[3]肖像画の間にて
しんと静まり返った室内で、少年はそっと顔を上げた。一緒に逃げてきた青年は真剣な面持ちのままピタリと扉にくっつき微動だにしない。彼の緊張がこちらにも伝わってきて思わずこくりと唾を飲みこむ。
ふと視界の端に何かが映りこんだ。横目で窺えばそこにいたのは厳つい顔の老人だった。目があって、ウィルの息が瞬時に止まる。思わず悲鳴を上げかけたが既の所で飲みこんだ。
老人は生きた人間ではなかった。絵だ。真正面から描かれたその老人はカッと両目を見開き、まるでこちらを睨んでいるかのようだ。
なんだか咎められている錯覚に陥り、ウィルはふるっと身体を震わせた。
「……ねぇリュー、あの」
「しぃっ、静かに」
扉に耳を寄せ様子を窺っていたリュヴァルトは小さな声で少年を制した。しばらく沈黙が続いたがそのうちにほっと息をついた。
「行ったみたいだ。もう大丈夫」
その声にようやくウィルも安堵の息をつく。寄り添い、すがるように青年の服の裾をきゅっと握っていた彼は、だがすぐに不安そうな顔を見せた。
「ほんとにだいじょうぶ?」
「大丈夫だよ。遠くに逃げたと見せかけて近くに潜むのはこういう場合の常套手段だからね、見つかりっこないよ」
「でも、ずっと逃げたまんまはできないでしょ? いつかはばれるよね?」
食い下がる少年にリュヴァルトはうっと息を呑む。ばれたら絶対怒られるよと訴えられればそれを否定することは難しく、リュヴァルトは上手く言葉を返せなかった。
『やるべきことをちゃんとやりな!!』
アネッサの特大の雷が落ちたとき、リュヴァルトの世界からしばらく音が消えた。耳鳴りが治まる前に彼女が近づいてくるのを目にしたリュヴァルトはそのあとを直感で行動した。つまり、ウィルの手を掴み「逃げるが勝ち!」と言わんばかりに部屋を飛び出したのだ。階段を駆け下りた先、ちょうど扉が開いていた部屋へ飛びこむとサッと閉めてしまったのである。
ウィルはまるでこの世の終わりかとも思えるほど大仰に溜息をついた。
「アン、おこるとこわいんだよ。えっと、よ、ヨウシャ、ないんだ」
「あー……容赦ないのか……それは困ったな」
頬をポリポリ掻く。しょげかえる少年を見ていると巻きこんでしまったのが本当に申し訳ない気分になる。 長年培った経験から、考えるより先に身体が動いてしまった。
リュヴァルトの脳裏には笑顔のアネッサが映し出されていた。真っ青な空に向かって咲く大輪の花のような、実に清々しく爽やかな笑みだ。そこに変な色気や艶めかしさは微塵もない。顔の造形は決して悪くないのに色っぽさを感じないのは彼女のさっぱりとした気性が現れているからかもしれない。
数日過ごしてみて少しずつわかってきたのは、彼女が竹を割ったような性格だということ。
好きなものは好き。
嫌いなものは嫌い。
いいことはいいし、駄目なことは駄目。
彼女の信条は絶対で、リュヴァルトが少しでも外れたことをしようものならすぐさま叱咤され、且つ問答無用の軌道修正が待っていた。微笑みの向こうに怒りのオーラが見えることも多々あり、その笑みの前には如何なる反論も言い訳も封じこまれてしまう。大いに頼りになる味方でこそあれ、なるべくなら敵に回すことはしたくはない。それがリュヴァルトがアネッサに抱いている印象だった。
「うーん……、それじゃこっそり部屋に戻って宿題しようか」
顎に手をやり思案していたリュヴァルトは宙の一点を見つめながら呟いた。ウィルの目が丸く見開かれた。
「宿題するの?」
「やるべきことをちゃんとやっていれば、アンも怒れないはずだからね」
「……それでもおこってたら?」
「そのときはひたすら謝り倒す!」
リュヴァルトはへらっと笑みを送った。笑顔の先で少年はなんとも言えない顔を見せた。
「それよりさ、」
少年の手を自身の服から剥がして繋ぎ直すと、リュヴァルトは改めて室内を見渡した。
