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最強ペット  作者: mahiru
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1章

一章


「テストってさ、誰が考えたんだと思う?」

 窓から差し込むのは赤く暮れかけた夕陽だ。いつになく静かな校庭。帰宅する生徒の姿が遠く、まばらに見える。いつもなら聞こえる元気な運動部の声もしない。

窓際に置かれた机に顔を伏せて、牧名夏葉まきななつはは叫んだ。

「もお、テストなんか、やだー!」

「ここは保健室です。静かにしなさい!」

「なによ、希世姉きせねえ。放課後だし、テスト中なんだし、もう誰も学校に残ってなんかないよ。それにあたしだって好きでいるんじゃないよ」

 希世と呼ばれた白衣を着た女性はすらりと伸びた足を組む。

「逆ギレ? まったく、自分が忘れたくせに。鍵は渡すから先に帰れって言ったのに、待ってるって言ったのは夏葉でしょ」

 だって、と夏葉が口をへの字にする。

「帰ったら誘惑がいっぱいなんだよぉ。ここなんて誘惑してくるのは、せいぜいベッドくらいしかないからいいかと思ったんだもん」

 自宅に帰れば食料がある。まず食べる。食べている間はテレビを見るだろう。テレビにはゲームが繋がっている。となれば……。

「やるでしょう」

「やるなよ」

「だって、希世姉が買ったからいけないんだよ、ゲーム様たち。あれがあたしをさらに駄目人間にしてるんだ」

「だから試験期間中は片付けたでしょうが!」

「出しちゃうに決まってるじゃん。希世姉、何もわかってない!」

「ってゆーか。出すな、やるな。わかってないのは夏葉でしょ」

「ひどいっ!」

 よよよと崩れる真似をして、夏葉はぶつぶつと続ける。

「そりゃ希世姉は頭がよろしいからいいよね。そうだよ、数学できたから大学行って、大学行ったから養護教員になったんだもんね。そんな秀才にバカの苦労はわからないんだ」

「……夏葉、あんた、今、数学の勉強してるのね」

「なんで数学が最後なの? 誰? 一体誰なの? 数学なんてもの考えた極悪人」

「相変わらず数学となると、壊れるわね」

 希世はため息混じりに立ち上がると、マグカップを取り出した。やがてジャスミンの香りが保健室に広がる。

「ほら、これでも飲んでて。仕度するから一緒に帰ろう。帰ったら勉強見てあげるから」

「でもね、今日、夏葉が食事当番なの」

「…………………………………………………………わかったわよ、作ればいいんでしょ」

「ハンバーグが食べたい」

「調子に乗るな!」



 榊学園養護教員である上梨希世かみなしきせは夏葉の母の妹で、叔母でもあり、現在の夏葉の養母である。

産後間もなく亡くなった――捨てられたとも聞くが――母とそれ以前に死んだという父に代わり、夏葉を引き取り育てたのは叔父の上梨修かみなししゅうだった。元々夏葉と希世は共に修の下で生活していたが、修が榊学園の新しい理事長へ就任、希世の就職も決まると夏葉も榊学園に通う運びとなった。そして希世が家を出る際、希世に引き取られ二人で暮らすこととなったのだった。

希世が大好きで、根が甘えん坊の夏葉は学校でも自宅でも顔を会わせることになるのはとても喜ばしい。多少家事の負担が増えようとも、今の環境には大変に満足していた。

「うぉいひい」

「わかったから、口に物を入れて喋らないの」

 夏葉の好物はハンバーグであった。希世の得意料理もハンバーグとくれば、もはやこれは運命だと夏葉は勝手に思っている……何の運命かは、自分でもよくわからないが。

 美人で、やや胸が貧相だと本人は気にしてはいるもののスタイルもよくて、気立てもよくて。そんないい女の希世には現在に至るまで浮いた噂がない。本当は彼氏の一人や二人いたかもしれないが少なくとも夏葉は知らなかった。料理上手の希世の絶品特製ハンバーグを食べながら、いつもの疑念を思い出さずにはいられない。希世に彼氏がいないのはもしかしたら自分のせいで、自分という存在が希世の婚期が遅らせているという可能性だ。つまり姪っ子と暮らしているというこの状況こそが男性側の結婚意識を邪魔してしまっているのではないだろうか……。

