4章
四章
「夏葉ちゃん、なんか元気ない?」
つい最近、似たような言葉を聞いたような気がする。
声をかけてきた琴江が敏感なのか、余程自分の態度が露骨なのか。なんにせよ、常に多大なる心遣いをしてもらっているのはよくわかる。
「もしかして、またはじまったとか?」
先日まであった嫌がらせについては、犯人の目星がついて、すべて希世の方で決着をつけたのだと説明をしておいた。その方がいいだろうというのが希世の案だったが、確かに夏葉から本当のことを説明するのは難しい。特に、視聴覚室での出来事も話てしまいそうな自分だ。ぼろが出ないようにここは従っておくのが利口だろう。
「ううん、それはもう大丈夫」
「じゃ、何か悩みごと?」
「違うよ、琴江。この感じは、恋の悩みよ」
ゆずの目が輝いたような気がする。
「そうなの、夏葉ちゃん?」
「いやー……期待に添えなくて申し訳ないけど」
恋なわけはない。相手は人ではないのだ。人ではない上に犬型であり、妖だ。どういう心理かは、正直、夏葉自身がわかっていない。
銀王が不在にして一週間が経過していた。心配とは、多分違う。漠然とした喪失感のようなものがあって、その不安定な心のせか、幼い頃に見た嫌な夢が途切れず続いている。
「じゃ、何? お姉さんが聞いてあげるよ」
「別に悩みはないよぉ。単なる寝不足。夢見が悪くて」
あながち嘘でもないことを言って笑ってみせると、ゆずが、なあんだと肩を落とす。
「でも、なんかあったらほんとに言ってよ」
「へえ、頼りにしてます」
微笑んだ夏葉に、そうだと琴江が声をあげた。
「あのね、文化祭の予定メニューを検討したでしょ」
琴江が鞄をごそごそと漁る。
「でね、その予定表っていうかこういうのやりますって内容の資料、予算と合わせて昨日家で作ったの。実行委員もOKって言ってたから、生徒会に提出してもらっていい?」
「もちろん!」
でも、と夏葉は続けた。
「ほんとに琴江にやってもらっていいのかなぁ。大変じゃない?」
「大丈夫だって。それに本当に駄目になったら助けてもらうもの」
「ありがと、ごめんね」
琴江の厚意には感謝しきれない。
「ほんとになんでもやるから。算数以外ならなんでも言ってね、絶対だよ」
「でもさあ、会計ってさ、算数基本じゃない?」
ゆずがぼそっと呟いた。
「夏葉、ゆずちゃん嫌い」
夏葉は頬を膨らませた。
「牧名さん」
生徒会室へ向かう途中、声をかけてきたのは白鷺優斗だった。
「もしかして生徒会に用?」
頷く夏葉の元へ、爽やかな笑顔で駆け寄ってくる。
生徒会はこの時期が一番忙しい。自主性を重んじる校風の榊学園では文化祭に関わる殆どを生徒会に一任しているといってもいい。学園を挙げて行われる文化祭は一年で最大の行事であるから、生徒会としては体育祭なんかとは比較にならない仕事の量になるのだろう。その証拠のように、優斗の手には大量のファイルがあった。
「すごいですね、そのファイル」
「ああ、過去の予算の資料でね。参考にしようと思って」
ファイルの背表紙には年度の記載がある。生徒会ではその年ごとにファイルを作成しているのだと優斗が説明した。
「大変ですね」
「まあ、普段これといって何もしてないしね」
部活にも参加していない自分に比べれば、格段にましだ。
「今日は、どうしたの?」
「予算の概算を出したので提出に」
「じゃあ、受け取っておくよ」
手を出そうとした途端、ファイルの束が廊下に散らばった。
「あ、牧名さんみたいなことしちゃった」
落としたファイルを一緒に集めながら、優斗は頭をかいた。
「あたし?」
「おちょこちょいっていうか」
「……あたしってそんな印象ですか」
実際、それは仕方ないともいえるだろう。ちょうどどじを踏んだ場面に何度も居合わせれば夏葉だってそう思うに違いない。
「ごめんごめん。でもさ、女の子はそのくらいの方がいいよね」
仏頂面で拾ったファイルを差し出すと、受け取りつつ優斗が微笑んだ。
「飽きないし、なんか、放っておけない感じがする」
「そういうもの、ですか?」
「人それぞれだろうけどね」
最もなことを言って、優斗が歩き出す。夏葉も一緒に歩を進めた。
「ところで、最近、学校にね。大きな犬が出るって噂があるんだけど、牧名さん知ってる?」
夏葉は軽く息を呑む。
「お……大きな、犬ですか?」
それはどんな犬かと問うと、優斗は首を傾げる。
「僕は見てないんだけど。とにかく大きくて、黒色だとか銀色だとかって」
――銀?