「すごい数の絵だね。……肖像画ってやつ?」
立派な額縁に入った大小様々な絵が壁一面に掛けられていた。ほとんどが男性ひとりの絵で、毅然と立っているものもあれば立派な椅子に座っているものもある。かたや家族だろうと思われる組み合わせの絵もあって、今にも笑い声が聞こえてきそうな雰囲気にはこちらの頬もつい緩んだ。
「今までこの家をついできた人たちの絵なんだって。おじいさまとか、そのまたおじいさまとか、ずーっと昔の人のもあるし、ぼくのお父さんとお母さんのもあるんだよ。こっち!」
手を引かれてついていくとウィルはある一枚の絵の前で足を止めた。壁に掛かった大きな額縁の中には一組の男女の姿が色鮮やかに描かれていた。堂々とした風格の男性がたおやかな女性の手を取り、寄り添うように立っている。艶やかな金髪をもつ女性の頬はほんのりと薔薇色に染まりとても幸せそうだ。
「婚礼をあげたときのなんだって」
言われてみれば確かに若く初々しい。ウィルが今七歳だそうだから少なくとも七年以上は前に描かれたものなのだろう。ふたりの表情は明るく希望に満ちている。
良い絵だねと呟くと少年は嬉しそうに頷いた。リュヴァルトはふとあることに思い至り、室内の一画を指差した。
「あっちに赤ん坊の絵があったけど、あれってもしかしてウィル?」
「どれ? ……あ、あれはアンだよ」
「えっ、あれアンなんだ!? 金髪で愛らしくて、てっきりウィルかと思ったよ。でもそうか、それじゃ赤ん坊を抱いてるのはアンのお母さんってことか……ウィルの絵にしてはお母さんが別人みたいだなって思ってたんだ。へぇ、あれアンなのか……へぇ」
絵のある方を眺め、驚きをそのまま口に乗せればウィルがたまらず吹き出した。
「その言い方、アンがおこるよ」
「うっ」
リュヴァルトは芝居がかった仕草で口を押さえた。真剣な面持ちで「アンには内緒で」と懇願するとウィルはますます屈託ない笑い声を上げる。年相応の笑顔を目にしてリュヴァルトも破顔した。
「それじゃ、ウィルのはどれ?」
その瞬間、繋がれた小さな手に力が籠った。リュヴァルトはあれっと首を傾げた。予想していた反応ではない。見下ろした少年の顔はどこか強張って見えた。
「あの……あのね、ぼくが生まれたときね、お母さんの具合があまりよくなかったんだって。だからね、あの、……かけなかったって」
「……そうなんだ」
ウィルはリュヴァルトを見上げるとぎこちなく微笑んだ。それから再び両親の肖像画に目を向ける。
少年の神妙な顔つきと、物憂げな様子で窓の外を眺める佳人の横顔がリュヴァルトには重なって見える気がした。穢れのない澄んだ青藍色の瞳も、思わず触れたくなるようなさらさらの金色の髪も、紛れもなく母親譲りのものだとわかる。誰が見ても血の繋がりを感じずにはいられない相貌だ。
過日の〝私の子ではない〟発言がリュヴァルトの聞き間違いだったかどうか、結局わからずじまいだった。もし本当に聞き間違いだったとしても夫人とウィルの間に温かな交流があるようにはあまり見えない。彼女の体調を鑑みれば、ともに過ごす時間を設けるのもなかなか難しいのかもしれないが……。
何が正しくて、何が正しくないのか。考えてみたところでリュヴァルトにはよくわからない。わかりそうにもない。
誰にだって触れられたくない過去のひとつやふたつはあるものだし、軽率に暴いていいものでもない。あまり立ち入らない方がいいのは十分わかっているつもりだ。
それでも世話を焼きたくなるのはこの少年にどこか放っておけないと感じさせる何かがあり、それがリュヴァルトの心に細波を立てるからで――。
リュヴァルトは頭を二、三度軽く振った。
「やめた」
「え?」
ウィルがきょとんとした顔を向けた。脈絡のない台詞に理解が追いついていないのが見て取れる。リュヴァルトはその肩をぽんと叩き、朗らかに宣言した。
