それぞれの自主練
翌々日、火曜日の午後一時。
防災大附属校の校舎は、日曜の昼から続く快晴の下にあった。
薄いブルーの空には一羽の鳶が悠々と舞い、暖かな日差しに誘われた小動物を狙うべく、地上に睨みを利かせていた。
「『春の庭 ロールキャベツと まわる鳶』」
中庭のベンチに座る梓の膝の上には、弁当箱。
それとは別に、包みが開かれていない弁当がひとつ、梓の横に置かれていた。すぐそばで魔法の練習に打ち込む響のものだ。
「ヴ、ヴ、ヴ、ヴ、ヴ。ヴレイン。ヴ、ヴ、ブ、ヴ、ヴレイン」
響は黒い帽子と黒いマントに身を包み、直立していた。左手に書物を広げて持ち、前方の空間を凝視して、発する言葉には力がこもる。
春キャベツに包まれた合い挽き肉を狙い急降下を始めていた鳶は、響の放つ気配を察知するや急旋回して、どこかへ羽ばたいていった。
「レイヴンを召喚するとでも思ったのかな」
レイヴンとはワタリガラスの英語名であり、ワタリガラスに関する神話や伝説は北米や北欧に残っている。
「息吹さん」
「ヴ、ヴ、ヴ」
「息吹さん」
「あ、はい」
「少し休もう。昨日も休まず練習していたね」
「でも」
「貧血になるとよくない。魔力変換の効率が悪くなりやすいんだ。血流で体内の魔法ホルモンを運ぶことは覚えてる? 先週の理科だったと思う」
響は少しの間ためらったが、梓の提案を受け入れることにした。
「わかりました」
響もベンチに腰掛けた。書物を脇に置き、はあ、と小さくため息をついて、緩慢に弁当の包みを開く。
梓は置かれた書物に目を落とした。
表紙には『応用魔法波学』とある。大学で使うブレイン系統の魔法教科書だ。これは日曜日の大学研究室からの帰り際に、響が十六夜から借り受けたもので、響自らサイコメトリーが使えるようになって、姉の他の遺品からも残留思念を読み取ることが目的だった。
「うまく、いかないです。どうしたら、いいんでしょうか」
「そうだね……前にも引用したある高名な文豪は、こうも言っている」
「なんて」
「『癖はなかなか抜けないものだ』」
「よく、わかります」
響は梓をじっと見て、実に納得のいった表情で同意した。
「続きがあるんだ」
「どんな」
「『おまえの特性の方を伸ばせばいいのだ』」
「師匠も、そう言っていました」
「癖をつけた本人が言うのもどうかと思うけど……。他が実際に伸びてるから、それでいいのかな。君のお師匠さんは、クリエイトかアルケミーが専門?」
「いえ、ひととおり、できるそうです」
「それなら、サイコメトリーはお師匠さんに頼めばいいんじゃないかな。学校の先生より頼みやすいと思うんだ」
「姉が亡くなってから、会ってないんです」
「どんな人?」
「姉の知り合いです。同じ高校の三つ上の先輩で、大学で一緒に研究したことがあると、言ってました。博士になるそうです」
「お姉さんの。女の人?」
「おとこのひとです。でも姉の彼氏とは、違うみたいでした」
「連絡先はわかるの?」
「姉の電話とパソコンにあったんですけど、警察の人が持っていって、それっきりです」
「警察が」
前にも聞いた話だった。
そのときと同じく、梓は不審に思った。紗都希の関係者が捜査の対象になっているとしか思えない。しかし黙々と食事を取る響の憂い顔を見て、それを口に出すことはしなかった。
中身を半分以上残して、響は弁当箱を片付けた。
すっくと立ちあがる。
「自分でがんヴぁって、やってみます」
「うん、今はそれがいい。中世ヨーロッパのことわざにも、こうある」
「なんて」
「『ローマは一日にして成らず』」
「二日じゃ、駄目なんでしょうか」
響は引用癖の抜けない梓にそう言うと、練習に戻った。
その日の放課後、梓はひとり教室で掃除をしていた。
「『塵照らす 春陽の中に 帚の音』」
孤独を嘆くようでは、俳聖・松尾芭蕉の境地からはほど遠い。むしろ他人の干渉がない機会を活かして己が心底を澄ませ、事物の微細な変化を読み取ってその妙味を文芸に表そう――とどこかの文芸評論誌の受け売りのようなことを考えて、平然として床を掃いていた。
『ぴん、ぽん、ぱん、ぽん』
「ブレイン、【干渉防御】」
『くおらあああっ! いきなり遮断するとは何事だ!』
蝉よりもやかましい、ファイアウォールを突き破る校長の声と魔力。
『侘び寂びの雰囲気が壊れます』
『掃除の時間だ。茶道部の活動は後にしろ。お茶はコックピットのメンテを終えてから飲め』
『文芸部です。何か用ですか』
『警察の者が来ている。生徒から詳しく話を聞きたいと、申し入れがあった』
『そうですか』
『山崎と息吹に用があるそうだ』
『わかっています』
『わかっている、だと? 聞き捨てならんな』
『大したことではないです。日曜から予想済みです』
『そうか、ありえんと思っていたが、私の思い違いであったか。息吹まで巻き込むとは、けしからんな』
『そうですね』
『他人事のように言うな。お前も当事者であろう』
『そうですが』
『ほう、あっさり自白したな』
『黙っている必要はないですから。日曜のことは、校長も十六夜先生から聞いていますよね』
『うむ。山崎と息吹が病院で病院に行ったそうだな』
『その通りです』
『下見ということか』
『精密検査ですよ』
『入念だな』
『大事を取りました』
『口ほどでもないではないか。足がつかないようにせねばならんぞ』
『何を言っているんです?』
『今さらシラを切るな。お前が主犯か』
『あの、主犯というのは……?』
『窃盗と建造物侵入の容疑だ。お前は乗機のわりにやることのスケールが小さいな。もっと大それたことができるように教育すべきであった。……おっと言い忘れていた。悪事はいかん』
わかったら校長室へ来いと言い残して、校長姫宮からのテレパスは終わった。
雷声が消え、静けさが戻ると、梓はさっそく一句を詠んだ。
「『春雷は 雨をたずさえ 濡れ衣』」
外は相変わらずの、快晴だった。