魔女の身だしなみ
「最後に、ここだけはやっておきましょう。光学顕微鏡で見た植物細胞は、核、細胞壁、細胞膜、液胞、葉緑体、ミトコンドリア。動物細胞は、核、細胞膜、ミトコンドリア、中心体、ゴルジ体」
廊下に教室内の女性教師の声が漏れてくる。
その声の若さは、廊下にいる梓の声にも匹敵する。
「あれ? 響の理科担当、ビーマーじゃん。何でまだやってんの」
「生物の最初のところだから」
今やってきた栗子が軽く驚き、二分前にやってきていた梓が答えた。
「あー……そうだった」
「細胞の維持にこだわりがあるからね。ある高名な建築家や美術史家は、こう言っている」
「なんて」
「『神は細部に宿る』」
「美魔女神ね。その神様の召喚、あたしにはまだ必要ない」
「まだ?」
午前最後の授業が終了する予定時刻を過ぎていたが、教師の話は終わらない。
「電子顕微鏡で見た場合には、小胞体、リボソーム、リソソーム。植物細胞のゴルジ体も見えます。細胞を魔法要素液に浸した後、魔法粒子顕微鏡で見た場合には大きく五つ」
梓は聞き耳を立てる。
栗子は全く聞こうとせず、廊下を歩く別の生徒たちを眺める。
「空中を飛ぶ魔法素粒子――あ、地中も水中も飛びますからね。真空中だって飛びますよ。そのびゅんびゅん飛んでる魔法素粒子が持つエネルギーを取り込んで、魔法粒子で魔法分子化合物を作るのがα器官。植物の葉緑体と同じです。α器官が多い部位は、脳、心臓、骨髄などです。この素粒子は人体も通過するから、奥にあってもいいんですね。葉緑体は表面でないと駄目です。ここ、葉緑体の光合成との違いは試験に出ますよ」
授業は続く。
「魔法分子化合物のひとつ……いわゆる魔法ホルモンですね。先生としては、この呼び方はどうかと思いますが、もう仕方ないですね。この魔法ホルモンを分解して魔法エネルギー、すなわち魔力を発生させるのがβ器官。ここのこれ」
教鞭で黒板を軽く叩く音がした。
「β器官が多いのは、手、目、唇、舌、声帯、横隔膜です。皮膚や髪の毛にも結構あるんですよ。みなさんもキチンとお手入れしましょう」
この女性教師は、授業を早々に切り上げてβ器官とその周辺部の手入れに励むことで有名だった。授業の打ち切り方はレーザーメスよりも容赦なく、一方的で、今回の長話は例外的なものだ。入学したばかりの一年生は、まだそのことを知らない。
「γ器官は、魔法器官の維持や分裂に関係します。中心体やリボソームを合わせたようなものですね。覚えきれない? ブレインの授業、まじめに受けていますか」
そのブレイン系統に関する魔法の授業は、この日、行われていなかった。
「四つ目はδ器官。ここでは、魔法分子化合物から別の種類の魔法分子化合物を作ったりします。ここは名前だけ知ってればいいです。医療魔法科以外の人は、二年で生物を選択したら詳しくやりますから。えー、そして最後はε器官。これはまだ働きがよくわかっていません。っと、時間が来てましたね。どうやらみなさんの口がεなので、今日はここまでにします」
教室の中が騒がしくなった。
二、三人の男子生徒が戸から飛び出して、食堂方向へ駆けてゆく。
「終わった」
「よし」
栗子は教室前側の戸口に立ち、中で座っていた響を手招きした。
響が戸口の二人を見つけて席を立った。二人に近づく。
「どうか、したんですか」
「昨日の夜の話だけど」
梓が話の口を切った。
「はい」
「今日ね、ブレイン専門の先生、来ていないんだ」
「えっ」
「その人、非常勤なんだ。職員室にもいない」
「そうですか……。あの、明日は」
「午前中だけ。午後は学校にいない」
なお、他の授業は午後にもある。そのことが響を落胆させた。
「その先生が放課後まで残っているのって、いつなんでしょうか」
「さあ……」
「すぐ帰っちゃうもんねえ、あのセンセ。教育的配慮ってやつ?」
栗子が含み笑いをする。
響は不満をあらわにして言う。
「残って相談に乗ってくれるのが、配慮だと思います」
「まあ、普通はね」
「そのひと、普通じゃ、ないんですか? おかしな趣味をしてるんだったら……」
変態にサイコメトリーを依頼するわけにもいかない。
「そうじゃないんだよなー。梓、音声遮断したほうがいい?」
教壇の近くには人が多い。理科教師の実年齢を知らない男子生徒たちが彼女を取り囲む。その外周から、梓たち三人は五メートルも離れていない。
「もう公然の秘密だよ。一年生にも、いずれバレる」
