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29 エルドラーン・ハイパー・ロケットパンチ


 世界創世から既に万年以上が経過している。

 人族の歴史は永い。脆弱な肉体と引き換えに、魔族にない部分――数と知略に優れたからだ。


 財宝を守る竜を、大軍を率い討った騎士の逸話がある。

 生贄を貪る蛇を、謀略により討った英雄の伝承がある。

 世界を壊す魔を、その勇猛で討った勇者の伝説がある。


 いつだって魔族は絶対的な悪で、必ずしも敗北する運命にあった。


 その必然がひっくり返されたのは、ただひとりの魔族の誕生と同時である。


 どんな古強者も恐れる、同族ですら畏怖する、この世のあらゆる暴力を煮詰めたような奴だった。

 灼熱の熱波を放つ翼竜も、病毒の霧をまき散らす大蛇も、邪悪により世界を滅ぼさんとした前代の魔なる王も、それらを討った英雄たちも、すべてが過去となった。


 そもそも魔王軍とは軍ではない。

 本能的に「絶対に敵わない」と、勝手に傘下が増えていったことが始まりなのだと。


 すべての魔族が、すべての勇者が、あるいは世界全部が敵に回っても勝てないと、そう思わせる逸脱を有している。


 最凶最悪の暴力(パワハラ)少女である。




「久しぶりじゃん、エルドラ」

『ひぇ――』


 当然だ。当然のことだった。

 魔王城なのだから、当然に魔王がいる。

 そしてこれだけの騒ぎを起こせば、祭り好きの暴力少女は当たり前に現れる。


 エルドラーンの肩に腰かけていたその少女は、「よっ」と軽く息を吐いて、体重を感じさせない軽やかさで降り立った。


「――いやあ、なんか賑やかだと思ったらさ、ふふ。何してんの? わたしの城で」


 上機嫌に腕を揺らしながら、なんでもないように問いかける。

 わたしの思考は、その質問の回答には至っていない。

(……ど、どうなんだ? 今は、キレてるのか……?!)


 魔王を理解することはできない。その思考も、情緒も、一切合切が不明で不条理で不合理だった。

 街ひとつを笑顔で滅ぼすこともあったし、無謀にも挑んできた戦士を無表情のままに情けをかけて見逃すこともあった。


 見た限りでは、この状況を楽しんでいるようである。

 だけど、その心底に何があるのかを推し量ることはできない。

 慎重に言葉を選ばなければならない。


「――魔王様ッ! そいつは、エルドラのニセモノです! 騙されてはいけません!」


 背後から、相変わらずのクソでかい声が響いた。グランが気絶から復活したらしい。

 そうだ、いまだに周囲を敵に囲まれている。そこに魔王が加われば、もはや武力での突破は不可能であった。

 残された手段は、交渉だけだ。


「……うるさいな。いまエルドラと話してんの、黙っててよ」

 魔王はわざとらしく頬をふくらませて不機嫌を表明し、それだけで城内の沈黙を強制した。息が詰まる圧力があった。


「……それで、何をしてるのかな?」

『わっ、わたしは』

 緊張で声が上ずっているのが分かった。それでも続ける。

『忘れ物を取りに来ただけ、です。……もう帰るんで、はは、それじゃあ、失礼しました……』

「えーっ? 待ってよ、せっかく久しぶりに再会したんじゃん。もっとゆっくりしていってよ」


 冗談ではない。

 もう用はないし、魔王とこれ以上関わっていたくもない。


「ほんと、四天王(遊び相手)がひとり消えただけでもけっこう退屈でさあ、……それに、今回のでエルドラも分かったと思うけど、残りの四天王も不甲斐ないやつばっかだし……」


