むかしのはなし 阿藤遊
「――……あ? ここどこ?」
まばたきの間に世界は一変していた。
阿藤遊は、ふと、自身が深い森に立っていることに気付く。
通学路だったはずだ。
足元の硬質なアスファルトは、不快な感触を返すぬかるんだ泥と、足首まで低く茂った草に置換されている。
夕闇を照らしていた街灯の群れは消え去り、代わりに頂点まで覗けぬ黒々とした巨大な樹木が周囲を囲み、薄闇の静寂が辺りを漂っている。得体の知れぬ森林の只中であった。
『ここは、この世ではないどこかである』と、阿藤遊の直感が――いや、この地に阿藤遊をかどわかした誰かがそう囁いているように思えた。
「……意味わかんな」
混乱を口にしながらも、言葉に反して遊の思考は極めて冷静であった。
植生の観察を終えている。暗闇の中でも蛍めいた燐光と共に淡い緑を放つそれらは、少なくとも都心部には存在せぬ草木の種別であり……遊の脳内にさえ心当たりの無い、未知の植物群であるようだった。
り、り、り、と姿も見えぬ蟲の声もどこか鈴虫に似てはいても、実家のある山奥でもこのような音を聞いた試しはない。
総じて、元いた場所とは異なるようで、風の匂いさえ違って感じる。
(……瞬間移動、量子テレポーテーション? まさか。精巧な幻覚とか夢だって方がまだ現実味がある)
あるいは移動に際した記憶のみが抜け落ちているのか。はたまた今までに歩んできたはずの人生こそが偽りの記憶であったか。
それらのどれもが荒唐無稽な憶測であり、阿藤遊は一度考えを放棄することとした。
(判断材料が足りない。考えたって分からないなら、考える意味はない……それより)
「……はあ」
深く、ため息を吐く。
この不可思議な状況へ抱いているのは困惑だけで、恐れはない。『学区随一の変わり者』と評された彼女は、尋常の人間が備えて然るべき精神が少々欠落している。
「せっかく、発売日に急いで買ってきたっていうのに」
肩にかけたスクールバッグのやや開きかけたファスナーの内には、ビニールに包まれたままの新品のゲームソフトが顔を覗かせている。鮮やかな原色に彩られたパッケージは、周囲を取り巻く色彩と比べるとひどく浮いていた。
退屈をしのぐ、唯一の友である。阿藤遊にとってコンピュータゲームとはそのようなモノだった。
退屈が嫌いだった。
勉学も、運動も、何一つ苦労するようなことは無かった。できて当然の事だからだ。阿藤にとっては、それができない周囲の方が異質であるように思えたが、天賦の才を与えられているのだと自覚してからは、ただただ「世の中そんなものか」とだけ。
「阿藤はどんな大学にだって進めるぞ」興味がないからいいや。「阿藤さんって何でもできるよね」これくらい普通だよ、皮肉とかじゃなくて。「調子に乗んなよ」乗ってないけど。
阿藤は誰も嫌ってはいなかった。孤立していたわけでもなく、雑談を交わす友人"らしき"者達も多く存在したし、一部から妬み嫉みを受けようと殆どの人間は阿藤に尊敬を向けていた。
ただ全てが当然にできたので退屈なだけだった。
だから、退屈から救ってくれる空想の世界だけが、真に友と呼べる存在だった。
「……うぇ~、まじで家の方向どっちだろ……」
見上げると、夜の黒だか、覆う樹木の葉の黒だか、そのどちらかさえ判別できぬほどに溶けた真っ暗闇がひろがっている。星も、月さえも見えず、方角なんて以ての外である。
懐から取り出したスマートフォンは圏外を液晶に告げている。それまでの僻地にでもいるのかと、謎は深まるばかりだ。
とにかく移動するしかない。それだけは決定事項だ。阿藤は泥に足を取られぬように慎重に歩き出す。闇雲に動くのは自殺行為にも等しいが、救助も何も望めない以上自ら動き出すしか道はない。
しかし――たった三歩進んだところで足を止める。
暗闇に煌々と赤く光る、ぎらついた獰猛な眼光を見たからだ。
(……何)
距離にして15メートル程か。
暗中であるが故に、その距離に至るまで接近を見落としていた。クゥ、クゥ、と静かに笑うように喉を鳴らしている。
段々と暗闇に浮かび上がってくるシルエットは犬か、狼の如き四足であり――しかしその巨大はさながら熊のようだった。
低い唸りを伴いつつ、徐々に獣は距離を詰める。白い毛並みが暗闇に映えている。そんな悠長な考えは、口元からちらと露わになった牙を見た瞬間に消える。
(やばい)
犬猫なんかとはまるで違う、凶暴な牙。獲物を見定める視線に捉えられている。
(なにコイツ、何の動物?!)
