第3話 リエージュ、卒業式に婚約破棄される!
『薔薇の凋落 ―卒業式、そして婚約破棄―』
春の陽光が降り注ぐ王立アカデミーの大講堂は、咲き誇る薔薇のような祝福と緊張に包まれていた。
今日、リエージュ=ブリュッセルは王立アカデミーを卒業する。
王都の名門、ブリュッセル伯爵家の令嬢。誰よりも優秀で、誰よりも美しく、品格と気高さを併せ持つと賞賛され続けた少女は、今、堂々と卒業生席の中央に座っている。
背筋を正し、唇には完璧な笑み。
伯爵令嬢としての誇りを宿したその姿に、誰もが目を奪われた。
──そして、彼女にはもうひとつの祝福があった。
フランデ=アントワープ。
北部の名家・アントワープ伯爵家の嫡男。
彼との婚約は、政略でありながらも、リエージュにとって特別な意味を持っていた。
本気で、愛していた。
あの人の優しさに触れるたびに、政略ではないと信じたくなった。
彼となら、未来を歩いていけると思っていた。
だから今日という日は、彼とともに「公の場に出る」初めての機会でもあった。
彼が見ている――そう思うだけで、胸が高鳴った。
「次に、卒業生代表による答辞――」
司会が読み上げると、リエージュは立ち上がった。
舞台へと歩み出す。
白いドレスが揺れ、薔薇の香りを纏いながら、彼女は一歩ずつ壇上へと上がっていった。
観衆が静まり返る。
国王の甥、魔法学院長、諸侯の面々が見守るなか、彼女は紙を開いた。
「――わたしたちは今日、学び舎を旅立ちます。友と競い合い、支え合い、時に涙し、時に笑い合いながら、未来への礎を築いてきました」
その声は澄んでいて、朗々としていた。
まさに貴族の娘の鑑。誰もが、その言葉に聞き入った。
だが、その時だった。
「……失礼します!」
講堂の扉が突然開き、男が駆け込んできた。
「え……?」
リエージュの声がわずかに揺れた。
駆け込んできた男――フランデだった。
場がざわめく。
彼は婚約者としての来賓席にいたはず。なぜ壇上に――?
フランデは壇上に上がり、リエージュの横に立った。
「……フランデ?」
困惑の声。
彼はその場で一礼し、観衆に向かってこう言った。
「皆さまの前で、お話ししたいことがあります」
「やめて……いまは、式の最中よ……!」
リエージュは必死に小声で止めた。だが、彼は首を横に振った。
そして――
「リエージュ=ブリュッセル嬢との婚約を、本日をもって破棄いたします」
時間が止まった。
会場の誰もが、言葉を失った。
「……な……に……?」
リエージュの手から、答辞の紙がはらりと舞った。
目の前の現実を、理解しきれないまま、震える唇が何度も言葉にならない音を繰り返す。
「新たに想いを寄せる女性と、将来を見据えたいと考えております。その方は――ゲントラ=ブルージュ男爵令嬢です」
講堂全体がざわめきに包まれる。
「男爵令嬢……?」「あの舞踏会で見た……」「まさか、本当に――」
リエージュは視界が揺れた。
頭の奥が熱くなり、手足の感覚が遠のいていく。
「ふ……フランデ、わたし……どうして……?」
答えは返ってこない。
彼は、彼女を見ようともしなかった。
「こんな……みんなの前で……こんな……」
震える声。脚が崩れそうになる。
何か支えがなければ、立っていられなかった。
「わたし、ずっと信じてたのに……」
ひとすじ、涙が頬を伝った。
「わたし……あなたのこと、本気で……」
唇をかみしめる。嗚咽が漏れそうになるのを、必死で押し殺した。
だが、涙は止まらない。
「誰の前でも泣かないって、決めてたのに……」
王宮の重臣たちが動き出し、式の中断が告げられる。
フランデはそのまま会場を去っていった。
リエージュに一言の謝罪もなく、振り返りもせずに。
騒然とする会場の中、リエージュはただ、泣いていた。
貴族としての矜持も、少女としての誇りも、すべて打ち砕かれて。
その日の式は、「前代未聞の破棄劇」として、後に語り継がれることになる。
王立アカデミー史上、最も華やかで、最も残酷な卒業式。
そして、リエージュ=ブリュッセルは――それから数日後、王都の社交界から姿を消した。
王宮で住み込みで事務官として働き始めていた。夜ごと、月を見上げては静かにこうつぶやく。
「本当に……幸せになれるのかしら、あなたたちは」
その胸の奥に、かつて感じた愛はもうなかった。
代わりに残ったのは、深い傷と、答えを求める鋭い視線。
そしてある夜、月の光の下。
リエージュは、幽霊の青年と出会う。
自分を裏切ったあの二人が、本当に「幸せ」なのか。
その真実を暴くため、そして、二人に復讐するために、ひとつの静かな契約が、結ばれる。