 だが、それはそれでいいことのようにも思う。なんといっても大事な自慢の「姉」を任せるには、そんな些細なことで躊躇するような軟な根性の男はお断りだ。やはりそれなりの相手でなくては許せないという思いがある。

「希世姉の旦那さんは、まず、あたしという壁を乗り越えていかなきゃね」

「なに、突然」

「まずは顔。これはもう言うまでもなく美形! スタイルだって大事だよね。希世姉とならんでバランスがいいのは一八〇センチ。年は希世姉と同じから五つ上まで。優しくて、スポーツマンで、料理もできる。これが最低条件。あ、あと年収も一〇〇〇万円以上はないとね」

「どんな高望みですか、それは。そんな人間ひといるわけないでしょ」

「修叔父もいいんだけどね、美形だし、あの眼鏡も渋いし、榊学園の理事長って肩書きもいいし、金あるし。でもねぇ、年がさ」

「あのね、それ以前に血繋がってるから、実の兄妹だから――あ」

 無表情に言ってから希世はおもむろに立ち上がった。鞄を手にすると辺りを見回す。

「あのさ、私。帰りに持ってた紙袋、どこにやった?」

 玄関ではないかと言うと、間もなく、踵を返した希世が紙袋を抱えてぱたぱたと戻ってきた。

「兄貴に預かったの、忘れてたよ」

 紙袋から中身を出してテーブルの上に置かれたのは、まったりとした感じで奇妙にいびつな楕円の、恐ろしく古臭い、茶ばんだ壷だった。

「なに、これ?」

「壷」

「見ればわかるよ。漬物でももらったの?」

「まさか。なんかね、金庫に入れてたんだけど、最近、錠がいじられた形跡があったらしくて」

「物騒だね」

「中身はこの壷だけでね。だから何も盗られてはないらしいんだけど」

 夏葉はつらつらと不細工な壷を眺める。

「芸術品? なんか変、趣味悪。だから無事だったんだよ。やっぱ漬物入れなんじゃん?」

「漬物を金庫に入れるの?」

「年代ものの漬物なの」

「誰が欲しがるの?」

「なんで、そんなことまであたしが考えなくちゃいけないのよ」

「夏葉が言い出したんでしょうが」

 希世はため息混じりに言って、壷の向きを変える。

「多分なんかおかしなものよ、また。ほら、これ」

 夏葉の目が壷に貼られた紙に向けられた。白い紙に書かれているのは不気味な朱色の文字。夏葉には読むことができない、奇妙な文字と模様の羅列。

「上梨の家には変なものが色々あるからね。そのうちのひとつよ、きっと」

 またかと夏葉が眉根を寄せる。

 上梨家――古くは「神無」と書く。

 その昔、大王に仕えていたという神事を扱う家柄で、陰陽術が世に出るより古くから奇怪な術を操り数多の妖を封じてきたと言う。決して表舞台には出ず、時代の影に連綿と続いてきた神術の一族で、上梨家に伝わる伝承では妖をその血筋に取り込んで、特殊な力を得たとの記述も残っているらしい。

しかし現在の上梨家にそのような力はない。多少奇妙な能力を持つ者が生まれることはあってもそれが政に影響する時代は終わった。今の上梨家は「いんちき神事で荒稼ぎした金銭で節操なく起業し成り上がった成金旧家」というのが希世の言い分であり、修も同様に語る。実際、榊学園をはじめ、上梨家が携わる事業は数多くあるもいずれもごく普通の企業ばかりだった。