「文化祭も近いし、野良犬なんかが紛れてるんじゃ大変だと思って」
銀王かもしれないと思った。怪しい気配がすると言って学校に来ていたことがある。再びその気配を追って敷地内にいる可能性はあるかもしれない。
「もし見かけたら気をつけて。絶対近づかないように」
手が塞がっている優斗に代わって生徒会室の扉を開ける。数人の生徒が待っているのを避け、ファイルの束を机に置くと夏葉を振り返った。
「まだ被害とか出ていないけど、何かあってからじゃ遅いからね」
夏葉の書類を改めて受け取って優斗が微笑む。もし見かけたら教えて欲しいという優斗に了承を伝えて、夏葉は生徒会室を後にした。
その後、下校時間まで学校内を歩いてみたが銀王がいたような形跡はなかった。もちろん本当の犬ではないから痕跡が残るようなことはないだろうが……。
ここ数日、すっかりため息のベテランのようになってしまった。幾度なく大きな息をつき、すっかり暗くなった道を自宅へと辿りはじめた。
***
少年はひたすら走った。
荷物なんてとっくに投げ捨ててどこにあるかはわからない。そんなことなど今はどうでもいい。迫ってくる足音から逃れることがすべてだった。
最近、耳にした噂がある。大きな犬が追いかけてくるのだというそんな話だ。単なる都市伝説だと思ったが、事実と認めざるを得なくなった。今、自分を追いかけてきているのは他でもない、その噂のものであった。
「く、来るな!」
逃げ込んだ先は行き止まりだった。闇雲に走り、気がつけば見たことのない景色だ。一体どれだけ走ったのだろう。左右を建物に囲まれ、正面には高い壁、逃げ道はない。
振り返ると暗く光る瞳が近づいてくるのが見えた。空気が震える程の不気味な唸り声。知らず後ずさり、背中が壁に触れていた。
「――ひっ!」
月明かりを背にした影が躍り上がった。
頭をかばった腕に鋭い痛みが走る。続いて制服が裂ける音と皮膚を突き通す異物の感覚。横薙ぎの焼けるような痛み。視界に広がったのは、僅かな月の明かりに照らされた赤黒い液体と何やら尾を引く物体の陰。
腹部が肥大するような感じはすぐにとんでもない激痛に変わった。ぱたぱたと地面に音を立てて落ちているのは血だ。長く伸びた物は、己の腹から引きずり出された腸であった。
見る見る広がる赤い海。少年はその場に膝をついた。
「はひ……ひ、ひひゃああっ」
痛みの為か、信じがたい現実のせいか、少年は訳のわからない声を発する。
「怖いか」
月の光を受けた怪しい艶やかな毛並みが問う。
「いいね、いい顔だ」
長い舌が、赤い池を舐める。満足気に細められた目が輝く。
少年は戦慄した。ゆっくりと歩み寄る獣にひたすら首を振る。もう声すら出なくなっていた。
そんな少年の様子に、獣は笑ったようだった。眼前に迫った恐怖に目を閉じた少年の耳に、不快な破砕音が届く。
それっきり、少年の意識は闇となったまま戻ることはなかった。
***
犬の噂を夏葉が再び耳にしたのは、副会長の白鷺優斗から話を聞いた翌日のことだった。クラスの男子の友人がそれらしいものを見たのだという。
「どこで見たの?」
好奇心一杯にゆずが問う。
「中等部の校舎裏らしいよ。友達の弟がいてさ、部活終わって帰ろうとしたらいたんだってさ」
「ほんとにぃ?」
「ほんとだって」
「ねえ、そいつって顔が人間だってほんと?」
「それって、すっげー昔にあったってやつじゃねえの?」
「犬っぽかったって聞いたけどなぁ」
なあんだ、とゆずが口を尖らせる。
「大きいだけなんて、いまいち面白くないよね」
「でも、怖いよ。野良犬なんでしょ?」
琴江が眉根を寄せる。
「病気とか持ってるかもしれないから、噛まれたりしたら大変だよ」
