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翌日、学院へ登校したけれど、いつも通りの光景に見えた。父からは正式に婚約破棄を王家に申し入れしたという事で聞いていたけれど、公になっていない以上こんなものなのだろう。気合を入れて授業を受けて、令嬢たちとの歓談もこなして、気が付けば夕刻となっていた。
いつもは急いで王太子妃教育を受けるために王城に向かわなければいけなかったけれど、今日はその予定もない。学院にある図書室に赴き、自宅で読むための本をたっぷり時間を使って悩み、厳選して借りた後だった。気が付けば日は傾き、廊下には影が落ちている。
「クロエ」
「クリストフ、殿下……」
声をかけられて振り向くと、そこには金の髪に、青い瞳の――クリストフが、美しい微笑みを称えて立っていた。まるで、あの日クロエに向けた冷たい視線などなかったかのように優しい表情に、ぞわりと背筋が粟立つ。
そんな感情をクリストフに抱いたのは初めてだった。
「少し話をしないか?」
「家の者を待たせて、いますので……」
「気にしなくていい。クリムト、クラランス家の従者に、帰りは私が送って行くと伝えてくれないか」
傍に控えていたクリストフの従者であるクリムトは、「は」と短い返事をしてすぐに立ち去る。
静まり返った学院の中だ。
「さあこちらへ。生徒会室は二人で静かに話ができるから」
―――婚約破棄目前の婚約者だとは言え、男性とふたりきりになるのは、好ましくなかった。けれど、強く腕を引かれるとか細いクロエの体は簡単に傾げ、気が付けば生徒会室の扉をしめられた後だった。
クリストフの革靴の音が室内に響き渡る。
「君は聡明な女性のはず、だね」
クリストフが一歩足を踏み出す。クロエとクリストフの間の距離が、少しだけ縮まる。なぜだろうか、クロエは嫌な気持ちになって後ずさった。
「ずっと私たちはいい関係だっただろう。なぜ、婚約を破棄しようと?」
「……殿下は、ハズバンド男爵令嬢を、愛しておられるのでは?」
「君はあの義弟を愛しているんだろう?」
びくりと体が震える。まるで肯定のように受け取られないだろうか。
「君はともかく、君の義弟は確実に君に懸想しているよ。私のことをずっとすごい顔をして睨んでた」
そう言ってくすくすと笑う姿は、これまで見たことがなかった。
クリストフはいつも、完璧な笑顔で微笑んでいるだけだったから。
「義理とは言え、姉弟同士で愛し合ってるなどと知れたら、どうなるかな」
「…っ やめてください!」
思わず声を荒げてしまうと、またおもしろそうにクリストフが笑う。
「君と私と結婚したほうがいい。君の大事な義弟のためにも」
そのすぐあとでクリムトが現れ、クリストフが「よく考えてくれ」とクロエの肩を抱いた。膝が震えて、うまく立っていられなかった。