 ……とは言え、古い家柄には違いない。そのせいか今でもたまに敷地や蔵から明らかに怪しげなものが出てきたりすることがあるらしいのだが……。

「そう言われると、なんか……見れば見るほど嫌な感じしてくるんだけど」

「そうね。否定しないわ」

 かく言う夏葉も母方は上梨に属す。その母は古い上梨特有の力を持っていたと希世からは聞いているが夏葉自身は何もない。ただ他人より敏感だとは希世に言われたことはあるが、自覚は全くない。あるとすれば、必要以上に怖がりだと言うことくらいである。

「なんで希世姉が預かるの?」

 さあ、と希世が答える。

「厳密に言うと、私じゃなくて、夏葉に預けたいそうよ」

「え、いらない」

「だよねぇ」

 夏葉は思い切り顔を顰めた。

「なんであたし? これで数学が見逃してもらえるならいいけどさ」

 呟いた夏葉に、希世が親指を立てて見せた。

「交渉済み!」

「え?」

「なんか見るからに不気味だから、これを預かったら夏葉の負担になるって訴えたのよ。そしたら今回赤点あってもなしにするって! 数学についてだけだけど」

「わあ、すごい理事長権限。ナイス希世姉」

「ビバ、身内不正!」

「じゃ、喜んでお預かり致しまする」

 夏葉は元通り紙袋に戻すと、愛おしそうに隣の椅子に置いた。こんなことで数学の勉強をしなくていいとは。いくらでも預かってやろうと思った。



 その夜、夏葉は妙に寝苦しく、なかなか寝付くことができなかった。何度目かの寝返りを打って、いい加減体を起こす。喉が酷く渇いていた。

「水でも飲も」

 ドアノブに手をかけると、自然と、目が壷の入った紙袋へと向けられた。

 あんな紙が貼られているせいだろうか、夜中に見るとなにやら一段と不気味に感じられる。ほんの少し迷って、夏葉は壷にタオルケットを被せた。それから枕と、いつも抱えて寝ているピンク色の豚のぬいぐるみを持ち部屋を出た。

 暑くもないのに額に汗が滲んでいるのがわかる。水を飲むついでに顔も洗った。皮膚が一気に引き締まるような感じがした。

 あの壺のせいだと夏葉は思った。見るからに奇妙な壺は充分にそんな雰囲気を醸し出している。怪しげな旧家に伝わるような代物である。あれもそういう類の一つなのに違いない。わざわざ夏葉にというのがわからないが、普段から夏葉を気にかけてくれる修叔父のこと、もしかしたら年代物でお宝として預けてくれたのかもしれない。

 上梨を捨てた母は親族に嫌われている。おかげで夏葉も嫌われているが、そんな中、修は良くしてくれる数少ない親戚の一人だった。その修から預かったのだ、ちゃんと保管しておきたい。まして、今回はあれに数学の成績がかかっている。気持ち悪いなどという些細なことは我慢せねばなるまい――否、するしかない。

「どうしたの?」

 希世はまだ眠っていなかったようだ。ノックに読みかけの本を置いて振り返ると、枕とぬいぐるみを抱えた夏葉を見て苦笑を浮かべた。

「大荷物ね」

 言って、希世は掛け布団をめくって、夏葉を手招く。

「……なんか、よくわかんないけど、なんていうか……その」

「え?」

「……なんでもない」

 希世が夏葉の頭を撫でた。

「大丈夫、私がいるから。安心して寝なさい」

 耳元で大丈夫と繰り返されて、夏葉は目を閉じた。

 希世の言葉には力がある気がする。

 上梨家の習慣で希世には多少の神術の修業経験があるらしい。修業とまで言えるかは甚だ疑問だと希世は笑うが、建立の際に関わり、今でも檀家としての繋がりがある寺へ、幼少の頃に礼儀見習いを兼ねてお遊び程度に習いに行かされるのだと言う。

 本人曰く、無理やりだったので身についていないらしいが、もしかしたらその成果かしらと思ったりもする。柔らかく、低く心地よい希世の声は聞いているだけで心が休まる。どんなに不安な心も優しく溶かしてくれる。古典で習った言霊とはこういうものなのかもしれない。

