[1]子どもなの?
ふわ、と甘い香りが鼻腔をくすぐった。濃い花の香りだ。
なんという花なのか、アネッサは知らない。ただ、枝いっぱいに薄紫色の小さな花が咲いているのが窓の向こうに見えていた。
この花は元々義姉のお気に入りだった。過去形なのはその当人がもう嗅ぎたくない、嫌だと言ったからだ。子を身籠った途端に嗜好が変わり、強い香りのするものに吐き気を催すようになってしまったらしい。邸内の敷地の一画を庭園に造り変え自分好みの花を植えさせていた義姉は、匂いの強いものから順に抜かせて処分した。義姉の部屋近くに植えていたものも全てがその運命にあった。
あまりの多さにさすがに花が哀れになったアネッサは自室や自室に至る廊下の窓の外に可能な限りの量を植え直させた。義姉と同じく自身は一切手をつけていないので一体どれだけの木々が植えられたのかは知る由もない。だが春がきてこうしていい香りが辺りに漂っているのを直に感じられるようになると自分の判断は間違ってなかったなと思った。
廊下を進み、花の香りに別れを告げて階段を下りる。すぐに曲がって歩いていけばひんやりとした冷気が身体を包んだ。季節柄、これから向かう離れは朝のうちは日が入らない。二階であればまだ日当りは良いものの、リュヴァルトの使う一階の並びは気温もなかなか上がらない。
肌寒さを感じながらアネッサは歩みを進めた。目指すは廊下の一番奥の部屋。その扉が薄く開いているのを認め、アネッサは首を傾げた。あれではすきま風が入っているのではないか。
両手で抱えるにようにして持っていた厳めしい装丁の本を片手に持ち直し、空いた方の手で扉を開けた。
「リュー、入るよ。兄さんから追加だって。この中の一節に……。えっ、なに!?」
軽い調子で断りを入れ、足を踏み入れたアネッサは血相を変えた。室内は惨憺たる有様だった。
床一面に散らばる紙、紙、紙。その真ん中、部屋の中央に設えられたテーブルにリュヴァルトがついていた。彼は卓上に突っ伏した状態のままピクリとも動かない。左手は頭の下に、右手は力なくだらりとテーブルから落ちている。
窓から早春の冷たい風が入りこむ。卓上に積まれた書類が一枚ふわりと浮いて、滑り落ちた。アネッサは慌ててリュヴァルトに駆け寄るとその肩を乱暴に揺さぶった。
「ちょっと! ねぇ大丈夫!? 一体何が……。……リュー?」
肩を揺するうちにアネッサは眉を顰めた。何か、違和感を覚えた。
もしかして彼は倒れているわけではないのではないか。これはおそらく――。
アネッサが見守る中、リュヴァルトの指がぴくりと動いた。そうしておもむろに顔が上げられる。その顔を見てアネッサは自分の推測が間違っていなかったことを知った。すうっと半眼を閉じ、彼の出方を待つことにする。
リュヴァルトは何度か瞬きをしたあと、そばに立つアネッサに気づいた。
「あ、アン来てたんだ。どうしたの?」
「……あんたが大変かなって、少しくらいならあたしにも手伝えるかもと思って来たんだけど……」
「それは助かるなぁ。ありがとう」
にっこりと笑みを浮かべるリュヴァルトにアネッサもにっこり微笑んだ。ついでに自らの口許を指で示してみせた。
「とりあえず拭いてくれる? そのよだれ」
一見艶やかなその笑顔に底知れぬ怒りを感じ、リュヴァルトはハッと己の口許を袖で拭った。
* *
テーブルに山積している本や書類は、ほとんどが兄ジェラルディオンの研究室所蔵のものだ。雪花人、中でも治癒に関する記述があるものが片っ端からここに運ばれてきている。先日リュヴァルトが研究に協力すると了承したことで、ジェラルディオンはまず簡単な確認作業から頼むことにしたようだった。
「――そこまで来たら扉が開いてるし、あんたは倒れてるように見えたし。部屋は散らかってて一体何事かと焦ったのに……まさか居眠りしてたなんて、ねぇリュヴァルトさん?」
今アネッサは青年の真正面の席を陣取っていた。頬杖をつき、顔の真ん中には「最低」の文字を大きく貼りつけ、じとーっと睨めつける。対するリュヴァルトは弱々しく笑って返した。
「ごめんごめん、こういうのって苦手でさ……」
彼の指す「こういうの」とはすなわち書類の山だ。聞けば適当に取った一枚を読み出してすぐ睡魔に襲われたらしい。頬や腕を抓ってみたり、窓を開けて冷たい外気を取り入れてみたりといろいろ抵抗を試みたが、結局は負けて眠りこんでいたというわけだ。
「すぐ終わると思ったんだよ。書かれてることが合ってるかそうでないかを調べるだけだっていうから。でもどれ見ても難しい単語ばかりでさ、これはちょっと苦戦しそうだなぁと……」
文字を追うだけで眠くなるというリュヴァルト。子どもなの、とアネッサが突っこめば、子どもの頃についた苦手意識が抜けないんだと思う、と彼は肩を竦めた。
アネッサは拾い集めた書類の山から一枚を取ると、ざっと目を通してみた。内容こそ専門的なものではあるが至って普通の研究資料だと思った。
「これが、難しいの?」
「えっ難しくないかな!?」
「普通だと思うけど……。あんた、これまで勉強は? 学校は行ってた?」
