第4話 囁きと契約 ―水の記憶と三日の約束
『囁きと契約 ―水の記憶と三日の約束―』
静けさが戻った王宮の中庭に、夜風が緩やかに吹いていた。
リエージュ=ブリュッセルと、名もなき幽霊の青年――いや、彼女が名づけた「ノワール」は、井戸を挟んで向かい合っていた。
契約は交わされた。
リエージュはノワールの失われた「体」を探し、ノワールは彼女に「真実の囁き」を届ける。
「……で、ノワール。あなたの体はどこにあるの?」
リエージュがふと、井戸の水面を覗き込みながら尋ねた。
ノワールは少し視線を泳がせる。
「正直に言えば、はっきりとは思い出せない。けれど……水が関係している気がするんだ」
「水?」
「そう。感覚の断片に、冷たい水の中に沈む感触がある。音もない、光もない、深い深い場所だった。だから、たぶん湖か……川の底かもしれない」
リエージュは顎に手を当て、思案に沈む。
「王都近郊で、“水にまつわる場所”といえば、いくつかあるわ。神殿の聖水の泉、裏庭の管理されてない噴水……それと、王宮の東区画にある古井戸。あとは、王宮外の『忘れられた庭園』の沼地も……」
「君は、よく覚えてるんだな。そんな場所のことまで」
「当たり前でしょう。伯爵令嬢として育ったからには、王宮内外の地理くらい把握しているわ。知らないと、舞踏会の誘導すら満足にできないもの」
そう言ってリエージュは、スカートの裾を直しながら立ち上がった。
白銀の月明かりが、彼女の金の髪にやわらかく差し込む。
「……幽霊に『体を探して』なんて頼まれる日が来るとは思わなかったけれど」
ノワールも、井戸の縁から腰を上げた。
彼の姿は月光に透けるように揺らぎながらも、リエージュの前では不思議と「輪郭」を保っていた。
「君がこの契約を選んでくれたこと、俺は感謝してるよ。何か“意味”がある気がする。君と出会ったことに」
「……そうね。わたしも、あなたに会って……ようやく、前に進める気がしたの」
「君は、まだ傷の真ん中にいるように見える」
「だからこそ、確かめたいのよ。あの二人が何を思って、何をしているのか。わたしの人生の一部を、どう扱っているのか。それを知らずに忘れるなんて、絶対にできない」
ノワールは静かに頷いた。
「君の願い、必ず叶えるよ。あの男と女が、どんな言葉を交わし、どんな目で互いを見ているか……すべてを見届けて、君に届けよう」
リエージュは冷たく微笑んだ。
「……その報告、楽しみにしているわ」
風が、ふたりの間をそっと吹き抜けた。
リエージュは、胸元から小さな懐中時計を取り出して、月の下で確認する。
「今夜は、もう時間がないわ。巡回兵に見つかるのも厄介だし、王妃の侍女にでも見られたら、面倒な噂が立つ」
ノワールは、霧のように姿を薄めながらも、その声だけはしっかりと残していた。
「では、次に会うのは三日後の夜、この場所でいいか?」
「ええ。三日後の夜、同じ時刻にここで。あなたはそれまでに情報を集めて。私は……王宮の水に関わる場所を調べる」
「ありがとう、リエージュ。……君のその決意、見失わないようにするよ」
リエージュは背を向けた。
ゆっくりと歩きながらも、足音は迷いのない硬質な響きを放っていた。
(三日後……)
彼女の中には、不安も怒りも悲しみも、もうなかった。
あるのはただ、知るという“覚悟”と、失われた何かを取り戻すための“意志”だけ。
彼女は振り返らずに、夜の王宮を去っていった。
月はその背中を照らし続け、まるで未来の行く末を見守るように、そこに浮かんでいた。
三日後。
再びふたりはこの井戸で出会う。
そのとき、ノワールは何を告げるのか。
リエージュは、どこまで“王宮の水”に近づけるのか。
静かなる契約は、ただの取引ではなかった。
やがて、ふたりの運命と王宮の闇を絡め取り、過去と現在、そして“死の真実”までも暴き出す鍵となる。
それを、このときのリエージュはまだ知らなかった――。




