巨獣行進曲
「お医者さんを、呼ヴぁないと」
「かがんで」
「えっ」
梓は響の頭を押さえ、無理やりしゃがませた。同時に自分の姿勢も低くし、響を連れて植え込みの陰に身を潜めた。管理事務所の室内からも道路からも人に見られない位置取りだ。
「犯人がまだ近くにいるかもしれない」
「はんにん?」
「あれは吐血じゃない。鋭い何かで切られてる」
「するどいもの」
響が目を泳がせたそのとき、植え込みの隙間から標識と金網フェンスの一部が見えた。肉食獣・有毒獣管理区域を知らせるものだ。標識に採用されたシルエットは、魔獣・ベヒーモス。牙と爪が太く鋭い。
「魔獣が、暴れたんじゃ」
「机の上のぬいぐるみはたくさんあったのに、散らばっていなかった。爪のひっかき傷や噛みつかれた痕もなかった。魔法でうまく狙い撃ちされたんだ。人間がやったんだよ」
梓はそろりと窓のそばに戻り、室内を再確認する。
その間、響は道路を見張った。
「間違いない。よく見えないけど、あの棚も荒らされたみたいだ。鍵の部分がおかしい」
「魔獣です」
「電話しようとしたところをやられてる。魔獣にスマートフォンのことが分かるかな? それほど知能が高い魔獣は、ここにはいないと思うよ。麒麟は大きすぎて、部屋に入れない」
「魔獣に、違いないんです」
「けっこう強情だね」
梓はあきれた顔で響を見た。響は梓を見ず、遠くを見つめていた。
「たヴん、一文字さんのせいです。いじめたりするから」
「なぜ私が? そもそも、私は魔獣をいじめたことなんか……」
「だって、あれ」
響が道路の彼方を指差した。
魔獣園の正門がある方角だ。その方向から、複数の人の叫び声のようなものと一緒に、灰色の小山のような物体が近づいてくる。ズン、ズズン、ズン、ズズン、ズン、ズズン、という、規則的かつ異様な重量感を伴う音も聞こえた。
たまたま通りがかった一人の客が笑い出した。
「はっ、ははっ、これはねえよ。ふひっ、ふへへへへ。うわーっ」
その若い男性客は、あわてて魔獣園の別門へ走っていった。
道路に影が伸びる。
植え込みにも、建物にも、影が差した。あたり一面を影が覆い尽くした。
やってきた動く山――巨獣は、事務所の手前で立ち止まった。何かを探すように、首と上半身をゆっくりと左右に動かす。
魔獣『ファスコラルクトス・C・グランディス』。立ったときの高さは約三十二メートル。九階建てのビルに相当する。
容姿はズングリムックリとした体型、丸顔丸耳、大きな黒い鼻。
白と灰色の柔らかい毛皮で身を包むこの獣は、本来ならば、つぶらな瞳を持っている。しかしその瞳はいま赤黒く濁り、両目とも別々にあらぬ方向を向き、一定しない。
口はだらしなく開いて、二本の牙がそこから覗く。巨大なヨダレの一滴が落ち、道路と植え込みを油っぽく緑がかった液体で汚した。
「こあ……おっきい……。うっ……」
「シェルターの中にいたはずなのに……」
ファスコラルクトスが事務所の方に向き直った。一歩、また一歩と、路面にヒビを入れ、植木を踏みつぶし、迫ってくる。
「まずい。逃げるんだ!」
梓が箒を水平に構え、魔力を込める。箒に乗って逃げる態勢だ。
しかし響は地面に膝をつき、動こうとしない。呼吸が荒くなった。
「息吹さん!?」
「うう、はあっ、はあっ。あたま、が」
響は左手を額に当てて苦しむ。それでもなんとか立ち上がろうとして、よろめいた。事務所の外壁に片手をつき、転倒を防いだ。
「あのときと同じ……? うっ」
梓が呻いたのは頭痛のせいではなかった。ファスコラルクトスが上半身を大きのけぞらせ、両腕を大きく振りかぶったからだった。
巨獣の両手が建物に打ち下ろされた。
最上階・四階の一角が無残に散った。コンクリートの塊とガラスの破片が凶器となって周囲に降り注ぐ。
「伏せて!」
半球状の黄色い光が二人を守った。とっさに振り上げたマントのシールド機能によるものだ。
巨獣はその後も管理事務所を叩き続けた。
残骸の豪雨が降りしきる中、梓はマントの端から巨獣を見上げ、脱出の隙を窺った。
巨獣は狂っているとしか思えなかった。右目は空の彼方を向き、左目は白目を剥きながら、それでも一発も外すことなく建物に打撃を加え続けたのだ。人為的な狂気に支配されていた。
角の柱に太い亀裂が走る。
二人が巨獣の足下から脱出するよりも早く、シールドの効果が切れるよりも早く、建物の耐久性が限界に達した。
倒壊する二秒前か、あるいは三秒前か。
梓は男の横顔を見た。
閉ざされていたはずの自動ドアから、スルリと出てきた男の顔を。
狂った巨獣を見上げ、冷笑を浮かべたその横顔は、紗都希の同期生であり、トラック突入に巻き込まれて病院に搬送された男――瀧殿のものに間違いなかった。
この男がなぜここにいるのか。
とっさに浮かんだ疑問は、灰色の土煙と倒壊音の中に紛れて消えていった。