第7話 国王アルセリオスの懺悔
『沈黙の王冠 ―アルセリオスの懺悔―』
王は玉座に座る。
それが誰に望まれたものであれ、誰に与えられたものであれ――。
静まり返った玉座の間で、ネーデルランド国王アルセリオス・ヴィオールは、一人、月を見上げていた。
王の冠は重く、冷たい。かつて兄がかぶるはずだったそれは、今、彼の頭上でまるで罪の証のように光っている。
「兄上……今日で、あなたが“眠って”二十年になります」
誰もいないはずの空間に、彼は小さく呟いた。
玉座の後ろには一枚の古びたタペストリーがある。
人は気づかぬが、その裏にはひっそりと造られた小さな聖堂があり、そこに“彼”の遺体――いや、肉体は安置されている。
仮死の儀式。それは古来、王族の血を守るための秘儀であった。
致死に近い状態に一度身体を落とし、その間に外敵や謀反の炎をかわし、再び復活する――
まさに“死を偽る”禁術。
そして、それは王太子ノワール=ヴィオールのために執り行われた。
弟であるアルセリオスの、手によって。
「兄上。あのとき、私は愚かでした。王宮に渦巻く暗い流言、貴族たちの嫉妬、王妃派の陰謀……それらすべてから、あなたを守るために、“眠り”を選ばせた」
「ほんの一時の避難のつもりでした。あなたが再び目を覚まし、すべてが静まったあと、堂々と王位に戻ってくると信じていた……」
けれど、それは叶わなかった。
ノワールが仮死に入る直前、秘薬を調合した従者が、密かにすり替えられていたのだ。
王妃派の工作か、それとももっと別の力が働いていたのか――
結果、ノワールの魂は戻る道を失い、肉体は歳を取らぬまま、25歳の姿のまま、時を止めた。
「……あなたは、美しいままでした。今も変わらず。……変わらないからこそ、痛いのです。
私だけが、こうして老いていく。国の重みを背負い、誰も信じられず、あなたの幻影に縋って生きてきた二十年――」
アルセリオスは、王座から立ち上がり、ゆっくりと歩みを進める。
彼は、タペストリーの裏へと続く隠された扉を開けた。
そこは、王宮の誰も立ち入ることのない聖域。
透明な水晶の棺の中で、ノワールはまるで眠るように横たわっていた。
凛々しい眉、穏やかな瞳の輪郭、硬すぎず柔らかすぎない騎士の肉体。
それらはまるで、時間に封じられた美術品のようだった。
「兄上。あなたの肉体はまだ生きています。心臓は止まり、呼吸はない。だが、肉体は腐らず、朽ちない。……神はまだ、あなたを連れて行ってはいない」
「それなのに私は……今まで、目を背け続けてきた。あなたを目覚めさせる術を探し続けることが、罪のように思えたからです。私には、その資格がないと……」
アルセリオスは、棺の前で跪いた。
玉座に座る王の姿ではない。
それはただの、弟の顔だった。
「私は……あなたを殺したのです、兄上。あなたを永遠に“止めた”。あなたが生きていたなら、この国はもっと良い方向に進んでいたでしょう」
「民も、貴族も、軍も……皆、あなたを慕っていました。私の即位は、結局“穴埋め”にすぎなかった」
彼は拳を握り締めた。
「……私はあなたが羨ましかった。美しく、賢く、寛容で、誰からも愛される存在。兄でなければ、あなたは神になっていたかもしれない。……私は、あなたの“代用品”だと知っていました」
涙が、王の頬を伝う。
誰も見ていない。誰も知らない。
「……私の統治は、民にとってどう映っているのでしょうか。あなたなら、もっと上手くやれた。私のやり方では、この国はもう……限界なのかもしれません」
アルセリオスは懐から一通の手紙を取り出した。
それは、王宮の事務官であるリエージュ=ブリュッセルがノワールの真相に近づいているという配下からの報告書だった。
ノワールの名を騙る“幽霊”と契約し、彼の死の真相を追っていると記されていた。
その文面に、かすかな希望が灯っていた。
「……もしかすると、あなたは戻ってこようとしているのかもしれない。魂が、再び肉体へと――」
王は、ペンダントをそっと取り出した。
それはノワールが生前、肌身離さず持っていた証――兄弟の契りの印だった。
「兄上……もし、もしあなたが目覚める時が来たら――どうか、私を裁いてください。王としてではなく、弟として、私を責めてください」
「……そして、あなたの国を取り戻してください。ネーデルランドを、“兄上の国”に」
沈黙の棺に向かって、アルセリオスは深く頭を下げた。
それは、王の礼ではなかった。
それは、弟の、贖罪だった。
長い長い、時の沈黙が過ぎる。
やがて、アルセリオスは静かに立ち上がると、棺に向かって最後に一言、囁いた。
「――おかえりなさい、兄上。いつでも、迎える準備はできています」
そして彼は、再び扉を閉ざした。
月明かりは、棺の中のノワールにそっと降り注いでいた。
それはまるで、王ではなく“兄”としての愛が、彼を照らしているようだった。




