第6話 ノワール……これは、あなたの――記憶
『囁きと契約 ―沈黙の王子―』
月の光が、水面に浮かぶペンダントを照らしていた。
リエージュ=ブリュッセルはそれをそっと拾い上げると、濡れたままの手で胸元に抱いた。
「ノワール……これは、あなたの――記憶?」
ペンダントに触れた瞬間、またしても眩い光が迸り、世界が反転する。
それは幻ではなく、まるで現実に引き込まれるような錯覚だった。
気づくとリエージュは、王宮の奥深く――誰も知らぬ部屋の中に立っていた。
その部屋は、まるで神殿のように静謐で荘厳だった。中央には円形の水槽があり、清水が絶え間なく循環している。その中に――青年が眠っていた。
蒼銀の髪がゆらめき、まるでただ眠っているだけのように穏やかな顔。
ノワール。その名で呼ばれる幽霊の青年が、そこにいた。
「ここが……あなたの“本当の眠りの場所”?」
まるでそれを肯定するかのように、ペンダントが微かに震えた。
そして、リエージュの視界にもう一つの映像が流れ込んでくる。
――かつて、王国には正妃のほかに一人、正式な身分を持つ側室がいた。
その側室は高貴な血を引く女性であり、王の寵愛を受けて第一子を授かった。生まれた男児は、名をノワール=ヴィオール。
「……あなたは、第一王子……?」
リエージュが息をのむ。
その記憶は静かに続いた。
ノワールは幼い頃から賢く、穏やかで、弟である第二王子――現国王アルセリオスとも、深い兄弟愛で結ばれていた。
王族としての威厳を持ちつつ、民に親しまれる気質で、臣下の間では次期国王として高く評価されていた。
だが、それこそが運命を狂わせた。
「あの者が王になれば、正妃の立場は薄れる。側室の子などに、王座を渡すつもりか」
「血統がどうあれ、あの者に民心が集まるのは危険だ」
王宮内に渦巻く貴族たちの陰謀。
それはやがて、ノワールの命を脅かすものとなった。
弟アルセリオスはそれを察し、兄を守るため、ある手段を取った。
それが――“死と復活の儀”。
古い王家の秘儀に従い、仮死状態に入ることで命を欺き、陰謀の網をすり抜ける策だった。
すべては一時の逃避。そして、騒動が収まった後に復活するはずだった。
だが、その儀式は裏切られた。
薬に細工が施され、ノワールは本来の時を超えて――“永遠の眠り”へと閉ざされた。
弟王子アルセリオスは、兄の仮死を止められなかった。
深く悔い、王に即位した後も、ノワールの体を水晶の眠りに入れ、大切に王城の聖域に保管し続けた。
いつか――目覚める日を信じて。
リエージュの頬を、静かに涙が伝った。
「あなたは……国を守るために、自ら眠ったのね……」
そして、今。
ノワールの魂は、王城を彷徨い、偶然リエージュと出会った。
いや――偶然ではない。きっと何かに導かれて。
そう思わずにはいられなかった。
「でも……なぜ、今あなたは目覚めたの?」
リエージュが問いかけると、遠くから微かに声が響いた。
『……きっかけがあった。君だ、リエージュ』
振り返ると、そこにノワールの幽霊が立っていた。
その姿は、どこか現実に近く、以前よりも輪郭がはっきりしている。
「私……?」
『君が契約を持ちかけた夜。君の“願い”が、俺の意識を引き戻した。誰かに必要とされる――その記憶が、俺を呼び起こしたんだ』
ノワールはゆっくりと水槽の中の“自分”を見下ろす。
『……俺の体は、まだ生きている。けれど魂が戻らなければ、目覚めることはできない』
「魂を戻すには……?」
『いくつかの“鍵”が必要だ。この王宮に隠された記憶と証。俺が生きていたという痕跡。君の助けが必要だ、リエージュ』
リエージュは、震える手で胸元のペンダントを握った。
「わたしも……助けてほしい。フランデとゲントラの真実を知りたい。その先に、答えがある気がするの」
ノワールは微笑み、静かに頷いた。
『では、契約は継続だ。俺の魂を戻すため、君の痛みの意味を知るため――共に進もう』
リエージュは、涙を拭って立ち上がった。
池のほとり。冷たい風が吹いていたが、彼女の中にあったのは、凛とした決意だった。
「この国の真実を暴く。それが、わたしたちの契約」
そして、夜が再び静寂を取り戻す。
だが、二人の物語は、ようやく動き出したばかりだった――。




