3章
三章
視聴覚室について、どのような対処をするのか。
夏葉が心配をすることではないが、やはり気になった。が、それは翌朝のホームルームにて判明した。視聴覚室、視聴覚準備室と併せ、設備入替えのため立ち入り禁止になったと担任が説明した。希世から連絡が入った理事長である修の指示であることは間違いない。考えて見ればこの榊学園高校は上梨家の所有なのだ。どうとでもやりようがあるということなのだろう。
「文化祭までに終わるのかな?」
琴江が心配げに言った。
「何が?」
ゆずは野菜ジュースのストローを咥えたまま首を傾げる。
昼休み、学食はいつもの喧騒に包まれている。窓ガラスはきちんと新しいものが入れられていた。さすがに夏葉達は座ろうとは思わないが、派手にガラスが割れたことなんてもう誰も覚えていないのか、単に気にしていないのか、相変わらず窓側の席は人気があった。
「視聴覚室は発表会に使うところもあるのに。急うだよね?」
「そうだけど、まあ、間に合うんじゃないかな。まだ、時間あるし」
琴江に問われ、夏葉は適当に返した。まさか、今視聴覚室は大変な状態で、その現場に居合わせたとはいえない。
まったく、と夏葉は思う。
知りもしない奴の婚約者――婚約者候補というべきか――に勝手に仕立て上げられるという大きな勘違いでそれはそれは酷い目にあった。一体全体上梨家とはどういうところなのか。今時、許婚なんてと思う。やはり旧家は庶民とは異なり、思考回路もどこか極端なのだろうか。
夏葉にとっては記憶にすらない母の実家というだけだ。育ての親でもあり上梨家の人間である修と希世ですら夏葉は上梨家とは無関係だと断言しているというのに、わざわざ向こうからやってくるとは。一応血が繋がってしまっている以上、やはり微妙な距離感というのか……。
願わくば、一生関わらずに生きていきたいと思う、本当に。心の底から。
「――っぶ!」
ため息とともに、何気なく窓を見やった夏葉は飛び出さんばかりに目を見開いた。危うく飲みかけたお茶を噴出しそうになり、思い切り咳き込んだ背中を琴江が優しく撫でる。
「だ、大丈夫、夏葉ちゃん」
夏葉は荒い呼吸を繰り返しつつ、あの野郎と呟く。
「夏葉?」
「ごめん、食器お願い!」
言い置いて、夏葉は慌てて学食を駆け出していた。
「ちょっと待てえええい!」
校庭の端、学食から中等部の校舎へと続く通路の外れにそれはいた。
この場に似つかわしくないその生き物はごくのんびりとした歩調で周囲を眺めていたが、夏葉の声に振り返る。
「お、おい、なんだよ」
恐ろしい剣幕に驚くそれの耳を問答無用に引っ掴む。人通りの少ない校舎裏まで来て、夏葉はようやく手を離した。
「痛えな、なんなんだよ、なっぱ。血相を変えて」
「なっぱって、呼ぶなってば!」
息切れしつつ、夏葉が叫ぶ。
「そんなことはどうでもいい――って、いや、どうでもよくはないんだけど」
「なんだよ、面倒くさい奴だな」
「なんだよじゃない!」
言葉通り面倒くさそうな口調に夏葉は声を荒げた。
「なんであんたがここにいんのよ、銀すけ」
「……なんだ、その名前は」
「あんただって、あたしのこと変な風に呼ぶでしょ。だからお返しだもんね!」
銀王は顔を背け、小さく息をついた。
表情の乏しい犬顔――狼顔というべきか――のくせに仕草のひとつひとつが恐ろしく人間臭い。
「あ、なに、そのやれやれみたいな態度」
「あほだと思っただけだ」
「――そんな、冷たくあっさりドライに言わなくても――って、そうじゃない」
ひとつ首を振って、夏葉は腰に手を当てた。
「なんでこんなとこにいるわけ? 学校だよっ? 人がたくさんいるじゃない」
「知ってる」
「知ってる知ってないとかじゃなくて、なんでこんなところうろついてるのかって聞いてるの」
「心配ない。外に出る時は姿を消してる」
「え?」
「なっぱ達は別だが、消えてる時は、オレの姿は普通の人間には見えな――」
「うわ、でかい犬!」
通りすがりの生徒が振り返る。次が移動教室なのだろうか。あまり使われていない裏階段は移動教室が集まっている棟にある。わざわざこちらを通るのは珍しいが、学食から直接行くには近道であるから、ごくたまに利用者がいたりするのだが……。
夏葉と銀王の視線が走り去った生徒の背中を見送る。ゆっくりと視線を戻した二人は暫しの間、見つめ合った。
「……で、普通の人間には何って?」
「あー……まあ、稀にそういうこともある」
夏葉が拳を握る。
「ま、待て! オレは別に遊びに来たわけじゃないぞ、本当だ」
「ほう?」
「なんか嫌な感じがあったから追ってきただけだ! 悪気があったわけじゃない」