明らかに危険な獣だ。知識として知る虎や獅子なんかよりも余程の脅威であるのではないか。
日常とはかけ離れた異物を刺激しないよう、一歩、一歩と後ずさる。その対処はきっと誤りだったのだろう。異世界というのは往々にして想像以上の危険を秘めている。
瞬間、阿藤の目には獣が一層巨大になったように映った。
瞬発的で驚異的な跳躍が、両者の隔たりを一秒も満たぬ間にゼロ距離まで縮めている。
「う、お」
視界いっぱいに赤黒くおぞましい口内が映り、そして。
がぶり。
きっと、がぶり、となったんだろう。
断末の声をあげることも、走馬灯の光が差すことさえなく、阿藤遊の意識はそこで途絶えた。
そのようにして彼女の命は初めて潰えた。
◆
「それで……なぜ、生きている」
「"恩寵"なんだってさ。ハア……やってらんないよ」
何故、このような身の上を話しているのだろうか。
元は絢爛な広間だったであろう空間だ。高く仰ぐ天井は崩れ落ち、雷雲立ち込める黒々とした天が覗いていた。ここ"魔族領"の天候は常に曇天である。
瓦礫の山に気怠げに腰掛ける少女が、感情の読み取れない無表情で遊を眺めている。側頭部からは一本の捻れた山羊のような角が生えており、異形の一人であることを示していた。
名さえまだ口にしていない、正体不明のクソガキである。
「前例のない、"不滅"の恩寵……あ、前例がないから私が名付けたんだけど」
"恩寵"、と呼ばれる力が、この世界には存在する。
生まれ持った天与の能力、あるいは異世界転移者に与えられる神様からのプレゼントなのだという。遊にとっては後者である。現世においては行方不明者扱いであろう遊に与えられた能力は、不完全で、歪な力。ありがた迷惑な話だ、と心底で吐き捨てた。
この世界に阿藤遊が攫われてから一年近く経ったが、未だ恩寵を滅ぼす手段は見つけられていない。
「まあ……簡単に言うと『死に戻り』? 生命活動の停止後に、死ぬ直前の健全な身体まで時間遡行する……っていうのが検証結果」
「…………」
「だから、ちゃんと一回死んでんのよ。痛いし、苦しいし、つぎに私のこと殺したらブッ殺すからね」
「はい」とも「いいえ」とも答えず、赤髪の少女は陰鬱な顔のままでいる。不景気なガキだ、と思う。
「……それで、ああ、クソ。アンタが魔王殺しちゃったから、チャンスが消えちゃったワケ。責任とってくれない?」
「…………どういう意味だ」
「魔王なら、しっかり甦らないように殺してくれたんじゃないか、ってことよ」
伝え聞いた話では、魔王は『見るだけで殺す"邪視"』を持つのだと。それならば、あるいは、この身を殺し尽くしてくれるのではないかと――
「大したことはなかった」
「え?」
「……あれは、屑だ、邪眼も、何の意味も為さない、大層な肩書きだけの、屑」
初めて、少女の顔に感情の色が灯った。微かな苛立ちと不快の色だ。
「何が、魔族を統べる王だ……くだらない、塵芥の一つに、過ぎなかった」
「あ〜……アンタ、さっき『不死を殺す方法を知ってるか』とか言ってたわね。それと関係あるの」
「…………死ぬ手段を探している。魔王は、無価値だった」
少女は陰鬱な調子のまま、淡々と呟く。世を呪う怨嗟のようでもあった。
「退屈だ。この世は牢だ、わたしを永遠に閉じ込める檻、脆弱い木端どもだけが、その短い生故に謳歌できる牢獄、惰弱しかいない世界だ。もう飽きた」
「ふゥん。それって……『最初からLV.99だから人生イージーモード過ぎてつまんね』ってコト?」
「…………」
