2章
二章
……それからというもの。
やたらと物が飛んできたり、落ちてきたり、歩く先に障害物があったりと細かな嫌がらせが続いた。どれも大事にはなってはいないが、さすがにこうも続くと精神的に参ってくる。細かな擦り傷の類も絶えず、おかげでガラスで切った傷の他にもあちらこちらに絆創膏が貼られるという、女の子としては些か恥ずかしい状況になっていた。
「ゆずが言ったとおりかも」
冗談抜きで、本当に祟られているのかもしれないなんて思ったりもしてしまう。
携帯電話がポケットで振動した。右利きなのだが、どうしてか携帯を操作するのは左手の方がやりやすい。そんないつもの癖で荷物を右手にまとめようとして小さく声を上げた。
「痛ぁ……もう、不便だなぁ」
昨日転んだ際に捻った手首。そんなに重傷ではないと思っていたが、やはり痛いは痛い。帰ったらシップでも貼ろうか。
荷物を持ち直し、右手で携帯を開く。希世からのメールで実家に泊まる旨の記述があった。
「今日もあいつと二人かぁ――あ、違う。一人と一匹だ。あやうく人間として数えちゃうところだった」
一人訂正して、ため息をつく。
「あいつ、妙に人間臭いからな。人のこと『なっぱ』って呼びやがるし」
なんというか化け物らしくないというのか……。
帰り際、保健室を覗くと希世は慌しそうだったので声をかけるのは遠慮した。別段、急用なわけではない。ただ新たな同居人について、今後どうするのかを聞きたかっただけだった。
「妖怪と一緒って、結構、異常事態だよね」
なまじ希世がそういうものに慣れて育った為なのか普通の人の反応と違いすぎる。かく言う自分も馴染みすぎている気がしなくもない。はじめはびくびくしていたはずなのに、今では若干どころかすっかり慣れつつある。たかが数日で、大した心境の変化だと我ながらに思う。
「それにしても、これって不幸よね」
新たないじめだろうか。なんにせよ、理不尽な仕打ちと、変な生き物との生活と、気の休まる時がないというか。
夏葉は買い物袋を持ち直す。晩御飯は唐揚げを作ることになっていた。というのも、巨大な生き物が要求した為である。絶対するもんかと反発したが、おかげで夏葉の唐揚げスイッチが入ってしまい、どうしても食べたくなってしまったのだ。なんだか負けたような悔しい思いがなくもない。
赤信号を睨みつつまた一つ息をつく。息をつき、夏葉はふと後ろを振り返ろうとした。
「え――?」
気がついた時には既に道路に転がっていた。背後で悲鳴があがるのと、まぶしい光が近づいてくるのとは殆ど同時だった。
激しいクラクションと不快に響くブレーキ音。夏葉は咄嗟に目をつぶり、顔を伏せた。
「なにやってんだ!」
熱せられた排気ガスが顔を覆った手に触れ、エンジン音がすぐ間近に聞こえた。目を開けると指の隙間から入り込むライトが眩しい。
運転手が降りてくるなり、座り込んだままの夏葉を助け起こす。
「なんともないか」
夏葉が頷いた。
「ったく、気をつけろ」
これにも夏葉は頷く。頷く以外の反応をすることが出来なかった。
なかなか立てずにいると駆け寄ったサラリーマンらしき男性が支えてくれた。大丈夫かと声をかけながら夏葉を歩道へと誘う。買い物帰りと思しき見知らぬ中年の女性が、自分も大きい荷物を持ちながらも、夏葉の散らばった荷物を集めて持って来てくれた。
「ありがとう、ございます」
震える声でお礼を言うと夏葉は荷物を受け取り、恐る恐る周囲を見渡す。
――今、間違いなく、誰かが背中を押したのがわかった。
「ただいま」
荷物を置いて、後ろ手に扉を閉めて夏葉は大きく息を吐き出した。
