[2]やるべきこと
ウィルの勉強仲間が増えた。
同席するリュヴァルトに始めこそ喜んでいたウィルだったが、彼の読み書きの程度を知るとその顔はどんどん曇っていった。
そしてそれ以上に顔を青くしたのが教師だ。
「失礼ながらお伺いしますが、ご自分のお名前は書けますかな?」
「そのくらいは。学校にもちょっと通ってたし……ああでも本当にちょっとの間だったから、文字は知り合いから教えてもらったんだけど……」
リュヴァルトは端に置いてあったペンを取るとメモ用紙にさらさらと書き留めた。はいと渡されたそれをじっと見つめるうちに教師の眉間には深いしわが刻まれていく。横からそっと覗きこんだ少年も微妙な顔つきになっていた。
大人の書く字ではない。
読めないわけではない。決して間違っているとも言わない。が、なんというか彼の書いた文字は崩れ過ぎていた。文字というよりもはや記号か暗号のようだ。何かを模した図形だと言っても通じる気がする。
渋い顔をしていた教師は更に幾つか単語を書くよう指示を出した。リュヴァルトが首を捻りながら書き上げたそれを見て、教師はいよいよ押し黙ってしまった。
「……本日はこれにて失礼いたします。ウィルトールさまには宿題として先ほどの詩を次回までに暗唱できるように。あなたさまはとにかく文字の書き取り練習を」
教師は前半部をウィルに、後半部はリュヴァルトに向かって言うと、難しそうな顔で持ち物をまとめ始めた。
「ありがとうございました先生」
少年がぴょこんと席を立つ。礼儀正しくお辞儀する彼に倣い、リュヴァルトもぺこりと頭を下げた。
* *
教師が慌ただしく退室したあと、室内には奇妙な沈黙が流れていた。簡単な子ども向けの教本をめくっていたリュヴァルトは、自分をじいっと見つめる目に気づいて「なに?」と首を傾げた。ウィルはぽつりとこぼした。
「ぼく……、大人はみんなスラスラ読めるんだと思ってた」
リュヴァルトの笑みが強張る。今眺めている教本は幼き日のウィル少年が文字の勉強を始めたときに使っていたものを出してきてくれたのだった。
「……そ、そうだね。ああいや、もちろんスラスラ読める大人の方が多いんだよ? ウィルの周りの大人はきっとみんなスラスラ読めると思うよ。ウィルも勉強頑張ればもっとスラスラ読めるようになるよ」
「うん……」
ウィルは手元の本に目を落としどこか上の空で返事をした。何やら考えこんでいるようだったがしばらくして「ねえ」と顔を上げた。
「がんばるのって、どこまで?」
「え?」
「あのね、アンがね、もっといっぱい言葉をおぼえなくちゃ大人になったときにこまるよって言うの。でもぼく、もういっぱい読めるようになったと思うんだよ。それにさ、リューはぜんぜん読めなくても今までだいじょうぶだったわけでしょ? ぼく、リューより読めてるもん。もうだいじょうぶだと思わない?」
「いや、大丈夫というか……困ったこともそれなりにはあってね……。あー、やっぱりさ、読み書きできないと困る場面ってのはなかなかに多いと思うんだ。だから、こんなことなら勉強できるときにちゃんとしとけばよかったなーって、今は思ってるよ。うん……」
青年は頬を掻きつつはははと笑った。迂闊な事は言えない雰囲気に冷や汗をかいていた。もしここで受け答えを間違えれば確実にアネッサに怒られる……ではなくて、ウィル本人のためにならない。
そこで「あ、」と思いついた。
「ほら、ウィルは大きくなったらお父さんのお仕事のお手伝いするんだろう?」
「うん」
「だったら勉強は大事だと思うよ。少なくとも俺の学力じゃさっぱりわからなかったからね」
「……うん、そっか……そうだよね」
少年は唇をきゅっと真一文字に結び、「じゃあがんばる」と頷いた。
素直で聞きわけのいいところがウィルの長所だ。健気な返事にリュヴァルトも微笑を返す。だが彼の顔つきを見ているうちに青年はふむ、と思案した。
ウィルが勉強漬けの毎日を送っているのは知っていた。特に文句も言わず、与えられた課題を日々コツコツとこなしていっているようだ。その様をアネッサは誇らしげに語ってくれる。
