17 ”勇者殺し”
最高傑作。完全無欠。百点満点。
一切の無駄はなく、その全てが至高。究極なる魔導機である。
知らずのうちに嘆息を吐くのも致し方ない。
「……飽きないね、ずうっと」
ユウリが呆れたように言う。
そう。三日前からずっとアルティメット・エルドラーンの鑑賞会だ。
湖の傍らに立つ巨大な戦士。それをひたすらに眺めている。
草の上に寝転がり、頬杖をついて、足だって自然とぱたぱた動くし、口元もほころぶ。その全部が仕方のないことだ。
「ふん、飽きないね。こんなに素晴らしいゴーレムが今までにあったか? いや、ない」
「反語……」
そう呟きながらわたしの横に腰を下ろした。手には昼食――サンドイッチの包みを持っている。
わたしが頑として移動しないものだから、栄養補給はこのようにして行われることになった。
「まあ、すごいんだろうけど。風邪ひいちゃわないようにね?」
「軟弱な人間と一緒にするな」
包みを受け取りかじる。やはりうまかった。最高の景色を眺めながらだと、さらに格別である。
「そういえば、ユウリは映写術は使えないのか?」
「映写術?」
気になったので訊いてみた。使えるのならちょっと嬉しい。
「こう、視界の中身を絵にして写し出す、みたいな魔法だ」
「カメラ魔法? う~ん、どうだろ」
水属性と光属性の複合魔術だ。難易度は高いし属性的にわたしには使えない。でも彼女ならばできるのでは、と思った。
立ち上がり、術式の説明のために紙とペンを持ってこようとした。
「あ、できるかも!」
必要なかったみたいだ。転移者には恩寵と同様に凡その術式が記憶に刻まれている。行使できるかは術者のセンスに依存するが、ユウリには可能のようであった。勇者、おそるべしだ。
何の説明もしていないのにそのまま湖の方に駆けていって水面に手を触れた。
「【映せ水面。萌ゆ心。切り取れ】――」
映写術の術式である。かの四天王エルトリリスの開発したもので、その詠唱には独創性がある。
水面の一部が固体に変じ、剥がすようにして現象する。
ユウリが切り取ったのは、誰か人物のようで――わたしだった。夜の湖畔に楽しそうに手を広げるわたし。そのような記憶はないから、恐らく酔っているときの場面であった。
……自画自賛するようで気が引けるが、絵の中のわたしはちょっと可愛かった。
この術式は見たそのままを映す訳ではない。記憶をもとにするから主観が混じる。だから、彼女にはこのように目に映ったようであった。変な気持ちになった。
「うわ。すごい……」とユウリがまじまじとそれを凝視し、服の内にしまう。それに文句を言うのもばかばかしかった。
わざとらしく咳払いをする。
「コホン。まあ、とにかく、食べ終わったらエルドラーンの写真も撮ってくれ」
「ええ~」
「別に減るもんでもないだろ」
この巨人をただ眺めるのもいいが、何か別の記録として残しておきたかった。私にはできない。ユウリはこういうときにも役に立つ。
そのまま再び腰を下ろし、サンドイッチをかじる。ユウリもまたわたしの隣に座った。彼女はこのように距離を詰めたがる。意外と真面目にわたしを監視しているのかもしれなかった。
外で食べると、いつもと同じ食事でもひと味違う。そよ風に漂う自然の香りですら調味料になるし、陽光に照らされたパンがいつもより輝いて見えた。
ここら一帯だけ時間の流れが緩やかに感じる。
理想のスローライフだ。
こうした暮らしが続けばいい、と思った。
素敵な住居と最高の立地に、絶品の料理と究極のゴーレム。それに、隣にはユウリが――いや、それだけは違うだろう。自然と流れで浮かんだが、こいつは便利なだけの召使いだ。うまい飯の付属品みたいなものだ。
ちら、と隣を見上げる。
サンドイッチをかじっていた。しかし見て呉れだけは良いんだ、こいつ。
膝を崩した横座りでただ風景を眺めている。ピクニックの心持ちのようで、はにかんでいる。景色も相まってそれだけで名画めいた場景になる。
そいつがこちらを見た。
「――あ、」
何か言おうとしながら手を伸ばしてきた。柔らかそうな唇が花弁じみてふわり、と開かれ――わたしは倒れるように後ずさって距離を取った。
ユウリが目を丸くしている。わたしだって驚いている。何で避けたんだ。
不思議と心臓がずきずき痛んだ。
「……え、っと。口にパンくずがついてたから……」
そうらしい。それを取ろうとしてくれたらしい。ただの親切心からの攻撃だった。攻撃ではないか。