これまでの些細な嫌がらせとは違う。あやうく死にかけたのだ。背中を押されて以降、異常に緊張しながら歩いてきた。家に辿り着いた途端、緊張が一気に疲れに変わったようだった。
買い物の品を広げ中身を確認する。卵が一つも割れていなかったのには驚いた。
「?」
リビングに来て、夏葉は首を傾げる。ここのところずっとこのソファに居座っている巨大な妖がいない。部屋、バスルーム、トイレまで見たがどこにも見当たらなかった。
本来ならほっとするはずなのに、なんだか夏葉は落ち着かないような気分になっていた。慌てて携帯を手にしてアドレス帳から希世を探す。発信ボタンを押そうとしてやめた。
「……」
夏葉はその場に座り込んだ。携帯電話が足元に転がる。
頭が酷く混乱していた。同時に急に震えが襲ってくる。
この震えはどうしたことか。死にかけたことに対しての恐怖だろうか。全身を抑えるように蹲ってやり過ごすも、湧きあがるような震えは止まらない。
「……なんで、いないの?」
思わず出た言葉に、夏葉自身が驚いた。己の声に目を瞠る。
――いない、とは誰に対しての思いなのか。
震える手で口元を押さえる。今の言葉はなんなのだ?
怖いのは、先程の出来事。そして続く嫌がらせに参っているのに違いないのに。あの獣がいないことはそれとは無関係のはずだ。それなのに、込み上げてくる不安は己の考える回答とは全く違うところに手を伸ばそうとしているような……。
頭も心も乱れていた。小さな傷が一斉に疼き、どうしてか酷く胸が痛く、苦しい。呼吸すら思うようにできず、喘ぐ。痛くて、苦しいのに――求めているのは、何だというのか。自分でもわからないまま夏葉は身を丸める。
「何をしている?」
突如、声が降ってきた。驚きはしたが、なぜだか心底ホッとするのがわかった。
「暗いのは嫌いじゃなかったのか?」
「い……今、帰ってきたとこだから」
緩やかに震えがおさまってくる。なんとか平静を装って答えた。
「そうか」
まるでそこが定位置といわんばかりに銀色の獣がソファへと向かう。途中、どういった心理でか、リビングの電気をつけていく。
「どうかしたのか?」
「別に、どうも……」
「血の匂いがする」
獣が鼻先で夏葉の膝を示す。転んだ時に擦ったのか、血が滲んで靴下を汚していた。
「あ、えっと、ちょっと、転んだだけ」
灰黒色の瞳が夏葉を見上げる。何かを問うようなそれは、驚くほどに澄んでいて、美しい。
「……実はね。色々とあって」
目を反らした夏葉は救急箱を取りに立ち上がった。
「いろいろ?」
ごく自然に促され、夏葉は消毒の手を止め、この前ね、と言った。
「学食で石が飛んできてさ。大騒ぎだったんだ。それはたまたまかなって思ったんだけど、それから結構嫌がらせみたいなのが続いてさ」
「……」
「なんか、ね。どうやらあたしがターゲットみたいでさ」
……なんで話してるんだろう、と夏葉は思った。
ここ数日、自宅で夏葉は殆ど喋っていなかった。銀王と話すことは特にないし、お互い無言のままでも別段気にはならなかった。そんなろくに会話もしていない相手に、まして妖である銀王に話したところでどうなるというのか。相槌を打つでもなくおとなしく聞いている妖を前に、何故話し続けるのかわからない。それなのに話していくうちに胸の内が少しずつ軽くなるような気がしていた。何故だろうと疑問に思いつつ、夏葉は一通りのことを話していた。
「――今、そこでも、車に轢かれそうになって」
「それはお前が鈍いからだ」
黙っていた銀王が低い声で遮るようにして言った。
「人が後ろにいれば、気配くらいわかるだろ。明らかに油断だな」
「――そんな言い方、ないじゃん」
そっけない言い様に夏葉はむっとした。