 幼い頃、よく嫌な夢などを見ると希世のふとんに潜り込んだものだ。その度に希世は嫌な顔をひとつせず優しく迎えてくれた。さすがに中学にあがった頃からは殆どなくなったが、久しぶりに感じる自分以外の温もりはひどく安心した。

 優しい声に包まれて、いつ眠りに落ちたのかはわからなかった。夢を見た自覚もない程充分眠れたのに、翌日、目が覚めた夏葉の体調は最悪でかなりの熱があった。

「壷かな、やっぱり」

 体温計をケースに戻しながら、希世がため息をつく。

「夏葉、鈍感なくせに変に敏感だから」

 やや矛盾したことを呟きながら薬を差し出した。

「中間テストぉ」

「仕方ないわね。無理に行ったところでまともにできないわよ」

 おとなしく薬を飲んだ夏葉は口を尖らせる。

「じゃあ、行くからちゃんと寝てんのよ。担任せんせいには伝えるから」

 それから、と玄関まで見送りにきた夏葉の手に何かを握らせる。

「お守り。それがあれば大丈夫よ。安心して寝てなさい」

 白い手触りのよい小さな巾着。口は開かないようになっていた。

「壷、兄貴に相談してみるから」

「壷のせいなの?」

「わかんないけど、怪しいし。返却するまで、ちょっとだけ我慢してね」

「ええっ、そんなことしたら数学の成績がっ」

「どっちが嫌なのよ」

「……す、数学」

 希世がとてつもなく呆れた顔をした。

「あ、見捨てないでぇ」

 夏葉の目の前で、無常にも玄関の扉が閉まったのだった。



 午前中、夏葉はおとなしくしていた。自室に戻るのは嫌だったので希世のベッドを拝借した。一眠りしたおかげか大分楽にはなったものの、まだ完全ではなくだるさの名残がある。それなのに目が覚めてしまったのは、なんだか奇妙な物音がしたからだった。

 夏葉は希世の部屋を出る。おかしな気配は自分の部屋からだった。

「ここ、十階だぞぉ」

 玄関は開いた形跡はなかった。オートロックのマンションでもあるし、十階の窓から侵入なんて考えにくいし、できれば考えたくない。

「壷だ、壷なんだ、きっと。それできっと、あれは……」

 お化けだ、とは、恐ろしくて口に出来なかった。

 やはり曰くつきのものだったのだ。財産になるようなものだから、何か変なものが憑いているのだ。奇妙な紙もついていたし、御祓いをする必要があるものだ、きっと。

 よせばいいのに、と自分でも思いつつ、自室に向かう。明らかに物音がしているなんて異常ではないか。確かめたくはないが、確かめないでいるのもまた、それはそれで怖い。

「悪霊退散! どっか行ってくださいっ」

 勢いよく扉を開け、希世から預けられたお守りを向けた。確かめに来たのだが、目を開けて見る勇気は――無論あるはずもない。

「……」

 物音は止まった。だが、何かが動いたような気配もない。ただ、なんだか足元から這い登る、皮膚を撫でるようなぬめっとした気味の悪い空気が動くのを感じた。

 やはり無視すべきだったと後悔したところでどうしようもない。夏葉はゆっくりと目を開けた。目を開けて、腰を抜かしそうになった。腰が抜けなかったのは、そこにいた異様なものの存在があまりに奇妙すぎて驚きすらも通り越してしまった為かもしれない。

「――ひっ」

 それは白っぽい影のようなものだった。きちんと実体があるのに向こうが透けて見えているので白より半透明といった方がいいかもしれない。それが壷にかかったタオルケットを握っていた。

 タオルケットはただ被せただけのものだ。なんなく取れるだろうに影は異常に苦労しているようだった。その証拠に周りには色々な物が散らばり、紙袋からはみ出た壷は中途半端にタオルケットに絡まって床に転がっていた。その影が悪戦苦闘した証拠に違いない。

