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空いた時間(読み切り)

作者: San
掲載日:2026/10/11

二週間ぶりに、学校へ行くことになった。


 朝、目覚ましが鳴ったとき、しばらく布団の中から出られなかった。


 眠かったからではない。


 学校へ行く。


 そのこと自体が、妙に遠い出来事のように思えたからだ。


 二週間。


 たった二週間しか休んでいない。


 カレンダーを見れば、それほど長い期間ではない。


 けれど、毎朝同じ時間に起きて、同じ道を歩いて、同じ教室で授業を受けるという生活から離れてしまうと、その二週間は思っていたより長かった。


 制服に袖を通す。


 久しぶりに着たせいか、少しだけ硬く感じた。


 鏡を見る。


 特に変わったところはない。


 髪も、顔も、制服も、二週間前と同じだった。


「……行くか」


 誰に言うでもなく呟いて、家を出た。


 外の空気は、思っていたより普通だった。


 通学路も変わっていない。


 角を曲がったところにある自動販売機も、信号も、コンビニも、そのままだった。


 二週間休んだからといって、世界が待っていてくれるわけではない。


 当たり前のことなのに、それが少しだけ安心できた。


 駅の前を通る。


 いつもの時間。


 いつもの学生。


 自転車で追い越していく人。


 友達同士で歩いている人。


 その中に混ざりながら、少しずつ学校が近づいてくる。


 校門が見えた。


 そこで初めて、胸の奥が少しだけ重くなった。


 別に、嫌なわけではない。


 ただ、二週間前まで毎日のように見ていた場所なのに、知らない場所へ帰ってきたような感じがした。


 校門をくぐる。


「おはよう」


 誰かがそう言った。


 反射的に振り返った。


 けれど、誰もこちらを見ていなかった。


 別の生徒に向けた言葉だったらしい。


「……おはよう」


 小さく返してから、自分でも少し笑った。


 何をしているんだろう。


 昇降口で靴を履き替える。


 靴箱も変わっていない。


 自分の名前が書かれた場所も、当然そのままだった。


 上履きを取り出す。


 何となく、その瞬間に妙な懐かしさを感じた。


 二週間しか経っていないのに。


 学校というものは、毎日見ていると何も感じないのに、少し離れるだけで妙に懐かしくなるらしい。


 階段を上る。


 二階。


 三階。


 廊下の角を曲がる。


 そして、自分の教室が見えた。


 扉は開いていた。


 中から話し声が聞こえる。


 笑い声。


 机を動かす音。


 椅子を引く音。


 いつもの朝だった。


 そのことに、また安心した。


 教室の前で一度だけ足を止める。


 深呼吸をして、中へ入った。


 何人かがこちらを見る。


 一瞬、静かになった。


 ほんの一秒ほどだった。


 すぐに元の会話へ戻っていく。


「あ」


 声をかけてきたのは、前の席の人だった。


「久しぶり」


「久しぶり」


「もう大丈夫なの?」


「うん」


「そっか」


 それだけだった。


 思っていたより普通だった。


 もっと何か聞かれるのかと思っていた。


 二週間も休んでいたのだから、理由を聞かれたり、心配されたりすると思っていた。


 けれど、誰も深く聞いてこなかった。


 それがありがたいような。


 少し寂しいような。


 自分の席へ向かう。


 机も椅子も、そのままだった。


 鞄を置く。


 そして座る。


 ――やっぱり、ここだ。


 机に手を置いた。


 見慣れた傷。


 机の端にある小さな落書き。


 何度も触ったことのある場所。


 何も変わっていない。


 そう思った。


 そのときだった。


「あれ?」


 机の横に、見慣れない小さな傷があることに気づいた。


 細い線が一本。


 机の側面に入っている。


 指で触れてみる。


 新しい傷のようにも見える。


「……こんなの、あったっけ」


 呟いた。


「何が?」


 隣の席の人が聞いてきた。


「いや、この傷」


「ああ、それ?」


 相手は机を覗き込んだ。


「前からあったよ」


「……前から?」


「うん」


 あっさりと言って、相手は自分の机へ戻っていった。


 前から。


 そうだっただろうか。


 少なくとも、二週間前には気づかなかった。


 でも。


 気づかなかっただけなのかもしれない。


 机の傷なんて、毎日見ていても全部覚えているわけではない。


 そう考えれば、それだけのことだった。


 先生が入ってきた。


「席につけー」


 教室が少しずつ静かになる。


 朝のホームルームが始まった。


 先生は出席を取る。


 一人ずつ名前を呼ぶ。


 いつもの声。


 いつもの順番。


 そして、自分の名前が呼ばれた。


「はい」


 返事をする。


 先生は一瞬こちらを見た。


 ほんの少しだけ眉を上げた。


「……久しぶりだな」


「はい」


「もう大丈夫か?」


「大丈夫です」


「そうか」


 それだけだった。


 黒板に今日の日付が書かれる。


 その数字を見て、二週間前の日付を思い出そうとした。


 けれど、なぜかうまく思い出せなかった。


 二週間前。


 最後に学校へ来た日。


 その日の朝は何をしていた?


 誰と話した?


 何時間目に何の授業があった?


 帰りは誰と一緒だった?