「何があったかって聞くから話したのに」
乱暴に救急箱の蓋を閉める。
「信号なんだから人はいっぱいいるし、あたしはあんたと違って普通の人間でしかないんだからそんな気配なんての、わかんないよ。わかるわけないじゃん」
銀王は勿論、希世とも違って、自分は何もわからないのだから。
「ほんとに」
ぽろっと、急に涙が頬を伝った。
「――ほんとに、ほんとに怖かったんだから!」
話を聞いてくれているのかと思ったら、単にからかいたかっただけということか。
真面目に話したことが、今更ながら悔やまれた。あの瞳が見ていると思うと泣いたことがますます恥ずかしく顔を上げることもできない。だが、一度溢れてしまうと、もう留めることはできなかった。次から次へと涙が溢れてくる。
――泣くのは好きじゃないのに。
両親がいない自分は親戚の中で育った。修に引き取られるまではいくつかの家に順に預けられていた。面と向かって何かを言われるわけではないが、漂う雰囲気くらいはわかる。明らかにお荷物なのだという空気は嫌でも感じ取ることができた。
自分のせいではないが、それは精神的に負担だった。余計な迷惑をかけないよう心がけ、常に気を張っていた。何ができるわけでもない子供には、できるだけ手を煩わせないようにすることが自身にできる唯一だった。経済的にも役に立てない身ではいい子でいること、そして泣かないことが最大の課題だと思えたのだ。従順で穏やか、それが求められていること。泣くという行為はそれに反する最も大きい罪悪のような気がして、いけないことだと意識してきた。
だから滅多に泣いたりはしない。そんなに簡単なことでは泣かない――はずなのに。小さい子供のように泣いている自分が、尚更恥ずかしい。
そんな夏葉を、銀王は特に宥めるでもなく、ただ静かに見つめていた。
「泣くんじゃねえよ、とか思ってるんでしょ」
やがて、少し落ちついた夏葉は手探りで近くのティッシュを山ほど掴んで顔を覆う。
「うるせえなとか内心思ってるんでしょ」
いや、とほんの少し笑いを含んだような、それでいて静かな声が返ってくる。
「……よかったと思ってな」
「え?」
「いや、悪い。そうじゃなくて」
驚いた夏葉の視線の先で、銀王はふいっと背中を向ける。もう一度悪かったと言った銀王の声はひどく真面目なものだった。
「特に問題ないと判断してたが、もう少し考えることにする」
「考える?」
「こっちのことだ」
そっぽを向いたままの銀王の尾が動いた。それが夏葉の腕に触れ、まるで慰めているかのようにぱたぱたと揺れる。暫く眺めて、ふさふさと心地よい尾を捕まえると銀王が首を廻らした。
「一応、教えておいてやるが」
「……なに?」
「幽霊でも妖でもない。そういう気配はないから人間の仕業だ。人間同士なら用心してれば、お前でもなんとか対処できるだろ」
くすくすと獣が笑う。
「それだけやられて生きてるんだ。お前の悪運の強さがあれば大丈夫さ」
「なんか、それってひどい言い方」
「誉めてるんだ」
「そうは聞こえないんだけど」
憮然とすると微笑むかのように灰黒色の瞳が細められる。人間に比べて表情に乏しいのに、その瞳は感情豊かだ。
「お前なら大丈夫だ。気に病むと相手の思う壷だ。気にするな」
「……うん」
優しい口調に、夏葉は素直に頷いていた。
「さて、と」
銀王が立ち上がった。
「そんなわけで、晩飯の唐揚げ、頼むぞ。なっぱ」
「は?」
「話、聞いてやったろ?」
「目的はそれか! ってゆーか、なっぱって呼ぶな!」
一瞬でも、優しいと思った自分が馬鹿らしい。夏葉は拳を握ると力一杯、獣を殴り飛ばした。