目を閉じ、首を竦め耳を伏せる様子はまるっきり犬である。妖であり、チンピラ達をいとも簡単に蹴散らす能力を持っているのだから、夏葉のパンチごときに怯える必要などないだろうにと思う。出会った最初こそ殺気を感じたが、その後、夏葉に対し文句は言っても本気で牙を剥くようなことはない。そんな銀王を疑問に思いつつ、夏葉は拳を下ろし別のことを問うた。
「嫌な感じって、なに?」
「わからない。ただ気になった」
夏葉は周りを見渡す。別段いつもと変わらぬ風景しかない。勿論、夏葉にはそんな異常を感じるような能力はないのだから当たり前だ。
「でも、昼間っから狼もどきがうろついてたら大騒ぎになっちゃうよ」
「だから、人には見えない」
「見えてたじゃん」
夏葉の勢いに銀王がぎゅっと目を瞑る。
「しっかりばっちりがっちりすっかり見えてたじゃん」
「あれは、たまたまだ。たまにそういう能力のある奴がいるってだけだ」
「そんな人間の方が多かったら困るでしょ!」
銀王がぐうと唸った。
「怪奇現象なんてさ、そうそうあることじゃないよ」
怪奇現象そのものの存在に言うのも説得力に欠ける話ではあるが、実際そういうものだ。幽霊だのなんだの、生きている中でどれだけ遭遇するというのか。
「学校には修叔父もいるし、希世姉もいるし。何かあったら知らせるから」
それではだめかと問う夏葉に、銀王は思いのほか強い声で否を唱えた。
「何かあってからじゃ遅いだろ!」
予想以上に真剣味を帯びた瞳が夏葉を見あげ、逸らされる。
「昨日だって。間に合ったからよかったが……いつもそうとは限らない。オレだって、そこまで万能なわけじゃない」
夏葉は首を傾げた。
「あのさ」
「……なんだ」
「もしかして、あたしのため?」
ぴくりと耳が動いた。
「その、嫌な感じを気にしてくれたのって」
「……」
「あの、ほら、お母さんに言われてとか」
別に、と銀王の返事はそっけない。
「単に気になっただけだ。お前のためなわけがない」
母の華穂を知っていた銀王。華穂から何かを聞いているのかと期待をしてみたが、素直に答えてくれるわけもなかった。
「でも、とにかく今日は帰ってよ。こんなとこ誰かに見られたら大変だし」
銀王が顔を上げた。何かを言いかける様子を見せたが、ややあってそっぽを向いた。
「……勝手だよな、お前は。昔っから」
「え?」
なんでもないと力なく呟くと銀王は立ち上がった。
「何かあったら呼べよ。いいな」
ふわりと舞い上がるのを夏葉が呼び止めた。明らかに不機嫌そうな瞳が見下ろしてくる。別に何か話があったわけではない。ただなんとなく、力ない姿が淋しそうで声をかけずにいられなかっただけだ。
「あ、のさ」
「なんだよ。用があるならさっさと言え」
ぶっきらぼうな口調に、夏葉は言おうとしていたことを飲み込んだ。
「別に、なんでもないよ。じゃあね」
負けじとそっけなく言い放ち、踵を返した。ややあって風が動くのがわかった。何も言わず銀王の気配が遠ざかる。
……本当はありがとうと言うつもりだったのに。
あんな出来事があったのだ。探してくれたとも言っていたし、もしかしたら心配してくれたりしてるのかと思ったのだが……。
「ふんだ」
今日の晩御飯のおかずを一品減らしてやると心に誓う。
それにしても、と夏葉は銀王が消えた空を見上げた。
「嫌な感じって、なんだろ」
秋の風が心地よく流れていく。爽やかで、別段不快な感じはないのに。
やはり、自分にはわからないのだ。上梨家の血を少しばかり引いていても、その特殊性を表すような片鱗は全くない。
希世の話では今の上梨家に特別なところはないと言う。そのわりにあっさりと銀王を認識し、許容する。古い陰湿な習慣は残っているとは言うが、それは特異なことではないのだろうか。
母は感覚の強い人物だったとは聞く。その母は上梨家を離れて夏葉を産んだ。そのために夏葉は上梨の外で幼少期を過ごしている。希世や修が行った古い陰湿な習慣のひとつだという上梨独特の修業とやら――神事の真似事程度らしいのだが――を行った経験もなく、また母の能力を受け継ぐこともなかった。
修行をしなかったことも、母の能力を受け継がなかったことも、上梨との関わりもこれまで気にとめたことはなかった。自分の生まれを忖度したところでどうしようもないし欲しいと願ってもないものはないのだ。それなのに、急に気になりだしたのは――銀王が現れたからだ。
なぜ銀王は自分のそばにいるのだろう。
そして、なぜ、銀王といるとホッとするのだろう。
すべては母との繋がりだとしか思えないのに、本当に銀王は、母親と無関係なのだろうか。
「わっ」
「――っ!」
ぼうっとして歩いていたためか、正面からぶつかった夏葉は尻餅をついた。その上に数冊のファイルが降ってくる。
「ごめん、大丈夫?」
慌てて少年が手を伸ばす。助け起こしてもらって夏葉も一緒に散らばったファイルを拾った。
