ズルと熱血のルツボ
入学式とその午後の出動から一週間が経った日の朝。
通学路を歩いていた梓はふと立ち止まり、箒の先を目の高さまで掲げ、詠じた。
「『枯れ枝の 穂にひとかけら 桜色』」
箒を下ろすと、また歩き出した。
その後ろから響が近づく。鞄と杖をそれぞれの手に持っている。入学式当日と異なり、帽子とマントは身につけていない。制服と長い黒髪に、数枚の桜の花びらがアクセントをつけていた。
「おはようございます」
「ん? あ、おはよう」
二人は並んで歩く。
「寮には慣れたかな」
二人は、同じ学生寮の別々の部屋に住んでいる。
「はい。トイレ以外は」
校舎と寮のトイレには、ともに床と壁面に魔法陣が描かれていた。魔法陣を構成する紋様と文字は同じだった。
「まあ、ああしとけば無駄がないからね。生徒全員の分を集めれば、かなりの魔力量になる」
「落ち着かないです」
「そのうち慣れるよ」
「箒、いつも持ってるんですね」
「自転車と杖の代わり。自転車代わりといっても、近いけどね」
桜の枝葉の間から、赤レンガの校舎が見えた。
「あの、ひとついいですか」
「何」
「学校、全寮制ですよね。みなさん寮住まいだって」
「そうだよ」
微風が道を通り抜けてゆく。話しながら歩く新二年生と新入生の周囲には、いま誰もいない。
「人数、少なくないですか。新入生も、わたしの他に二十人ほどしかいないんです」
「ここはもとから志願者数が少ないからね。合格したのに入学しない人もいる」
「どうして」
「一つは、土方仕事が多いから。堤防決壊を食い止めるときに、校舎も服もドロドロ」
「校舎も……? ゴーレム、ドカタさんだったんですかっ」
「何だと思ってたの」
「ドカタさんに運ヴぁれる側かと」
「そういうこともあるね。災害から人々を守って名誉の戦死。土といえども、その最後は美しい。土方と同じ綴りに土方の美学がある」
「一文字さんの美学はよくわかりません……」
「そのうちじっくり話すよ。少し急ごうか」
校門の傍らで、若い男の教師が生徒達に呼びかけていた。今日は朝礼があるから、すぐ体育館に来るようにと。
体育館に全校生徒が集まった。
その数は、百人をわずかに超える程度だった。
整列はしているものの、並ぶ順序は生徒達の自由。移動時に混雑したり点呼に手間取ったりするような人数でないことに加え、防災大附属校の教育方針でもあった。生徒たちは避難誘導を受ける立場ではない。避難誘導を行う側の人間、避難を支援する人間になるべく教育されるのだ。
朝礼が始まって十分以上が経過した。
「……私からの注意は以上です」
外出時には必ず行き先を告げること、事故には十分に気をつけること、寮の門限は厳守すること、不審者に気をつけること、不審物が寮にないか気をつけること、見つけたらすぐに報告すること、などをしつこく生徒達に言い聞かせた生徒指導担当の教師が言葉を区切ると、生徒たちは、やれやれと溜息をついた。
「では次に、校長先生からお話があります。皆さん、静かに聴いてください」
「げっ」
「げっ」
「げっ」
「うわ」
「ぐわ」
蛙の合唱さながらの生徒たちの悲鳴に手を上げて応えつつ、校長姫宮が壇に上がった。
マイクスタンドを脇にどけ、両手を腰に当てて仁王立ちし、館内を一通り見渡す。そして口を開かずに、話し出した。
『さあ我が愛しき生徒諸君、お待ちかねの学校長訓話の時間だ。歓喜に沸き、感泣にむせび、感動に打ち震えるがよい』
ピシィィィーーーンと、体育館の窓ガラスに圧力が加わった。
そのガラスを見上げる教師と生徒たちのほとんどは、それが物理的にも魔法的にも強化された物体であることを知っている。
