[7]ふんわり咲く笑顔
だいぶ風が出てきた。
薄く雨の匂いの混じる風が先程からアネッサの髪を揺らしている。まとめきれずに落ちた横髪が風になびいてはふわりふわりと頬にかかって痒い。僅かにそっぽを向き、こそりと毛束を指で摘むと耳に掛けた。
盗み見た天は一面灰色の雲に覆われていた。なんとなく薄暗く感じるのはこの空のせいなのか、単純に夕暮れが迫っているのか。――どちらにしろここに長居していていい理由にはならない。
「アン」
囁くように名を呼ばれた。顔は前を向いたまま動かさず、低い声音で「なに」と返せば微かに気配が近寄った。
「眉間にしわができてるよ。笑顔、笑顔」
まるで内緒話を打ち明けるがごとく、である。
聞いた瞬間、頬に朱が差したのが自分でもわかった。思わず振り向いたアネッサが見た横顔は相変わらずのほほんと笑んでいる。それどころか追い打ちをかけるように「動いちゃだめだよ」と告げられて、アネッサはそこから怒りを鎮めるのに苦労することとなった。
こちらはいつ降り出すとも知れない天気に気が気ではないというのに。
「似顔絵、描いてくれるんだって」
話は先刻に戻る。
アネッサの鋭い眼差しを物ともせず、リュヴァルトはにこにこと答えた。
「実はさ、ここに来る前に肖像画の部屋に入ったんだ。たくさん絵があったけど、ウィルの絵はないって聞いたから」
「絵がない?」
訝しんで見下ろすと少年はアネッサの目から隠れるように、その身を半分リュヴァルトの影に置いてしまう。リュヴァルトはそんな彼の肩を抱いて「うん」と頷いた。
「似顔絵と肖像画はちょっと違うかもしれないけどさ、街に来た記念にもなるしちょうどいいなぁって見てたんだ。せっかくだからアンとウィルで描いてもらったら」
青年はアネッサに「どう?」と目で尋ねてくる。どうと訊かれても、アネッサとしては早く戻りたいのが本音である。夕刻の鐘が鳴ったのを聞いているしそれどころではない。
「……絵なんて時間がかかるもの。早く帰らないと雨が……あっちょっと」
リュヴァルトはポケットを探ると小銭を幾つか取り出した。そしてアネッサが言い終わらないうちにさっさと手渡してしまった。
「大丈夫、すぐ描けるって。――ねえ、ここに立ってればいいのかな?」
画材を並べていた男はリュヴァルトに目をやると、建物の脇に置かれた木製の長椅子を顎で指した。背景に溶けこんでいたそれが商売道具のひとつであったことにアネッサは目を丸くし、次にほくほく顔のリュヴァルトに有無を言わせず座らされると眉を顰めた。長年雨風に晒されてきたらしく、長椅子の表面はざらざらとしている。その上軽くなでれば指の跡がうっすら残った。……終わったら速攻ドレスを叩かねば。
「ウィル、おいで」
リュヴァルトが手招きをする。遠慮がちにそろそろと近寄ってきたウィルを、彼はやはり強引にアネッサの隣に座らせた。そして、ひと仕事終えたとばかり満足そうに口角を上げ、踵を返す。
けれどもその足は動かなかった。リュヴァルトの服の裾をウィルがしっかりと掴んでいた。服に伝わる小さな抵抗の力に、リュヴァルトはきょとんとした顔で見下ろした。
「ウィル?」
「ねえ、リューも描いてもらおうよ」
ウィルはそれからアネッサを見上げた。空いた方の手はアネッサの袖の端を握っている。薄明の空を閉じこめたような青い瞳がじっと彼女を見つめていた。
「ぼく、アンとリューみんないっしょがいいな。……だめ?」
軽く小首を傾げ、頬を紅潮させて。澄んだ目で真摯に問われればアネッサには否と告げることができない。ウィルのその顔には弱いのだ。
かくしてアネッサたちは似顔絵を描いてもらうこととなった。