 夏葉も驚いたが、相手も充分驚いたのだろう。お互いがお互いの存在を確認するような、奇妙に間抜けな空白があった。

 悲鳴を上げるよりはやく、影は夏葉を突き飛ばしてドアを出ていく。

 向かった先はリビングの窓だ。ガラスが割れる――そう思った夏葉は耳を押さえた。だが、なんの音もせず、シンとした冷ややかな沈黙が続いた。やがて部屋に満ちていたおかしな空気は急激に消えていた。

 ……果たして。夏葉は恐る恐る手を下ろすと周囲を伺う。ドア越しに見えるリビングの中で、倒れたブックラックが間違いなく侵入者があったことを証明していた。

「窓、割れてない……?」

 震える声で呟いた。

「妖だからな、当然だ」

「――?」

 夏葉は激しく瞬く。

 ……今の声はなんだ?

「どうでもいいが、どけ。重い」

 夏葉の手が妙にふさふさとしたものに触れていた。奇妙な影に突き飛ばされたままの姿勢だった夏葉は、ゆっくりとその正体へと目を向ける。

「きゃああああああああああっ!」

 下敷きになっていたのは、巨大な、これまで見たこともない生き物だった。悲鳴を上げると同時に、夏葉はその得体の知れない生き物を力一杯――蹴飛ばした。

「痛えな、こら」

「な、なに、あんた。ええっ? っていうか、どういうこと?」

 身を返して、それは牙を剥く。夏葉は恐ろしい勢いで後ずさった。

「――やめて、食べないで! あたしなんてバカだから、きっと絶対おいしくない!」

 下がった勢いで足にタオルケットが絡まり、散らかった物が引きずられる。その中で割れ物の音がして夏葉は目を見開いた。

「はうっ、――壷っ! お宝! 数学!」

 大急ぎで散らばったものを退け、タオルケットを放り投げる。壷は言うまでもなく割れ、奇妙な白い紙も破れていた。中身は空だったのか、散らばっているのは欠片のみだ。

「す、数学がぁ」

 壷の欠片を手に、夏葉はがっくりと肩を落とした。預かりものを壊してしまっては成績の件は白紙に戻ってしまうかもしれない。

「不慮の事故だぁ、こんなの」

「だろうな」

「――」

 夏葉は声に戦慄した。壷に気を取られている場合ではなかったことを改めて思い出す。

 振り返った、その視線の先には鋭い牙。

「でなきゃ、殺してるぞ。このオレを足蹴になぞしやがって」

 今更にして色々な衝撃がじんわりと夏葉の中に浸透してきた。なんとなく景色が遠ざかるような気がする。夏葉の体が傾ぐと、奇妙な生き物は慌てて夏葉を支えた。

「あー、おいっ! 気絶なんかするな、面倒臭い」

 強く揺すられて、余計に視界が回る。

「た、食べるの?」

「……喰うか、アホ」

 心底呆れたような呟きがひどく人間臭い。そう思って、はっとする。どうみても人間ではないのに――。

「しゃ、しゃ、しゃ、しゃ、しゃべる……巨大、犬」

「犬? そんなものと一緒にするな」

 ため息をついて立ち上がったそいつはかなりの大きさだった。その体高は一メートルを優に超えている。

「……外、か。ほんとに」

 呟くと、それは夏葉がいることなど全く気にせず、暫く辺りを見渡して目を閉じる。やがて何かを確かめるように部屋を歩きはじめた。

 犬に似た獣だった。体全体を包むのは銀色の毛で、見事な毛並みは窓からの明かりを受けて複雑な色合いに輝く。尖った耳、突き出た口には鋭い牙。前足の先と腰から後ろ足にかけて虎に似た、渦を巻くような黒い模様があり、長い尾は豊かな黒い毛に覆われていた。