 衆人環視のもと、グランやウィートのアホがこき下ろされるのは胸がすく思いがあった。が、それよりも不吉の予兆があった。



「どう? もう一度、四天王にならない? 勝手に消えたことも、ここで大暴れしたことも、ぜんぶ不問にしてあげるよ!」



 イヤだ。

 もう魔王の突飛な思い付きに振り回されるのも、こき使われるのもこりごりだ。


 ここではっきり「NO」だと告げられれば、どれだけ気持ちがいいのだろうか。それが可能なほどの度胸はわたしにはない。

 否定も肯定もできないまま、わたしは黙りこくったまま立っていた。


「きっと楽しくなるよ~最近ちょっと調子に乗ってる王国を消し飛ばしてやったりとかさ」


 魔王は、愉快な未来を夢想するかのように独楽コマめいてくるくる回った。その姿だけを切り取れば、尋常の少女だ。しかし口にする言葉は邪悪そのものである。


「それか王国を支配して……人間同士で戦争させるのもいいかも! それとも、やっぱ四天王だけで国盗りしてみるとか?」


 ほら、やっぱり無茶な要求をしてくる。それでも、わたしは今も昔も、首を縦に振ることしかできないのだろう。


「いっそのこと……人間なんて皆殺しにしちゃう? そしたら今度は魔族のなかでも殺し合いを――」

『それはダメだ』




 そんな台詞を吐くつもりはなかった。だけど、咄嗟にでてしまったものは取り返しがつかない。

 どうしても、それだけは嫌だったから。


 魔王は一瞬だけきょとんとした後、納得するように手を打った。


「ああ、魔族で殺りあうのはさすがに過激すぎ――」

『違う、その前だ。人族を皆殺すなんてのは、はんた、い……』


 そこまで口にして、ようやく自分が何かをしゃべっていることに気付く。

『……生かしておいた方が、なんかこう……楽しいのではないでしょうか……?』


 額に冷や汗がつたう。

 再び魔王は手を打って、それからケタケタ笑った。


「はははは! うん、そうかも。そうだね! 良いこと言うじゃん」


『ど、どうも――だけど』


 一命をとりとめた。

 だけど、今から余計なことを言おうとしている。それは理解できた。

 それがなぜか止まらなかった。


『わたっ、わたしはっ……四天王には、戻り、ません』


 雑兵どもがどよめいた。わたしの脳内もどよめいている。


 魔王に意見するどころか、魔王の提案を断るなど、自ら死を選び取ることと同義であった。

 一度極限のつなわたりを経験して気が大きくなったのか、せきを切ったように本音があふれ出てしまっている。


 それでも魔王はまだ上機嫌のまま、わたしを見上げている。


「へえ、どうして? 処遇が不満? わたしが嫌い?」


 そのどちらもだ。

 だけどそれ以上に、もっと大事な理由があった。


『ま、待ってるやつがいるんだ……あまり、心配かけるわけにもいかない』


 ……言ってやったぞ。

 こっ恥ずかしい台詞だ。だけど本心だ。こんなところから、さっさとおさらばしてやるんだ。


 気が大きくなりすぎていた、と、後悔した。




 わたしは寝転がっていた。

 見上げるのは無限の暗闇で、魔王城の絢爛で悪趣味な天井じゃない。

 体の節々が痛む。頭からねっとりと温かな液体が漏れていて、血が出ているのだと分かった。

 理解が及ばないまま、立ち上がろうと力を込めるもエルドラーンの関節が軋んでうまく動けず、辛うじて首だけを持ち上げる。


 はるか遠くに、薄ぼんやりと堅牢な輪郭が浮かんでいる。正門付近に大穴が開いているのが見える。魔王城である。

 わたしは先程いた城内から何もない荒野へと、瞬間的に移動していた。


 だんだんと混濁する意識が覚醒していって、脳みそは何が起こったかを推理し始める――いや、答えは至極単純である。


 殴打か。蹴撃か。はたまた未知の魔法か。

 そのすべてが違う。


 わたしは魔王に、指一本デコピンでここまで弾き飛ばされた。




「羨ましいね」

 暗がりにひとり歩く少女は、ひどくつまらなそうな表情をしていた。