遊の問い掛けに、炎髪は不可思議そうに眉を顰めただけである。それを無視して続ける。
「じゃあさ、縛りプレイでもしなよ。私もよくやるし。今度から戦るときはさぁ……アレやってみなよ。ほら、『よく来たな、戦う前に全回復してやろう!』とか『小指一本だけで勝負してやる……』とかさ。それくらいハンデつければ、まあ楽しめるんじゃない?」
「…………」
「アンタくらい強かったら、別に人生楽しいと思うけどねえ」
「…………」
「…………貴様は……」ほんの少しだけ角を傾け、若干の困惑を浮かべたまま言う。
「なぜ、死のうとしている。同様に、生に飽きたか」
「まさか」
遊は鼻で笑う。まだ十も半ばの、華の女子高生である。出来ることならまだまだ人生を謳歌したいとも願っている。だが、
「今から動き始めておかないと、マズいかもしれないんだよ」
阿藤遊には天賦の才がある。
遠く未来を見通す慧眼。答えを導き出す頭脳。学区随一の変人は、その聡明により人生を思うがままに生きていた。
その聡明が、いま、最悪の未来を見通している。
「……あのさ、私がここに来て一年経ったけど、……2センチも身長が伸びてたの。成長期だからね」
「…………?」
「それだけじゃなくて、髪も伸びるし、垢もでるからお風呂にも毎日入らなきゃいけない」
「何が言いたい」
「……私は、死なないけど成長してる。新陳代謝も止まってない。"不滅"の恩寵は、不老の力は備えていない」
故に、不完全な力である。
「人間の寿命は長くて百年。もし、このまま成長し続けて――老い続けて――それで……最後はどうなる?」
今はよくても、老いて、力を失って、起き上がることも出来なくなり。
老衰と、老衰直前のぼろぼろの身体に巻き戻るだけの生きたミイラと化すのか。
「私は……まだ動けるうちに死ななきゃいけない。……っはは。ビビってんのよ。はははっはははは!!」
想定し得る最悪の未来が、あと数十年で。
阿藤遊は笑った。
「…………気でも狂ったか」
「はは、は。違うわよ。笑うのよ、こういうときは」
この異世界にやってくるよりも先、現世にいた時からのルーティンがあった。
涙をぬぐいながら、遊はくすくすと囁くように言う。
「人間、楽しいから笑うけど……逆もアリなのよ。笑うから、楽しくなる。退屈したり、怖かったりは、ぜんぶ笑ってぶっ飛ばせる。……まあ、つまりはつよがりね」
「…………虚勢に意味があるとは思えない」
「そう? アンタもやってみれば、意外と死にたくなくなるかもよ」
この恐れを、遊は誰かに話したことがあったか。それを思い出そうとしていた。
遊はこの一年で世界を巡り、多くの土地を訪れ、多くの交流を築いた。それでも、この恐れを話した試しはなかったはずだ。精一杯の、最後のつよがりだった。口にすれば恐慌に呑まれてしまうやもしれなかった。
内に秘めたはずの恐怖をこの少女に告げたのは、あるいは同族意識からだったか。
このような奇特な悩みを持つ者は、世にただ二人しか存在しないだろう。
「…………はは」
「お?」
「ははっ、はははははっはははははははは!!!」
炎の髪を揺らしながら、少女はケタケタと笑った。狂笑だった。
加減されていない怒涛の絶笑があたりにこだまして、大気がビリビリと震えた。
見るものが見れば卒倒する、悪魔の叫びだった。
「ははは、は……別に、そうでもない。嘘つきめ」
「そ、そう。あ〜……はは、やっぱ、不気味だからやめた方がいいかも」
遊はまた笑う。
今度はつよがりではない心からの笑みであった。