***
がしゃんと派手な音が響いた。力任せに投げつけた花瓶が割れ、破片とともに無残に散った花束を、荒い呼吸を繰り返して傲然と見下ろす。
「まだまだ生ぬるいってことですよ」
激しく上下する肩に手をかけて、耳元で囁く声。
「これじゃ、なにもわからないじゃないですか。お互いに」
どういう意味かと詰問するのに、軽く受け流すように、笑い含みの声が答える。
「あなたと彼女ですよ、もちろん」
でも、と返す声は、まだ息が荒い。
「いいんですか?」
躊躇した相手に、冷酷な声が告げる。
「それで、いいのですか?」
畳み掛ける冷たい声。
「いいんですか? 諦めるんですか?」
言葉に詰まるのを満足げに見やる。
「無理ですよね、無理なはずだ」
声は再び柔らかく、絡みつくように笑う。
「もう、直接知らしめてやったらどうです?」
耳元で囁く。
「そうしましょう、ね」
言葉に絡め取られたように、囁かれたままに頷いた。
***
土日は平穏だった。久しぶりに希世が帰ってきたこともあり、夏葉は精神的にも充実し、平穏な日常が戻ったようだ――あの銀色の獣のこと以外だが。だからというわけではないだろうが、週明け月曜日、下駄箱を開けた時に受けた衝撃は今まで以上に大きかった。
「縫うほどではなくて良かったけど」
もう授業ははじまっている。それでも保健室にいるのは、治療のためだった。
いつもどおりの何気ない動作で上履きを取ろうとした手に鋭い痛みが走った。手を引くと、赤い線が二本。みるみる血玉が膨れ上がり、流れ出した。手を入れる動作を想定し、下駄箱の中にセットされていたのは剃刀の刃だった。
「食堂のも、夏葉を狙ったんじゃないかってゆずちゃんたちが言ってたわよ」
「……」
「いじめとは違う感じね、どちらかというと」
「消したいって感じだよね」
夏葉の言葉に、希世が眉を寄せる。と、保健室の扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは清楚という言葉がよく似合う女性だった。制服を着ているのだから生徒に間違いないのに、自分なんかとは比べるべくもない大人の雰囲気があった。
「あら、香ちゃん」
軽く会釈をすると腰まである長い黒髪が揺れた。
「授業中じゃないの?」
「生徒会の用事です。許可は得てますから」
そう、と希世が言う。
「牧名さん。少し、よろしいですか?」
夏葉が顔を上げると希世が目で了承の意を示す。自分の座っていた椅子を譲ろうとする希世に対し、香はやんわりと拒否をした。
「なんだか、大変だとお聞きしました。同情いたします」
大丈夫ですか? と柔らかく問われ、夏葉は頷いた。
「教室に伺いましたら保健室だと教えて頂きまして。今日もまた怪我をなさったと」
香が眉根を寄せ、沈痛な表情を浮かべる。
「あ、でも、大したことないです」
「それはよかった。食堂でのことといい、本当に大変なことだとは思うのですが、実は、そのことで牧名さんにお話があるんです」
「あたしに?」
「他にも似たような被害を受けた生後がいるようで、今、生徒会で調べているのです。詳しくお話を聞きたいので、放課後、生徒会室にいらしてくださいな」
「……わかりました」
では、とは踵を返しかけて、香が足を止めた。
「上梨先生、学校では四之宮と呼んでください」
「あら、それは失礼。気をつけるわ」
お願いしますと無愛想に告げると、四之宮香は振り返ることもなく保健室を出て行った。
「今のって、生徒会長、だよね。希世姉ってば知り合い?」
「って程でもないけど、ほんの少し面識はあるわ。彼女が小さい時に何回か会ってるの」
言いながら、希世は治療に使った道具を片付けていく。
