヴァルトは憤慨したように午前中の足取りを打ち明けた。

 たまたま飛びこんだ部屋にたくさんの肖像画が飾られていてびっくりしたこと。

 両親の絵もあるよとウィルが嬉しそうに案内してくれたこと。

 けれどウィル自身の絵は母の不調により描けなかったこと――。


「ウィルがそう言ったの?」

「そうだよ。あんまりがっくりしてるから、聞いた俺も悪かったと思ってさ……。それで街に遊びにいこうって誘ったんだ。俺も外を歩いてみたかったしね」


 肩を竦めるリュヴァルトはおもむろに背面に(もた)れ、天井を見上げた。


「家族で描かれてる絵も多かったし、アンも赤ん坊の絵があるよね。でもウィルはこれまで一度も描いてもらってない……。夫人の体調がよくなかったからってウィルは言ってたけど、それだったらよくなってから幾らでも描けただろうって思うし。……そもそも絵ってさ、描く間中モデルがいるものでもないんじゃないのかな? 今日みたいな似顔絵ならともかくさ」


 絵のことはよくわからないけど。そう呟く横顔は真剣そのもので、彼が心からウィルのことを考えてくれているのだとアネッサには感じられた。同時に、今話してくれた内容に嘘偽りはないのだろうとも。

 少年の髪をなでながらアネッサは逡巡する。そっと指の甲で触れた頬は柔らかく、仄かに温かい。


「――ちゃんと描いてるよ、ウィルの絵も」


 静かな雨音と、石畳を行く車輪の微かな振動音。アネッサの囁きはそれらに掻き消されることなく青年に届いた。視線だけを投げて寄越した彼の瞳にランプの灯りが揺らめいている。


「飾られてたのをあたしは見てる。生まれたばかりのこの子を義姉さんが横抱きに微笑んでるのがあった……はずなんだけど」


 こんな感じの、とアネッサは赤子を横抱きにするようなポーズを取ってみせた。朧げな記憶を辿れば、確か義姉の両脇にはまだ小さなジールとファルが寄り添うように立っていて、赤ん坊のウィルを覗きこんでいる構図、だったはずだ。

 リュヴァルトは気の抜けた顔で口をぽかんと開けていた。


「なんだ、じゃあ俺が見逃しただけかな?」

「どうだろ。……ウィルが自分の絵はないって言うなら本当にもう、ないのかも」

「え、でもほら、ウィルもわからなかっただけかもしれないだろう? 赤ん坊なんてあんまり見分けがつくものでもないしさ。俺も始めアンの絵をウィルかと間違えたくらいだし」


 薄い笑みとともにアネッサは溜息をこぼす。ただの憶測に過ぎなかったものがリュヴァルトと言葉を交わすうちに強い確信へと変わり、胸の内にすとんと落ちていた。


「確かに赤ん坊はみんな似たり寄ったりかもね。でも、婚礼の絵は見たんでしょ? あの隣にあったはずなの。……誰が見ても〝義姉さん〟ってわかる絵だったよ」


 この分だとジールとファルの誕生時に描かれた絵も高い確率で外されているのだろう。

 絵が下ろされたことには全く気づいていなかったアネッサである。いつからなのか厳密にはわからないが、ウィルが物心つく前のことであるのはほぼ間違いないだろうと思った。おそらくは母が臥せるようになり、邸中の人間の目がそちらに向いていた頃か、そのあと。

 義姉が何を考え、何を欲するのか、アネッサには理解が及ばない。けれど――。

 お気に入りの物も、大事にしていた物であっても、気に入らなくなった途端に執着心をなくす人だ。兄に我が儘を言って取り寄せた花樹でさえ、匂いが嫌になったと言ってあっさり処分する。その挙動に容赦はない。

 そんな人が()()()()()()()()()()()()()をいつまでも置いておくわけが、ない。


「そうか、ウィルも描いてもらってたんだ……」


 僅かに目元を和ませるリュヴァルトを前にアネッサは思案げに唇を引き結ぶ。ウィルにはむしろ伝えない方がいい気がしていた。あったものを処分したと言うくらいなら始めからないことにした方が、まだ。

 ――知ったらきっと傷つく――。

 どうして、と泣きじゃくる子の幻が脳裏をよぎる。とても言えそうにない。双子の方は特に気にする(たち)でもないけれど、この子は優しいから。




 馬車がゆっくりと動きを止めた。邸に着いたらしい。扉が開けられ、一気に冷気が入りこむ。エントランスからの灯りが客室の床に差しこんで足下を照らした。

 胸の内にある静かな炎を認めながらアネッサは邸の階上を睨みつける。

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