第1話 井戸の底に眠るもの ―リエージュ=ブリュッセルと真夜中の邂逅
『井戸の底に眠るもの ―リエージュ=ブリュッセルと真夜中の邂逅―』
月の光が石畳に淡く差し込む、王宮の中庭。
ひときわ古びた井戸が、その中心にぽつりと佇んでいる。
「……まさか、本当に来てしまったわね、リエージュ」
金髪に淡い水色の瞳を持つ伯爵令嬢、リエージュ=ブリュッセルは、王宮の侍女たちが語る"井戸の霊"の噂を、鼻で笑っていたはずだった。だが、その夜、どうしても眠れなかったのだ。
『王宮の古井戸には、婚約破棄のショックで身投げした女の霊が出る。真夜中の0時に――』
「馬鹿げてる……はずなのに、気になって仕方ないなんて」
誰もいないはずの深夜の庭に、かつ、禁じられた中庭の井戸まで足を踏み入れた自分の行動に、リエージュは少しだけ顔を赤らめた。
時計の針が、0時を指した。
そのときだった。
「……君は、幽霊を探しているのか?」
背後から、不意に男の声が聞こえた。
リエージュは驚いて振り返る。
月明かりの中に立っていたのは、25歳くらいに見える黒髪の青年だった。軍人のような雰囲気を漂わせながら、制服ではなく、どこか古びた貴族の装束を着ている。
「……っ、誰?」
「それはこちらの台詞だよ。王宮で、こんな時間に井戸を訪れる女性など珍しい」
青年の瞳はどこか寂しげで、だが、まっすぐリエージュを見つめていた。
リエージュは、胸の鼓動を抑えながらも、努めて平静を装った。
「この井戸、幽霊が出るって噂があるの。だからちょっと、確かめに来ただけ」
「幽霊、か……。ああ、確かに出るかもしれないな。たとえば――君のような女性が出会うのに、ふさわしい幽霊が」
「……あなたのこと?」
「やっと見つけたよ……わたしが見える者を」
その問いに、リエージュは瞬きをした。
まるで、自分が見えていること自体が、奇跡であるかのように。青年の声は、淡く揺れていた。
「え? ……え、まさか、あなたって……本当に幽霊なの?」
リエージュが一歩引くと、青年は首を横に振った。
「いや、違う。わたしは“死んではいない”。少なくとも、魂だけはまだこの世界に残っている。……だが、体を失った。誰かが、わたしの体を隠したんだ」
「体を……?」
「この井戸にも、潜った。だが見つからなかった。王宮のどこかにあるはずだ。わたしの、動かぬ肉体が」
言葉の端々からただよう、生々しい死の気配。
けれど、それは“終わった命”というよりも、“終われなかった存在”のように思えた。
リエージュはしばしの間、口をつぐんだ。
「……本当に幽霊じゃないの?」
「君が思っているような、怨念だけで動く亡霊ではないつもりだ。自我も、記憶も、感情もある。だが……人の目には、普通は映らない。君のような者を、ずっと探していた」
「わたし、見えてしまった……のね」
青年は、頷いた。
その表情は、どこかほっとしたようでもあった。
「わたしの名前は……いや、今はまだ言わないでおこう。名前すら思い出せない者に、名乗る資格はないからな」
「……記憶も失ってるの?」
「一部だけ。けれど、確かなのは――わたしは、殺された。王宮の誰かに」
リエージュは息をのんだ。
「王宮の……誰かに?」
「それを確かめたい。そして、もしできるなら、わたしの体を見つけ出してほしい。君のように、わたしが見える者でなければ、探しようもない」
その言葉に、リエージュの理性が警鐘を鳴らした。
これは、とんでもないことに巻き込まれようとしている――
けれど、それ以上に心を惹かれたのは、青年の静かで真っ直ぐな声だった。
助けを求める、魂の叫びだった。
「……どうして、わたしに頼むの?」
「他にいない。見えて、そして、こうして話ができる者は」
そう言われて、リエージュはほんの少しだけ微笑んだ。
興味本位で訪れた井戸。だが、それは運命の出会いだったのかもしれない。
「……だったら。手伝ってもいいわ」
「……本当か?」
「ただし、条件があるの」
リエージュはくるりと背を向けた。そして、ひとこと――
「明日、またここで会いましょう。わたしの条件はそのときに伝えるわ」
青年の姿は、月光の中に静かに溶けていった。
それが、伯爵令嬢リエージュ=ブリュッセルと、名もなき亡霊の出会いだった。
真夜中の井戸に、まだ語られぬ秘密が静かに眠っているとも知らずに。