 先の上機嫌は消え去った、魔なる王として君臨する者の顔だ。


「ほんと嫉妬しちゃうかも。『待ってるやつ』? そんなのが、いるんだ」


 何か、致命的な地雷を踏んだのかもしれない。

 普段から何を考えているのか全くわからない魔王が、いまはその感情を表出させていた。


「羨ましいし、つまんないな」


 明確な苛立ちを湛えて、荒野を踏みしめている。

 なにが気に障ったのかはわからない。最初からにこにこしながら、心の奥では邪悪が渦を巻いていたのかもしれない。

 とにかく、わたしは余計なことを言ったらしかった。


 情緒が極めて不安定なこいつの機嫌を取るのは、やはり極めて困難である。

 なにが失敗だったか、そもそも魔王城に訪れたこと自体が失敗であったが、こうなることを予測できた奴はこの世にいるのだろうか。


「――こうしよう」


 ゆったりとした歩みでわたしの――倒れたエルドラーンの傍らまで来て、淡々と。


「勝負をして、エルドラが勝てばわたしは何もしない。人族も滅ぼさない」


 深い深い深紅の瞳の奥底に、黒々とした炎が見える。


「だけど、わたしが勝ったら、まずお前の待ち人ってやつを殺す。それから、お前と親しいやつらも殺す。最後にお前を殺す。……それでちょっとは、楽しくなるんじゃないかな、うん」

『――――は……?』


 滅茶苦茶だ。突拍子もなくてわたしには何の利もない。

 それでも世界逸脱の強者は、誰にだってその理不尽を押し付けることができる。


『意味っ――わからないンだよ、狂人が!』

 右腕を無理やり駆動させて、倒れたまま薙ぎ払うように振るう。命中すれば山さえ崩す剛腕だ。

 しかし相手は、連なる山脈と比べてなお劣ることのない――


「エルドラは、わたしに一発でも加えられたら勝ち……あっ、もちろん()()は駄目だよ? まともにぶち当てなきゃ、一発じゃない」

 魔王はエルドラーンの拳を、少女の細腕で受け止めている。


「ハンデもつけてあげよう」

 魔王は残る片腕を前にやり、人差し指を立てた。

「指一本だ。それ以外は、攻撃に使わない。手加減もしてあげる」


 わたしは、自分が短気な方だと思う。この挑発めいた提案に怒りを覚えなかったと言えばウソになるが、これは挑発などではなく、天地ほど離れた実力を僅かにでも縮めてやろうという心遣いであることを知っていた。

 それまでに、魔王は強かった。


 会話のさなかにエルドラーンの修復は完了している。

 跳ね起きざまに胴体を捻って、眼前の小娘につま先を蹴り込む。それもやはり手のひらで柔らかく受け止められる。


 次は拳を。防がれる。


 手刀。岩石の投擲。

 どれも効果を発揮しない。


「エルドラの戦い方は、力でごり押しするだけ――それが悪いわけじゃない。ただ、もっと力の強い奴には敵わない」

 拳の乱打のすき間を縫うように回避しつつ、涼しげに話す。乾いた大地にいくつも亀裂が奔り、くぼみが生まれ、土煙が舞う。


(そんなことっ、わかってんだよ、クソっ――!)

 奥歯を噛みしめながら、それでも攻撃を止めることはできない。

 逃げることも、勝つこともできない相手に、ひたすら無駄とも思える抵抗をしている。余計な一言でユウリを巻き込んでしまっている。

 押し寄せるのはやはり後悔と、恐怖だ。


 どれだけ理不尽であろうと、魔王はやると言ったことは必ずやる。

 ここでわたしが、魔王に約束を守らせる必要があった。

 だから絶対に殴り飛ばしてやると決めた。


 全力の打撃で荒野を割りつづける。むやみやたらに殴り掛かっているんだと、そう思っていればいい。


 わたしが魔王よりも優れる部分があるとすれば、土属性――大地の知識だけ。

 地脈を読む。効率的な岩の砕き方を知っている。

 小手先の技で、一瞬だけでも魔王を上回らなければならない。


「!」

 魔王が回避した先の大地が、その体重でひとりでに砕ける。脆くなるよう、あらかじめ周囲を砕いておいたからだ。

 魔王が体勢を崩した。


(一発で、いいんだろっ!)

