一服
朝礼のときに倒した少女を背負い、梓はゆっくり歩く。
保健室のある棟の中に入った。
「あんた、やってくれたじゃん」
背負われているピアスの少女が話しかけた。
「抜けるにはそうするしかない。演技は通用しない」
「……なんかムカつく。人に腹パンしといてクール面すんな。たるめ、たるめ、たるみさらせ!」
ピアス少女は梓の頬を片手で引っ張る。
「やむぇてふぉすぃいな」
「賠償があるまで続けるかんな」
「クフィウェイトで作った金でうぃうぃかな」
「あんたのクリエイトはしょぼいからダメ。すぐ消えるじゃん」
「君ほど贋金作りが上手い人はそうそう……ぶにー」
犯罪者扱いされた少女は、両手で頬を強く引っ張りなおした。
「まだやっとらん」
「むぁだ?」
保健室に着いた。戸を開けて中に入る。
魔法高等学校の保健室は、入口から向かって左半分が通常の学校のものと同じだ。
カーテンで区切られたベッドスペース。椅子と机。棚。身体測定用の器具。
金属製の机と棚に収められた医療器具と薬品は、現代科学技術によって作られたもの。置かれている書物も、科学的な現代医学に基づいて書かれている。
部屋の残り右半分は、鏡で返したように対称的な間取りをしていた。
ただし、寝台に魔法陣が描かれていたり、木製の棚に古びた壷、乾燥した薬草の束、皮袋、医学魔法事典などが収められていたりといった違いがある。
棚の奥には、本物の髑髏もある。死後の献体に同意した有徳の魔法使いのものだという。
「先生はいないね」
「くつろげていーじゃん。おろして」
ピアス少女は魔法陣の描かれた寝台に腰を下ろすと、左手で自らの腹部を撫で始めた。
「アルケミー、複合式」
左腕につけたミサンガが、柔らかい水色の光を発した。
「よし大丈夫、順調順調」
お腹をさする少女の顔に、笑みがこぼれる。
その様子を見た梓が、少し怪訝な表情でたずねる。
「まさかとは思うけど……何ヶ月?」
「何ボケてんの! ヒーリングよ、ヒーリング。あんたが殴ったんでしょ」
「ひょっとして、お腹の子供に……?」
「アルケミー、【血液凝固】」
「うわっ」
低速で飛んできた直径十センチほどの赤い魔法弾を、梓は慌ててかわした。弾は壁にぶつかり、散り散りになって消えた。
「今度言ったらマジで当てにいく。心筋梗塞か脳梗塞になるからな」
「ザッキー、その治療魔法の使い方はどうかな」
「あんたの口の使い方よりマシ」
「心配しただけだよ。出来てたんじゃないんだね」
「当たり前でしょ」
「それなら休もうか。静かな環境で一句詠んでリフレッシュ……」
梓が思案しつつ窓の外を眺めていると、廊下が騒がしくなった。二、三人の男子生徒が何かを話しながら、保健室に近づいてくる。
「入ります」
戸が全開になった。
「あれ、いないのか」
戸を開けた男子生徒が言った。彼の後ろには、少し間隔をあけて二人の男子生徒が立っている。そしてこの三人に囲まれた位置には、二本の箒と布で作られた担架が浮いていた。箒は柄の部分が魔力によって伸ばされ、担架の部品として十分に役目を果たしている。
「何かあったの」
「あ、山崎か。そういやお前もいたんだな。二人目だ」
担架には一人の女子生徒が乗せられていた。保健室の中からスカートと脚は見えたが、上半身は見えなかった。
「ああ、なるほどね」
「お前は大丈夫そうだな」
「戻る元気はない」
「嘘つけ。もう回復してるだろう」
「まーね。つっても、あたしは保健委員だから、ここにいないとまずいっしょ。さ、あんたたちが戻んな」
「『講堂や 熱血指導の タルタロス 君春眠に 神曲を覚ゆ』」
梓が一首を詠んだ。タルタロスとは、ギリシャ神話における奈落のことである。どこまでも深く、際限がない。
男子生徒が舌打ちした。
「くそ……じゃあ戻るぞ。お前も早く戻れよな、一文字」
男子生徒たちは担架を運び入れ、保健室に残った三人の女子生徒をそれぞれ一瞥してから、出て行った。
魔法の箒で作られた担架は、魔法陣が描かれたベッドの前で停止した。
保健委員が仕事に取り掛かろうとする。棚から医学魔法事典を取り出し、左腕で抱えた。左腕のミサンガが輝き、事典を淡い水色の光で包み込む。その間に担架がベッドに着地した。
「さて、はじめっかな。ん、どしたの」
梓が運ばれてきた少女に近寄り、顔を見つめていた。
「知り合いなんだ。一年生の息吹さん。私がこの子の案内担当」
「ふーん。ブレイン、【メディカルスキャン・ベーシック】」
水色の薄い板状の光が現れ、横たわる響の体を頭上から足下方向に通り抜けてゆく。
「どう?」
「体には異常なし」
「体には?」
「たぶん心因性。今は少しヒーリングしておくぐらいでいいでしょ。精密検査すれば何か出てくるかもしれないけど」
毛布を掛けて、ベッドで寝かせておくことになった。
悪夢でも見ているのか、響は顔をしかめ、ときおり小さな唸り声を上げる。額の汗を拭きつつヒーリングの魔法をかけているうちに、数分が経った。
「う、うう。う~ん」
薄目を開けた。二人が覗き込む。
「ここは……」
「保健室だよ」
「保健室……。あ、一文字さん。運んでくれたんですね」
「それは別の人。ここで介抱したのも私じゃない」
梓が隣の少女に目を移す。
響も上半身を起こし、そちらに目をやった。
「ありがとうございます。えと……」
「あたしは山崎。山崎栗子。こいつのルームメイト」
梓を親指で示しつつ、保健委員のピアス少女が名乗った。
「息吹響です」
響が足を床に下ろした。その立ち上がろうとする気配を察し、栗子が声をかける。
「もういいの?」
「はい。だいじょうヴです」
「ろれつ回ってなくない?」
「何とも、ないです」
「心配事があるんじゃないかな」
梓が横から訊ねた。
「えっ」
「ケガや病気じゃないそうだから。授業についていけないか、それとも課外活動の実戦がストレスになっているか。それで気分が悪くなったんじゃないのかなって」
「ホームシックかもね」
ホームシックという言葉を聞いたとき、響の視線が揺らいだ。しかし、響はかぶりをふって答えた。
「いえ、ちがいます」
「じゃあ何だろ。ま、言いたくないなら、それでもいいけど」
栗子が右手で自分の頬をぽりぽりと軽く引っ掻く。それからおもむろに歩き出し、事典を棚に片付けた。
「何か相談したくなったら、私達の部屋に来ればいいからね」
梓はそう言ってから、壁時計に目をやった。
「さて、そろそろ戻ろうか」
「そうすっかな。あいつらチクってるだろうし」
二人が保健室から出ようとする。響はベッドに腰掛けたままだ。
「教室、ですよね」
二人が立ち止まり、振り返る。
「体育館だよ」
「校長先生、まだお話しているんでしょうか」
たずねる顔は、憂いを帯びていた。
「あ。あんたも戻りたくないんだ。長い上に暑苦しいもんねえ、校長センセの話」
「そうでなくて、事故の話が……」
「事故?」
梓と栗子が顔を見合わせる。そしてすぐ二人揃って、響に視線を戻した。
言うか言わないか十秒ほど迷った後、響はゆっくりと口を開いた。
「姉が交通事故で亡くなったんです。雨の日に……轢き逃げされて」