進路は大学
住宅街を抜けて、幹線道路へ。
術者と同乗者を乗せた魔法の箒は、片側二車線の車道左端を地上一メートルほどの高さで飛ぶ。制限ギリギリの時速六〇キロ。穂先は反射板と同程度の明るさを保って、テールライトを放ち続ける。
前方の信号が黄色に変わる。
箒はテールライトの明るさを増しつつ速度を落とし、交差点の横断歩道手前で空中停止状態になった。
「バイクとかわんねーよな」
梓と響の後方から、別の箒にまたがった栗子が話しかけた。エンジン音がしないので、会話はしやすい。
「ここは低空管制システムがまだないからね」
答えた梓は、ヴェールの硬質化を一時解除して捲り上げ、信号機を見上げた。
三色の信号機に付随している装置は、自動車と歩行者の接触事故を防ぐためのものだった。危険が迫ると警報を鳴らし、自動車に電波を送り、ブレーキを作動させるものだ。箒や絨毯などの飛行魔法具同士の事故防止装置は、取り付けられていない。
「あとどんぐらい」
「一時間あればつくよ」
三人の向かって左側、東の空にある太陽の位置は、まだ高くない。南東方向から流れてきた小さな雲が光を遮り、三人の周囲に陰をもたらした。
雲がさらに流れると同時に、交差点の流れも変わった。
青信号を見て、梓が箒を発進させる。
「あ」
響が右を向いた。
一つ右の車線を走る車の後部座席で、五歳くらいの女の子が手を振っていた。
響はぎこちない笑みを浮かべ、右手に持っている杖を軽く振って、応えた。
次の交差点で、子供を乗せた車は右折した。
三人は南下を続ける。
「また」
横に来た車の左後部座席の窓が開き、若い男が顔を出した。ヴェールを垂らしていない響に声をかける。
「ねえ、どこ行くのー?」
「えーと、その」
「よかったらこっちに乗らな~い?」
『うるさい黙れ』
「え、何、いまの」
『鏡でてめーのツラ見てから言えっつーの』
「頭の中で声が」
『そこにサイドミラーついてんだろ』
「あ、あはは。毒舌キャラなんだ。でも俺、嫌いじゃないよ。だからさあ」
「わ、わたしじゃない、です」
「クリエイト、単独式」
梓が左手の指先を男に向けた。グラス一杯分の水が飛ぶ。
男の顔右側にぶつかった。
「うわっ、何だよこれ!」
『雨だよ』
「雨なんか降るか! あれ?」
男が空を見上げると、いつしか曇っていた。
『首を引っ込めたほうがいい』
「ちっ、何だよ! 中身ぜんぜん可愛くねえな」
右の頬に整髪料のついた髪の毛をべったりと張り付かせた男は、車内に引っ込んでパワーウインドウを閉めた。そのすぐ後、車は法定速度の上限を超えて加速し、走り去った。
『しょっぱい男のナンパはうざいわ』
『されたの君じゃないよ』
梓と栗子は箒をそれぞれ前を向いて操縦しつつも、テレパシーによる会話を続ける。
『響は内堀よ。ほら、あれ。あんた風に言えば、将を射んとすれば、なんやら』
『まず馬を射よ。君は国語が弱点だね。埋めるのも外堀だよ』
『内堀であってんの。外堀はあんただし』
『その理屈はおかしい』
ぽつん、と空から水滴がおちた。
赤い帽子に当たった。
次の雫は、箒の風防に当たった。
ぽつぽつ、ぽつぽつぽつ、ぽつぽつぽつぽつと、雨粒が増えてゆく。
「ふってきました」
「おかしいな。予報と違う」
『どうすんの』
空には黒雲がひしめく。
その雨雲の下、三人は丘陵の合間にある幹線道路を低く飛び続ける。
針葉樹の林が左右の斜面を埋める。
雨水が丘陵に降り注ぎ、土壌に水が染み込む。三人のマントと帽子も染み出した。
『撥水加工とヘッドライトが要るね。ここを抜けたら、いったん停めよう』
傘立てには放置傘があり、路上と駐輪場には放置自転車がある。
それらと同じく、箒立てにも放置ボウキがある。
その数は二本。
魔法による盗難防止用のロックはすでに効果を失い、二本のうち一本は元の持主とは別の者に使用されていた。その使用者は、幹線道路沿いにあるコンビニエンスストアの店員だった。
彼が使うのは、魔力変換補助機能がついていない普通の箒。登録番号も所有者名の表示もなく、店の備品と見分けがつかない。そのこともあってか、清掃に励む無断使用者に文句を言う人間はいなかった。
「いらっしゃいませー」
三人の女子高生が近づいてくると、彼は軒下部分の床を掃くのをやめて箒を元の場所に立て、店内に戻った。
「うわ~。びしょぬれ」
「足下に気をつけて」
「あっ、はい」
箒から降りた三人が、帽子とマントを脱ぐ。重くなったマントから雫が立て続けに落ちたが、その音は豪雨にかき消されて聞こえない。