 その隙を見逃すわけにはいかなかった。

 全力の、渾身で、力任せに、「当たってくれ」となかば祈りじみた考えとともに

拳を叩き込む。



「はい、どーん」



 右腕は肩から千切れ飛んで、背後の岩山に突き刺さった。

 やはり、魔王は指一本だけしか使っていない。それでも絶対に埋まらない実力差がある。指を弾くだけで、自身の何十倍もの質量をもつ拳を吹き飛ばしている。


「惜しいっ! 残念だったね」

 いつの間にか至近にまで迫っていた少女は、指先でエルドラーンの胸を突いた。



 七転、八転、それぐらい転がって枯れ地に長大な道をつくる。受け身をとることもできないまま、轟音をたてながら土を抉る。

 エルドラーンという鎧を纏っていても防ぎきれない衝撃が全身を襲った。


 痛い。

 どこか肌が裂けたかも。打撲はいたるところにある。

 それでも、まだ立っていなくてはならない。最悪だった。


 わたしが作った道を、魔王が悠々と歩く。


「――泣いてみろ」


 氷めいた冷徹を投げかけられる。

「泣いて、詫び、許しを懇願してみろ。それから……その待ち人とやらをお前が殺せ」


 有無を言わせぬ迫力。貧血でふらつく頭にも浸透する冷たさがある。口調まで伝承の魔王のようになっていて、端的に言って死ぬほど怖い。

「それだけやれば、許してやる。命は助けてやる」


 悪魔の甘言を受け入れられるだけの度胸は、わたしにはない。

 魔王よりももっと恐ろしいことを知っている。

 ユウリを失うなんて、あってはならないのだ、と。そう思った。


『……イヤ、だね。クソヤろー』

「そっか」


 未だ魔王の歩みは遅々としたものだ。余裕のあらわれか、こちらを侮っているか、どちらにせよ数少ない攻撃の機会である。


 魔力を大地へと。

 欠乏症で死んだとしておかしくない、それだけの魔力を流す。


 大地のすべてが武器であり、処刑場だ。


 現出する岩の剣、槍、斧、礫。ただひとりを相手にするには圧倒的すぎる程の物量で、しかし魔王にはこれでも足りない。

 剣が砕かれ、槍が避けられ、歩みをさらに緩めさせることには成功したが、一撃を加えることも足を止めることもできていない。

 だが幸運なことに、面の攻撃を嫌ったか、魔王は空中に躍り出た。


 一足飛びでわたしに向かって跳んでくる。

 まだ距離がある。肉弾戦以外に攻撃手段がないエルドラーンには、どうすることもできない――と、そう思っていればいい。


 誰にも見せたことがない、奥の手があった。


『喰らえ、魔王――っ!』

 残る左拳が、自発的に腕から切り離されるように勢いよく射出される――それだけだ。

 だけど、身動きの取れない空中であれば防御は困難なはず。虚を突いた奇襲こそが、わたしの最後の切り札であった。


(――当たれっ!)

