そして魔法女学生は空を舞う
「『翼ふたつ 雲を流して 青に浮き 桜林が われらを望む』」
前傾姿勢で高速飛行する土人形の眼下には、市街地が広がる。咲き誇る花弁に満ちた公園、学校、街路はその中にいくつもあったが、頭部コックピットの中からはピンク色のただの点にしか見えない。
「だいぶ近づいたね。用意はいいかい」
一首詠み終えた梓が問いかけた。
問いかけられた響は、レーダー機能を果たす水晶玉をじっと見つめて動かない。肩がこわばり、杖を両手で強く握りしめる。口は固く閉じられたままだ。
「息吹さん?」
「あ、はい。何でしょう、か。しゃもじ、さん」
潤滑油が切れた歯車のように、響はぎこちなく首を振り向けた。その細い目と眉が眉間に下向きの鋭角を二つ作っている。目尻が吊りあがるのみならず、同時に目頭を下に引いたかのような鋭さ。微動だにしない瞳が梓にプレッシャーを与える。
「い、いちもんじ。危ないから、その目でこっちを見ないでくれるかな」
「すみ、ま、せん」
響は三段階に分けて、再び前を向いた。
「いきなりゴキッといかないでもらいたいな。入学早々で、緊張するのは無理ないけれど」
「初日デュヴィアで高校デヴュウ……」
「なに? ドビア?」
ある生物の学名が"Blaptica dubia"である。その歴史は古く、"Blaptica dubia"の祖先は恐竜の時代よりもはるか前から、この星に存在していた。
「いえ、何でも、ありません……。く……ぷ……ぷ」
響の口許が緩んだ。より正しくは、口許だけが緩んだ。
「笑うか緊張するか、どちらかにして……怖いから」
黒板の地図表示が変化した。
表示される範囲は狭くなり、情報は詳細になった。目標は近い。
「ブレイン、【演算補助】」
コックピットにあって立体画像を映す二つの水晶のうち、梓の正面に浮いているものが少し暗くなった。そこへ、新たに図形と数式が浮かび上がる。
図形は、縦横高さの三つの軸、下へ伸びる筒状の放物線、放物線の近くにある無数の矢印。
数式は、図形上の原点と放物線の脇に現れた。項の多い式が延々と連なる。
「速度は十分。地上への角度も……」
「高校の、ふーっ、数学、ふーっ、むずかし、そうですね」
横目で響が覗きこむ。深呼吸をしても、緊張は解けない。うっすらと額に汗がにじむ。
「大学の物理だよ。流体力学。私も自力じゃ解けない」
梓は微笑を浮かべて答え、目を閉じた。ふーっと息を吐き出した。
吐き出し終えると目を開けて、静かに言った。
「よし、行こう。【ユラヌス】解除」
計算音が消えた。
「翼、消したんですか」
「そうだよ。消した」
「この『altitude』というの、高さのことですよね」
「そう」
地図上において自機の位置を示す光点の横に、データ表示がある。数字がめまぐるしく減ってゆく。
「これ、落ちてますよね」
響の顔で、汗が玉になった。
「落ちてるよ」
「ついらく?」
汗の雫が一滴、床に落ちた。
「じゃないから、心配しないで。軌道計算はできてる」
「でも、でも」
前方の窓から地平線が見えた。複数の建物も見えた。地平線は徐々にせり上がり、建物は徐々にその輪郭を拡大させていく。住宅らしきものはなく、高層ビルもない。あるのは工場群だ。
二人が乗るゴーレムは地球に引かれて、加速を続ける。
「ちゃ、着地するんですよね。ちゃんと、ちゃんと、できるんで――」
しかし、降りる場所はなかった。
顔から大地に飛びこもうとしつつあるゴーレムの前には、灰色の建造物が待ち受けていた。
「気が散るから、黙って」
梓は響の訴えを退け、操縦桿である箒の柄に両手で新たな魔力を注いだ。
水晶玉を見据える。
軌道計算用の図と式はなくなり、灰色の建造物が画面の多くを占める。その建造物は中心からずれて映っていたが、梓が箒をわずかに動かすと、中央に位置するようになった。
工場ではない。
それは石像――二つの手と二つの足を持つ、翼が生えた巨像の後ろ姿だった。