「もうちょっとだったんだけどなー」
「直線距離だと、たぶん一キロもないね」
目的地である大学の建物が見えていた。赤レンガの壁をもつその棟は、その周囲にある木々の四倍以上の高さを持っていた。大学近辺に住宅は少なく、広い農地と、同じく広い面積を持つ複数の貯水池とがある。ストアから見えるのはもっぱら貯水池で、池の縁に沿って大学への道が続く。この道は頼りない街灯の列によってかろうじて灰色の景色の中に埋没することから免れ、その存在を示すことに成功していた。
「『春雨や 波紋つづれり 地に池に』」
「はあ? またいつもの変な歌?」
マントをバサバサ振りながら栗子が聞き返す。その栗子に響が話しかけた。
「あの、わたし、乾かしましょうか」
「あ、いいの? そんじゃよろしく。梓、あんたのもやるって」
「季節感が合っていないのがどうも……。五月雨ならよかったのに」
「おい聞けって」
「何? 君も一句できたの」
「乾かすから貸せっつってんの」
濡れたマントをひったくった。
「あっ。雨の旅情を味わっていたのに。君には『をかし』の気持ちが足りない」
「あー、ハイハイ。お菓子欲しいなら買ってくるわ。三人でたけのこ二つでいいよな」
「そうじゃないよ……。一つはコアラにして」
「串刺しで内臓溶かされたらコアラが泣く。たけのこ二つ」
栗子はマントを響に渡して、ストアの中に入っていった。
「『をかし』もお菓子も足りなすぎるよ」
梓がかぶりを振って嘆く。
その隣で響が作業に取り掛かる。三人分のマントを両腕に抱えたまま、杖を握りなおして構えた。
「温風を送るのなら、私が持とうか」
「いえ、ひとりで、できます。クリエイト、単独式」
魔法の光で箱が作られる。
箱は家庭用洗濯機くらいの大きさで、半透明の紫色。店を背にした響の一メートルほど先で宙に浮く。箱の反対側には、ドライバン型のトラックが透けて見えた。この車は車道からコンビニエンスストアの駐車場にゆっくりと入ってきて、一時停止してからバックで方向転換し、ちょうど車と二人と店が同じ直線上に並ぶような位置で停車した。
箱の手前側の面がパカッと開いた。
響はそこからマントを押し込む。三つの帽子も入れた。箱を閉じる。
「乾燥室だね」
「はい」
杖を構える。
「クリエイト、単独式」
杖から紫の光が放たれた。箱の中に水がたまってゆく。
「こんなに染み込んで……あれ、おかしい」
水はどんどん増えてゆく。箱の容積の八割に達して増加が止まった。
「乾燥室……だよね?」
「はい。ドライヴ、ドライヴ、うまくいかない……。ドライヴ、ドライヴ、ドライヴ、ドライヴ、ドライブ……できた!」
箱の中で水が回り始める。
水流はすぐに強くなり、マントと帽子を巻き込んで渦を巻く。そして、いったん止まったかと思えば向きを変えて、また回り始める。ときどきひねりも加わり、中身の上下の位置関係が入れ替わったりもする。これが繰り返される。
「これ、どうみても」
「乾燥の魔法です」
「わ。何これ。わざわざ洗濯もすんの?」
栗子が二人のところに戻ってきた。右手にレジ袋を提げ、左手に微細氷入りのカップバニラアイスを持つ。左腕のミサンガが弱く光り、温度調節のための魔力を発していた。
「乾燥の魔法です」
「どういうこと? 梓、たけのこ出して。アイスフォンデュよ」
梓と栗子はオヤツの準備をしながら、響の作業を眺める。
「そろそろ」
水流がやみ、箱が地面にゆっくりと下りた。
響は上面を開けて、ずぶ濡れになった赤いマントと赤い帽子を引きずり出した。梓に手渡す。
「どうぞ」
「どうぞと言われても」
水分を目いっぱいに吸収して、ずっしりと重い。しかも、ぼたぼたと水が垂れる。垂れた水は軒下の床をつたって、駐車場との境目にある水たまりに流れこんだ。
「すぐ乾きます。クリエイト、解除」
響の杖から光が消えた。
すると今度は、梓が手に持つマントと帽子が光り出した。米粒よりも小さな無数の粒子がそこから少しずつ飛び散り、霧散してゆく。
それにあわせて、梓の腕から、濡れた布が張り付くベチョッとした感覚も消えてゆく。
「乾いてきてる」
「お、らしいじゃん」
お菓子が先端に刺さった状態の串を手に、栗子が感心した。
「でも、どうやってんの。風でてないじゃん。熱くもないし」
響の方を見てたずねつつ、栗子は串の先端をバニラアイスの容器に入れた。溶けかかった表面部分を、お菓子ですくい取る。