「校長」
並んでいた梓が、いち早く手を挙げた。
『何だ一文字』
校長の瞳に魔力がみなぎる。目は口ほどにものを言う。
「ブレインはやめてください。頭痛がします」
『だらしがないな。もっと耐性を高めねばならんぞ。お前らも痛いか』
全校生徒が何度も頷いた。
「ならば、またの機会にしよう。洗脳になっては教育とは言えないからな。声を使うのも気持ちがいいものだ。あー、あー。マイクテスト。マイクテスト」
マイク使ってねえだろ、という生徒の声を掻き消して、館内に校長の声が轟く。
「では始める。これからする話は、お前たちも一度は聞いたことがあるはずだ。魔法開発時代が来る前の、あの有名な交通事故の話だ」
その話は多くの者が知っていた。
高校をドロップアウトして以来の約二十年にわたり部屋に引きこもっていた男が、親の葬儀の日に兄弟の手によって家から追い出され、それまでの人生を悔いつつ道路を歩いていた。そのとき居眠り運転の暴走トラックに出くわし、たまたま同じ道にいた高校生数人を庇って轢かれ、死亡した。要約すればこのような内容だ。
何年前の話だよ、今さらその話かよ、という声も掻き消して、訓話は続く。
「事実かそうでないのか、真偽ははっきりしていない。事故のことは根も葉もないただの噂話に過ぎないのかもしれん。しかし、だ。ここには大事な教訓がある。いいか、よくきけ」
俺たちは中退なんかしませんよ、ちゃんと登校してますよ、だから早く終わってください、と大勢の生徒たちが目で訴える。
「男は自分の才能に見切りをつけていた。何をやっても上には上がいる、どうやっても追いつかない。やれることはやったのに。と、そう思っていた。だが、男はあることに気づいていなかった」
生徒たちのウンザリした表情に、校長姫宮は気がつかない。
「事故が起きたのは秋の初め、台風シーズン真っ盛りだな。その豪雨のときだ。雨音は激しく、見通しは悪く、足場は悪い。そして男は小太りで体重百キロの巨漢。長年部屋にこもりっきりでまともな運動はしていない。雨水を吸い込んだ服は重く、体温を奪われ、心身ともに疲弊していた。衝突前から肋骨が折れていた、とも言われている」
キモい男の話はもうやめて、と誰かが呟いた。
「にも関わらず、男は猛スピードで突っ込んでくるトラックの運転手の居眠りに気がつき、離れたところにいる高校生たちの口喧嘩の内容を聞きとり、その場で駆け出し、暴走トラックよりも早く高校生のところに到達し、腕を引っ張って助け出した。そして、はずみで自分の体が衝突コースに入り、潰された」
諦めムードが体育館に広がる。
「うむ、聡い者はもう気がついたであろう。男には魔法の才能があった。豪雨の中で、離れたところの高校生の話を盗み聞く。晴れでも見えにくい、猛スピードで動く運転席の中を見る。これらはブレインの系統。移動能力を高める加速と飛行能力、これはドライブの系統だ。重力操作かもしれんがな。ああそこ、ツッコミご苦労。だがな、引っ張ったときに体が前に出るのは、それが自分より重い物の場合だぞ。パソコンのマウスを手前に引いても、体は前に出ん。つまり体重百キロの男の体は、重力操作か飛行能力により軽くなっていた」
熱弁は止まらない。
「つまり、アルケミーとクリエイトのことはわからんが、少なくとも二系統の魔法を使ったということだ。魔法技術が御伽噺だと信じられていた時代にだ。そこ、この事故の話自体が御伽噺だと? それは言うな! 昔は魔法ホルモンの変換補助装置もなかった? 気にするな。代用品になるものがあったんだろう」
ごほん、といったん咳払いした。