「四之宮は上梨の分家よ。今となっては血のつながりなんて殆どないけどね」
それは初耳だった。
「それより、生徒会に協力するのはいいけどなるべくはやく帰るのよ。それと、今日は食事作らなくていいから。帰ったら私がやる。いいわね」
「じゃあ、ハンバーグ?」
「……たまには違うの作らせてもらってもいい?」
「ミートボールなら」
「…………………………………………………………わかった。ハンバーグにします」
放課後、生徒会室に顔を出すと四之宮香は不在だった。
この日、夏葉は日直だったこともあり、部活動をしていないことを幸いに様々な雑用を頼まれてしまった。ようやく開放され生徒会室に向かう頃には時計は既に六時を回っていた。もう帰宅してしまったかもしれないと思いつつ一応顔を出すと、夏葉宛の手紙を預かっていると生徒会の生徒が渡してくれた。
「遅くなるかもしれないけど、必ず行くと伝言を依頼されてるけど」
いかにも優等生風な感じの少年がちらりと時計を見やった。
「もうすぐ下校時刻リミットになるから。時間、気を付けて」
「すいません、ありがとうございます」
閉門は午後七時と決まっている。教職員用は異なるが、生徒用の昇降口、門ともに七時には鍵が閉まる。閉門以降も生徒が残っているということはよほどの事情がない限りはあり得ない。
「遅いなぁ」
人気の絶えた教室に、奇妙に声が響く。
手紙に書かれていた場所は視聴覚室だった。夏葉はこの教室があまり好きではない。教材上映などに使われるためか窓がない。その上、階段状に並ぶ備え付けの机と椅子、擂鉢状の一番低い位置に教壇がある作りが、なんというか違和感があり、どうしても慣れることができない。
「帰っちゃおうかな」
携帯電話を見れば間もなく七時だ。ここまで待ったのだ。生徒会の彼も気を付けるよう言っていたし、門が閉まるからというのは立派な理由だ。そう一人納得して、夏葉は踵を返した。
「あれ? ちょっと!」
手をかけるが扉は開かなかった。押しても引いても、扉はびくともしない。力一杯取っ手を掴んだせいで痛んだ傷に自然と涙目になってしまった。既に学校を出てなくてはいけない時間である。もしかしたら見回りの教師が鍵を掛けていったのかもしれない。
「電気だってついてるんだし、誰かいるかぐらい、確認してから鍵しめればいいじゃん」
視聴覚室の扉は外から鍵をかけるタイプで内側から開ける手段はなかった。だが、教壇横の資料室は中からも鍵が開けられるようになっているので外へ出るには問題ない。ぶつぶつ文句を言いつつ、夏葉は資料室へと向かって歩き出す。改めて資料室の扉に手を伸ばすと、夏葉が触れるより先にドアノブが回った。
「あ、会長さん」
清楚な微笑を浮かべた四之宮香が立っていた。
「よかった。帰ろうかと思ったところでしたよ」
夏葉は安堵の息をついた。
「で、お話って――」
言いかけた夏葉の肩を四之宮香が力を込めて押した。たたらを踏んで顔を上げれば、香の後ろに三人の男達が立っていた。
「牧名夏葉さん。貴女、邪魔なのよ」
香が言う。
「元々私のものだったのに。貴女さえいなければ、私がなれたのに!」
「は?」
「下賎な上に横取り。その生まれに相応しく、卑しいこと」
瞬く夏葉を、香が冷たい目で見つめる。
「な、なんのこと……‥?」
夏葉は数歩後ずさる。一連の嫌がらせ、それは人の仕業だと言われたのを思い出す――そして唐突に理解した。
「まさか、全部、会長が?」
夏葉の頭には何故という言葉が一杯だった。これまで香とは面識もなければ会話をしたこともない。一年と三年は利用している階が違うから、余程のことがない限り顔を合わせる機会はないに等しい。それなのに、なぜ、こんなことをされねばならないのか。