リュヴァルトはウィルを挟んで向こう側に座った。長椅子の長さからしてかなり詰めねばならず、しかもあまり動かないようにというのでアネッサは身も心も窮屈でしかない。
加えて口の中がおそろしく甘ったるいのも苛々する原因になっていた。リュヴァルトが手にしていた揚げ菓子の残りを半ば無理矢理食べさせられたのだ。たったふたくちほどの量だったにも関わらず、たっぷりと掛けられていた苺風味のアイシングのおかげですっかり胃もたれしてしまった。口内にもまだじゃりじゃりと砂糖の欠片が残っている気がする。
鬱々とした気分で隣に目をやればアネッサとは対照的に満面の笑みを浮かべたウィルがいた。同じくらい楽しそうなリュヴァルトの姿も。ふたりともいい気なものである。こちらは時間も天気も、何より今この状態を端から見れば一体どう思われるのだろうと、気にかかる事柄が山のようにあって落ち着かないのに。
そもそもこの場所が時の塔のすぐそばというのが問題だった。時の塔、そして研究室のある星の塔、そのどちらをも管轄する一番の長が兄なのである。つまり塔に詰めているのは言い方を変えれば兄の手先に等しい。
アネッサがここに来ていること自体は兄の知るところであろうが、まさか呑気に絵を描かれているとは露とも思わないはずだった。配下にいつ何時見つかるか知れず、見つかれば当然兄の耳にも入ることになり、尾ひれがつくであろうことは想像に難くなく……とにかく早く終わってくれとアネッサは願うしかない。
風が吹き、若干の肌寒さを感じながらアネッサは横髪を耳に引っかけた。両目が完全に隠れるほど長く前髪を伸ばしているリュヴァルトは、果たして鬱陶しくないのだろうか。
アネッサにとってはおそろしく長い時間が過ぎた。「完成だ」と差し出された絵を少年は厳かに受け取った。そこに、笑顔の三人が描き出されていた。
画風に少し癖がある。けれど特徴はそれぞれちゃんと捉えている……気もする。パステルで淡くふんわりと彩色されたそれは、無愛想な男の雰囲気とは似ても似つかない、とても温かな絵になっていた。あの仏頂面から何をどうすればこんなに優しい絵が仕上がってくるのか。
何よりアネッサは終始面白くない顔をしていた自覚があった。なのにこの絵の自分はどうだ。目が優しすぎる。口角も上がりすぎている。今までこんなふうに笑ったことなど一度もないと言い切れる。
「リューありがとう! ぼく、大事にする!」
再び街路に戻ってきて、ウィルは頬を薔薇色に染め輝くような笑顔でリュヴァルトを見上げた。一緒に貰った紙の袋に似顔絵を入れ、大切に胸に抱いている。よかったねと笑みをこぼす青年と、嬉しそうに白い歯を見せる甥っ子を、アネッサは疲れきった顔で見下ろした。
「もういいね。帰るよ」
二つ返事で了承したふたりを連れ、アネッサはようやく帰路についた。
* *
アネッサの歩く後ろでリュヴァルトとウィルは楽しそうに談笑していた。行き帰りで見かけたお店や売り物のこと、そして今し方描いてもらった似顔絵のこと。そのうちに絵の中のアネッサの笑顔に話が及び、むず痒い思いに耐え切れなくなったアネッサは顔だけをふたりに向けた。
「そういえば、時の塔には行った?」
問われたふたりは始めきょとんとした顔を向け、次いで「行った!」と揃って破顔した。
「あのね、ステンドグラスがとってもきれいだったよ!」
「俺も。今までいろんなところに行ったけど、あんなに美しいステンドグラスは初めて見たなぁ」
「あっでもね、リューに二階に上がろうって言ったのに、上がれなかったの。ぼく、上のステンドグラスも見てみたかった」
「上がれなかった? 何か作業でもしてた?」
塔の方の都合で立入禁止にでもしていたのだろうかとアネッサは首を傾げる。考えられるのは清掃あたりか。
ウィルは不満そうに唇を尖らせた。