「じゃ、いいでしょ。その先生、校長センセの男だって噂」
響がぽかんと口を開ける。
「本人は、大学で研究するから早く帰ると言ってるよ」
梓が補足した。
響は、驚いたまま動かない。栗子が首を傾けて、響の顔を覗き込んだ。
「どしたの。そんなにびっくりした?」
「あの校長先生に、彼氏がいたなんて……」
「あ、そっちに驚くんだ……」
「ザッキー、息吹さんの反応は不自然じゃないよ。同じ職場のカップルそのものは珍しくない」
「それもそっか」
合点がいったのか、栗子が二回うなずく。
梓が響に話しかける。
「だからね、息吹さん」
「趣味が……でも危ないわけでも……」
「息吹さん?」
「あ、はい」
「だから、大学まで行ったほうが早いんじゃないかと思うんだ」
「大学まで? 大学の先生もしてるんですか」
「大学院生だってさ」
「しかも、防災大の大学院」
「あっ」
響の亡き姉は、同じ大学の学生だった。
「この学校でするより、お姉さんのこと話しやすいかもしれないよ」
「そうですね……。日曜日に、訪ねてみます」
「一人で行くの?」
栗子がたずねた。
「一緒に、きてくれるんですか」
「そう。日曜は天気よさそうだし、寮にいてもつまんないから、あたしたちも一緒に行こうかなーって」
「場所もよくわからないですし、おねがいします」
「うし、決定。そんじゃ皆で突撃取材といくか」
上級生はそう言うと、下級生の肩をポンと叩いて笑った。
日曜日、午前八時。
梓、響、栗子の三人は寮の玄関前で出発の支度をしていた。
教師に会いに行くということで、三人とも制服姿。ただしその上に着ける帽子とマントの色は別々だ。梓が赤、響が黒、栗子が白。手荷物として梓と栗子が箒、響が杖を持つ。
スマートフォンを見ていた梓に栗子が声をかけた。
「梓、準備できた?」
「最後の確認。天気予報によれば、今日は午前、午後ともに快晴」
人工衛星を用いた高精度の観測結果と熟練の予知能力者の直感を組み合わせた予報には、多くの人間が信を置いている。ただし、ゲリラ豪雨の予知については、なお改善の余地が大きい。
「響は」
「もう少し、です」
促された響は帽子のつばの角度と髪の収まり具合を何度も微調整した。
「これで……よし」
「帽子とマント、うぜーよな。つっても、つけずに飛ぶとオマワリがうざいし」
練成術で作られた魔法化学繊維が織り込まれた帽子は、衝撃を予知すると自動でシールドが展開する。エアバッグ式ヘルメットと同様だ。マントには自動シールド機能に加え、パラシュートに類似した機能が付与されている。
響が首をかしげた。
「一文字さん、あのとき、つけてませんでした」
響はゴーレムで出動したときのことを思い出していた。
「うん。おかげで、あのあと警察から学校に連絡が来て、職員室に呼び出されて叱られた。証拠品の杖に私が指紋つけていて、サイコメトリーされたんだ。二重に叱られて、せっかくの実績が一週間も持たずにフイになったよ……」
「ぷっ。ダサ……」
「今日はきちんと着けとくよ」
梓はそう言うと、無造作な手つきで顔の前に茶色のヴェールを垂らした。
「ぷっ。あいかわらず似合わねーし」
「赤で固めるのは、あまり好きじゃない」
「いや、変なの色じゃないし」
「笑いすぎだよ。大体、君だって黒以外は似合わない。白だと禍々しさが足りない」
「女医が白なのはあたりまえ。まあ、あんたの血で赤く染め直してやってもいいけど?」
「……白でも十分だったね。クリエイト、単独式」
魔法の粒子が箒に集まる。ごくわずかに色のついた、ほぼ透明の小さなサドルと鐙が出来上がった。一本の箒に、二人分が前後に配置された。風防も作られた。
箒は地面から数十センチの高さで、水平に浮いた。
梓が鐙に足をかけ、前のサドルにまたがる。
「さあ、乗って」
「すみません。まだ一人で乗れなくて」
「早く免許取れるといいね」
「取れるんでしょうか……。ドライヴは苦手……」
響が後ろのサドルにまたがった。右手で杖を持ち、左腕を梓の腰に回し、左手で梓のマント右側をたぐり寄せて握った。その隣で栗子が自分の箒にまたがり、前傾姿勢になる。
「よし、行こう」
「おし」
「ドライブ、複合式」
「ドライブ、複合式」
二本の箒が音もなく宙を滑る。
寮の門を出た三人は、低空飛行で道路に繰り出した。
少しの間、二筋の光の尾がカーブを描いてその場に残り、やがて空に溶けゆく飛行機雲のように散って、消えた。