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久々に王立貴族学院の制服に袖を通すと、まるで制服に錘が入っているかのように重かった。
王立貴族学院が主催したパーティで起こった騒動は、きっと学院中に広まっているだろう。
自室を出ると、紫色のリボンがドアノブにかけられたルカの部屋の扉が見えた。思わず息を飲んでしまう。
「これ以上ここにいたら、何するかわからないよ」
熱のこもった視線に射抜かれながらそう言われて、逃げるように自室に駆け込んだことを思い出す。瞼を閉じると、夜通し触れられた箇所の感触が蘇り眠れなかった。
好きだったと、言われた。
それが家族へ向けるものではないことは、察しの悪いクロエにもわかった。
クロエだって、ルカを大事に思っている。けれどずっと、家族として愛してきたのだ。
「クロエを貰う」と言われた。けれど、血のつながりは薄くとも義姉弟だ。義姉弟同士でなにかあったなどと、殿下との婚約破棄騒動以上に口には出せない。
どんな表情でルカと向き合えばいいのかわからず逡巡していると、自室から出た頃にはすでにルカは学院へ行っていて、朝のうちに顔を会わせることはなかった。
学院へ馬車が到着して降り立った時、潮騒のようなざわめきが何重にもわたって聞こえた。貴族というのは、噂話ひとつが命取りになり、それまでの地位を失うこともある。立ち振る舞いひとつ、言葉一つで揚げ足を取られることもあるのだ。
「――クロエ様だわ」
「ミリア様にいやがらせをしていたというのは、本当かしら」
「殿下との婚約はどうなったのでしょう……」
「ごきげんよう、皆様。お騒がせしていて、申し訳ございません」
王太子妃教育で培った自分至上最高の"愛想笑い"を見せると、ざわめきは一瞬にして止まった。心の中で大きなため息をつく。本音と建前の使い分けは不得手な自覚があった。
「―――クロエ様!」
大きな声で呼び止められて、クロエは表情を崩さぬままそちらを見た。そこには大きく愛らしい瞳をこれでもかというほど潤ませている、ミリア・ハズバンド男爵令嬢の姿があった。
クロエに駆け寄り、クロエの手をとってそこへ涙を一粒落とす。
「ごめんなさい、クロエ様。あんなつもりじゃなかったんです!クリストフ様にもあんなこと言うつもりは……隠しておくつもりだったんです!けれど、この傷を見てクリストフ様が心配して……」
ミリアは肩まである栗色の巻き毛を耳にかけ、見せつけるように頬を出した。そこには鋭利なもので引っ掻いたかのような細い傷が流れ星のように一筋刻まれていた。一度静まったはずの大衆がそれを見て、ざわりざわりとうごめきだす。嫌な雰囲気だ。
「やっぱり、クロエ様があれを?」
「そんな……令嬢の顔に傷をつけるなんて」
クロエはきゅっと唇と引き結んだ。傷の原因は確実にクロエが起因するものではない。けれど今のミリアの言い方では、周囲にはクロエがミリアを傷つけたと勘違いさせるには十分だった。
父は王家にはでまかせだ、でっち上げだと理解してもらったと言っていた。けれど、クロエの脳裏には創立記念パーティの時、誰かに押されて床へ倒れこんだことが浮かび、寒気がした。
広間の床は氷のように冷たく、身を起こしたくても、まるで全身が氷になったみたいで身じろぎすることもできなかった。そんなクロエを大衆は見下していて、誰一人として手を差し伸べるものはいなかった。あのとき、誰しもがクロエを「悪役令嬢」だと思い、クロエであれば傷つけても構わない雰囲気が漂っていた。言いがかりだと反論をしたいのに口の中がカラカラに乾いていて、何も言い出せなかった。
クロエはこういったときの立ち回り方が上手くない自覚がある。正直に言えば不器用なのだ。精神的にも強くない。きっと王太子妃なんて向いていない。それでも両親の期待に応えたくて、ふるまいにも人一倍気を遣ってきた。けれど、大衆の前で、自分よりずっと立場が上である王族に糾弾されただけで、クロエが築きあげてきたものがすべて瓦解してしまったように思えたのだ。今は王族ではなくミリアが相手だったけれど、クロエ以上にクリストフと親しいミリアの言葉は、クロエよりも信用されるような気がした。
「ハズバンド男爵令嬢」
唇を噛んでうつむくクロエの耳によく通る低い声が聞こえて、そちらに視線を動かした。そこには怜悧な表情を浮かべているルカの姿があった。
(―――ルカ、)
声を出そうとしたけれど、やはり喉の奥が張り付いてなにも声は出なかった。昨日の触れあいを思い出して、思わず目を背けうつむく。こつ、こつ、と石畳の上を歩く足音が近づき、うつむいた視線の先にやがてその革靴が目に入った。きっと、隣に立っているのだろう。ルカのいる右半身が熱くて、焼けただれそうになる。
「クロエがいまだ殿下の婚約者であるというのが許せませんか?あなたは側妃として召し上げられる。面倒な公務は正妃であるクロエがすべて請け負うというのに?」
ルカの熱い掌が腰を支え、クロエはエスコートをされて歩き出す。いや、熱いのはクロエの体のほうかもしれない。ルカが触れると、体温が上がってまるで発熱しているかのようだった。
姦しい令嬢たちが、その姿を見て声にならない悲鳴を上げているのが、空気の震えから伝わってきた。婚約者もおらず、公爵家の嫡子として育てられており、かつ見目の美しいルカは女性たちの人気がすさまじい。けれど、そんな女性たちの熱い視線をものともせず、これまでだれか特定の相手を夜会でエスコートすることもなかった。だからこそ、義姉とは言え女性をエスコートするルカの姿は貴重で、悲鳴が上がるのも当然のように思えた。
「どういうことだ?側妃など今まで認められては無かったはずだ。殿下はどうお考えなのか?」
「それはあまりに不誠実ではないのか?」
「一心に尽くされているクロエ様があまりにも不憫では……」
ルカを慕っている女性たちの悲鳴とは別に、貴族令息たちはルカの発言にざわめきだす。
周囲のさざ波のような小声を聞いて、ミリアが目をきっと吊り上げるのが見えた。いたたまれず足が止まりそうになったけれど、ルカが手を引いてくれているので止まることはしなかった。
ミリアとのすれ違い様に、ルカがそっとミリアの頬に手を伸ばす。先ほどとは違い、令嬢たちの張り裂けんばかりの悲鳴は有声となって聞こえた。
ミリアはその麗しいルカの姿に恍惚とした表情を浮かべたけれど、ルカがミリアの傷口を親指で拭うと、表情を硬くした。ルカの指先が触れた部分は、赤い一筋がぼやけてかすれていく。本物の傷であればそんな風にはならないだろう。親指に紅を移しながら、ルカは妖しく笑う。
「頬に紅が付いていますよ。鏡を見ると良い」