 魔王が約束を違えることはない。そのような部分においては、信頼できる相手だ。

 だから、この攻撃がまともに命中さえすれば恩赦をもらえるはず。まともに命中すればの話だが。


 身動きの取れないはずの空中で、魔王は猫のような身体性能を発揮して、身を捻ってエルドラーンの拳を蹴って跳ね上げた。

 最後の切り札は、そのままどこかへ飛んでいく。


 魔王は、華麗に着地すらしてみせた。


「――今のが、奥の手だとか言わないよね?」

 もはや魔王は眼前にいる。致命の射程である。

 ゴーレムを操作するだけの魔力すら残されていない。

 そこへ――とどめが刺される。


 本日何度目かの、しかし最大の衝撃を受けて、エルドラーンは無残に砕けて散った。原型を留めることもできず、わたしを内部から振り落として。


 岩肌に打ち付けられながらゴロゴロ転がって、そのたびに勝手にうめき声が口から漏れる。

 ようやく止まったかと思えば、数秒気を失っていたか、仰向けに寝るわたしを見下ろすように魔王がのぞき込んでいた。

「健闘だよ、大健闘。さすがに土属性使いはタフだね。これだけ吹っ飛んで、まだ死んでない」

「……う”る”……さい、な」

「わ、まだ軽口叩く元気あるんだ。でもさ、もう立てないでしょ。魔力も尽きたみたいだし……エルドラの、負けだ」


 確かに、痛すぎてもう立ちたくない。

 骨はいくつか砕けたように感じるし、血を失いすぎて寝ているままなのにふらふらする。

 鼻腔の中には鉄の香りしかないし、口内も鉄の味だけしかしない。

 みじめすぎて、逆に笑えるくらいだ。


「はは、わたしは魔王だからさ、ちゃんと言ったことは守るよ。人族はみんな殺すし、エルドラの好きな人も殺しちゃう」

 無邪気に、だけど邪気に満ちた言葉だった。それを最後に、魔王は踵を返す。

「そしたら――エルドラは泣くかな? 怒るかも。はは、たのしみ」



「――……待て、」


 懇願めいた必死のぼやきは、言葉通り魔王の足を止めることに成功した。振り向いた少女は訝しげな顔をしている。

「あのさー、あんまりしつこくても面白くないんだよね。決着はついたんだから、もう大人しくしてな、よ……」


 まず魔王は驚くように目を見開いて、それから笑った。

「は、はははは! すごいね! 頑丈な奴だとは思ってたけど、まだ立てるんだ!」


 そうだ。まだ立てる。

 たぶん片脚が砕けてるけど、ほとんど気力で身体を支えていた。


「まだ……決着はついてない」

 ただ立って、睨みつけるだけ。それで精いっぱいだ。


 そんなわたしを見つめながら、魔王は「へえ」だの「ふうん」だのと興味深げに呟いている。

 もっと、この場に釘付けに、時間を稼ぐ必要がある。


「ははは、すごい根性だ。まだ諦めきれないか」

 またもや、ゆっくりとした歩みでこちらに近づいてくる。好都合だ。


「でもさ、もう何もできないよね? もう……楽になりたいんだったら、やっぱり先に殺してあげようか?」

「お前は……ほんとうに、嫌な奴だな」


 こんな台詞を、生きているうちに直接言えるなんて思ってもいなかった。

「ずっと、大嫌いだ、ったよ」

 今にも死にそうなかすれた声だ。それに気を悪くすることもなく、魔王はケタケタ笑いながら、わたしの額に指先を当てた。


「そっか……まあ、どうでもいいけど、殺すね」


 あと数秒。

 もう少しだ。


「……?」

 魔王がまた訝しむように目を細めた。


 わたし達がいる暗がりに、更に暗い影が落ちる。

 魔王の視界からは見えないだろう、彼方から飛来する物体がある。拳のかたちをしている。


 先程蹴り飛ばされたエルドラーンの左拳だった。


 あの拳を射出する機構には、もうひとつ備えられた機能がある。

 自動追尾ホーミングである。


 内蔵された僅かな魔力を噴出しながら進むロケットパンチは、敵性魔力を感知して空中で進行方向を変える。誘導の性能はそれほどではない。しかし、何かに命中して止まらない限り、また内臓魔力を切らさない限りは飛び続ける。