「ごめんなさい、あたし、ぼうっとしてて」
「いやこっちこそ……大丈夫?」
「全然大丈夫です」
予鈴が鳴る。五時間目が間もなく始まるという合図だ。本当にすいません、と頭を下げて、夏葉は大急ぎで教室へと走った。
文化祭まで一か月となった。
中学、高校、短大、大学と同じ敷地に立つ榊学園では文化祭はかなり大きなイベントとなる。文化祭が行われる週末は土日が一般開放となる。代わりに木曜と金曜が生徒達向けの開催となり、普段は入ることの出来ない他校舎に入ることもできるので、該当の週は「文化祭週間」と呼ばれるほどにぎやかなものになる。
他のクラスは既に演目を決め、準備に入っている。夏葉のいる一年三組は一学年に一クラスしか許されない食品提供の権利を勝ち取った。現在は和風喫茶にするのか洋風喫茶にするのか、ホームルームの論点はそこへ移っていた。夏葉自身はどちらでも構わないのだが、
「和風喫茶よね。琴江をえさにするんだ」
というゆずと、
「洋風だよね。ゆずちゃん、絶対メイドさん似合うもん」
という琴江の板ばさみになっていた。
まあ、そんなことで本気の喧嘩をするような二人ではないから平和でよかったのだが、第三の勢力「執事喫茶」というものが頭角を現しつつあったの意見も根強く、どちらにも角が立たないということでは、ほんの少しそちらに惹かれつつある夏葉であった。
「では、それぞれ意見も出たことだし、採決をします」
そんなどうでもいい事情はともかく、多数決はあっさりと決していた。なんてことはないクラスの女子殆どが執事喫茶に手を上げたのだ。和と洋に意見の割れた男子は女子総数に勝てるわけもなく圧倒的多数で執事喫茶に決まった。
その後、部活と並行の人間は免除してもらえるという暗黙の了解の下、それぞれの仕事が割り当てられていった。特にどれがやりたいというわけでもない夏葉だが、最後に残るであろう仕事にだけは就くわけにはいかない。そう思い積極的に手を上げるも、誰も考えは同じらしい。
「夏葉、あんたどれだけじゃんけん弱いの?」
複数希望者がいる場合にはお決まりのじゃんけんで決着が付けられる。だがしかし、ここまで一つも勝つことが出来ない夏葉に、いい加減呆れたゆずが声を掛けた。
「もう、ないよ、仕事」
黒板に書かれた最後の係、それは世にも恐ろしい会計だった。
「夏葉には絶対無理だよね、あれだけは」
会計とはお金の計算を行う立場。つまり算数だ。ゆずの言葉を否定もできなければ、勿論やりたくもない。
「夏葉ちゃん、私がやる。だから夏葉ちゃんは助手ってことでどう?」
琴江が言った。
「書類の提出とか、そういうところだけ夏葉ちゃんやってくれる?」
「でも、琴江は部活の方が……」
「大したことしないから大丈夫。先輩もいるし」
「ありがとおお!」
夏葉は両手で琴江の手を握る。
「あたしは貴女の下僕です、なんでも言うこと聞きます、琴江様!」
「そ、そんな大げさな」
琴江が苦笑する。
「じゃあ、会計は宮野で、牧名はえーっと、会計助手兼委員連絡係ってところで」
夏葉の数学嫌いと駄目さ加減は一年三組の皆が知るところでもあったわけで、果たして、黒板に記された文字を見て、殆どの生徒が胸を撫で下ろしたのは無理もないことであり、贔屓だの差別だのといった意見が出ることすらもなかったのである。
早速、本日の決定事項をまとめ、生徒会へと提出するという連絡係任務が課せられた。かなりの譲歩をしてもらった役割である。面倒だなどと文句を言うことは許されない。まして生徒会長がいるから生徒会室に行きたくないというのは非公認の事件に基づく夏葉の気持ちであり、個人の意見を通すことなどできるはずもない。
「……仕方ないよなぁ」
憂鬱な気持ちで扉をノックする。なるべく顔を上げないようにして扉を開けた。
「一年三組です。催し物の詳細をまとめたのでお持ちしました」
「ご苦労様です」
柔らかい声は男のものだった。目を通していた書類を置いて、手を差し出した少年が笑顔を浮かべた。
「あれ、君は」
「あ」
その顔には見覚えがあった。先日、正面衝突をしてしまった少年だった。その後、階段で転びかけたところを助けてくれて、さらには溝にはまりかけたのを助けてもらった。その都度礼は述べても、さすがに名前を聞くことはなかったが、まさか生徒会の人間だったとは。
「そう言えば、あの後会長とは会えた?」
「え?」
「もう下校時刻も近かったから、どうかと思ってたんだけど」
ああ、と夏葉は手を打つ。あの四之宮香の迷惑極まりない勘違い事件の時、伝言をしてくれたのもこの人物だったことを思い出す。
「あ、ええ、会えました。大丈夫でした」
色んな意味を含む「大丈夫」なのだが、何も知らない少年は良かったと微笑む。
「君、三組なんだ。ぼくも三組だよ、二年だけど」
