第2話 幽霊との契約
『囁きと契約 ―リエージュの条件―』
翌日の深夜、月はまるで昨日の続きを知っているかのように、同じ位置に浮かんでいた。
王宮の中庭。石造りの井戸の縁に腰かけたリエージュ=ブリュッセルは、細い足を組んで、冷たい夜気に包まれていた。
「やっぱり……来てしまったわね、わたし」
昨日の出来事は夢か幻か、それともただの夜の戯れだったのか――そう思っていた自分を、リエージュは少し笑った。
「……来てくれたんだな」
月の光に溶けるように、青年が現れた。
あいかわらず整った顔立ち。だが昨日よりも、どこか生気を帯びているようにも感じた。
「来ないと思ったかしら?」
「思った。だが、来てくれて嬉しい」
リエージュは立ち上がり、彼の前に進み出た。
「さっそく本題に入るわ。あなたの“体”を探す協力をしてあげてもいい。でも、わたしにも条件があるの」
青年は頷いた。
「聞こう。君の条件を」
「――情報が欲しいの」
「情報?」
「そう。あなたなら簡単に手に入るでしょう? だって幽霊なんだから、誰にも気づかれず、貴族たちの会話に耳を傾けられる」
青年はしばし黙ったまま、リエージュの瞳を見つめていた。
「……誰の、情報だ?」
「二人。フランデ=アントワープ伯爵家の令息、そして……ゲントラ=ブルージュ男爵令嬢」
その名を口にした瞬間、リエージュの瞳に一瞬だけ憎しみが宿った。
「なるほど……何かあったな、その二人に」
リエージュは口角を歪めた。
「何か、じゃないわ。あの二人が……わたしの全てを壊したの」
言葉に棘があった。
「フランデは、わたしの元婚約者。周囲が羨むほど仲睦まじくて、政略結婚とはいえ、わたしは――彼に、本気で、惚れていた」
青年は静かに耳を傾けていた。リエージュは語り続ける。
「でもね、ある日突然、彼は言ったの。“気になる女性ができた”って。それがゲントラ。男爵家の娘のくせに、王宮の舞踏会で媚を売って、フランデの心を奪ったのよ」
風がそっと吹き抜け、木々の葉がざわめく。
「フランデは優しかった。でもそれは、誰にでも優しいだけ。ゲントラに言い寄られても断れない。馬鹿みたいに、あっという間に婚約を破棄して、彼女の元へ行ったわ」
リエージュは、深く息を吸って吐いた。
「それが一年半前。私は笑って受け入れたの。“伯爵令嬢として当然の振る舞い”だもの。でも……毎晩、誰にも言えずに泣いた」
青年は、言葉を挟まなかった。
「わたしは、あの二人が、何を話してるのか知りたい。どんな顔で、どんな言葉で、お互いを見つめているのか。あのときの私の痛みを、ただの通過点だったかのように笑っているのかどうか――全部、聞きたいの」
「……復讐か?」
「違うわ」
リエージュはきっぱりと否定した。
「復讐なんて、する気はない。ただ――本当に、幸せになれるのかどうか、知っておきたいの。わたしが失ったものに、意味があったのか。それとも……ただ踏み台にされたのかを」
彼女の瞳には、涙も怒りもなかった。ただ、強く澄んだ意志だけがあった。
「それが、あなたへの協力の条件。あなたの体を探す代わりに、フランデとゲントラが何をしているのか、何を話しているのか、すべて報告して。できるでしょう?」
青年は小さく笑った。
「なるほど。王宮に憑く者としては、なかなか有意義な任務だ。君に情報を届ける。それは約束しよう」
リエージュは頷いた。
「まずは、数日で集められる情報から。ふたりがどこで会っているのか、王宮内で関係をどう見られているのか。そして、フランデの“今の感情”を――知りたい」
青年は井戸の縁に腰をかけ、腕を組んだ。
「君は冷静だな。よくも悪くも、貴族の令嬢らしい」
「当然でしょ。王宮で生きていくには、感情で動いてたらすぐに足元をすくわれるわ」
「その通りだ。……なら、契約成立だな。君のために王宮を歩き、彼らの言葉を拾おう。代わりに、わたしの体を探してくれ」
リエージュは手袋を外し、手を差し出した。
「取引成立」
幽霊の青年は、一瞬だけ迷った後、その手に自分の手を重ねた。
冷たいのに、どこか温もりを感じる不思議な感触だった。
そして、夜がまた静けさを取り戻した。
リエージュ=ブリュッセルと、名もなき亡霊の奇妙な契約。
それは、王宮の裏で蠢くもう一つの真実を暴き出す、静かな幕開けだった――