何かもやもや、と言うか、ふわふわ、と言うか。そんな感じだ。
知らないのに、何かを思い出しそうになる気がする。
「……悪い。驚いただけだ」
「そ、そっか。ごめんね」
この間から。わたしが酔って記憶を失った日から、ふとした瞬間にこういうことが起きる。
どこか気まずくて不自然な雰囲気。
それはユウリも同じようで、時折わたしを見て固まったり、ぎこちない動作に切り替わることがある。
もしかすると、ユウリはまだ何かを隠しているのかもしれない。だけど、わたしはあれから何も問いただしていない。こいつが口を割ると思えなかったし……少し、怖かった。
隠し事があったとして、それがどうでも良いことか、わたしたちの暮らしを破壊してしまうような致命的な事象かも分からなかった。
だから何か変なことになっても、それを無かったことに、無視するようにした。
暗黙の了解のようにユウリだって何も言わなかった。
ただ、今日は少し違うらしい。
「――エルドラはさ、き、キスしたことある?」
「……キス?」
「あっ、あ~……ちゅー、じゃない。接吻……みたいな?」
人間同士の、愛を確かめ合うための儀式、だったと思う。そのような知識だけある。
それを何で聞いたかは分からないが、別に減るものでもない。答えてやろうと思った。
「……ない、はず」
はず、って何だろう。間違った答えではない。ないはず、だと思ったのだから、ないはずだ。「ない」と断言するのは何故かはばかられた。
「そ、っか。そうだよね」
普段通りを取り繕って――そういう様子を隠しきれないで、ユウリが言った。
それから、沈黙。本日の昼食はそのように終了する。
◆
エルドラは、やはり覚えているのかもしれない。
はっきりと、まではいかなくても、ぼんやりとあの夜のことを記憶しているのかもしれなかった。
だって、そうじゃないとおかしい。あの日から私だけじゃなくてエルドラまでぎこちない様子だ。
お互い気まずくなって、さっきみたいになるときがある。
ようやく仲良くなれた気がしたのに――それも、私の思い込みだったのかもしれないが。
彼女はもとより私のことなんて嫌いだ。だって、私が彼女をひどい目に遭わせたのだし、この場に留まっているのも私が原因であるから。
もう村の皆も彼女を殺そうとなんてしないはずだ。指輪の外し方が分かったら、エルドラはすぐにでも出て行ってしまう。そう思うと、胸が痛くなった。
あの夜から、いや、それ以前からだ。少しばかり考えた。私は彼女が言うように馬鹿だから、せめて思考停止させることなく自分に向き合ってみた。
私は、エルドラが好きなのかも。
今まで誰かを好きになったことがない。だから、これが恋心なのかさえも分からない。
でも、彼女は可愛いし、優しくて頑張り屋だし、好きになったっておかしくない。
新婚めいた暮らしに酔って、思春期特有の暴走でそんな風に感じているだけなのかもしれない。
不慮の事故とはいえ、その、キス、までしてしまったからかもしれない。
それでも何か、不思議と確信じみたものがあった。
昼食後、彼女は書斎に引きこもって本を読んでいる。それは別に今日に限ったことではない。やっぱり努力家で、暇があればそうやって何かを学んでいる。勉強嫌いの私とは大違いだった。
顔を合わせることがないこの時間は寂しい反面、ある意味で心が安らぐ時間でもあった。
彼女と過ごすことで生じる動悸、発熱、発汗、高揚、転じて不安。そういった症状から解放される安寧のひと時……やはり、冷静に分析すると、これは恋なのではないかと思う。
きっと私は彼女に受け入れられない。だって、エルドラは私のことが嫌いだから。
だから、この気持ちは決して告げない。これ以上、困らせたくはないから。
(せめて、仲良くはしたいなあ)
湖から写真を剥がしつつ、そう思った。
エルドラーン。彼女が言うにはアルティメット・エルドラーンだそうだ。それを水面に映し拾い上げる。
きっと、もっと仲良くなりたい。少しでも気に入られたい。ちょっとばかりの邪な気持ちを抱いている。
そうやって湖を覗いていたから気がついた。
水面に映る影。鳥、よりも大きい。人型である。
見上げると何か、誰かが飛んでいた。
蝙蝠のような薄い翼。人を支えるには心もとないが、空に浮かぶそいつは涼しげな表情だ。
ウェーブがかった桃色の髪を揺らす女。
その装いは肌の殆どを露出させ、胸が服からこぼれそうですらある。
(――ち、痴女だ。空飛ぶ痴女……!)