 それが、ようやく帰ってきた。

 真の、ほんとうの奥の手だ。


 ――虚を突いた奇襲こそが、わたしの最後の切り札であった。


 命中まで残り僅か――そこで、魔王が首だけで振り向く。影の正体を見た。

 到底、回避が間に合う距離ではない。だから、魔王は身体軸の回転だけを用いた裏拳で、その飛来物を砕いた。

 明確な隙だ。


 だから、こんどこそ、全力の、渾身で、力任せに、己の生身の拳を振るい――



 ぺち。



 こちらを向き直った魔王の頬に当たる。



「…………………………」

「………………い、いちげきは、一撃だ、ろ……」



 そうであってほしい。でなければ、もう無理だ。精魂尽きて、死ぬしかない。


「……は」

 魔王が、

「ははっ、ははははははははは――!!」

 笑った。それはもう、満面の。


「もっ、もしかして……ふふ、負けた? わたし」

 心底から愉快そうな、そんな声色だ。もはや何の圧も恐怖も感じない、ただの少女のようであった。


「――あー、初めてだ。負けたのって……くやしーなー」

 そのままケタケタ笑いながら、その場でくるくる回ってみせる。相変わらず本心の読めない奴だった。


 そこでようやく、魔王城の方からわらわらと魔王軍がやってくる。はじめの攻撃で、わたしは相当な距離を吹き飛んでいたらしい。

 しかし、遠巻きに囲む以上に近寄ってこない。

 瀕死のわたしと異様な雰囲気の魔王に、どうしたものかと足踏みしている。

 それを意にも介さず、魔王はわたしの両肩に手を置いて揺さぶった。


「いやあ、すごい、あっぱれ! こんな楽しいのは、かなり久しぶり……それこそ、“湖の賢者”と遊んでた頃以来だっ!」


 貧血の脳をぐらぐらシェイクされて、今度こそとどめを刺されそうだ。もう開放してほしい――


「気に入ったよ、エルドラ……よし、疲れただろうし、わたしがその待ってる奴のところまで運んであげよう!」

「え」


 抗議の声を上げる間もなく、乱暴に小脇に抱えられる。同程度の体格のくせに、暴虐の魔王はわたぼこりでも抱えるかのようだった。

 そのまま、魔族らしく言う。


「途中で死んじゃったらさ……ごめんね?」

「ひぇ――」


 危うく舌を噛み切りそうになる急加速。

 地獄の超特急のはじまりであった。




     ◆




「ユウリさん……ね、元気出して?」

「………………うん」

「エルドラお姉ちゃんもさ、すぐに帰ってくるって……もう今日にだって帰ってきちゃうかもよ?」

「………………うん」

「……えっと……それじゃあ、もう帰るね? ちゃんとご飯は食べてね?」

「………………うん」


 心配してくれるひとがいる。すごくありがたくて、嬉しいことだけど――

 なんとかモニカを玄関まで見送って、私はソファに倒れ込んだ。


 溶けるみたいに、ぐでーんと。エルドラがどこかにきえちゃってから、わたしはとんでもなく、むきりょくにんげんなのでした。


「……死にたい」


 冗談でもそういうことを言ってはいけません、と、お母さんからそう習ってきた。だけど、どうしようもなく本心のときは、もうどうしようもないだろう。


 エルドラは、いついなくなったのだろう?

 少なくとも私が彼女の失踪に気付いてから二日が経っている。でも、それよりも前にいなくなっているはずだ。



 ――『魔族領へ行く』



 この年齢で、「実家に帰らせていただきます」みたいな文章をみるとは思ってもいなかった――いや、そもそも結婚ごっこに浮かれていた私が悪い。人命救助のためとはいえ、勝手に唇を奪ったのも悪いし……それを指摘されて逆ギレしたのが一番悪かった。