「襲ってきたりするのかな」
さあ、と男子が首を傾げる。
「こっちの姿を見たらそのままどこかへ逃げたって言ってた」
ゆずが形のいい顎に指をあてる。
「ねえ、夏葉はどう思う?」
「え?」
おとなしく聞いていた夏葉は、突然水を向けられて目を丸くした。
「巨大犬の噂。どうせ嘘だと思わない?」
犬という言葉が気になる。銀王なのか、そうでないのか。
優斗の話を聞いた時も銀王かもしれないと思った。だが、多分違うだろうという思いが強くなっていた。
銀王であってほしいと思う反面、なぜだか、違うと半ば確信めいて思っている自分。
ひょっとしてと考えること自体が間違いかもしれない。多少の例外はあれ、普通は人には見えないと話していたのだ。頻繁すぎる目撃情報は銀王だとは考えにくいではないか。
「どうせ、ただの犬だよ」
「だよねぇ」
ゆずが大きく伸びをする。同時にチャイムが次の授業開始を伝えた。
「ほんとなら見て見たいな」
自分の席に戻りながら言うゆずに、琴江が心配げな顔を向けた。
「ええ? 危ないよ、ゆずちゃん」
「大丈夫よ。で、ほんとに人間の顔してるのか確かめるの」
「写メでも撮るか」
いいね、と笑いあう声に、夏葉は微妙な笑顔を浮かべるのが精一杯だった。
一人きりの家に帰りたくなくて、夏葉は駅近くの本屋に立ち寄った。珍しく小説を二冊購入してそのまま駅ビル内の喫茶店で時間を潰していた。
巨大犬の噂を聞いた修叔父からの呼び出しで希世は実家に行っていた。希世が上梨の家に戻るのは珍しくはないが、今の夏葉にはあまりうれしい出来事ではなかった。遅くなればなるほど暗い家に帰るのはいやだが、広い家に一人でいるにはなんだか空気感をもてあましてしまう。
希世がいればまだよかったのだ。文化祭で多忙にしている彼女のために食事を用意するとか家事の当番を代わるとか、やることがある。不在となってしまえば自分のためだけに何かをする気力なんて出てくるはずもない。
もしかしたら銀王が戻っているかもしれないという期待はもうなかった。ここ数日、期待するたびにあてが外れ、その喪失感が蓄積して飽和量限界だった。
何がいけなかったのだろうと思う。
どうして戻ってこないのだろうと思う。
そしてなぜ、戻ってくるという考えになるのかと、抱く疑問――そもそも、自分と銀王の関係とはなんなのだろう。
手にした本はページが進まないまま。ホットを頼んだはずなのにカップの中の珈琲は既に完全に冷めていた。
何度目かのため息をついた時、視界の端で動くものがあった。目を向けると柔和な笑顔があった。夏葉の向かい側の椅子を指差し、首を傾げる。恐らく一緒にお茶をしてもいいのかの確認だろう。夏葉は頷いた。
「読書?」
ウエイトレスにミルクティーを注文して、腰を下ろしながら白鷺優斗が尋ねた。
「ええ、まあ」
優斗は制服ではなかった。スリムな濃い目のデニムにざっくりとした淡いグレーのセーター。眼鏡もなくラフな感じが学校で見かけるきちんとした姿と違い、より大人びた印象があった。
「牧名さんって、この辺の人?」
夏葉が頷く。
「こんな時間まで、家の人が心配するんじゃない?」
夏葉は曖昧に笑った。そんな様子に優斗が首を傾げる。
「なんか元気ないね、牧名さん」
「え?」
「何か心配事?」
「白鷺先輩は、友達と喧嘩ってしますか?」
ほんの少し迷ってから、夏葉は口を開いた。
「喧嘩? まあ、たまにはね」
喧嘩したの? と問われ、夏葉は少し躊躇ってから多分と答えた。
「原因はよくわかんなくて。多分、何か怒らせるようなことを言っちゃったんだと思うんですけど帰ってこな――じゃなくて、全然連絡が取れなくて。理由とか、ちゃんと話せてなくて」
