第8話 沈黙の王冠 ―月下の打ち合わせ
『沈黙の王冠 ―月下の打ち合わせ―』
静まり返った王宮北庭。夜風にそよぐ花弁の音さえも、まるで何かを憚るように控えめだった。
リエージュ=ブリュッセルは、庭の奥にある古びた井戸の前でじっと佇んでいた。手には、上質な羊皮紙と銀の封蝋を用いた手紙。宛先は、現ネーデルランド国王・アルセリオス。
そしてその傍ら、彼女の影から現れるように、ノワールが姿を現す。
「……遅れてすまない、リエージュ。思ったより、王宮内の警戒が強化されていた」
「いいえ。来てくれてありがとう、ノワール様」
リエージュはほっと息をつき、井戸の縁に腰を下ろした。ノワールもその隣に座り、二人はしばし、夜の静寂に耳を傾けた。
「準備はできた?」
ノワールの問いに、リエージュは手紙を掲げて答える。
「ええ。王宮に正式な謁見を願う文面と……あなたが本当に“兄”である証を添えました」
ノワールは目を細め、ゆっくりと頷いた。
「……書いたのか、あの井戸の話を」
リエージュが微笑を浮かべた。
「この井戸の下には、かつてノワール様とアルセリオス陛下がお忍びで掘り進めた“秘密の通路”があると。兄弟で王宮を抜け出しては、町の市で焼き林檎を買いに行ったこと……覚えていますか?」
「忘れるものか。あのとき、兄弟のふりをして林檎を奪い合い、衛兵に見つかりかけて一緒に逃げた」
「そのときに言った言葉を書きました。“王冠を譲るなら焼き林檎三個”と」
ノワールは、ふ、と息を漏らすように笑った。
「……あれを覚えているのは、俺とアルセリオスだけだ。あの頃の俺たちは……まだ、兄弟だった」
リエージュは手紙を大事そうに抱えた。
「この手紙が通れば、正式な謁見の場が設けられるはずです。公の儀式ではなく、陛下の“個人的な”応答となる。そうなれば、真実を告げる機会が得られる」
ノワールの目が夜の光を映して淡く輝いた。
「だが、俺が生きていると知れれば、それはネーデルランド王家の根幹を揺るがすことになる。……あいつは、それでも俺に会ってくれるだろうか」
「それは……アルセリオス陛下のお心次第です」
リエージュは静かに言い、そして決意を込めた声で続けた。
「でも、私は信じたい。あのとき、あなたを“眠らせた”ことで、陛下はずっと贖罪の中にいたのだと。……そして、兄であるあなたの言葉を、二度と拒まないと」
ノワールは目を伏せ、しばらく沈黙した。
やがて、静かに言った。
「俺が目覚めるには、あいつの意志が要る。俺の魂は……まだ、戻る道の途中だ」
リエージュは、王印の入った封筒をノワールに手渡し、そっと告げた。
「この手紙は、今夜、王宮の正使を通じて送ります。……賭けになります。でも、これが最後の鍵」
ノワールはその封筒を見つめた。
「ならば、扉を開けよう。俺も、そろそろ眠りから目を覚まさねばならない」
夜風が吹き抜ける。
長い時を越え、兄弟の物語が再び動き出そうとしていた。