「要するにだ。男は生まれるのも早すぎたが、自分の才能に見切りをつけるのも早すぎた。努力らしいことは色々やったそうだが、一年やそこらで投げ出したそうじゃないか。死に物狂いになって才能が開花したのは、死の直前。しかも、自分に魔法の才があったと察する間もなく死んでしまった。実にもったいない!」
拳をにぎりタメを作る校長に、居並ぶ教師陣からも抗議の視線が飛ぶ。
時間がもったいない、と。
「さて、ここで生徒諸君に自分の身を振り返ってもらおう。今は魔法能力の測定装置も、測定技術もある。測定基準もある。学習カリキュラムもある。男が生きていたときとは違う。だがな、それが何だというのだ。能力を測定する機械や方法は、魔法技術がない時代にもたくさんあった。だがそれで人間の可能性は測り切れなかった。今でも測り切れてるとはいえまい。お前はそんなもんで自分のことを知ったつもりになっているのか。自分の限界が分かるというのか」
「あの、校長……それは立場上ちょっと」
進路指導担当の教師が声をかけたが、無視された。
「お前は本当に努力したのか? 死ぬ気で、人生と命をかけて取り組んだか? 才能ってのはな、そうしないと目覚めないもんなんだ。目覚めてもまた眠っちまうものなんだ。がんばらねえやつは、才能があったとしても腐ってくんだ。可哀相だろ? お前のことじゃない。お前の隠れた才能とまだ見ぬ可能性とがだ。今の基準や成績が何だというのか。そんなものはどんどん変わっていく。胡坐かいてないで、想う方向に駆け抜けろ。壁にぶつかったらぶち壊せ。飛び越えろ。常識の壁の向こう側にこそ、お前らの未来がある!」
「あー、暑苦しい……」
梓の左隣に立っていた女子生徒が、片手で顔を扇ぎながら呟いた。ブレザーのスカート丈は短く、ブラウスも第二ボタンまで外していて谷間に隙間風が入り、他の生徒より涼しげな格好ではあったが。
「ザッキー、この話はまだ続く」
梓が小声で話しかけた。
「わーってる。冷却魔法でも使うか……」
話しかけられた少女は、耳のピアスと左腕のミサンガに意識を集中し、魔法を使おうとした。しかし教師数人に睨まれた。
「ちっ。音声遮断じゃねーのに」
「あの冬の雪山遭難者救出作戦のときにも言ったな。吹雪の中ではリフトは使えない。そんなチンケな思い込みに囚われていては……。ケーブルの上を駆ければ何ということも……」
説教はいまだ続いている。
「梓、あんたはあのウザい話、平気なの」
「大丈夫。宋代のある禅僧は、こう言っている」
「あんたの口癖もウザい。で、なんて」
「『心頭滅却すれば火もまた涼し』」
「火事嫌いのくせに。大体、それ話聞いてないだけ」
「よくわかったね。脱出する?」
「いいけど、どうすんの」
「まず……」
左拳を握り締めた。
そして、誰の注意も自分達に向いていないことを確認すると――。
裏拳一発。
ピアス少女の腹部に決まった。
「ゴホッ。ちょっ……」
ピアス少女はセミロングの濃い目の茶髪を揺らし、フロアシートの上に崩れ落ちた。
すかさず梓が叫ぶ。
「先生! 山崎さんが倒れました!」
「あんたが倒したんだっつーの……」
倒れた少女のかすれ声は、他の生徒たちのざわめきに紛れて、誰にも届かない。
騒ぎを打ち消すように、校長の大声が放たれた。
「うろたえるな! 確か、熱くて苦しいと言っていたな。熱病であろう。この学校の王である私の耳は、聞き逃していないぞ。保健委員! 保健委員はまだか!」
「倒れた山崎さんが保健委員です。私が運びます」
言いながら、梓はすぐに倒れた少女を背負いにかかる。
「そうか。ならば行け」
二人は脱出に成功した。