「貴女、なかなかしぶといんだもの。仕方ないから、もっと直接的にいくことにしたの」
香がカメラを取り出す。
「貴女の恥ずかしい写真を学校中にばら撒いてあげる。そして貴女は相応しくないってことを教えてやるのよ」
香が顎で指示をした。にやにやと品のない笑いを浮かべた男が一人前に出る。
「ほんとにいいのかよ」
「いいわ。好きにしてちょうだい」
「ちょっ――ちょっと待ちなさいよ!」
夏葉が香へと迫った。
「一体なんのことなのかさっぱりわかんないんだけど! 誰かと間違ってない?」
「間違えるわけがないわ。この女狐!」
今時、そんな罵倒があるかと思うほど型通りの言葉だ。夏葉は軽く眩暈を感じた。
「あのねえ、会長さん! あたしの言うことも――」
詰め寄ろうとする夏葉の前に立ったのは金に脱色した髪を肩まで伸ばした男だった。背中に香を庇い、夏葉の腕を掴む。
「放してよ!」
どうする? と問う男に香が鼻を鳴らした。
「目障りよ。とっととやっちゃって」
「ちょっと、何かの間違いだってば!」
振りほどこうとする腕が背中側に捻りあげられた。痛みに呻く夏葉の身体を背後から引き寄せて、金髪男が笑う。
「会長さんは忙しいからさ、オレらが相手してやるよ」
さらに別の男の、タトゥーの入った手が夏葉の顎を掴んだ。
「結構可愛い顔してんじゃん」
「放して――っ! 放せっ」
酒臭い息が近づく。夏葉は容赦なくその頭に頭突きを見舞った。
「ぐわっ!」
タトゥーの男が顔を抑える。
一瞬、気が逸れた金髪男の脛を踵で蹴った。ほんの少し力の緩んだ隙にとにかくめちゃくちゃに体を動かして戒めから逃れると、転びそうになりながら扉を目指した。
「待てよ、こらっ!」
派手なシャツを着た男が夏葉を追ってくる。扉に辿りついた夏葉は扉の取っ手を上下させるがびくともしなかった。鍵が掛かっているのだと今更に思い出す。
「無駄だっての」
思い切り肩を掴まれた。その手を振り払い、振向き様に拳を出す。
「生意気だな」
殴ろうとした拳は包帯の上から叩かれ、難なくかわされていた。逆に腹を殴られた夏葉は堪らず両手で押さえる。
「おとなしくしろって」
くの字になった体を、派手なシャツの男が後ろから羽交い絞めにした。
殴られた腹は痛みよりも吐き気を強く感じた。それでもおとなしく従うわけにはいかない。
「放せ――やだっ! 来るな!」
金髪男が近づくのを前蹴りの要領で蹴飛ばす。だが、何度も蹴って牽制するものの、上半身の動きは制限されている。いまひとつ威力に欠ける無駄な抵抗は笑って弾かれるだけだった。
「いいね、元気で」
金髪男が夏葉の足を捕らえた。
「放してっ!」
男二人に抱えられるような形で床に押し倒される。それでもなお暴れる夏葉の腕を派手シャツの男が、両足を金髪男が押さえた。
「じたばたすんじゃねえよ」
「四之宮会長っ! なんでこんなっ――」
必死に呼ぶも、四之宮香の表情は冷酷だった。やめさせるつもりは全くないようだ。
「や……だっ」
目の前に欲情した男の顔が迫る。どんなにもがこうとも、男二人がかりで押さえられては女子高生の力では抵抗などできるはずもない。
「誰かっ、助け――」
叫ぼうとした口をタトゥー男が塞いだ。動きを封じられた夏葉をにやつく顔が見下ろす。
「助けなんてな、こねえよ」
タトゥーの入った手がリボンごとシャツを裂く。露になった肌に顔を寄せて、狂気じみた笑みを浮かべた。
「すぐに気持ちよくしてやるよ」
「そうそう」
三人の男の下卑た笑いが響く。
制服に手がかかり汗にべとついた手が太腿に触れ――夏葉は絶望にきつく目を閉じた。