「クリエイトでつくった水と、入れ替えたんです」
響が視線を移す。その先には水たまり。そこからも光の粒が途切れ途切れに現れ、消えていく。
「ふ~ん。なるほどねえ」
「ザッキーのやり方と同じだね。贋金を作って、本物と入れ替える。そして贋金はクリエイトを解除することで証拠隠滅……」
「まだやっとらんつっただろ! これ食って黙れ」
「ごむっ」
串でたけのこが口に押し込まれた。
「ぐ、ん。……わずかに残ったシャリシャリ感の中からお菓子の歯ごたえが。でも、コアラでやりたいね。中が熱いのと冷たいのとで二通り」
「だからコアラいじめんなって。響、あんたもやるでしょ?」
「に、にせがね作り、ですか」
おどおどと答えつつ、響は自分のマントを纏う。それを終えると、白いマントと帽子を箱から取り出した。これらはすでに乾いていた。
「アイスよ、アイスフォンデュ!」
栗子は響の目前で串を振る。
串の動きに合わせて、響の黒い瞳がわずかに揺れた。
「コアラで、ですか」
串の先端は鋭い。
「たけのこよ! あんたコアラ派なの?」
「わたしは、コアラいじめたくないです」
さらに目を凝らすと、串はドリル状の刃になっていることがわかる。
「よし。いい子ね。最後に一番大事な質問よ。きのこはどうなの?」
「きのこ……? 魔法のキノコは、食ヴぇたことないです」
「そりゃないだろうねえ……いや、そのキノコじゃなくて」
「まいたけ?」
「じゃなくて」
「きくらげ」
「でもなく」
「エリンギ」
「なんでそんな微妙なポジションのキノコばっかりでてくんのよ。エリンギとかありえない。こんぐらいの、もっとちっちゃい奴」
「なめこですね」
「滑って刺さらんわ。もういい。どうやらあのきのこ派じゃないみたいだし」
「『たけのこや 雪に顔出し 勇み足』」
「ちょ」
梓が自分で作った魔法の串を使い、バニラアイスの中にお菓子をくぐらせていた。
「一人でふたつも先に食うなって」
「息吹さんのだよ」
「なんだ、そーゆーこと。ならいいわ。ほれ」
カップを手渡した。
そのカップを受け皿にして串を持ち、梓が響に近寄る。
「はい、どうぞ」
「あ、どうも」
響はマントと帽子を栗子に渡してから、口許ちかくに突き出されたお菓子を手で受け取ろうとする。
「あーん」
「はい?」
「真顔で言ったらわからないでしょ……。貸して」
栗子は渡された帽子とマントを手早く身につけると、すぐに梓の手にあるお菓子つきの串を取り上げた。
「響、あ~ん、よ」
笑顔で迫る。
「あ、あのそれは……」
「上級生からのごほうび」
「あの、その、でも」
「なに照れてんの。上級生の言うことがきけないってゆーわけ? あ、そっか、男とやんないと駄目なんだ」
「ち、ちが」
「顔に書いてんぞっと」
「思考を読み取って文字を浮かばせる魔法だよ。ブレインの」
「えっ、えっ、えっ」
響はあわてて両手のひらで顔をゴシゴシとこすった。
その様子を見て、上級生二人が笑う。
「嘘だよ」
「書いてるわけないじゃん。『素敵なカレシと二人っきりでやりたい』だなんて」
「そう、そうですよね」
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ、と勢いが増した。
「うん、書いていないよ息吹さん……」
「書いてない書いてない……。響、やめよっか」
「やります」
顔が赤い。
「お、おし、じゃ、やるか。もいっかいすくって……。はい、あ~ん」
「あ、あ、あー」
「ほら、もっと大きく口をあけて。串が痛かったら手を挙げんのよ。知覚過敏でしみたときもちゃんと言えよ?」
「それじゃ歯医者だよ……」
「あー、ん。ん?」
響がいったん駐車場を見た。それから梓に視線を移した。もごもごと口を動かしつつたずねる。
「ちぃかづうぃて、むぁせん?」
後部側正面を三人に向けた2トントラックがエンジン音を鳴らしていた。アルミ素材のボックスが視界を狭める。三人との距離は、五メートルもない。
「そこに停めるんでしょ」
パーキングブロックを見て栗子が言った。トラックの後輪とブロックには間があった。
「入ってきたの、けっこう前です」
「じゃあ出るんでしょ」
エンジン音が大きくなった。
ギアが入り、ガタンと車が小さく揺れた。
「停めなおしだよ。後退灯が点いてる」
後輪が後ろ回りに動き出す。
しかし、車体は動かない。
二つの後輪はそれぞれ水たまりの上で耳をつんざく鋭い音を奏で、高速回転を始めた。