けれどもう少し肩の力を抜いてもいいのではないか。
勉強に限らず何事にも息抜きは必要である。一見無駄な時間を過ごしているようでもそれをするのとしないのとでは結果に雲泥の差が生じるものだと、リュヴァルトは身をもって知っている。
リュヴァルトの目は室内を彷徨った。あちこちきょろきょろと眺め、視線は最終的にテーブルに戻ってきた。そうして閃いた。
「ウィル。その紙、一枚貰ってもいいかい?」
「え? うん、いいよ」
ウィルは書き取りの練習に用意した紙を一枚渡した。一体どうするんだろうと観察する少年の前で、リュヴァルトはその紙の端をピシッと平行に折った。折り線に沿って切り取ってやると細長いテープのようなものができあがる。同じ作業を繰り返してもう一枚同じ紙テープを作ると二枚の端を揃え、垂直に重ね合わせた。互い違いに重なるよう丁寧に折りこんでいく。
ちらりと横目で窺えばウィルは興味津々でリュヴァルトの手元を覗きこんでいた。思惑通りの反応にこっそり口角を上げ、青年は二枚の紙片の末端まで全てを折りこんだ。
できたのは蛇腹に折られた長細い紙の塊だ。
リュヴァルトはそれを一度限界まで引っ張って伸ばすとグッと縮め、手の中に握りこんだ。その拳をウィルの目の高さに掲げてみせる。
「何かわかる?」
リュヴァルトの問いに少年はふるふると首を横に振った。青年は口許ににやりと笑みを張りつけるとパッと上向きに手を開いた。
次の瞬間、手の中から勢いよく紙の塊が飛び出した。
ウィルは「わぁっ」と感嘆の声を上げた。紙の塊は伸びきった形でコロンと卓上に転がった。
「……すごいや! 飛び出した! これ、なんなの?」
「バネだよ」
「バネ?」
「そう。これにね、例えばこんなふうに……」
リュヴァルトは思案気にペンを取り、残りの紙の余白に星の形を描いた。それを適当な大きさに切り取る間にウィルに糊がないか尋ねる。部屋の隅の文机からウィルが糊を取ってくるとリュヴァルトは先程のバネに紙片をくっつけ、その塊をもう一度握ってみせた。
パッと開いた手の中から星がぴょーんと飛び出した。ウィルがパチンと手を叩いた。
「わかった! 流れ星だ!」
「うん」
にこにこ答えると少年は満面の笑みで飛び上がった。流れ星を手にした彼はそれを縮めたり伸ばしたり好奇心に目を輝かせ、しまいには「ぼくも作ってみたい」と言い出した。
思いがけず始まった工作の授業をウィルは心から楽しんでいた。彼の嬉しそうな顔と卓上に並んだ紙バネの数々を微笑ましく眺めていたリュヴァルトは、そのうちにあることを思いついた。
「このバネをいっぱい作ってさ、箱に詰めたらびっくり箱になるよ。ウィルはびっくり箱って知ってる?」
「うん! あ、でも見たことはないんだけど……。それ、ぼくにも作れる?」
青年がもちろんと頷くのを確かめるが早いか、ウィルは笑顔で「箱をさがしてくるね!」と立ち上がった。
だがその足が駆け出すことはなかった。
踵を返した少年の「あ」という小さな呟きが耳に入る。リュヴァルトが顔を上げるとそこにちょうど入室してきた長身の女性の姿があった。
「ウィル? どうしたの、お勉強は終わった?」
「あ、アン……あのぼく……」
アネッサが怪訝な目を向けていた。彼女の視線はもじもじと上目遣いに見てくるウィルの肩の先を通り越し、リュヴァルトの着くテーブルの上に届いた。――つまり、紙バネの山に。
アネッサはあんぐりと口を開けた。
「なっ……リュー!? それなんなの!? 読み書きの勉強はどうなってるの!? 先生は!?」
「あ……、ええと先生はちょっと前に帰って、あ、宿題を出されたんだけど」
「それがその宿題!?」
「いや、これは息抜きみたいなもので……実はびっくり箱を作ろうとしててさ。そう、アンにあげようかと思って」
笑みを浮かべてもっともらしく言うと、アネッサも「……へぇ、そうなんだ」とにこやかに笑った。その顔にほっとリュヴァルトが息をついた瞬間、何を感じ取ったのかウィルが自らの両耳をぱっと押さえるのが目に入った。そしてそれを不審に思う間もなく、アネッサの雷が落ちた。
「やるべきことをちゃんとやりな!!」




