邪法
踏みしめたフローリングの床がわずかに軋んだ。
その音が室内をどの程度伝わったのかは、わからなかった。
教室前側の戸を開ければ、そこはトンネル状の通路になっていた。ここの高さと道幅は通常の廊下と変わりない。
梓は警戒しつつ先に進む。
急激に視界が開けた。
天井がふたたび高くなった。
教室は縦二百メートル、横百六十メートルの広大な空間となっていた。ローマの円形闘技場が収まるサイズだ。
机は大学の大講義室と同じものが階段状に並べられている。数万人が座ることができるほど数が多い。広さのみならず形までコロッセオを模したかのような、教室中央の大きな楕円形の平面部を取り囲む配置。ただし黒板側のみは異なり、議事堂の議長席や法廷の裁判官席のような形で教卓と教員席が設置され、この教卓の向かって後方に立体映像の巨大黒板が高く浮く。
黒板には以下の表示がされていた。
『――模擬戦・タイプI(個人対抗戦)――
二年A組、学年ランク109位「久陽 勇夢」対146位「羽木 武琉」
を開始します。
部外者は直ちにグラウンドから離れてください。
授業開始時刻がすぎました。
指定の場所にいない生徒は速やかに移動してください』
異常は表示の文章だけにとどまらない。
座席はほぼすべてが空席。
そうでないものにはブラックキューブがでかでかと鎮座する。キューブは座席とその間の通路に約三十個が散在し、そのうち十数個の立方体上に直径約三十センチの透明な球体が乗っている。
また、グラウンド上のほぼ中央に十メートルほどの間を開けて二個のキューブがある。これにも透明な球体が乗っている。
さらには教壇にも三つのキューブがあり、そのうち二つが粉々に破壊されていた。破壊されていないキューブの横には一本の杖が立つ。彫刻の蛇が一匹巻き付き、取っ手の部分に首飾りぐらいの大きさの輪が掛かっている。この輪の形状もまた蛇だ。
「あれだ……」
梓は遠隔操作魔法で杖と輪を取り寄せようとした。
しかし魔法は途中で打ち消された。どこからか飛んできた魔法波と梓の放った魔法波がぶつかって干渉しあい、杖の前の空間に縞模様のひずみをつくった。
『ハハハ、ずぼらなお嬢様だな』
脳内に直接生じる男の声。テレパスだ。
魔法波の飛んできた方角を見た。
教室後ろ寄りの通路を男が下りてくる。
一部が血で染まった金色の髪。いずれも黒のジャケット、ドレスシャツ、ボトムス。男はコンビニ事故のときと全く同じ装いだった。重傷を負っているところまでもが同じ。意識があるかないかの違いしかない。
『そいつは俺が使う』
男は両手にそれぞれ何かを持っている。右手に持つものは遠くからでもわかった。キューブ上にあるものと同じ透明な球体だ。左手にあるのは杖ではない。それよりもずっと短いものだった。
男がグラウンドまで下りた。歩いて杖に近づいてくる。
梓もテレパスを使い、男に話しかける。
『君はすでに一つ持ってるじゃないか』
ヒーリング装置・ウロボロスは『アスクレピオスの杖』とセットでなければ使えないわけではない。防災大附属校の体育館で観た映像で梓はそのことを知っている。また、医療用の魔法式が組み込まれているアスクレピオスの杖は、高価ではあってもさほど珍しいものではない。性能は圧倒的にウロボロスが上回る。
『使用中さ』
テレパスをする間にも二人の距離は縮む。
男の左手にあるものが判別できる距離になった。
男は左手に右手を持つ。
人間の右手。
前腕部の半分から先の部分だ。やや骨張っていて、小指と中指に指輪が一つずつ嵌っている。手首の部分をウロボロスが鮮やかな炎を発して腕輪のように取り囲む。炎を浴びても右手は火傷せず、血色はひどく良い。むしろ右手を持つ左手の方の血色が悪かった。
『管理室の死体は君のしわざだね』
『ああ、管理者は殺った。こいつは生きてるけどな』
右手がピクッと動く。
右手はおもむろに握りこぶしを作り、さらにそこから人差し指を立てる。男はこの右手を使って梓を指差した。すると透明球の乗っていないブラックキューブから一斉に光線が出てしばらく梓の指輪を照射したが、それきり何も起きなかった。
テレパスなしでも話せる間合いになった。
「ハッ、理事長一族のご令嬢をキューブで矯正する必要はない、というわけか」
