第11話 私は王にはなれぬ。いや、なるべきではない
沈黙の王冠 ―譲られた冠の願い―(ノワール視点)
謁見の場に足を踏み入れた瞬間、かすかに息が詰まった。
緞帳で閉ざされた小広間の空気は、まるで深い湖の底のように重く、張りつめていた。
それでも私は、歩を止めなかった。白の法衣は軽く、背にまとわる沈黙よりはずっと穏やかだった。
今日のアルセリオスは、王として完璧だった。
黄金の外套を羽織り、王冠を前にしても揺らぎのない姿勢。だがその目には、私だけが知る、弟としての優しさが残っていた。
「……兄上。今一度問わせてください。貴方はこの王冠を……」
彼の問いかけに、私は目を伏せた。
王冠。手を伸ばせば届く場所にある。
けれどそれを手にすれば、過去の罪も、沈黙も、すべてを“無かったこと”にするようなものだった。
――それだけは、許されない。自分は王になる資格はない。今まで国を守ってきたのは弟なのだ。
私は静かに首を振った。
「要らぬ。私は王にはなれぬ。いや、なるべきではない」
驚く声、ざわめき、困惑の気配。
だが私は、それらを一つも視界に入れなかった。心は、もっと別の場所にあった。
もっと……遠く、もっと静かな未来を、私はようやく見つめ始めていたのだ。
「私は……この国に背を向けて二十年を過ごした。その罪は、償えるものではない。
いまさら王に返り咲いて、誰が納得する? 民も、貴様も、そして……彼女も」
口には出さずとも、心の内でリエージュの名が浮かんだ。
彼女の手を取るには、私はまだ遠すぎる場所にいた。
それでも。
彼女の助けで、私は鎖から解かれた。呪いのような日々に終止符を打てた。
死に損なった者としてではなく、“生き直す”という選択を得た。
――だからこそ、私はここにいる。
「私には……心から愛しい者がいる。かの人と、静かに生きたい。
余生ではない。これからの人生を、“生きるため”にだ」
その言葉に偽りはなかった。
だが、言い終えてから気づく。
――これは、私の中で、告白のようなものだったのではないかと。
リエージュは何も言わなかった。
ただ、あの穏やかな瞳で私を見ていた。
それが余計に、心を締めつけた。
言葉にするには、早すぎる。
けれどもう、自覚してしまった――私は、リエージュを愛している。
アルセリオスの宣言は、それをさらに現実のものにした。
「ノワール=ヴィオール。王家に次ぐ家格を与えます。
貴方には“宰相公”の称号を。爵位はヴィオール公爵家を新設し、世襲とする」
耳に入る歓声も驚きも、どこか遠く感じた。
名誉ある爵位など、私には無用だった。
ただ、これでようやく、彼女と並んで歩ける……そう思いたかった。
「……ありがたい」
私は頭を下げたが、その言葉の先には、王ではなくリエージュの姿があった。
けれど――今はまだ、伝えられない。
今の私には、彼女を迎え入れる屋敷も、居場所もない。
「では兄上、その“彼女”にも、しかるべき護衛と居城を。
城下南のセフィロスの館を、宰相公の邸としましょう。森と湖に囲まれ、騒がしさとは無縁です」
アルセリオスの言葉に、胸が少しだけ軽くなる。
あの静かな森に、ようやく帰る場所ができる。
「……そこは、昔、よく弟と鹿を追った場所だな」
ふいに、懐かしい記憶が浮かぶ。
あのころ、私はまだ何も背負っていなかった。
リエージュと出会うこともなかった。
でも今は違う。彼女を想う自分が、ここにいる。
――リエージュに告げなければならない。
だが、今はまだ、彼女を招くこともできないこの身で、何を言える?
「……もう少し、落ち着いてからだな」
私の口から、誰に聞かせるでもない言葉が漏れた。
リエージュに伝えるなら、せめてあの館に落ち着いてから。
迎える部屋を整え、庭に花を植え、湖畔にベンチでも置いて――
彼女が微笑める場所を、用意してからだ。
焦るな、ノワール。
彼女に言葉を渡すのは、形を整えてからでいい。
今はまだ、その日を迎えるために、ただ前を見て歩くだけだ。
謁見の場をあとにする時、ふと後ろを振り返った。
誰もいない広間には、まだ静けさが残っていた。
まるで、私の胸の奥に生まれた“未来”のように、確かにそこにあった。
リエージュ。
君と過ごす日々を、私はこれから創っていく。
――それから、伝えよう。
心から、君を愛していると。