「牧名といいます。なんというか、知らぬ間に色々とお世話になってまして」
「いえいえ」
縁なし眼鏡が良く似合う。いかにも秀才そうな整った顔立ちは一見冷たそうに見えるが、笑顔はその声同様とても柔らかい。
「生徒会の方だったんですね」
「一応、副会長をやってるんだけど。まあ、あまり目立たないからね」
白鷺優斗と名乗った少年は苦笑する。
「で、えっと……牧名さんは、連絡係?」
受け取った資料を見た優斗が首を傾げる。
「あ、ちょっと込み入った事情がありまして。雑用などをやることになったんです」
数学、もとい算数ができないので、クラスのお情けで連絡係という職種を作り出したとは言いたくないというのが本音である、が……。
「数学が苦手、ってところかな」
ちらりと目を向けた優斗が言う。
「図星なんだ」
飛び出さんばかり目を見開いた夏葉を、優斗が口元を押さえて笑った。
「たまにあるんだ、会計に複数の名前がある時とかにね。で、よく作られる役職が連絡係」
「そ、そーなんですか……」
夏葉は恥ずかしくなって俯いた。そんなに良くある手法ならば「連絡係」と名乗った時点で「数学できませぬ」と公言しているようなものではないか。
「……そんなに笑われると、なんだか切ないです」
「ごめん、悪気はないんだ、ただ」
「なんですか」
「可愛いね、牧名さん」
「――は?」
男の人からそんなことを言われるのははじめてだ。夏葉は違う意味で顔が赤くなるのがわかった。深い意味があるわけではないのだろうが、同年代から正面切って言われて照れないはずがない。それ以上何を言ったらいいものか、全くもって免疫のない夏葉はただただ呆然と副会長の少年を見返す。そんな夏葉を楽しむように見やって優斗は微笑した。
「連絡係だったら、これからちょくちょく会うことになるのかな」
「……えっと」
「よろしくね、牧名さん」
「あ、はい」
頭を下げると、夏葉は踵を返した。
「えっと、あの……そ、それじゃ、失礼します」
「気をつけて」
よほど危なっかしく見えるのだろうか。とはいえ、実際殆どがそんな場面でしか顔を合わせていないだけになんとも情けない。優斗の笑い含みの声に、夏葉は苦笑を返すしかなかった。
「なんか……変なもんでも食ったのか?」
帰ってくるなり鼻歌交じりの夏葉がエプロンを手にする。それを気味悪そうに見やって、銀王が怪訝そうに問うてきた。いつもなら文句を山ほど投げつけるところだが、代わって夏葉は満面の笑顔を向けてやった。
「銀王、何食べたい? なんでもいいよ」
銀王が首を竦めて、耳を伏せる。返事もせず小さくなった銀王に歩み寄って、ソファの隣に腰を下ろした。
「なに怯えてんの?」
「え、べべべべ、別に」
「いや、明らかにおかしいでしょ、その態度。なんなの」
「そ、そんなことはない」
ふいっと銀王は視線を反らした。夏葉はその顔を両手で挟む。力任せに無理やり自分の方へ向けてみれば、銀王はぎゅっと目を閉じている。
「おい、犬!」
「……なんか、機嫌よさそうだから」
「機嫌がいいと、なんでそんなにビクビクすんのよ」
「いつになく親切なのが……不気味」
黒い鼻を指先で弾いた。
「失礼ね」
両手を腰に当て、鼻を押さえて蹲る獣を見下ろした。
「そんな態度取ってると、酢の物にするよ」
夏葉たちと同じ食事をとる銀王は特に文句を言うことはないが、どうしてだか酢の物だけは受け付けないらしい。テーブルに酢漬けなんて出ようものならリビングから出ていくほどだ。
「……ごめんなさい」
銀王の素直な反応を笑って、夏葉はキッチンへと向かう。
「別に何があったわけでもないんだけどね。文化祭で、会計にならずに済んだからさ」
「ああ、バカには計算は無理だからな」
夏葉がおもむろに酢を取り出した。
「……冗談だ」
夕食の支度をしながら夏葉が続ける。
「でね、連絡係になったんだけど」
「なんだそれ」
「まあ、雑用係よ」
ふうん、と銀王が答える。
「それがうれしいことなのか?」
「別に、それがじゃなくて。……ごめん、ティッシュ持ってきて」
背後で動く気配がすると、箱の端を咥えた銀王がお座りよろしく行儀良く腰を下ろした。
「生徒会室にね、用事で行くんだけど。副会長がいい人でさ」
銀王が首を傾げた。耳慣れない副会長という言葉を脳内で検索しているのかもしれない。
「可愛いっていわれちゃった」
「……それで浮かれてるのか」
ため息交じりの言葉は、恐ろしく冷めたものだった。
「あ、また馬鹿にして。あほかって思ってるんでしょ」
「好きだとか言われたならまだしも」
「でも、そんな風に言われたことなんてないんだもん。うれしいじゃん?」
「そんなもんか?」
「そりゃそうだよ。女の子だもん。悪い気はしないね」
