第12話 ノワール様の未来には、相応しい女性がいるわ
『沈黙の王冠 ―想いの終着―』
ノワール=ヴィオールの復活から十日が経った。
王宮は表向き平静を保っていたが、その実、水面下では激しい波がうねっていた。
だがリエージュ=ブリュッセルの心の内にあった波は、それ以上に、静かで、痛かった。
「……終わったのよ」
書斎の窓から、庭に咲き始めた白い百合を見つめながら、リエージュは独りごちた。
自分の役目は、ノワールの魂を呼び戻すことだった。記憶を、心を、そして身体をこの世界に繋ぎ直すこと。
それを果たした今、自分はもう、彼のそばにいる理由などない。
彼は王家の人間。
かつて国の希望と謳われた、王太子。
それに対して、自分は――ただの伯爵家の令嬢。名家ではあっても、王族と肩を並べることは決して許されない立場。
「ノワール様の未来には、相応しい女性がいるわ……」
そう自分に言い聞かせるたび、胸が締めつけられた。
彼が目を覚ました夜のこと。
「アル……セリオス……?」
その名を呼ぶ声の、かすれた響き。
彼の瞳が初めて動き、ゆっくりと焦点を結び、兄を捉えたとき。
……ああ、私は――
あの瞬間、涙を堪えながら笑った自分の心の奥で、何かが壊れていたのだ。
「――私は、ずっと……」
リエージュは掌を重ね合わせた。
冷たい指先が震えているのは、季節のせいではない。
気づいていた。
それなのに、気づかぬふりをしていた。
王家の者を愛することなど、許されない。叶うはずがない。
けれど、それでも。
あの夜、ノワールの指が自分の手をそっと包んだ感触は、まだ消えない。
彼が目覚めた直後、弱々しく、それでも確かな力で、自分の手を引き寄せたあの一瞬――
その時、心のどこかが叫んでいた。
『お願い。行かないで。』
――気づいていたのだ。
いつの間にか、自分の心はノワールに向いていた。
彼の微笑みに、言葉に、触れられるたび、少しずつ、確かに恋をしていた。
そしてその恋は、もはや引き返せないほど深く――痛みに変わりつつあった。
* * *
それから数日後、リエージュはノワールの新たな居城――セフィロスの館を訪れた。
名目は、今後の宰相公職務についての書類整理。だが、彼女の心はまるで定まらなかった。
館は湖畔に面し、静謐に満ちた場所だった。鳥のさえずりと木々のそよぎが心地よい。
書類をまとめ終えたあと、リエージュは早々に帰るつもりでいた。
だが、玄関まで出ようとしたそのとき――
「行くのか」
その声に、足が止まった。
ノワールが、少し乱れた髪のまま、廊下の奥から現れた。
装いは簡素な上着と黒の外衣。けれど、その姿はどこか彼らしい気品を帯びていた。
「……ええ、もう失礼するつもりで」
「用件だけなら、文で済ませばよかったものを」
からかうような口調に、リエージュはわずかに眉を寄せた。
「……ご公務のことですから、直接お話しすべきと」
「嘘だな」
ノワールは一歩、彼女に近づく。
距離が縮まったことで、リエージュは思わず目をそらした。
「……何が言いたいのですか」
「リエージュ」
彼女の名を、優しく呼ぶ。
「どうしても訊きたかった。――君は、もう俺のそばには来ないつもりだったのか?」
その問いは、まっすぐに彼女の胸を貫いた。
「……私は、もう役目を終えました」
「それだけか」
「……私などが、ノワール様のそばにいてはいけない」
「なぜだ?」
「だって……」
リエージュは言葉を詰まらせ、そして静かに口を開いた。
「私は、あなたを……愛してしまったからです」
吐き出すように、それでも震える声で。
彼女の瞳から、熱い涙が一粒、零れ落ちた。
「王家の方を想うなど、許されないことです。けれど、あなたを救いたくて、必死でした。そして……気が付けば、ただ“あなた”を求めていた……」
ノワールは黙って彼女に近づき、その頬に手を添えた。
「俺はもう、王ではない。冠も玉座も捨てた。ただ、“ノワール”として生きたい」
そして、そっと抱きしめる。
「――君が、いてくれなければ、何の意味もない」
リエージュは、驚いたように目を見開いた。
「……え……?」
「君を愛している。気づくのが遅すぎたのは俺のほうだ。……今からでも、君の隣にいたい」
言葉よりも、ぬくもりが真実を語っていた。
リエージュの頬を包むその手は、確かに彼女を求めていた。
「……本当に?」
「本当に、だ」
湖のほとりに風が吹き抜けた。
ふたりの影が、重なり、溶け合う。
リエージュは、ようやく微笑んだ。
「じゃあ……もう、少しだけ、そばにいてもいいかしら?」
「生涯ずっと、いてくれ」
ふたりはそのまま、誰の目も届かない館の静けさの中で、そっと唇を重ねた。
それは、王冠を捨てた男と、祈りを捧げた女の――静かな、しかし確かな約束だった。