「そんなガキ、手を出したって仕方ないだろ」
冷ややかな空気とともに、声は唐突に降ってきた。
それはここにいる誰のものでもなかった。その証拠に、男達はみな一様にきょろきょろと辺りを見回している。
「誰っ」
四之宮香の問いに答えたのは、突如巻き起こった風だった。吹き飛ばされた香の身体が視聴覚室の大きな黒板に激しく打ちつけられる。風は止まずそのまま夏葉達の方へと迫る。押さえつけていた男達の体が巻き上げられ空中に舞った。
「ひいっ」
金髪男が情けない声を上げる。
「な、なんだ、これ」
天井近くに張り付くようにして、男達の体は静止していた。
室内の温度が急速に低下し、それと共に光の粒が生まれ凝固していく。男達の真下に現れたのは無数の氷の塊だった。照明に照らされ、輝きを放ちながら、天井に向かって飛散する。
男達の悲鳴が響いた。
鋭く尖った氷の塊が次々と生まれては男達の体をめがけて突き刺さる。氷の欠片と共に散るのは赤い飛沫。
悲鳴と氷が突き刺さる激しい音の中、夏葉は目を閉じ、耳を塞いで身を縮めていた。やがて突然に静かになった――と、何かが床に落下する湿った音に続いて呻き声がした。
錆びたような匂いが充満し、異常に冷えた室内で恐る恐る顔を上げると、夏葉のすぐ間近、全身を氷によって切り裂かれ、血まみれになった男達の姿があった。
「……ひっ」
声を上げそうになった夏葉の髪を風が煽った。咄嗟に顔を庇うが、冷たくもどこか温かみのある空気に腕を下ろす。そこには冷ややかな風を纏い銀色に輝く凛とした姿があった。
「……ぎ、ん……王」
呆然とした夏葉の声に灰黒色の瞳が静かに振り返った。
「――っ」
夏葉の目に涙が浮かんだ。これまで堪えたものが一気に込み上げて、嗚咽と共に溢れる。銀色の獣は間近にくると泣きじゃくる夏葉に鼻先を寄せた。
「銀王――こ、こわ……怖かった……」
夏葉は震える手を伸ばし、その首にしがみつく。柔らかな感触と伝わる確かな体温に、なぜかわからないが心の中に大きな安堵が広がるのを感じた。
「遅くなって……悪かった」
呟くような言葉に首を振り、美しい銀色の毛並みに顔を埋めるとさらに腕に力を込めた。抗うこともなく身を寄せた銀王の、もう大丈夫だと言う密やかな声に夏葉は何度も頷く。
「ちょっと、銀王!」
呼ばれて、銀王が首を巡らした。
「あまり派手にやらないでって言ったでしょ!」
「手加減した」
「これで?」
「生きてるんだ。十分だろう」
銀王が立ち上がったので、夏葉も一緒に立った。教壇近くには希世がいる。気を失った四之宮香を抱き起こしているところだった。
手加減したと本人は断言したが、見渡せば視聴覚室は散々たる有様だ。風に荒らされ、氷河の礫を喰らった机はぼろぼろだ。あるものは穴だらけで、あるものはヒビが入り、折れてしまっているものもあった。おまけに赤い飛沫がそこかしこに飛んでいる。
「後始末が大変よ」
うんざりとした口調で希世が大きなため息をこぼした。
「希世姉」
希世は歩み寄った夏葉に自分のジャケットを着せかけると、静かに抱きしめる。大丈夫かとは尋ねたりはしなかった。
「……どうして、ここが?」
「えっと、帰りが遅かったからね、探したのよ」
歯切れの悪い答えに夏葉が首を傾げる。
「ごめん、嘘。銀王が探しに行くってきかなくて。それで」
「おい、お前――」
「銀王が?」
夏葉がちらりと銀王に目を向ける。以前話したことを気にしてくれていたのだろうか。そういえば何か考えるというようなことを言っていたようにも思う。礼を言うと銀王が鼻を鳴らして視線を反らした。それに微笑んでから、夏葉は希世にも礼を述べた。