思い出してもどきどきする。これまで、あまりそういった気持ちを抱いたことがなかった。考えて見れば年頃の女の子なのだ。好きな男子の一人や二人いてもいいだろうに、不思議と夏葉はそういうことを意識したことがなかった。
「銀すけには女心はわからないんだよ」
「何が、女心だ。くだらない」
「銀すけにはないの? そういう気持ちになったりとかさ」
銀王がふわりと立ち上がると、のんびりとした動きでソファへと歩き出した。
「例えば、その好きな……お化けとかいたりしないの?」
「……そんな話題の前に、オレはお前のその間違った認識を何とかしたい」
「認識? なんの?」
「お前のお化けの定義だ。言っておくが、オレは世間一般で言うお化けじゃない」
「妖なんでしょ」
「わかってるじゃないか」
「妖ってお化けじゃない」
「違う」
「でも、お化け屋敷にいる系じゃん?」
そんなものは知らんが、と銀王が前置きをする。
「お前らの言うお化けってのは、幽霊とかそういうもんだろ」
「そういうの全部含めたのがお化けじゃないのかな」
銀王が口を噤んだ。夏葉もまた首を捻る。
銀王の言うこともわからなくはないような気もするが、やはりすべての総称な気もする。実際のところ、明確な定義はないのかもしれない。
「オレとしては、実体も持てないような、中途半端な存在と一緒にしてほしくはない」
「ふうん。難しいんだね。お化け心?」
「妖心だ! ――っち」
舌打ちをして、銀王がソファに転がった。
「ったく、くだらない。まともに議論するような内容じゃないな」
銀王が長い尾を揺らす。
「妖でも美人とか不細工とかあるの?」
「……なんだ、そりゃ」
銀王の尾が力なく垂れた。呆れた口調が脱力具合を表している。
「だってさ、銀王ってどう見てもオスだよね。ってことは、メスもいるんでしょ?」
男女があるなら容姿の美醜もあるのではないか。見た目に限らないが、動物の世界でだってその性別なりに優れたものがモテるというのが普通だ。
「動物じゃないと何度言えばわかるんだか」
「わかってるけど。でも妖って言われたってよくわかんないよ。銀すけ以外知らないし。そもそも妖なんてものがいるって知ったのがつい最近なんだから。未だに信じられないくらいだし」
それがこうして普通に会話するようになるなんて、誰が想像しただろう。
「ねえ、どうなの? ねえねえ」
「くだらない」
「秘密主義?」
「なんだそれは」
人間臭くため息をついた銀王はソファの上で伸びをする。
「オレのことなんかどうだっていいだろ。どうせ妖と動物の区別もついてないんだ」
「区別ついてるよ!」
「ほう、どんな?」
「しゃ……しゃべる」
「よくご存知で」
夏葉はエプロンのポケットに手を入れる。ソファを占領した獣の名前を呼ぶ。
「あたしは何にも知らないけど、でもさ。せっかくこうして一緒にいるんだし、ちゃんと理解したいなって思うんだよ」
なぜ銀王といると安心するのか。これほどまでに受け入れている自分がわからないから、まずは相手を理解したい。
ゆらゆらと揺れていた尾が動きを止める。ややあってから、気が向いたらなというそっけない返事があった。
翌日着る服を用意するのが夜の習慣だった。クローゼットからハンガーを取り出し、皺にならないようにかける。新しい本にブックカバーをかけながら、希世は背後に声を投げた。
「人間はもう寝る時間なんだけど」
「……悪い」
律儀に謝って行儀良く座るのを、希世は内心苦笑しながら見やる。
――銀王とはこんなに素直な妖なのだろうか。
記録を見る限り然程凶暴な様子はない。時折上梨家に関わるものの基本的には自由に生きているようだ。種族ではなく、他に仲間を持たない単一の化生であった。
希世は修に相談の上、監視と言う名目で銀王をそばに置くことになった。華穂が夏葉に渡すようにと兄に託した壺、その壺にいたという銀王。そこに込められた姉の意図がわからない。そもそも夏葉の保護を修に頼んでおきながら、上梨家から離してほしいと願った華穂。修も希世も上梨家の人間で、どうしたって繋がりがあるのに奇妙なことを望んだものだ。
幼い頃から不思議なところのあった姉だった。一体何を考えていたのかわからないが、奇妙な願いと銀王の壺、そこには何かしらの繋がりがあるように思えてならない。だからこそ夏葉を預かる身としてはこの妖を近くに置きたいと考えたのだ。
銀王が何かをしでかせば希世がその責めを負う。つまりは希世が責任を取ることになるのだが、どうしてだか、銀王は何か問題を起こすようには見えなかった。案の定というのか――どういうわけか夏葉によく従っている。
「気になる匂いがある」
希世が目を細めた。
「恐らく学校に。夏葉にも、ほんの少しその片鱗を感じる」
「どういうこと?」
「わからない。この前、匂いを辿っていたら学校に行き着いた。で、あいつに見つかって……わからなくなった」
