Bright Flood(ブライト・フラッド)
無意味な隠伏。
ブラッドノアに乗る瀧殿には、響が見えていた。コックピットの水晶玉モニタに響の姿が映る。機体の索敵魔法は、正確に彼の邪魔になる存在を捉えていた。
「今のうちに仕掛けるか」
響が持つヤタガラスの杖。その杖は現在、魔力吸収の機能を中断している。
拒絶反応に耐えきれないからだ、と彼は思った。魔法ホルモンのアレルギーは、死んだことのある人間にとってすら苦痛。死んだことのない人間には、言うまでもない。
攻撃すればいい――。
答えは明快。杖の能力がなければ、ブラッドノアが負けることはない。一方、杖の能力を使えば体にさらなる負荷がかかる。吸収する魔力とホルモンの量は半端なものではない。種類も多く、アレルギーは複合して起きるだろう。普通ならばショック死。運が良くても気絶を免れない。
彼は準備に入った。
管制塔をジャックするためのブレイン魔法。
機体の周囲を飛ぶ蝿二匹を捉えるための熱線。その熱線を当てるための予測魔法。
そしてヤタガラスの杖の少女を葬るための砂球――これは魔法の毒砂【アデニウム】で作りあげたものだ。【アデニウム】の発動には高濃度の魔法ホルモンを必要とする。すなわち魔力吸収を使えばアレルギー、使わなければ砂の毒。
「手こずらせてくれたな」
彼はモニタを睨んだ。大きなシャボン玉の中にいる二人を睨んだ。
二人。
またも紗都希の像が現れていた。今度の像は高校の制服を着ていない。風貌がいくらか大人びている。成人後の、大学にいたときの、何かを研究していたときの姿だ。彼はその研究内容が戦闘目的でないことは把握していた。
前回と同じく、紗都希は穏やかに微笑む。
その笑みには自信と確信が加わっていた。また、どこか希望を秘めていたようなところがなくなり、達成感に満ちた表情に置き換わっていた。
――逃げろ。
無意識の声が彼自身に告げた。
――あいつにはもう関わるな。
彼が高校時代に模擬戦の相手から向けられたどの攻撃的な感情よりも、殺意よりも、紗都希の笑みは脅威に思えた。彼が基本的な見落としと重大な読み間違えをしていることを予感させた。
――あいつにお前たちの価値観は通じない。
声は、彼自身よりも大きな対象に言い放ったように思えた。ブラッドノアの機体全体を包んだ感があった。
――逃げろ。
彼は無意識の声に従う気になった。
しかしそのときにはもう、彼の乗機は動かなくなってしまっていた。
ブラッドノアの巨体は突然、全身に泥を浴びた。泥は空中に現れた四つのテレポート用魔法陣から噴出され、機体に降りかかった。甲冑の表面のみならず、可動部と甲冑の隙間にも入り込み、そこで固まって動きを封じた。
『この魔力、またお前か。生きていたとはな! 何者だ』
瀧殿はテレポーター管制塔の方向へテレパスの魔法波を飛ばした。機体に泥を浴びせた張本人は塔の外壁近くにいる。魔力感知用のレーダーに強い反応がある。
『教師様だ。学校テロリストは我々が抑えると生徒に約束したのでな!』
姫宮の声に合わせて、新たな泥が四つの魔法陣から噴き出した。今度の泥はロープ状になり機体の四肢に巻き付き、縛り上げる。
ブラッドノアは魔法で振りほどこうとする。
まずブレインで遠隔操作を遮断しようとしたが、縄の表面に張られたファイアウォールに防がれた。
次にドライブの念動力でねじ切ろうとしたが、縄は弾かれただけで切れはせず、また機体にまとわりついた。追加の泥も加わって、胴体も縛った。
『フハハハハ。我々の【泥濘の縄】はただの泥縄とは違う。コシがあるんだよ、コシが!』
『やかましい奴だ……!』
瀧殿は最も強力な手段に出た。流星に撃ち抜かれていた片翼が再生され、両翼が大きく広がる。翼からは大小幾多の炎の蛇が生まれ、泥の縄に次々と噛みついた。
『土に還れ! 海に墜ちろ!』
『我が校に炎は効かんぞ。貴様は泥沼にはまった!』
炎に包まれた泥縄は赤茶けたレンガに変わったのみで、ブラッドノアの機体からは剥がれない。
姫宮はブラッドノアとは別方向にテレパスを送った。
『一文字、行け! お前の教室はここだ』
レンガ・ロープの一部が光った。ブラッドノアの肩甲骨に当たる場所だ。
『テロリストよ、ひとつ言っておく』
姫宮は口調を落ち着いたものに変えた。
『フン、俺はテロリストじゃあないぜ!』
瀧殿の口調は半ばヤケ気味だった。それでも彼は、会話の間にロープから脱出する方法を探していた。
『学校の主役は生徒だ』
姫宮は普段の瀧殿以上に皮肉っぽく、不敵に言い放った。
『テロリストと教師は仲良く引き立て役になろうじゃないか』
梓の乗る箒は急上昇した。
敵機の頭上高く、まるで星に向かうかのごとく、高度を上げた。加速のための距離を稼いだ。
当初の方針と異なり響の攻撃準備はまだだったが、姫宮たちが敵を押さえ込んでいる。仕掛ける好機には違いない。
方向転換中に勾玉を取り出した。右手に握る。しかし管制塔内のときと同じく、魔力を込めても羽は満足に形成されない。
「素手でやるしかないな」
眼下の巨大な炎の翼を見据えた。根元に目印の光はあるが、火勢は強い。炎を浴びずに目的を達するのは不可能だ。
「ある高名な乳母は、こう言っている」
梓は落ち着いて言葉を口にした。静かに自らを鼓舞した。
「『知仁武勇は御代の御宝』――ドライブ、【アクセラレイト】!」
箒は急加速の上に急加速を重ね、一直線に急降下した。
羽が生えた。
炎の翼に突入する梓の手から、一本の黒い羽が生えた。
――あれ、なんて言ってたっけ?