「さて、と」
希世はまだ朦朧としている四之宮香のブレザーを乱暴に掴む。そして思いっきりその頬を平手打ちした。
「どういうつもりよ、あんた」
香が頬を押さえ、顔を上げる。
「なんで夏葉にちょっかい出したのよ」
四之宮香が怯えた目を希世に向けた。
これまで目にしたことがない希世の怒りに夏葉の方が驚いた。だが、その怒気を向けられている香は、驚くどころでは済まない。顔面を蒼白にして唇を震わせている。
「だ、だって――暁さんの」
「暁の?」
「暁さんの婚約者は私のはずなのに、破棄をして、牧名さんになるって」
「はあ?」
希世が間抜けな声を出した。誰かと問えば「兄さんの子」とぶっきらぼうな答えが返る。
希世が兄貴ではなく兄さんと呼ぶのはただ一人――上梨家の次期当主である上梨家長男の丞のことだった。上梨家の中心人物で、修や希世とはお世辞にも仲がいいとは言えない間柄なのは夏葉も聞いていた。
「私、ずっと暁さんが好きだったのに。だから牧名さんがいなくなれば――」
香が大声で泣き崩れる。両手を腰に当てて見下ろしながら、希世は深々と息を吐いた。
「香ちゃんは暁の許婚なの。でも、一体どこで聞いたのか……。上梨とは一切関係のない夏葉になるなんて、そんなこと、絶対ありえないのに」
夏葉はあんぐりと口をあけた。
「あのさ、あたしは知りもしない奴の婚約者候補と誤解されて、嫌がらせをされたわけ?」
「そういうことみたいね。ごめんね、夏葉」
「希世姉が謝ることじゃないでしょ」
夏葉は香の前まで歩いていった。泣き伏している香の肩に手をかける。
「ま、牧名さん、私」
縋るような瞳が見上げてくる。
「立って」
「え?」
「立てって言ってるの」
香がのろのろと立ち上がる。夏葉は大きく息を吸うと拳を握った。そして香の顔を容赦なく殴り飛ばした。
「これで許してあげる。だから、二度とあたしに近づかないで。わかった?」
崩れ落ちた香が頷く。それを見た銀王が、グーで殴るかと呆れたように言うも、本当を言えばこんなもので済むはずもない。もし希世や銀王が来なければどうなっていたのか考えるだけでもおぞましい。だが、手段はどうあれ、恐らく彼女は彼女なりに一生懸命だったのだ。とりあえずは無事だったのだから、これでおさめるのが一番いいはずだ。
希世のジャケットのボタンを留めて、夏葉はひとつ息を吐く。
「でも、これどうするの?」
夏葉は視聴覚室内を見渡す。
「その辺は心配無用。理事長がどうとでもするでしょ。――香ちゃん」
名前を呼ばれた香がびくりと肩を揺らす。
「今日のことは口外しないことにしましょう。香ちゃんもその方がいいわよね?」
声が怖い。希世としては銀王のことを伏せておきたいのだろう。勿論、それは夏葉も同じだ。だが、むしろ事が公になって立場が悪いのは香の方だ。夏葉は被害者であるのに対し、香は間違いなく加害者の立場である。それに学園の養護教諭にして上梨家の娘である希世がいる以上、学校的にも、上梨家に対しても香は弱い立場だ。
「じゃ、帰りましょう」
「そうだね。今日はハンバーグだもん」
今日もだろと銀王が呆れたように言った。
***
――やはり、とそれは呟く。
闇と同化したような影が、笑う。やはり、間違いない。
回りくどいかとも思ったが、相手が相手だ。ひと手間くらい、惜しんではいけない。やっと見つけたのだから。この機会を逃すわけにはいかない。
どうしてくれようか。
どう、始末してくれようか。
影は笑った。可笑しくて仕方ないというように、笑った。
これだけ待ったのだ。ゆっくり考えるのもいいだろう。
それもまた、一興。
影は、唐突に姿を消した。