「今日はこれからお出かけ!」
「えっ……、ええ!? ちょっとまって、だって今から宿題するって」
「うーん、そう思ったんだけど……実は俺、やっと外に出てもいいよって言われてさ」
右手に嵌めた身分証代わりになるという指輪をウィルに見せた。少年は物珍しそうにまじまじと眺めている。
「フォルトレストの街は初めてなんだ。ウィルが一緒に行ってくれたら楽しそうだなあと思って。どう?」
外出許可が下りたとなれば出たいと思うのは当然だ。そして新しい街を探索するのなら居住者の同伴があった方が断然心強い。――我ながら上手い言い分だと思う。
「え……でもいいのかな」
少年はおろおろとリュヴァルトを見上げた。その姿を目にしているとますます外に連れ出してやりたくなる。宿題なんて帰ってから取りかかっても問題ないはずだ。
リュヴァルトは少年の手を力強く握り返した。
「大丈夫、大丈夫。もしアンが怒ったら俺が誘ったって言えばいいから。ほら行こう!」
困惑する少年の手を引き、リュヴァルトは意気揚々と駆け出した。
* *
神経を研ぎ澄まし、全方位に注意を向ける。
それでいて無駄な動きは最小限に、息を潜め忍び足でできるだけ速く歩く。
そんなリュヴァルトの緊張は僅かエントランスまでしかもたなかった。邸の外に出るとすっかりリラックスした様子でのんびり歩き、門番にも普通に挨拶を交わしてそのまま門を出てしまった。
「どこ行こうか。ウィルはどこか行きたいところある?」
繋いでいた手を離すと、うーんと伸びをした。
久しぶりの自由だ。薄い雲のヴェールで覆われた空は白くふんわり輝いていた。頬をなでる春風は柔らかくて気持ちがいい。解放感を満喫しながら振り向けばそこにあったのは狐に摘まれたような顔で見上げてくる少年の姿だった。
「なに? 俺の顔に何かついてる?」
小首を傾げるとそこでようやく目が合った。我に返った少年はあたふたと言葉を探し出した。
「だ、だってリュー、門のおじさんにほんとのこと言っちゃうんだもん。びっくりした」
「街に行くってこと? 行き先はちゃんと言っておかなくちゃ。何も言わないで外に出たらみんな心配するよ」
「それはそうだけど……止められちゃうかと思ってどきどきした」
ほぅ、と息をつく少年にリュヴァルトは微苦笑を浮かべる。
ふたりがアネッサから逃げていることを門番が知らなかったからこそ、堂々と行き先を告げたのだった。なにも本気で逃げたいわけではない。ウィルに気分転換をさせたいだけで、身内に心配をかけるつもりは元よりないのだ。だから隠れる必要はない。夕方には戻ることも伝えたし、後々アネッサが気づいたとしても一応の安心材料にはなるはずだ。
九十九折の道から市街地を眺める。半日で行って帰ってくることを考えるとあまり遠くまでは出向かない方がよさそうだ。彼方に横たわるフォルト川からどんどん視線を戻してくると白い塔が目に入った。川と、この丘とのちょうど中間のあたり。
「あの塔は、観光用ってことは中に入れるのかな?」
指差し尋ねるとウィルは小首を傾げた。
「時の塔のこと? どうなのかな、ぼくは近くまでしか行ったことないからよくわかんないけど……」
「時の塔、っていうの?」
「うん。街の人に時を知らせる塔だって習った」
「時を知らせる、か」
フォルトレストのシンボルでもあるというふたつの塔。滞在中に一度は行ってみたいと思っていた。ウィルも行ったことがないのならあらゆることを逐一楽しめそうだ。ちょうどいい。
「あそこに行ってみようか。ウィル、案内してくれる?」
「いいよ。でもまちがうかも……まちがったらだめだよね」
「大丈夫、大丈夫。道に迷うのも散歩の醍醐味だよ」
ひとまず目的地は時の塔ということにし、ぶらぶらしてみようと提案する。
リュヴァルトが手を差し出すとウィルははにかんだ笑みを見せつつその手を取った。