 とにかく、私が一方的に好意を寄せていただけで、きっとエルドラはわたしのことなんてきらいで、とにかく、とんでもなく自己嫌悪してしまうのでした。


 息を吸って、おおきく吐いて……気分が晴れることはない。

「……しにたい」


 私はいままでどのように生きていたのか、それすら思い出せなかった。

 なにもしらない、わからない異世界で、私にはなんにもなくって……エルドラだけが、私がこの世界にいる理由だと、そんな気もしていた。

 エルドラにとっての私は、ぜんぜんそんなものでは――あっ、駄目だ。また泣きそうだ。


 鼻の奥が痛み始めて、涙がでそうなのを察知したから、それを堪える。

 いつまでもクヨクヨしていてはいけない、と、自分でも分かっている。


「……よおし、せっかくの異世界だし、ひとりで満喫しちゃおうっ!」

 ソファから無理やり跳ね起きて、誰にでもなく宣言してみる。空虚だけがこだまして余計に悲しくなった。


 ひとりは嫌だ。ふたりがいい。

 もう二度と叶うこともない願いだった。




 そこで、玄関のほうから物音がきこえた。

 モニカが何か忘れ物でもとりにきたのかも――それとも、もしかすると、本当に。


 玄関口を思いきり開く。


「――エルドラっ!」

「うわっ、びっくりしたあ……勇者ユウリ、だよね?」


 エルドラじゃない。私はひどくがっかりして、ついため息を吐いてしまう。

 炎のような深紅の髪から、ねじれた角が伸びる……魔族? の少女だった。


 だから一瞬だけ身構えたけど……どうでもいい。私の命でも狙いに来たのだったら、もう好きにしてくださーい、って感じだ。


「……そうだけど」

「はは、よかった。まさか、エルドラの待ち人って……キミだとは思ってなかったけど」


 エルドラ。確かにそう聞こえたので、私は赤髪の少女に詰め寄った。

「え、エルドラの知り合い?! じゃあ、いまエルドラはどこにいるの?! 元気にしてるっ?! だいじょうぶ?!」


 何のまとまりもない質問だ。少女はケタケタ笑った。

「はい、これ」


 ずい、と少女は抱えていたボロ雑巾みたいな物体をこちらにやった。想像以上に重量感のある音を立てながら、ボロ雑巾が玄関に落とされる。


 ボロ雑巾は、エルドラだった。


「じゃあ、わたしはもう帰るけど……ちゃんと手当てした方がいいかも? 死にかけてるから」

「え、えっ」




 頭蓋骨のなかを思考が乱反射しているような、そんな脳内風景だった。

 間違いなく、ころがっているのはエルドラだ。だけど、なんで運ばれてきたの、とか、なんでこんなにボロボロなの、とか、分からないことだらけだ。


「――……っう」


 短く呻いた。エルドラが、生きて、この場にいる。

 私は、もう訳が分からなくなって、たまらなくなって抱きついた。


「――エるどらああああ!」

「ギャああああアああっ! 離せ、バカっ!」


 しっかりと平手を張られて尻もちをついて、余計に嬉しくなる。夢や幻じゃなくて、現実にエルドラがいるのだ。


 それから、抱き着いた手のひらにべったりと血がついていて……あれ、



「だっ――大丈夫っ?! 血が――あっシドーさん呼ばないと……! それよりも、えっと……! 応急処置っ――!」


 一気に、先程とは全く別種のパニックに陥る。思考は真っ白に染まって、何をすべきか分からなくて――

 口を覆うように手のひらを添えられる。


「うるさい、し、死なないし……まじ、黙っててくれ……」

 ちゃんと指示を聞いて、黙ったままぶんぶんと首肯する。


「わたし、は、魔王に勝った魔族だぞ……この世で、いちばんすごいんだから、死ぬわけあるか、ばか……」


 なにを言っているのかはイマイチ理解できないけど、彼女がそう言うのなら、きっとそうなんだろうと思う。

 エルドラは自身の服をまさぐり、何かを取り出そうとした。


「ちゃんと、目的だって達成したんだ……この、虹水晶の、ごーれむ、が……」


 そう呟きながら、服のうちからぽろぽろとこぼれ落ちたのは、きらきら輝く宝石のかけらみたいだった。

 壮絶な争いに巻き込まれた宝石が、こんな結末を辿るのだろうと、そう感じさせる物体であった。


「にっ……虹水晶ぅ――ッ!」

 エルドラは泣いて、叫んだ。

 彼女はゴーレムに関わるときだけ年相応に泣いたり笑ったりする。それが、すごく懐かしくなって、私まで泣いた。

 結局、シドーを呼びに行ったのはエルドラが泣き疲れて寝てしまってからだった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] これは私が待ち望んでいた再会であり、魔王がどのようなものであるかの素晴らしい集大成です。彼女は退屈していて、Sage of the Lakeとのつながりは、とてもカジュアルに立ち寄る印象的…
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