「リューがね、もう人がいっぱいだから下りてくるの待ってたら夜になっちゃうよって。それにおなかすいたから何か食べにいこうって」
「いやっ、それはほら、昼前に飛び出して何も食べてなかったからさ。ウィルだってお腹すいてるだろうなぁって思ったし……。お菓子、美味しかっただろう?」
「それは、おいしかった……けど……」
最後の方を口の中でもごもごと呟いて、ウィルはアネッサの顔を上目遣いに窺った。素直に頷けばまた怒られるとでも思ったのだろう。けれど同じお菓子を同じように食べてしまったアネッサには既に叱る権限がない。
それはもういいよと告げてリュヴァルトを振り返れば、彼は呆けた顔をしてあさっての方を眺めていた。
「リュー? どうかした?」
「いや……今、何かに呼ばれたような気がして……」
円形広場はもう目前だった。その手前の辻、細い路地の奥をリュヴァルトはずっと見つめている。青年の視線の先を辿っても何がそんなに気になるのか見当もつかない。
見えない力に引き寄せられるように向かった先は間口の狭い一軒の店だった。
「何ここ……」
全面ガラス張りの外装からおそらく店舗だろうと推測したが、特に看板が出ているわけではない。ガラスの四隅は曇って濁り、窓際に並ぶ物の輪郭だけが辛うじてぼんやりと視認できる。
「……何かのお店、みたいだよね」
リュヴァルトは肩を竦める。彼にもよくわからないらしい。
「営業してるようには見えないけど?」
「うーん、でも準備中の札はないよ」
「営業中の札もないじゃない」
「うわぁ、真っ暗だ……」
リュヴァルトの隣に並んだウィルが軽く背伸びをして中を覗きこんだ。アネッサは目を眇め、外観を嘗め回すように観察している。
彼女の後ろを回って入口に立ったリュヴァルトは束の間躊躇って、扉に手をかけた。取っ手をそうっと引っ張ると、きぃと軋むような音とともに僅かな隙間ができる。どうやら鍵はかかっていないらしい。意を決し、そのまま引けば扉はごく滑らかに開いた。
中は薄暗かった。間口が狭い分、奥に細長い造りのようだ。人がどうにかすれ違えるほどの幅の通路が二股にわかれ、奥に向かって伸びている。通路の両側に置かれた様々な高さの棚には物がごちゃごちゃと乱雑に詰めこまれ、また天井に向かって積み上がり、いつ崩れるとも限らない。ここが本当に店舗であるとするならば、正直なところどこまでが商品でどこからが不要品なのか判断に困る雰囲気である。
入口から一歩入ったところで立ち止まったまま、アネッサは店内のあちらこちらを眺めていた。
香か薬草の類いか、独特な濃い香りが鼻腔を満たす。それは淀んだ空気と混ざり合い、薄暗さや静けさなどとも相まってそこから先へは足が動かない。その間にもリュヴァルトは辺りを窺いながら少しずつ奥へと進んでいく。
「ちょっとリュー、勝手に……」
一歩足を踏み出したところで急に腰の辺りを引っ張られ、アネッサは後ろを振り返った。見下ろせばすぐにウィルと目が合った。眉尻は下がり、唇を一文字に引き結んだ彼の小さな手が、アネッサのドレスをきゅっと掴んでいる。
どうしたのと声をかけつつもウィルが何を言いたいのか、なんとなく予想はついた。大人の自分でもこの異様な雰囲気に呑まれ、気後れしているのである。子どもを付き合わせるのは可哀想だった。
リュヴァルトには気が済むまで物色させておいて、あたしたちは外で待っていた方がいいのかも。
そう考えアネッサが顔を上げたとき、
「……ああ、見つけた」
リュヴァルトのほっと息をつくのが聞こえてきた。
彼が探し出したのは鳥獣用の小さな四角いかごだった。山積した物の中に半ば埋もれるように置かれていたそれは全体的に黒ずみ、どことなく古びた印象を与えている。




