空いた時間(読み切り)
二週間ぶりに、学校へ行くことになった。
朝、目覚ましが鳴ったとき、しばらく布団の中から出られなかった。
眠かったからではない。
学校へ行く。
そのこと自体が、妙に遠い出来事のように思えたからだ。
二週間。
たった二週間しか休んでいない。
カレンダーを見れば、それほど長い期間ではない。
けれど、毎朝同じ時間に起きて、同じ道を歩いて、同じ教室で授業を受けるという生活から離れてしまうと、その二週間は思っていたより長かった。
制服に袖を通す。
久しぶりに着たせいか、少しだけ硬く感じた。
鏡を見る。
特に変わったところはない。
髪も、顔も、制服も、二週間前と同じだった。
「……行くか」
誰に言うでもなく呟いて、家を出た。
外の空気は、思っていたより普通だった。
通学路も変わっていない。
角を曲がったところにある自動販売機も、信号も、コンビニも、そのままだった。
二週間休んだからといって、世界が待っていてくれるわけではない。
当たり前のことなのに、それが少しだけ安心できた。
駅の前を通る。
いつもの時間。
いつもの学生。
自転車で追い越していく人。
友達同士で歩いている人。
その中に混ざりながら、少しずつ学校が近づいてくる。
校門が見えた。
そこで初めて、胸の奥が少しだけ重くなった。
別に、嫌なわけではない。
ただ、二週間前まで毎日のように見ていた場所なのに、知らない場所へ帰ってきたような感じがした。
校門をくぐる。
「おはよう」
誰かがそう言った。
反射的に振り返った。
けれど、誰もこちらを見ていなかった。
別の生徒に向けた言葉だったらしい。
「……おはよう」
小さく返してから、自分でも少し笑った。
何をしているんだろう。
昇降口で靴を履き替える。
靴箱も変わっていない。
自分の名前が書かれた場所も、当然そのままだった。
上履きを取り出す。
何となく、その瞬間に妙な懐かしさを感じた。
二週間しか経っていないのに。
学校というものは、毎日見ていると何も感じないのに、少し離れるだけで妙に懐かしくなるらしい。
階段を上る。
二階。
三階。
廊下の角を曲がる。
そして、自分の教室が見えた。
扉は開いていた。
中から話し声が聞こえる。
笑い声。
机を動かす音。
椅子を引く音。
いつもの朝だった。
そのことに、また安心した。
教室の前で一度だけ足を止める。
深呼吸をして、中へ入った。
何人かがこちらを見る。
一瞬、静かになった。
ほんの一秒ほどだった。
すぐに元の会話へ戻っていく。
「あ」
声をかけてきたのは、前の席の人だった。
「久しぶり」
「久しぶり」
「もう大丈夫なの?」
「うん」
「そっか」
それだけだった。
思っていたより普通だった。
もっと何か聞かれるのかと思っていた。
二週間も休んでいたのだから、理由を聞かれたり、心配されたりすると思っていた。
けれど、誰も深く聞いてこなかった。
それがありがたいような。
少し寂しいような。
自分の席へ向かう。
机も椅子も、そのままだった。
鞄を置く。
そして座る。
――やっぱり、ここだ。
机に手を置いた。
見慣れた傷。
机の端にある小さな落書き。
何度も触ったことのある場所。
何も変わっていない。
そう思った。
そのときだった。
「あれ?」
机の横に、見慣れない小さな傷があることに気づいた。
細い線が一本。
机の側面に入っている。
指で触れてみる。
新しい傷のようにも見える。
「……こんなの、あったっけ」
呟いた。
「何が?」
隣の席の人が聞いてきた。
「いや、この傷」
「ああ、それ?」
相手は机を覗き込んだ。
「前からあったよ」
「……前から?」
「うん」
あっさりと言って、相手は自分の机へ戻っていった。
前から。
そうだっただろうか。
少なくとも、二週間前には気づかなかった。
でも。
気づかなかっただけなのかもしれない。
机の傷なんて、毎日見ていても全部覚えているわけではない。
そう考えれば、それだけのことだった。
先生が入ってきた。
「席につけー」
教室が少しずつ静かになる。
朝のホームルームが始まった。
先生は出席を取る。
一人ずつ名前を呼ぶ。
いつもの声。
いつもの順番。
そして、自分の名前が呼ばれた。
「はい」
返事をする。
先生は一瞬こちらを見た。
ほんの少しだけ眉を上げた。
「……久しぶりだな」
「はい」
「もう大丈夫か?」
「大丈夫です」
「そうか」
それだけだった。
黒板に今日の日付が書かれる。
その数字を見て、二週間前の日付を思い出そうとした。
けれど、なぜかうまく思い出せなかった。
二週間前。
最後に学校へ来た日。
その日の朝は何をしていた?
誰と話した?
何時間目に何の授業があった?
帰りは誰と一緒だった?