変態と目を合わせてしまった。やってしまった。
慌てて視線を逸らすも、遅かった。そいつが微笑みながら降り立つ。
「こんにちは。あなたが勇者ユウリ?」
「こ、こんにちは……」
目を伏せながら、とりあえず挨拶の返事だけはする。何故か名前は知られていた。ちょっと怖い。
「ああ、そんなに警戒しなくても大丈夫。勧誘に来ただけだから」
「勧誘、って何ですか。そもそも誰ですか」
桃髪の女がにこやかに言う。
「私は魔王軍四天王が一人、腐海のエルトリリス」
四天王――エルドラと同じだ。彼女はもう辞めたらしいが。
そのまま続ける。
「四天王の座が一つだけ余っててね。あなた、人間から指名手配されてるんでしょう? よかったら私達のところに来ない?」
「……え、指名手配?」
「あら、知らなかったかしら」
初耳である。私は王国から追放された身の上ではあるが、悪いことなんてしていない。手配されるいわれなんてないはずだ。
「まあ、どっちでもいいわ。魔王軍に来てくれたら悪いようには」
「――ユウリ、そいつから離れろ」
背後からの声。振り返ると、エルドラが玄関から出てきていた。忌々しそうに顔をしかめている。
エルトリリスがひどく驚いたように翼をはためかせた。
「何をしに来た、エルトリリス……!」
「あなた、銀髪の――!」
柱。唐突、足元から槍のように伸び、それが痴女に突き刺さる直前に身をひねって回避している。エルドラの遠隔魔術であった。
「そいつは敵だ、いいから離れろ!」
状況が呑み込めないまま、彼女の言う通りにする。
エルドラは剣を手にしていた。私のものだ。それをこちらに手渡す。
エルトリリスが考え込むようにあごに手をやった。
「……そう。ユウリはそいつの味方なのね。つまり、魔王軍の敵――」
「何をぶつぶつと……! 言っておくが、こいつは超強いぞ。逃げ帰るなら今のうちだっ!」
「ちょ、ちょっと、エルドラ!」
恥ずかしくなってそう叫んだ。痴女がまたぴくり、と翼を震わせた。
「……エルドラ? いや、そんなはずは――」
「ええい、いいから、やってしまえユウリ!」
もう何が正しいか分からない、が、きっと彼女の言うことが正しい。
地面を蹴りとばして加速。斬る訳じゃない。剣の腹を痴女の側頭部に叩きつける軌道だ。
ただ、少しばかり迷いがあった。相手は魔族である。恐らく死ぬようなことはないと思うが、問答無用で暴力を振るうのは気が引ける。だから躊躇してしまった。
それでも、それはこの世界で初めての経験であった。
振るった剣は超常の速度だ。私の恩寵がそうさせている。
叩き込もうとしたそれが――エルトリリスの掌で受けるようにして防がれた。
その反応速度にも驚いたが、受け止められたはずなのに振り抜けてしまったのでより一層驚いた。
後ろに跳んで距離を取り、何が起きたかを分析しようとする。
剣が折れている。ぽっきりと、という様子ではない。断面が黒く変色し、溶けているようであった。
顔の横に手のひらを構えたままのエルトリリスが、残った先端部を握っている。そちらも同じく黒く変じている。そこから、しゅうしゅうと音を立てながら煙を上げていた。
「な、何それ!?」
「……エルトリリスの腐蝕術だ。気をつけろ、手で触られると溶ける」
「え、怖っ!」
ためらっている場合でもない。本気を出さなければいけない相手だと直感する。
エルトリリスが訝しそうに目を細めた。
「……流石、“身体強化”。恐ろしい速度――でも、何で手加減したの? 全力の踏み込みで、刃を使っていれば今ので決着だったでしょうに」
「……私は、戦いたくない。引いて」
「悪の勇者、って触れ込みは間違いみたいね。甘すぎる」
そう言うと、手をこちらに突き出した。いつの間にか何かが握られている。
四角い、箱のような立方体だ。
そのまま呟く。
「――“勇者殺し”」
不可視の術式が奔った。