 考えてみる。


 覚えている。


 ……はずだった。


 断片的な記憶はいくつもある。


 教室。


 廊下。


 窓。


 先生の声。


 でも、それらが一本の線にならない。


 まるで写真だけを何枚か渡されて、その間に何があったのか分からないような感覚だった。


「どうした?」


 隣から声がした。


「え?」


「ぼーっとしてたから」


「ああ……久しぶりだからかな」


「二週間だもんな」


「うん」


 そう答えた。


 二週間。


 その言葉を聞くと、少し安心した。


 自分がおかしいわけではない。


 二週間も学校から離れていた。


 だから少し変に感じるだけだ。


 そういうことにしておいた。


 一時間目が始まった。


 黒板に文字が並んでいく。


 先生の説明。


 教科書をめくる音。


 窓の外から聞こえる運動部の声。


 すべてが普通だった。


 普通すぎるくらいだった。


 だからこそ、気になった。


 黒板の右端に貼られている紙。


 以前は、そんなものはなかった気がする。


 白い紙に、何人かの名前が書かれている。


 委員会か何かだろう。


 授業が終わってから確認しようと思った。


 しかし休み時間になると、クラスメイトがその前に集まった。


「これ、今日からだよな?」


「そうそう」


「昨日のうちに貼ったんじゃない?」


「知らない」


 そんな会話が聞こえた。


 昨日。


 その言葉に少し引っかかった。


 自分が休んでいた間の昨日。


 自分の知らない「昨日」が、ここには普通に存在している。


 当たり前のことなのに、妙な感覚だった。


 窓の外を見る。


 校庭では体育の授業をしている。


 笑い声が聞こえる。


 太陽が出ている。


 風が吹いている。


 何もおかしくない。


 なのに。


 自分だけが、ほんの少しだけ違う場所にいるような気がした。


 昼休み。


 弁当を広げながら、隣の席の人に聞いた。


「そういえばさ」


「ん?」


「俺が休んでる間、何かあった?」


「何か?」


「学校で」


 相手は少し考えた。


「別に」


「本当に?」


「うん。普通だったよ」


「……そっか」


「なんで?」


「いや、何となく」


 それ以上は聞かなかった。


 普通。


 その言葉が、今日は何度も出てくる。


 普通だった。


 普通だよ。


 普通にしてた。


 けれど、自分にはその「普通」が分からなくなっていた。


 午後の授業が終わる。


 帰りのホームルーム。


 先生が連絡事項を読み上げる。


 みんなが帰る準備をする。


 椅子を引く音。


 鞄のファスナーを閉める音。


 友達を呼ぶ声。


 いつもの放課後。


 鞄を持ち上げた。


 そのとき、机の中に何かが入っていることに気づいた。


 紙だった。


 折りたたまれている。


「……?」


 自分のものではない。


 そう思いながら開いた。


 そこには、一行だけ書かれていた。


 ――二週間休んだことを、誰にも聞かないで。


 しばらく意味が分からなかった。


 誰かの悪ふざけだろうか。


 そう思った。


 けれど。


 紙の最後に、自分の名前が書かれていた。


 自分の字だった。


 間違いなく。


 何度も見てきた、自分の字。


 ただ一つだけ。


 その紙を書いた記憶がなかった。


 教室には、もうほとんど人がいない。


 廊下から遠ざかっていく足音が聞こえる。


 窓の外では、夕方の光が校舎を照らしていた。


 紙を握ったまま、しばらく動けなかった。


 二週間前。


 学校を休むことになった日。


 その日のことを思い出そうとする。


 やはり、思い出せない。


 いや。


 違う。


 思い出せないのではない。


 何かを思い出そうとすると、その手前で別の記憶が重なってくる。


 まるで、自分の中の誰かが、


 そこから先を思い出させないようにしているみたいだった。


 教室の時計を見る。


もう帰らなければならない。


 そう思って立ち上がる。


 鞄を肩にかけた。


 机の中をもう一度確認する。


 教科書、ノート、筆箱。


 いつも通りだった。



 教室を出る。


 廊下には、まだ何人かの生徒が残っていた。


「じゃあね」


「また明日」


 そんな声があちこちから聞こえる。


 自分も小さく手を振った。


「また明日」


 その言葉を口にしてから、少しだけ不思議な気持ちになった。


 当たり前のように言っていた言葉だった。


 けれど妙に新鮮だった。


 階段を下りる。


 昇降口で上履きを脱ぎ、靴に履き替える。


 外へ出る。


 夕方の空気が、朝より少し冷たく感じた。


 校門を出ると、学校の中から聞こえていた声が少しずつ遠くなる。


 通学路を歩く。


 朝に通った道を、今度は反対方向へ進んでいく。


 コンビニの前を通る。


 信号で立ち止まる。


 自転車が横を通り過ぎる。


 どれも変わらない。


 帰り道に何か特別なことが起きるわけでもなかった。


 友達から連絡が来ることもなかった。


 誰かに呼び止められることもない。


 ただ歩いて、家へ帰る。


 そのことが、今日は妙に心地よかった。


 二週間も学校へ行かなかったせいで、もっと大きな違和感があると思っていた。


 学校へ戻れば、何かが変わっているような気がしていた。


 けれど、一日を終えてみれば、結局いつもの学校だった。


 少し知らない話題があった。


 少し知らないものがあった。


 少しだけ、自分の記憶と違うように感じるものもあった。


 でも、それくらいだった。


 休んでいれば、知らないことが増えて当然だ。


 自分がいなかった時間にも、みんなの生活は続いていた。


 自分が知らない出来事が起きていて、自分が知らない話ができていて、自分が知らないものが増えている。


 当たり前のことだった。


 家が見えてくる。


 朝は少し遠く感じた道も、帰りには短く感じた。


 玄関の前に立つ。


 鍵を開ける。


「ただいま」


 声を出す。


 返事が聞こえる。


「おかえり」



 二週間ぶりの学校は、思っていたほど特別なものではなかった。


 ただ少しだけ懐かしくて。


 少しだけ疲れて。


 そして、久しぶりに戻ってきた日常が、思っていたより普通だった。


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