顔を上げ、リュヴァルトに怪訝な目を向けた。まさか無学なわけはないだろうと半分決めつけながらも一抹の不安を感じずにはいられなかった。今までの会話や素行の印象からある程度の知性は備えていると判断していたのだが。
問われたリュヴァルトはといえば曖昧に「まあ、一応」と笑った。
「でも読み書きはちょっと苦手かなぁ」
「ふぅん……」
アネッサは小さく息をつき、思案する。どうしたものか。
書類を戻し、今度は手元の本を手に取った。こちらは研究室の蔵書ではない。広く世に出回っている大衆品だ。兄から指示を受けたアネッサが朝一番にウィンザールの書庫から出してきた。
「じゃあこっちならどう?」
矯めつ眇めつしたそれを青年に示す。ページをめくれば専門的な語句も多少は目につく書物。だが所詮は一般向けに書かれたものである。全くの素人であるアネッサが読んでもそこそこの意味は理解できるし、これくらいならきっとウィルでも読めるに違いない。
リュヴァルトは差し出されたそれを素直に受け取った。中身を確かめる青年を視界に収め、アネッサは書類の山に手を伸ばす。拾い集めただけで順序も内容もばらばらのそれらをまずは整えることにした。
静かな室内に紙をさばく音だけが響く。
「あっ!」
急にアネッサが顔を上げた。「わぁ!」とリュヴァルトも声を上げる。
「びっ……くりした……。え、いきなり、なに?」
「もうひとつ兄さんから預かってたんだ。右手出して」
「右手?」
アネッサは脇に置いてあった巾着に手を伸ばした。取り出したのは鈍い金色の指輪だ。螺旋状にぐるりと巻いたデザインで、アームの表面には美しい流線紋様が彫られている。両端にはそれぞれ星と塔を象った飾りがついていた。
「身分証みたいなものだよ。――ほら、手。早く」
急かされるままにリュヴァルトは手のひらを上向け差し出した。途端に「逆!」と、鋭い一言が飛んでくる。くるりと裏返った青年の手に改めて視線を落としたアネッサは、そこであれっと目を瞬かせた。
「あんた指輪してるの?」
リュヴァルトの人差し指には既に指輪が嵌まっていた。小さな青い石が一粒埋めこまれたシンプルな銀の指輪。石には細かな星が無数に散り、その色はさながら晴れ渡った夜空のようだ。一心に見つめているとまるで吸いこまれてしまいそうな魅惑的な光を宿している。
「綺麗な石だね。瑠璃?」
「えーと……なんだろうね? これ借り物でさ」
「借り物? どういうこと? ……あんたまさか、借りるとか適当なこと言って勝手に持ち出したんじゃ」
うっとりと見惚れていた彼女の目が一瞬で疑いの眼差しに変わる。リュヴァルトは慌てて首を横に振った。
「盗んだんじゃない。本当に借りてるんだ。ちゃんと返すって約束もしてるし」
「約束?」
「そうそう。お守り代わりに持っていけってほぼ無理矢理持たされたんだよ。えーとなんだっけ、持ち主に幸運をもたらす力がどうとか……」
「ああ、魔術道具ってわけか」
アネッサは得心して引き下がった。
リュヴァルトは旅人である。旅立ちに際して無事を祈るのは世の常だ。その折に身につける護身具に精霊の力を封じこめた魔術道具を用いることも一般的で、待ち人または自らが用意し、旅の間は肌身離さず持ち歩くのである。
アネッサはリュヴァルトの手を掴むとその中指に金の指輪を嵌めた。少し大きいように思われたそれは指に収まった途端、絡まるように絞まった。
「これも魔術道具には違いないけど飽くまで身分証だからね。外に出るときは必ず着けるようにって。もし何かあったときはこれを見せればうちの関係者だって証明できるから。――ねえ聞いてる?」
話を聞いているのかいないのか、ぼんやりとしているリュヴァルトにアネッサは再び怪訝な目を向けた。自身の手をしげしげと眺めているようで、その焦点は指輪に結ばれてはいないようにも見える。
ハッと我に返った青年は取り繕うようにへらっと笑った。次いで指輪の嵌まった右手を掲げてみせた。
「こんな綺麗な指輪をふたつも持つなんてさ、なんかお金持ちになったみたいだなあって。ね?」
「み、ぶ、ん、しょ、う」
「わかってるって大丈夫」
眉間にしわを寄せて睨むアネッサに構うことなくリュヴァルトはにこにこ笑みをこぼす。そのあまりの能天気さに毒気を抜かれ、アネッサは盛大に嘆息した。
「……で? それはどうなの? 内容に問題なかった?」
「へ?」
リュヴァルトはきょとんとした。彼女の視線が自分の手元にある本に注がれているのを知ると、明るくあははっと笑った。敢えて明言は避け、笑うことで返事に代えたようだ。
だがアネッサに溜息をつかせるにはそれで十分だった。開かれたページは始めから全く変わっていない。
「……リュー。あんたウィルと一緒に勉強しておいで。今ならちょうど読み書きの先生が来てるはずだから」
「えっウィルと!?」
「そうウィルと。読み書き、苦手なんでしょ? 基礎だけでもちゃんと教わった方があんたのためだと思う」
アネッサがほとほとお手上げ状態でそう言うと、リュヴァルトは不満も露にえーと声を上げた。