「夏葉に害を成すもの?」
「どうだろうな。オレの気配を避けてるような気がしなくもないが……なんとなく、狙いは、あいつではないかと思う」
「夏葉? どうして夏葉が狙われるの?」
「さあな」
ぶっきらぼうな言葉に希世は腕を組んだ。ここはひとつ、思ったままを言ってみるか。
「あなたが、守ってくれるんじゃないの?」
希世の言葉に銀王が顔を上げる。
「さすがに限界がある」
否定しなかった。つまり、銀王がここにいるのは夏葉が目的ということなのか。
「学校には来るなといわれた。目立つからとな」
「え? 姿みせてないでしょう?」
「やはり、お前は話がはやいな」
誰と比較してなのかは、聞かずともわかった。
「見られた。時々いるんだ、そういう能力を持ったやつがな」
「ああ、そうね……お子様は多感だからねぇ」
希世が苦笑する。特に子供のうちは感覚の鋭さを持ったままでいる者も少なくない。
「面倒な話だ。……だから、学校にいる間、お前の方でも気をつけていて欲しい」
舌打ちせんばかりに続ける。
「……まだ、力が完全じゃなくてな。もしかしたらそのせかもしれないが」
「それはいいけど、私にも限界があるわよ」
「それでも、他の奴らよりはましだ。オレも、少し考えて、動くことにする」
「わかったわ」
まるで体重を感じさせない動きで、銀王が立ち上がった。
「銀王」
銀王が振り返る。
「ありがとう」
「……どういう意味だ」
「深い意味はないわ。ただ、私の素直な感想」
「……それは、お互い様だろう?」
「そうね」
やはり確信した通りだ。銀王は夏葉を守ろうとしている。でも、その理由はなんなのだろう。
無理には聞くまい。利害は一致している。それなら波風は立てない方がいい。
***
最初は犬だと思った。
だが、すぐに犬ではないとわかった。これほど大きな犬などいない。実際に大きいのか恐怖心がそう見せているのか、黒い闇のような塊は少なくとも犬によく似ていると思った。
ビルの合間を走って逃げるが、足音もさせず、軽々と障害物を避けて間を詰めてくる。
「狩りは久しぶりだ」
影が弾んだ声で言う。
「追い詰めるってのは、活きがいいほど楽しいな」
背後でしていたはずの声が、いつの間にやら前から聞こえた。軽々と頭上を越えたそれは、音もなく目の前に着地をする。
「困っているんだ」
楽しそうに声が笑う。
「力が足りなくてな」
足が止まってしまった。どうやっても逃げることなど出来ないとわかってしまった。
「お前の力をくれよ」
影が笑う。
「ば、化け物」
犬に似た影が歩み寄ってきた。
「そんな呼ばれ方は心外だ。人なんて下賤なものから、不快なもののように名づけられるなんて、全くもって気に入らない」
零れる街灯に、何かが鈍く光る。
「でも、まあ許してやる。お前はオレの一部になるんだからな」
鉤爪が振り下ろされる。生暖かい液体が地面へと飛散した。
***
日曜だというのに希世は出勤していた。
この時期、文化祭の準備で登校する生徒が増える為、教師側も日曜出勤を余儀なくされるところがあるようだ。怪我などもありうるので養護教諭の希世も出勤の要請を受けたのだった。
「お前はいいのか?」
相変わらずソファに伸びている銀王が言った。
「文化祭とやら、お前も関係あるんだろ」
「うちのクラスはまだ平気なんだって」
銀王が首を傾げる。
「クラスでやることが違って準備はそれぞれなの。希世姉は保健の先生だから呼ばれたんだよ」
理解したのかどうか、銀王はふうんと曖昧に返す。恐らく大して興味はないのだろう。
窓からの心地よい風がその銀色の毛並みを揺らす。眠そうに大あくびをする姿など巨大だという点を除けばどこからどう見てもただの犬にしか見えない。暢気そうな様子に夏葉の中でむくむくといたずら心が疼き、大股でソファに歩み寄ると無理やり隣に腰を下ろした。突如として眠りを妨げられた上、端へと追いやられた銀王が明らかに不満そうに身を起こした。
「なにか?」
「……別に」
案の定、不機嫌な反応が返ってきた。そっぽを向いた背中にもたれて自分より僅かに高い体温を頬に感じる。
思い切り寄りかかっているのだから重いだろうに、銀王は何を言うでもなくもぞもぞと夏葉の体重を背負ったまま態勢を整える。文句くらい言えばよいだろうにおかしな奴だ。
「重たいって思ってるでしょ」
「あ?」
「なんでわざわざ同じソファに座って占領してくるんだって思ってるでしょ」
「わかってるならやめろよ」
やだと夏葉は笑った。
「だって、嫌がらせしてるんだもんね」
「……」
「やめてほしい?」
「……どうでもいい」
心底そう思っているらしく、投げやりに応じると銀王は目を閉じてしまった。どうやら相手をする気は完全にないらしい。