凛とした雰囲気が、犬よりも、見たことはないがむしろ狼に似ていると思った。

 人の言葉を操る、奇妙で、巨大な獣。風格すら漂う姿に、夏葉は暫く目を奪われてしまい慌てて首を振る。

「ちょ――ちょっと、あんた、なんなの」

 夏葉の声に銀色の毛に覆われた耳がぴくりと反応した。ゆっくりとした動作で振り返る。

「……お前のおかげ、か」

「え?」

 獣が夏葉の顔を覗き込んだ。深い青みがかった灰黒色の瞳。怖いはずなのに、不思議と綺麗だと思ってしまった。

「お前……」

 獣が言い淀む。ほんの僅か躊躇するような様子をみせてから、改めて口を開く。

「……華穂かほの身内、か?」

「か、華穂は……あたしのお母さんだけど」

 へえ、と銀色の獣が目を細める。

 元々調子がいいわけでもなく頭がぼうっとしている上に色々なことがありすぎて既に飽和状態だ。白い奇妙な影も見て、突然この獣が現れた。その上それが母親の名前を知っているなんて、どうしようもなくおかしい。

「なんで、お母さんの名前を知ってんの? お母さんのなんなのよ」

「知り合い」

 臆面もなく答えて、ゆっくりと夏葉の周りをぐるりと歩く。

「な……なにそれ、どういうこと」

 母親は上梨家の人間である。夏葉には理解できない尋常でない世界との繋がりも濃い家柄なことは知ってはいる。が、本当にこんな「化物」とも関わりがあるというのか。それ以前に、こんなものがこの世にいるなんてことが信じられない。

「なるほど……面白い」

 夏葉の気持ちなどお構いなしに、しげしげと夏葉を眺めていた獣がひとりごちた。

「な、なに、なんなの?」

 銀色の獣は夏葉の正面に立つ。眉根を寄せた夏葉の前で、獣は笑ったようだった。

「しばらくここにいることにする」

「――は?」

 夏葉は握ったままだった壷の欠片を落とした。

「そんな勝手な――第一、希世姉に断らなきゃ。勝手にペットは飼えません!」

「オレの方が格は上だ。なんで人間なんぞのペットになるんだ、あほか」

「だって、どうみても犬っぽいじゃん」

「だから、犬じゃないと何度言えばわかるんだ」

「と、とにかくそういうことは――あ?」

「『あ』?」

 反論しながら立ち上がった夏葉の視界がぐらりと揺れた。先程から寒気がしていたが、この騒ぎで熱が上がったのかもしれない。

「お、おい」

 倒れる体を何かが支えた。それが何だったか確かめることはできなかったが、思いのほかしっかりとした力強さがあった。どうしてか――夏葉はほっとした。

 そして素直に意識を手放していた。



 ……人の声が耳に届き、夏葉は目を覚ました。

 一体どれだけ眠っていたのだろう。どうしたわけかきちんとベッドに寝かされていた。

 窓の外は既に藍色に変わって丸い月が浮かんでいる。まだぼんやりする頭を抱えつつ、夏葉はリビングへと出てみた。

 帰宅したばかりなのだろう。希世が鞄を持ったまま仁王立ちになっていた。その前でソファに頭を乗せて寝そべっているのは、昼間に見た美しい銀色の獣だ。

「お……お帰り、希世姉」

「おとなしく寝てるはずの病人が、どうしてペットを連れ込んでるわけ?」

 希世は額に手をあてる。これほど大きな獣を前に希世は怯える様子すら見せないことが、内心、不思議だった。とはいえ、最初は驚いたものの、どういうわけだか自分もこの獣に恐怖を感じてはいなかったりするのだが。