もやもやするのは、その後話せていないからなのかもしれない。ちゃんと理由がわかれば、謝ることだってできるかもしれないのに。
「だから、どうしていいのかわからなくて……」
次の行動に移れない。だから、突きつけられた言葉のショックから立ち直ることができない。
「そういうことってあります?」
優斗が暫く考える風に空中を見る。
「手紙を書くとか? とにかく会って話そうとしてみるかな」
「会えなかったら?」
「……諦める」
「諦める?」
優斗が苦笑した。
「だって連絡も取れない、会えないじゃどうしようもないからね。諦めるというと語弊あるけど、相手からの行動を気長に待ってるかな。それしかないよ」
「気長に、待つ」
「会えた時にちゃんと話せるように心の準備をして待ってる。だから落ち込んだりはしない」
カップを口に運んで優斗が続ける。
「落ち込んでちゃ、何もできないからね」
なんとなく、そうなのかもしれない。
「その相手って、彼氏?」
「え、な、ななんでですか」
「そんな感じに見えたから。違うの?」
「ち、違いますよ! そんなんじゃないです、全然全くほんとに、絶対に」
「そんなに力いっぱい否定するとかえって怪しいね」
「……っ」
必死に否定するのを優斗が笑う。指摘されたことで夏葉自身、急に恥ずかしくなった。
「牧名さんって、ほんとに可愛いよね」
「……そ、そんなっ」
「ほんと。素直で、わかりやすくて、面白い」
頬を染める夏葉の前で優斗が満面の笑顔で頬杖をついた。
***
月は今日もぼやけた光を放っていた。現代では、星も月も、地上の明かりに負けてしまっている。月明かりなどなくても、人は夜道に困ることはない。
「闇が怖かった時代は、もう終わったと思っていたか?」
闇そのものを背負ったような巨大な影が言う。
「逆だろう。闇が怖いから、こんなに明かりを灯すんだろ」
ちらつく街灯の下、問われた男はただ首を振る。質問の意味もわからなければ答えを見いだすこともできない。舌なめずりせんばかりの、声の主は人ではなかった。
鋭い鉤爪がゆっくりと迫る。正確に眉間の中心へと突き刺される。
「力が足りなくてな」
切っ先が鼻に沿って、器用に表面の薄い皮膚を裂く。ぷつぷつと浮いた血玉が静かに細く赤い筋を作る。
「頭は、あまり好きじゃない」
でも、と影が笑う。
「目玉は悪くないんだ」
「ひいっ、やめろ!」
尖った爪が男の左目を突き刺した。夜の闇に絶叫が轟くと影は不快げにその目玉を男の口へと押し込んだ。繋がったままの組織が口と目を結ぶ。大量の血が黒く空いた眼窩から零れ、口へと流れ込む。
「うまいだろう?」
気を失うことは、痛みが許してくれなかった。残った目が、残忍に笑う巨大な獣をただ見返す。恐怖に短い呼吸を繰り返すたびに、生暖かい錆びの味が広がった。
「今日も、結構無駄使いした」
何の話をしているのか、無論、男にわかるはずもない。
「だから、補わなくちゃならないんでな」
冷たい何かが腹の皮膚に突き立てられた。見下ろせば、それは獣の爪だった。まるで握った拳を開くかのように、潜り込んだそれが腹の中で広げられる。男の目が裏返り、ゆっくりと白目を剥く。その口からは大量の血液とだらしなく伸びた舌がはみ出る。
冷えた夜の冷気に、引き出された臓物から湯気が上がる。力なく倒れた男の腹に貪りつく獣を、月はただぼんやりと見下ろしている。
***
榊学園のごく近くで立て続けに発生した物騒な事件は、生徒達の間で、先にあった巨大犬の噂と一緒になり、かなりの尾ひれがついて広まることとなった。