梓は相手が自分を誰かと勘違いしていることに気づいたが、訂正はしなかった。
「キューブからみんなを解放するんだ。警察には通報した。これ以上の犯行は無益」
「回線はとっくに切断済みさ」
「ホットラインがあるんだ」
相手の勘違いを利用して言った。
「ハハハ、そうか。ならば最後の抵抗とやらをさせてもらうぜ。ドライブ、複合式」
男は右手の透明球を放り出し、指から魔法波を放つ。
透明球の乗っていないキューブすべてが宙に浮いた。
一個が急加速され横から飛んでくる。
「ドライブ、単独式!」
梓は大きく後方宙返りしてかわした。外れたキューブが最前段の座席を破壊して騒がしい音を立てた。
その後も同様の攻撃が続く。
床すれすれを水平に飛ばす。真上から落とす。回転させてカーブをかける。浮いたキューブは様々な角度から、その全部が投げつくされた。梓はそのいずれをも回避した。
「さすがにこんなものには当たらないか」
「このタイプの攻撃は経験済みだからね」
男は自身の右手で後頭部を掻いた。
「仕方ない。残りの血をお前のために使ってやるよ」
掻いた手を下ろしたとき、それには血がべったりとついていた。嵌められた四つの指輪も血まみれだ。
「花は好きか?」
「何だって?」
「贈り物さ」
男の周囲に無数の花が現れ、広い室内を埋め尽くさんばかりに増えてゆく。
花は全体としてはラッパ型の形状。先端は桜のように五つに広がる。当初の色は桜をやや濃くした程度のピンクだったが、男の指輪に付いた血が沸騰して蒸発すると同時に、薔薇のように艶やかな赤に変わった。
「邪法、【アデニウム】」
詠唱が済むと、作ったばかりの花が早くも散りはじめた。
しかし、花びらが落ちたのではない。花は膨大な量の砂に変化して舞い上がり、砂嵐を起こして男の姿も室内の光景も覆い隠した。
梓は手早く帽子のヴェールを垂らし、マントとあわせて防砂のためのシールドを張った。薄い魔法の膜が梓を包んだ。
姿勢を低くして風圧をこらえる。
「目隠しにしてはおかしい……」
目印になるものがある。男の嵌める四つの指輪がなおも強く輝き、砂嵐の中でもはっきりと位置がわかる。男は杖に掛けられたウロボロスの方へゆっくりと歩いていく。
「あれは渡せない……うっ」
ドライブの魔法で脚力を強化して進もうとしたところ、砂に顔を叩かれた。防砂シールドに破れがある。ヴェールにも裂け目があった。頬に小さな傷がつき、わずかに血が滲んだ。
「クリエイト、複合式」
シールドの上に水流の層を常時つくり続けることで、ガードを固め直そうとした。
梓の左手から水が大量にあふれ出る。
だが、その量は梓がイメージした水準をはるかに超えていた。左手は極太の水道管が破裂したかのような状態。足下の水たまりはすぐさま池に変わり、砂で濁った水がグラウンド上に広がっていく。制御も粗く、水流はシールドのずっと外側で、無意味な円運動となって現れた。
魔法は失敗。
呼吸が思わず早くなる。心拍も強く感じた。
「あせったらだめだ」
大きく一息入れて、やり直す。
「クリエイト、複合式!」
今度は直径一センチにも満たない水玉がぽつぽつと生じたのみ。あっという間に風で吹き飛ばされた。ボロボロになったマントの破片も飛んだ。
焦りが募る。動悸が激しくなる。頬には新たな小傷ができた。
「クリエイト、うっ……複合式……」
途中で頭痛とめまいに襲われ、吐き気も催した。水を作る魔法は発動せず、冷や汗だけがだらだらと全身に流れた。箒を手落とし、床に膝をつく。
『美しい花には毒がある』
男がテレパスで言った。風はやみ、散った砂は集まって固まり、花の形と色に戻った。
『ど……く……。毒か……。即……ぶ……つ的すぎ……るね』
クリエイトだけにとどまらず、ブレイン系魔法のテレパスも乱れた。
『ハハ。女に騙されたこともあるんだぜ。やつはとんでもないものを盗んでいきました』
『それは……高名な……警部の……』
『物理的にだがな』
男の歩みはアスクレピオスの杖のところにまで達した。杖を眺めながら言う。
『まあ、いまでも俺の方が濃いだろうが』
梓の方に振り返った。
赤い花がふたたび砂になる。つむじ風が吹き、魔法の砂が梓の首の周囲を取り巻いた。蛇の形に凝集し、首を絞めにくる。
「う……」
『理事長一族のお前には死んでもらう。血が流れないようにな』