栗子は思い出せなかった。
彼方から飛んできて、急降下開始直後の梓を直撃した魔法弾の色。その魔法弾と同じ色をした、二メートルほどの一本の羽。炎とのコントラストで浮かび上がる、紫がかった、艶やかな黒。
――濡れ羽色か。
色の名前を思い出したとき、自分がすべきことも思い出した。
蘇生魔法用の道具を回収しなくてはならない。
栗子が箒で空中静止している場所は、ブラッドノアの斜め下。海面ギリギリの高さだ。
上空で、巨大な炎の翼が震えた。
わずかに時をずらして、二つの翼はそれぞれビクンと一度だけ震えた。そして大小二つの赤い塊がそこから落ちた。小さな塊は緩慢な速度で海に近づく。大きな塊は小さな塊をあっさりと追い越し、勢いよく海に突っ込んだ。
「あー、ふたつか」
栗子は面倒くさそうに言うと、響のいる管制塔の島の方を向いた。
「しっかりぶっ放せよな、響」
ブラッドノアやその周囲の空には、もう目もくれなかった。
響は杖を両手で構え直した。
梓に届けた魔法は、海中で消えた。栗子の箒のテールライトは、海面近く。今なら上級生たちを巻き添えにする恐れはない。
でも、とためらった。
倒そうとしているゴーレムは、姉が高校生活を過ごした校舎だ。思い入れのある場所に間違いない。事実、サイコメトリーの魔法を撃ち込んだら、姉の残留思念が現れたのだから。
――お姉ちゃん。
小さい頃と同じように、響は姉に呼びかけた。杖の中にある数滴の血から生じた像だった。同じシャボン玉内の、響のやや斜め前方に紗都希は立つ。
紗都希は何も言わず、振り向きもしなかったが、その横顔が見えた。
大人の顔だ、と響は思った。優しさも穏やかさも昔と変わらない。ただ、それに大人の責任感が加わっていた。
響は迷いを振り切った。悪用されるわけにはいかない。思い入れのあるものだからこそ、悪事に、特に人殺しのための道具にはされたくないだろう、と。
ヤタガラスの杖が魔力吸収を開始する。
魔法粒子と気化した魔法ホルモンが大量にシャボン玉になだれ込む。
彫像内の宝石三つが異常な輝きを帯び、響は目を細めた。光は際限なく強くなるように思えた。
視覚に制限を受けても、複数の感覚が手から伝わる。
魔力が蓄積される感覚。
それとともにある、杖の中にある確かな存在感。心臓から送り出されるすべての血液と共鳴するような、懐かしい体感。
『【七里結界】、転送』
優しい姉の声。同時に、梵字とアルファベットで構成された複数の文字列がシャボン玉内部に浮き上がり、環状に連なり、響を核にして原子構造を模した図を描く。
多目的型選択式多元世界転移魔法――。
響はその立体魔法陣に守られた。痛みも疼きも体から消えてゆく。それらの感覚は周囲と体内のアレルゲンもろとも、何物も存在しない、空虚な異界へ飛んだ。
力と二人の意思だけが残った。
「【スターライトフォース】、統合!」
両手で杖を大きく振り上げた。
吸収される紫の粒子と物質の流れが揺らぐ。それらの一部はふわっと散り、シャボン玉の周囲でらせん星雲のように渦を巻く。
紗都希は目を閉じ、小さく頷いた。響の行為を承認するかのように、また、その結果を自らに納得させるかのように。
「クリエイト――【ミルキーウェイ】!」
響が杖を振り下ろす。
方向制御できる限界までたまった力は、解き放たれた。
ひときわ強い一閃。
三重らせんの流星は、三つの宝石それぞれからの絶え間ない連射によって一つの大きな流れを形作り、さらにはらせん星雲の魔法粒子群をも巻き込んで、大河のごとく膨らんだ。
魔法の天の河は即座に数百メートル先のブラッドノアを捉えた。
光の奔流の中で、炎の翼が崩れた。
機体を縛る泥濘の縄も崩れた。
光は全身を浸食する。
再生する力は最早ない。魔法具ウロボロスはすでに切り離され、ヤタガラスの杖は残る力を奪い続ける。ブラッドノアは緊急警告音を発し、機能停止状態に陥った。
崩壊が進む。
腕が溶けて消え、脚も溶けて消えた。胴体の外殻も消え、内部のタンクから大量の液体――魔法ホルモンと血液が飛び散る。血はシャボン玉に引き寄せられ、結界で濾過され、ヤタガラスの杖に吸われて、ブラッドノアの心臓に送り返された。輝く血液の逆流は、赤く巨大な結晶を超新星のように爆裂させた。無害化された無数の煌めく破片が海に降った。
頭部も崩壊を免れ得ない。
コックピット内の赤い卵形シールドが丸裸になる。
このシールドだけは、光の洪水に対して意地を見せた。機体の名に恥じぬ働きを見せた。
シールドは外殻を何重にも強化し、中にいる男を強制的にコールドスリープさせて海に落下し、搭乗者保護の使命を全うした。
――幾度となく生き返ってきた男は、仮死の柩に幽閉された。