人の顔をしていてそれを見ると襲われるとか、一人かと尋ねられて答えたら食われるとか、時速三百キロで走るとか。どれも過剰な装飾の類で事実がどれほど含まれているか知れたものではないが、そこに込められた恐怖心は本物であることは間違いないだろう。
実際、ほんの何日か前には見て見たいと言っていたゆずだったが、
「部活、出ないで帰ろうかなぁ……」
そんなことを呟いていた。
幸い一年三組は執事喫茶をやることに決まったので多少の飾りつけはするにしても、準備としては菓子類を用意する本番前日の方が大変であり、準備期間中に帰宅が閉門ぎりぎりになるといったことは殆どなかった。
「いいな、ゆずちゃん」
琴江が小さく言う。
「あ、そっか。琴江は文化部だもんね」
運動部は一部、希望団体が出し物をすることもあるが、文化部の殆どは文化祭に参加する。琴江は葉道部に所属しているためにしっかり参加することになっていた。
「でも、華道なんて、華を切って刺すだけでしょう?」
「ゆずちゃんって、おおらかだよね」
「琴江って言葉選ぶのうまいよね」
夏葉が茶化してみせると、ゆずはつんと顎を反らす。
「私、茶道部のお手伝いもしてるの。掛け持ちだから、今日はそっちなんだ」
「うわ、超忙しいじゃん」
琴江は苦笑する。
「運動がだめだから、こんなときくらいしか役に立てないし」
「こんなときも役に立たない残念なコもいるけどね」
ゆずの仕返しに、夏葉は口を尖らせる。
「……悪かったね」
確かに特別に運動ができるわけでもないので、春の体育祭でも活躍した記憶は全くない。
「じゃあ、役に立つってところを見せよう!」
じゃーん、と夏葉が内ポケットから小さな巾着を取り出した。
「これは由緒正しき家で作られたお守りだよ」
希世が渡してよこしたお守りだ。恐らく希世お手製のはずである。つまり上梨家謹製となるから、現在の上梨家がどうであれ、一応由緒正しいことに違いはない。
「これね、持ってると結構安心するんだよ」
それは事実だった。
「琴江には迷惑かけてるから、これを差し上げよう」
そんな、と琴江が困惑した表情を浮かべた。
「とても大事なものじゃないの?」
「大丈夫。琴江になんかあったら、そっちの方が困るもん」
希世は多分怒らないだろう。どうしても必要になったら、琴江から借りるか、また希世から譲ってもらえばいい。
それと、と夏葉は続ける。
「琴江は電車通学だから、大変なときはいつでも家に泊まっていい券を差し上げます」
「あ、ずるい。ってゆーか、それって別に夏葉が役立ってるんじゃないじゃん」
「でも、あたしの家でもあるもんね」
「あたしも泊めてよ」
「先程の発言を悔い改めねば許されぬな」
「お代官様、お許しを」
くすくす笑いあって、夏葉はふいに表情を改めた。
「でも、ほんとに気をつけてね」
「大丈夫。お守りがあるから」
「それはそれ。なんかあったらほんと電話して。琴江、可愛いから心配だよ」
冗談めかして言いつつ、なんとなく嫌な予感がしていた。
霊感とかそんなものはまったくないのに、どうにも不安な気持ちが消えない。希世のように多少の知識を持つわけでもなし、母親のような稀有な能力を持っているわけではない自分の予感なんてあてにはならないけど。
――だが、得てしてそういう予感ほど、現実になったりするのだ。
***
かけもちの茶道部に顔を出し、その後、華道部の方の打ち合わせを終える頃には、すっかり日は暮れていた。
最終の下校時刻まではまだ少しあるものの秋の日差しは日を追うごとに短くなっている。冷えて乾いた空気は確実に冬をつれてきているようだ。一段と冷たい空気は吐く息を白く変える。天気予報では明日は雨で、気温も上がらないと言っていたことを思い出す。
「寒い」
