1王城文官室の侵入者
王都の中心にそびえる王城は、荘厳で美しく、そして忙しい。日々持ち込まれる膨大な書類が、国の血流のように文官室を通っていく。
その文官室の一角に、今日もきっちり背筋を伸ばして机に向かう若き女性がいた。伯爵家の長女にして、文官として王に仕えるセリーヌ・アシュレイ。
兄二人は家を継いだり補佐をしたりするためそれぞれの職務に就き、彼女は自由に進路を選んだ。貴族の娘にしては珍しく王城勤めを選んだのも、「自分にできることを国のためにしたい」という至極真面目な理由からだ。
真面目すぎて、よく言えば一本気。悪く言えば、融通が利かない。
だからこそ、同僚たちからの信頼は厚い。けれど――恋愛ごとに関しては致命的に鈍い。本人は気づいていないが、そこがまた周囲に妙に可愛がられる理由でもあった。
そんな彼女が今、机に積まれた予算案に赤ペンを走らせていると。
「セリーヌ」
不意に、落ち着いた低めの声が文官室に響いた。
「……殿下?」
顔を上げると、入口に立っていたのは王家の第三王子、カイン・レオニス。学院時代の同級生であり、彼女にとっては不思議な人物だ。苦手でも嫌っているわけではない。ただ、彼はいつも唐突に現れて、唐突なことを言う。
「本日はご執務があるのでは?」
「……君に会いに来た」
「!」
セリーヌの脳裏に、さまざまな予想が駆け巡る。第三王子が文官室を訪れる理由――それはつまり。
「なるほど、私がまとめた予算案の件ですね。すぐに持参いたします!」
「いや、違――」
「他の部署の書類も整理しておきました!殿下のお手を煩わせぬように」
「……(違う。そうじゃない)」
言葉足らずの王子と、受け取り下手の文官。会話は常に平行線だ。
隣の机で仕事をしていた文官たちは、視線を交わし、ひそひそ声を飛ばし合う。
「また始まったな……」
「殿下、毎回直球すぎるんだよ」
「いや、セリーヌ嬢の受け取り方も直角すぎるだろ……」
カインは大股で歩み寄り、セリーヌの机に手を置いた。
「俺は、君が――」
「……!?私が?私の確認不足で国政に支障が!?申し訳ありません!」
深々と頭を下げるセリーヌ。彼女の脳内では“王子がここまで出向く=重大な不手際”という方程式が成立していた。
カインはため息をつく。
「……違う。俺はただ……」
だが、彼の言葉は最後まで届かない。セリーヌはすでに机から分厚い書類を抱えて立ち上がっていた。
「至急、修正案を作成いたします!殿下、どうか今しばらくお待ちを!」
「……(待つのは俺の恋の進展なんだが)」
心の中でぼやくカインの姿を見て、同僚文官たちは「お可哀想に……」と目を伏せるのだった。
◇
その日の夕刻。
王城の奥深く、豪奢な部屋の円卓に王族が集まっていた。
「さて――第一回、カインとセリーヌのラブラブ大作戦、反省会を始めようか」
議長役を務めるのは第一王子であり王太子のアレクシス。
彼の隣には穏やかな笑みを浮かべる第二王子レオルド、そして退屈そうに椅子に寄りかかる第四王子ユリウス。さらに末席には、優美な王妃までもが加わっていた。
「……また失敗だったか」
「ええ。セリーヌ嬢は“君に会いに来た”を、完全に業務上の要件だと受け取りました」
レオルドが苦笑まじりに報告する。
「ふむ。あの真面目さは美点だが、恋愛となると最大の障害だな」
アレクシスは頷き、卓上の羊皮紙にさらさらと書き込む。そこにはすでに「第一回大作戦・失敗」と赤字で大きく記されている。
「兄上たちも母上も、よくまあ暇ですね」
ユリウスがあきれた声を上げる。
「暇じゃないわよ。国家の一大事よ」
王妃はうっとりと目を細める。
「だって、セリーヌ嬢は本当に愛らしい子だもの。あの子が義娘になったらと思うと、母として胸が躍るわ」
「……母上は前のめりすぎでは」
ユリウスの冷静な突っ込みにも、王妃は笑顔を崩さない。
「それに、カインが不器用すぎるのも問題だわね。せめて言葉をあと十語増やせば伝わるのに」
「無理だな」
ユリウスが即答すると、兄たちはそろって苦笑する。
「では次の作戦だ」
王太子が手を打った。
「舞踏会に仕掛けを作る。人は踊りながら書類の話はできないはずだ」
「なるほど、それは良い」
「問題は……セリーヌ嬢が踊りながら経済学の講義を始めないか、だな」
「……あり得る」
一瞬の沈黙の後、全員が深刻そうに頷いた。
こうして、「第2回カインとセリーヌのラブラブ大作戦」へ向けて、王家の陰謀は進んでいくのであった。
当のカイン本人が、何も知らぬままに――。