第5話 フランデとゲントラが、何をしていたのか
『囁きと契約 ―虚飾の仮面―』
三日後の夜、王宮はひっそりと静まり返っていた。昼の喧騒とは打って変わり、石造りの回廊に響くのは風の音と、遠くで鳴く梟の声のみ。
リエージュ=ブリュッセルは再び中庭の井戸へと足を運んでいた。手には、あの日見つけたブローチを握りしめている。
約束の時間より少し早く着いたが、それでも彼女は落ち着いていた。時間を誤ることなど、彼女にはあり得なかったからだ。
そして、まるでその思考を読んだかのように、空気がわずかに揺れた。
「……やはり、来ていたか」
月光の影に溶けるように、ノワールが現れた。相変わらず涼しげな表情だが、その目の奥に、何か確かな怒りの色が宿っていた。
リエージュは小さく頷いた。
「……聞かせて。フランデとゲントラが、何をしていたのか」
ノワールはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……予想以上に、酷かった。おそらく君の想像をも、超えている」
リエージュの指が、無意識にブローチを強く握った。
「言って。すべて」
ノワールは、語り始めた。
あの日、彼が潜んでいたのは西棟の応接室。フランデ=アントワープはゲントラ=ブルージュと、二人きりでいた。
「ねえ、本当にわたしでよかったの?」
甘えた声でそう聞いたゲントラに対し、フランデは笑みを浮かべた。
だが、その笑みには誠意も愛情もなかった。ただ、自分の“顔”を見せびらかすような、虚飾の微笑み。
「君で“ちょうどいい”のさ、ゲントラ。お前は物分かりがいいし、俺を疑ったりしない。おまけに、親も金持ってる。……都合がいい女って、貴重だよ」
ゲントラの顔がこわばった。
「……都合、って」
「はは、怒るなよ。可愛いって言ってるんだぜ。第一、お前は黙って俺の腕にすがってればいい。リエージュみたいに、つまらん理屈を押し付けたりしないだろ?」
リエージュの名が出た瞬間、ノワールの目に閃光のような怒気が走った。
「リエージュ……あいつ、俺に惚れてたくせに、結婚まではダメだって拒んできたんだ。身持ちが堅いんじゃない、“自分を安売りしない”つもりだったらしい。笑えるだろ?」
「だから、婚約を破棄したの?」
「当然だろ? 欲しいものが手に入らないなら、他を探すだけさ。女なんて、顔と家柄でいくらでも寄ってくる。俺の顔、鏡で見たことあるか? これだけ整ってると、貴族女たちなんてすぐ落ちるんだよ」
フランデは自信満々に笑っていた。醜悪なほどに、己の“魅力”に酔っていた。
「でも……君と正式に結婚する気はない。いずれ、もっと上の貴族の娘と結婚するさ。侯爵家か、できれば公爵家の次女あたり。政略も悪くない。俺が次に狙ってるのは、セラフィナ公爵家の娘だ。お前には……その間の“慰め役”を期待してる」
ノワールは、そこで話を止めた。
リエージュの顔は、静かに、だが確かに引きつっていた。だが彼女は、涙をこぼさなかった。ただ、口元を少しだけ歪め、冷え切った声で言った。
「……なるほど。あの人は、そういう人間だったのね」
「リエージュ。君は、あんな男に何かを渡す必要はなかった。君の誇りも、感情も、あいつには理解できない」
リエージュはしばし目を閉じ、過去の記憶を振り返っていた。
彼に優しくされた日々、微笑まれた舞踏会の夜、手を取られた月下の散歩道。すべては“仮面”だったのだ。
「……あの人、わたしが“手に入らなかった”から、腹いせに他の女を選んだのね。ゲントラも、愚かだわ。愛されてるつもりで、ただの道具」
「その通りだ。君は決して間違っていない。……むしろ誇るべきだろう。あんな腐った男に染まらなかった自分を」
リエージュはそっと、ノワールに見せたブローチを差し出した。
「これ、あなたの記憶の断片だと言ってたわね。次は、あなたの真実を明らかにする番よ。私はあなたの“取引相手”なんだから」
ノワールは少し目を細め、穏やかに笑った。
「……ありがとう。君と出会えて、よかったと思ってる。俺が“誰だったのか”を、今度こそ知りたい」
リエージュはふっと微笑んだ。
「じゃあ、次は“水”のある場所を調べてみるわ。あなたの体があるかもしれない場所、王宮の北庭に池があるの。今は誰も近づかない、昔の護衛訓練場跡。そこなら、何か残ってるかもしれない」
ノワールは頷いた。
「三日後の夜、またここで会おう」
「ええ。……約束よ」
月は、いつしか雲間から顔を出し、ふたりを淡く照らしていた。
契約は、静かに深化していく。過去の痛みと、偽りの仮面の奥に、真実の夜が迫っていた。
リエージュの心に、怒りも、悲しみももうない。
あるのはただ――“自分を踏みにじったもの”に対する、静かな決着の意志だった。