琴江は一度首を竦めてから、背筋を伸ばす。暗さを増す道を急ぎ足で歩き始めた時だった。
「……?」
どう表現したらいいのだろうか。ただならぬ気配を感じ、振り返った。しかしそこには何も見いだせず、琴江は首を傾げて歩き出した。
だが、いくらも行かぬうちに再び奇妙な感じがあった。足を止め、振り返り、何もないことを確認し歩き出す。それを繰り返すうちに足は自然と早くなる。そして幾度目かの確認で、琴江は息を呑んだ。
その視線の先にあるのは、怪しく輝く二つの光。
足元から震えが立ち上ってきた。本能的に、そこにある恐怖を感じ取り、頭よりも先に体が反応を示していた。走れ、と脳が命令を下すも足は言うことをきかなかった。まるでそこに縫い付けられてしまったかのように、琴江は一歩も動くことができなかった。
最近、耳にした噂を思い出す。巨大な犬が徘徊しているというその噂。そしてとうとうその犬に襲われたと思しき事件。当然、その犬が捕まったという話は聞かない。
でも、と琴江は思う。
犬という噂だったはずだ。だが、目の前のそれは犬には見えない。人間のように表情の豊かな、見たこともない生き物だった。
「逃げないのか?」
楽しそうな声が問う。
「そうか、逃げられないのか」
声は間違いなくその獣から。
犬では、絶対に有り得ない。
琴江はその場にしゃがみ込んだ。恐怖に足が限界を迎え、立っていることができなかった。過呼吸気味の喉が痛み、悲鳴すら上げられない。
「オレも逃げられないんだ」
獣が言う。
「逃げられないのに、力が足りないんだ」
巨大な四肢。威圧的な気配は顔を背けたくなるような禍々しさだった。
「いい表情だ」
琴江はポケットに入れたお守りを強く握る。心なしか手のひらがほんのり温かくなったような気がした。その温かさがほんの少しだけ恐怖をやわらげてくれたように思える。
それでも状況は変わらない。琴江はぎゅっと目を閉じた。
――助けて、夏葉ちゃん!
絶望は、すぐ目の前にあった。
***
テレビを見る気もなく、本を読むでもなく。
何をする気力もない夏葉は珍しく教科書を開いていた。しかしそれも無駄なことだ。ただでさえやる気のない勉強を、こんな無気力な時にやろうとしたって進むはずがないのだ。
……今日も一人。
きっと明日も一人。もしかしたらずっと一人。
ここは希世の家でもあるのだから、その考えは著しく間違っているのだが、そんな気持ちが拭えない。ほんの僅かな間に、夏葉の中で銀王の占める割合はかなり大きい。
ふとすれば涙腺が緩んでしまうのは、何故なのか。これまでだって淋しい思いをしたことはいくらでもある。そもそも親戚の家なんてどんなに気を使ってもらっても完全に心を許しているとは言い切れない部分もある。身内ゆえの緊張とでも言えばいいのか、互いが互いに遠慮するような微妙な空気。そういう意味での疎外感はいくらでも経験してきた。だから今更ひとりきりだからって動揺することでも、泣くようなことでもないのに。
目を閉じれば蘇る夢の闇。心には涙が溢れて、どうしていいかわからない。
どうして、と思う。
……どうして自分はこんなに銀王にこだわるのだろう。
自分の心なのに、どうしてわからないのだろう。
どうしようもなく憂鬱だった。愛用の豚のぬいぐるみを抱えてベッドへと転がる。と、一緒に転がっていた携帯電話が鳴った。サンタルチアの着信音でゆずからだとわかる。暫く流れる音楽を聴いてから携帯へ手を伸ばす。
「もしもし?」
ゆずの声は緊張していた。震える声に、荒い息、時折鼻をすする音。
どうしたのか問う夏葉に、信じがたい事実が告げられた。
――琴江が襲われた。
夏葉の手から携帯電話が滑り落ちた。