仕方なく夏葉は銀王の毛並みを撫でた。長毛までいかないが猫より少し硬く、犬よりはだいぶ柔らかい毛並みは程良い長さと触り心地である。ただ撫でていても嫌がらせにはならないので時折逆さに撫でたりしても銀王は無視を決め込んでいる。しばらくぐしゃぐしゃとかき混ぜてから、夏葉は再び寄りかかった。
――銀王って変。
恐らく銀王は強いと思う。妖の中ではどうなのかはよくわからないが少なくとも人間よりははるかに強いことは先日の一件でも明らかだ。氷やら風やらをどういう方法でか生み出すなんてことは人間には到底できることではない。それほどの力を持つ銀王がどうして自分を助けてくれたりするのだろうか。それどころかこんな風に嫌がらせをされて、不満に思いはしても、どうして怒ったり、暴れたりしないのだろう。
やはりすべては母親である華穂に理由があるのだろうか……。
夏葉が母のことで知っているのは名前と上梨の人間であるということ、それから少し感覚が強い人だったということのみ。あまり深くは希世も修も話してはくれない。聞いたところで温もりすら知らない母だ、夏葉の方から深く追求したことはなかったのだが。
母と銀王にどのような繋がりがあるのか。そして上梨でもない、人間でもない銀王が知る母とはどんな人物なのだろう……。
「ねえ、銀王」
夏葉は銀王を思い切り揺すった。
「お母さんって、どんな人だった?」
「……なんだ、突然」
「だって知り合いだったんでしょ?」
銀王がわざとらしくため息をついた。面倒だとでも思っているのかもしれない。
「変わった奴だった」
構わずにねだると銀王が口を開いた。
「なんというか、得体がしれない。何を考えているかわからない」
「そうなの?」
銀王が頷く。
「あいつの本性は多分誰も知らない。希世も、他の奴らも」
「謎の女ってこと?」
銀王は笑ったようだ。すべて悟ったような様子に、夏葉は新たな疑問が浮かび上がる。
――銀王は父親なんだろうか。
夏葉は父親も覚えていない。とはいえ、まさかと思う。なんといっても銀王は人間ではない。人間と一緒になるとも思えないし、自分が妖との混血だとは到底考えられない。
自分は銀王といると安心する。この安堵が何に由来するものかはわからない。希世や修に対するものとは少し違う気がするが、父親だというなら多少の違いがあるものかもしれない。
もしかして、といいかけた夏葉よりも先に、銀王が口を開いた。
「お前の親父くらいじゃないか、華穂の腹の内を理解してたのは」
「……え?」
「まあ、あいつも何を考えてるんだかわからない奴だった。変わりもん同士、気があったのかもな――いてっ」
夏葉は銀王の頭を殴った。
「なんだよ」
「なんか、腹が立った」
知らないとは言え、両親を悪く言われて面白いわけがない。
「……さすが、あいつらの子供だ。お前も十分わけがわからん」
銀王がそっぽを向いた。それに対し、夏葉はくすりと笑った。
「何が面白いんだ。わかんねえ奴だな」
元々有り得ない考えだったが父親説はとんでもなく的外れだったようだ。思わずほっとして漏れた笑みに銀王がさらに不審そうな目を向けてきたので鼻づらを指で弾いてやった。
……となると、母との繋がりや側にいることについての疑問は解消されないままではある。
「銀王には、お母さんとかいないの?」
僅かに躊躇するような不思議な間があった。ややあっていないと短い答えが返ってくる。
「そもそも、親なんているがわけない」
「そういうものなの?」
さあなと銀王が尾を数回揺らす。人間ならば肩を竦めたといった感じだろうか。
「まあ、モノによる。そういう奴らもいるが、オレにはそういう種族みたいな、仲間とかはいない。両親なんてものも、少なくともオレにはいない」
「じゃあ、いつどうやって生まれたの?」
「知らねえよ」
「じゃあ、あたしと一緒だね」
「……は?」
「親も知らないし、姉弟もいないってことでしょ? 同じじゃん」
「……」
「希世姉がいるけど、でもなんていうか……やっぱり違うって思うものがあるっていうか。そんなこと言ったらバチがあたっちゃうけどね。でも正直、そう思っちゃうこともある。友達なんか見てると、親ってやっぱり特別なものなんだなって思うし。そういう意味では、やっぱりあたしって一人なのかなーとかね」
銀王と夏葉が呼びかけた。
「銀王も一人。あたしも一人みたいなもんだし。でも、銀王はずっとここにいるんでしょ? だったらはぐれもん同士仲良くしようよ、ね」
銀王が勢い良く振り返った。
「え、なに……どうしたの?」
何かを期待した目だった。だが、すぐに失望したような色が浮かぶ。人間よりも格段に表情に乏しいくせに大きな絶望に直面したかのような、なんともいえない哀しい――顔だった。
「どうしたの?」