考えてみる。
覚えている。
……はずだった。
断片的な記憶はいくつもある。
教室。
廊下。
窓。
先生の声。
でも、それらが一本の線にならない。
まるで写真だけを何枚か渡されて、その間に何があったのか分からないような感覚だった。
「どうした?」
隣から声がした。
「え?」
「ぼーっとしてたから」
「ああ……久しぶりだからかな」
「二週間だもんな」
「うん」
そう答えた。
二週間。
その言葉を聞くと、少し安心した。
自分がおかしいわけではない。
二週間も学校から離れていた。
だから少し変に感じるだけだ。
そういうことにしておいた。
一時間目が始まった。
黒板に文字が並んでいく。
先生の説明。
教科書をめくる音。
窓の外から聞こえる運動部の声。
すべてが普通だった。
普通すぎるくらいだった。
だからこそ、気になった。
黒板の右端に貼られている紙。
以前は、そんなものはなかった気がする。
白い紙に、何人かの名前が書かれている。
委員会か何かだろう。
授業が終わってから確認しようと思った。
しかし休み時間になると、クラスメイトがその前に集まった。
「これ、今日からだよな?」
「そうそう」
「昨日のうちに貼ったんじゃない?」
「知らない」
そんな会話が聞こえた。
昨日。
その言葉に少し引っかかった。
自分が休んでいた間の昨日。
自分の知らない「昨日」が、ここには普通に存在している。
当たり前のことなのに、妙な感覚だった。
窓の外を見る。
校庭では体育の授業をしている。
笑い声が聞こえる。
太陽が出ている。
風が吹いている。
何もおかしくない。
なのに。
自分だけが、ほんの少しだけ違う場所にいるような気がした。
昼休み。
弁当を広げながら、隣の席の人に聞いた。
「そういえばさ」
「ん?」
「俺が休んでる間、何かあった?」
「何か?」
「学校で」
相手は少し考えた。
「別に」
「本当に?」
「うん。普通だったよ」
「……そっか」
「なんで?」
「いや、何となく」
それ以上は聞かなかった。
普通。
その言葉が、今日は何度も出てくる。
普通だった。
普通だよ。
普通にしてた。
けれど、自分にはその「普通」が分からなくなっていた。
午後の授業が終わる。
帰りのホームルーム。
先生が連絡事項を読み上げる。
みんなが帰る準備をする。
椅子を引く音。
鞄のファスナーを閉める音。
友達を呼ぶ声。
いつもの放課後。
鞄を持ち上げた。
そのとき、机の中に何かが入っていることに気づいた。
紙だった。
折りたたまれている。
「……?」
自分のものではない。
そう思いながら開いた。
そこには、一行だけ書かれていた。
――二週間休んだことを、誰にも聞かないで。
しばらく意味が分からなかった。
誰かの悪ふざけだろうか。
そう思った。
けれど。
紙の最後に、自分の名前が書かれていた。
自分の字だった。
間違いなく。
何度も見てきた、自分の字。
ただ一つだけ。
その紙を書いた記憶がなかった。
教室には、もうほとんど人がいない。
廊下から遠ざかっていく足音が聞こえる。
窓の外では、夕方の光が校舎を照らしていた。
紙を握ったまま、しばらく動けなかった。
二週間前。
学校を休むことになった日。
その日のことを思い出そうとする。
やはり、思い出せない。
いや。
違う。
思い出せないのではない。
何かを思い出そうとすると、その手前で別の記憶が重なってくる。
まるで、自分の中の誰かが、
そこから先を思い出させないようにしているみたいだった。
教室の時計を見る。
もう帰らなければならない。
そう思って立ち上がる。
鞄を肩にかけた。
机の中をもう一度確認する。
教科書、ノート、筆箱。
いつも通りだった。
教室を出る。
廊下には、まだ何人かの生徒が残っていた。
「じゃあね」
「また明日」
そんな声があちこちから聞こえる。
自分も小さく手を振った。
「また明日」
その言葉を口にしてから、少しだけ不思議な気持ちになった。
当たり前のように言っていた言葉だった。
けれど妙に新鮮だった。
階段を下りる。
昇降口で上履きを脱ぎ、靴に履き替える。
外へ出る。
夕方の空気が、朝より少し冷たく感じた。
校門を出ると、学校の中から聞こえていた声が少しずつ遠くなる。
通学路を歩く。
朝に通った道を、今度は反対方向へ進んでいく。
コンビニの前を通る。
信号で立ち止まる。
自転車が横を通り過ぎる。
どれも変わらない。
帰り道に何か特別なことが起きるわけでもなかった。
友達から連絡が来ることもなかった。
誰かに呼び止められることもない。
ただ歩いて、家へ帰る。
そのことが、今日は妙に心地よかった。
二週間も学校へ行かなかったせいで、もっと大きな違和感があると思っていた。
学校へ戻れば、何かが変わっているような気がしていた。
けれど、一日を終えてみれば、結局いつもの学校だった。
少し知らない話題があった。
少し知らないものがあった。
少しだけ、自分の記憶と違うように感じるものもあった。
でも、それくらいだった。
休んでいれば、知らないことが増えて当然だ。
自分がいなかった時間にも、みんなの生活は続いていた。
自分が知らない出来事が起きていて、自分が知らない話ができていて、自分が知らないものが増えている。
当たり前のことだった。
家が見えてくる。
朝は少し遠く感じた道も、帰りには短く感じた。
玄関の前に立つ。
鍵を開ける。
「ただいま」
声を出す。
返事が聞こえる。
「おかえり」
二週間ぶりの学校は、思っていたほど特別なものではなかった。
ただ少しだけ懐かしくて。
少しだけ疲れて。
そして、久しぶりに戻ってきた日常が、思っていたより普通だった。




