ルカ・クラランス 1
僕が初めてクロエに会ったのは、四歳のころだ。
そのころの僕は、正直言ってぼろ雑巾みたいだったと思う。
母は男とまぐわうのが生業で、普段から家にはほとんど帰らない人だった。帰ったかと思えばむせかえるような酒とたばこの匂い。ほとんど愛情などかけられた事はなかった。
けれど時々気が向いた時だけ、僕の頭を撫ぜ、抱きしめながらこういうのだ。
「あなたのお父さんはね、お貴族さまなのよ。きっとわたしの事も、あなたのことも、迎えに来るはずだわ」
赤いルージュを引いた唇が歪んだ笑みを浮かべるのを、やけに鮮明に覚えている。
クラランス家に引き取られたのは運がよかった。母が病魔に侵され床に臥せるようになり、食事に困るようになった頃だった。
僕の父は、クラランス家の末端なのだという。
詳しいことはよくわからなかったけれど、代々クラランス家を継ぐのは、「黒髪と赤い目を持つ男児」に限られているのだという。クラランス家現当主、オスカー・クラランスは子宝に恵まれず、直系の子孫は女児で、家訓に従うと女児は爵位を継ぐことができない。また、分家にも「黒髪と赤い目を持つ男児」は生まれず、困り果てていたころ、分家のそのまた分家、末端の男が数年前に娼婦の女に入れこんでおり、子供をはらませたと聞いて、確かめに来たのだ。
僕は、黒髪と赤目の男児である。
そうして、大金と引き換えに僕は母に売られて、クラランス家の養子となった。
「はじめまして、ルカ。わたしはクロエよ。あなたのお姉さんなの」
はじめて、クロエの事を見たときは、この子は女神の生まれ変わりなのだろうと思った。
彼女の光に透けると菫色になる髪と、アンバー色の優しい瞳は、僕を一瞬で虜にした。
あの日のことは一生、忘れることはないと思う。
「あなたのお姉さんになれてうれしいわ。よろしくね、ルカ」
差し出された手は発光しているかのように白く、なめらかだった。母の痩せて節くれだった手とは違っていた。おそるおそる手を握り返すと、体中に電気がはしったみたいにビリビリした。それは初めての経験だった。
「さあ、お食事にしましょう。お腹がすいたでしょう。クロエはルカに、お部屋をご案内してね」
クラランス侯爵夫人……義母がそう声をかけると、クロエははつらつとした声で返事をした。
「ルカ、こっちよ。あなたのお部屋にいきましょう」
手を引かれて侯爵邸の中を歩く。床に敷かれた絨毯はふかふかして、まるで雲の上のようで歩きにくかった。侯爵邸の中は綺麗に磨き上げられた調度品が置かれ、それまでの住まいとは違い過ぎて驚いた。隙間風が入り込んで寒く、暗くて、じめじめしていたあの家とは違って、照明は淡いオレンジ色で暖かい。
「ここがルカのお部屋よ。そして、この向かいがわがわたしのお部屋なの。さみしくなったらいつでもきていいからね」
廊下を挟んで向かい合ってドアが二つならんでおり、片側にはドアノブにピンクのリボンがかけられていた。その向かいのドアにはパープルのリボンが結ばれている。きっと、クロエが用意してくれたのだろう。
クロエは優しく、何も知らない僕のよき先生となってくれた。
ナイフやフォークの使い方、字の読み方や書き方だけでなく、人の肌のぬくもりや、幸せを一身にあたえてくれた。
「クロエ、今日はこの本を読んで?」
僕が甘えると、クロエは微笑んでくれた。
本当は何度も繰り返しクロエが読んでくれたおかげで、クロエに読んでもらわなくても頭の中にその本の内容は入っていたけれど、クロエの優しい声が聴けるから。
クロエは嫌がらずに何度も同じ本を読んでくれた。
頬を寄せ合って同じ本を見て、クロエの甘い匂いを近くで感じている瞬間がなにより幸せだった。
僕は四六時中クロエについて回り、クロエもそれを受け入れ、公爵夫妻からもほほえましく受け入れられていたころ、人生で一番の幸せな期間だったと思う。