澄んだ灰黒色の瞳がゆっくりと伏せられた。ふいっと背けられる。
明らかに銀王の気配が変わったのがわかった。以前使って見せた氷を思わせる、冷たい雰囲気がその背に漂う。
「銀王?」
「ふざけるなよ」
「……え?」
「一緒にするな」
低い声だった。纏う空気そのまま声にしたような冷ややかさは、部屋中が凍りつくかと思うくらいに冷酷だった。
「お前は、人間だろうが」
これまでにない突き放すような物言いだった。
「オレは妖だ。お前にしてみれば妖なんて、幽霊とも区別がつかないような、どうでもいい存在じゃねえか」
振り返った瞳は常よりも銀色が勝って見えた。冴え冴えとして、まるでガラス玉のようで何の感情も読み取ることができない。言葉を返すこともできず、夏葉はごくりと喉を鳴らした。
「お前にオレの何がわかる? 何もわかるわけがない」
銀王がソファから降り立った。
「お前にとって妖なんて存在すら疑わしいものでしかない。そんな中途半端な存在としか理解できていない。お前にとってオレも妖も、その程度の認識でしかないんだろうが」
鼻に皺をよせ、銀王が初めて出会った時のような、殺気に似た気配を纏う。
「そんなお前が、そんな風に、簡単になんの躊躇もなく一緒になんて――そんなこと言えるはずがない。言うことができるわけがねえんだよ」
射るような瞳が胸を抉る。叩きつけられた言葉が痛かった。
突然の激昂に目を瞠るしかなく、何も答えられないまま、涙が頬を伝った。
怒りが怖かったわけでも、冷たい言葉が悲しかったのでもなかった。
勿論、銀王の孤独がわかるわけでもない。それなのに違うのだと言いたかった。でも何がどう違うのかがわからず、それをうまく伝えられない。蟠る心の内が、どうしようもなくて、ただ涙となって溢れてくる。
銀王が視線を逸らした。
「……今のお前にとっては、妖なんて、どうでもいいものだろうが」
「銀王、あたし、あたしは――」
「どうだっていいんだよ」
夏葉の言葉を遮って銀王が続けた。
「オレは人間なんて、わかりたくもない。お前のことだって――ほんとは、どうだっていい」
銀王が背を向ける。
「……オレには、関係ない」
――ひどい。
つきつけられた言葉の、それが夏葉の正直な感想だった。だが、いつものような反論はできなかった。向けられた背中がひどく辛く、哀しく、搾り出すような銀王の声が苦しくて、今の自分の心よりも痛いのではないかと思った。
立場が違うのだ。自分は人間で、銀王は妖だ。古い上梨家とも何らかの関わりがあるくらい、想像もできない長い時間を生きてきている。
「そうだよね」
夏葉は立ち上がった。手遅れかとも思ったが急いで顔を拭って笑顔を繕う。
「あたしも図々しかったよ」
自分の部屋に向かいつつ、夏葉は出来るだけ明るい声で言った。
「今言ったことは忘れてくれていいから。ごめんね」
……それに返る言葉はない。
自室の扉を閉めると次々に涙が流れてくる。声だけは漏れないように、ベッドにもぐりこんで口元を押さえる。
銀王と会ってから自分はどうかしてしまっているのかもしれない。
妖なんて存在は知らなかった。それなのにその妖である銀王と一緒にいると安心する。もうずっと一緒にいたような感じがして、いるのが当たり前な感覚。本当のことを言えば今では育ててくれた修や希世よりも心が休まる存在となっていた。
だが、それは一方的なものだ。銀王がどう感じるかなどわかるはずもない。理解したいなんてそれは思い上がりも甚だしく、出来るはずもないのに。銀王の言葉はもっともなことだ。
……それでも、聞きたくなかった。言って欲しくない言葉であったのだ。
もしかしたら、それは銀王の方も同じだったのではないか。夏葉もまた、言ってはいけないことを口にしてしまったのかもしれない。でも、それがなんなのかはわからない。
……泣きたくないのに。
自分は泣き虫になった。それは本当の安心を見つけてしまったから。心が弱くなってしまったから。
強くなりたい。もっと、何事にも負けない強い心が欲しい。
――その夜、夏葉は久々に闇の夢を見た。
闇に包まれる暗いだけの夢。幼い頃によく見たもので、逃れられない暗闇の中、明るさを求めてもがく。それが強さを望む今の思いと重なり、心が悲鳴を上げ、なおのこと苦しい。
寝苦しい夜を振り払うように目覚めた朝、銀王の姿はなかった。希世に尋ねても知らないという答えが返ってくるばかり。夜になっても戻らず、巨大な獣がいなくなったリビングはいたずらに広く、明かりを灯しても薄ら寒い印象があった。
‥…もう戻らないのだろうか。
そんなことはないと訴える心を夢の闇が蝕む。喪失した安堵を求め、心がもがく。悪足掻きは心を歪ませ、穿った傷がさらに涙を零す。
「胸に穴があく」という言葉の思いを、夏葉ははじめて実感していた。