「あたしだって、知らないよ」

「ペットじゃない」

 そうでしょうね、と希世は銀色の獣に鋭い目を向けた。

「なんでここにいるの、銀王ぎんおう

 銀王と呼ばれ、獣は首を巡らす。

「希世姉、知ってんの? この犬もどき」

「犬言うな」

「犬じゃないわ。妖よ」

 改めて驚きだった。

 妖だと断言された不可思議な獣の存在もそうだがそれ以上にこの妖を認識している希世。

 そんな希世の態度も――そして恐怖心の薄い自身の感覚も、常識で考えたらおかしな反応ではないか。恐怖心どころか、むしろそこにいることが自然にさえ思える自分……。

「あ、あやかし……?」

 あえて言葉にして夏葉は改めて獣に目をやると、どこか楽しそうに、銀王と呼ばれた獣が夏葉を見上げた。その青銀を纏った不思議な黒色の瞳はまるで宝石のように輝いている。

 妖といえば妖怪だ。それはもっと不気味で奇妙な化物と思っていた。だが、目の前にいるのはそんなおどろおどろしたものとは全く結びつかない。

 これが化物?

 こんなに、綺麗なのに……。

「もしかして、壷にいたの?」

 壷には奇妙な紙が貼ってあった。大きさで考えれば非常識だが、この事態も、上梨家もそもそもが非常識なのだ。あれが何かの呪いならこの妖が入っていたとしてもおかしくないのではないか。

「壷?」

「あ、壊れちゃって……それで」

 夏葉がもごもごと濁す。

「何かあったの?」

 希世が夏葉に問う。夏葉は変な影を見たこと、そのせいで壷が割れ、気がついたらこの生き物がいたことを説明した。

「あたしはなんともなかったんだけど……」

 希世の目が銀色の獣を見る。獣はまったく悪びれもせず暢気な様子のままだ。

「希世姉、この壷ってなんだったの?」

 希世が大きく息をついた。

「わからない。でも、修兄しゅうにいが華穂姉さんから預かってね。いずれ夏葉に渡そうと思ってたけど、金庫に入れたままずっと忘れてたものだったんだって」

 ずっと失念していたが、先日入ったコソ泥騒ぎで思い出したのだと言う。

 では別にお宝ということではなさそうだが、母の形見であったわけだ。しかし、母親を全く知らない夏葉としては、形見といわれてもピンと来なかった。あまりに知らなすぎて、割れてしまったという残念さも、ありがたみも今ひとつわからない。

 銀王、とやや緊張した希世の声がした。

「私じゃ相手にならないから抵抗はしない。敵意もなさそうだし」

 希世が続ける。

「何が目的?」

「関係ないだろ、オレの勝手だ」

 それより、と妖が悠然と希世を見上げる。

「瘴気に弱すぎる」

「それはっ――あんたに関係ないでしょう」

 希世が顔を背ける。言葉の最後はひどく弱いものだった。

「オレはしばらくここにいる。別に今更お前らと対立する気もない。お前ら上梨もオレが目の届く範囲にいる方がいいんだ、好都合だろ」

 希世は何かを言おうとして口を開くが、結局、何も言わずに頷いた。

 どういうことなのか、夏葉にはよくわからなかった。だが、希世――上梨家も、この妖もお互いにその存在を知っていたのだということだけは察せた。

 そして銀色の獣の提案を、希世が受け入れたのだということはわかった。



「夏葉、なんか疲れてる?」

 クラスメイトの前崎ゆずが夏葉の前でひらひらと手を振ってみせる。

 中間テストも終わり、追試も終わり、学校の雰囲気は一応の落ち着きを見せていた。とはいえ、もう暫くすれば文化祭の時期になるのでまた慌しくなるのはわかっている。今が束の間の平和といったところだ。

「ほれ、これをやるから元気を出せ」

 気のない返事に、ゆずが学食名物「超絶ふんわりプリン」を差し出す。

「うわ、買えたのこれ? すごいじゃん」

 途端に、夏葉の目が輝いた。

「まあね。そんなもんで元気になるなら、たーんと食え。って一個しかないけど」

「だめだよ、せっかくの超絶プリンだよ? 独り占めしなよ」

「いいんだよ。ってゆーか、最初から三人で分けようと思ってたんだし」

「でも、ほんとに元気ないよね、夏葉ちゃん。大丈夫?」

 宮野琴江が箸を止めて、首を傾げた。大丈夫と頷いて、夏葉は本日のランチメニューのミニハンバーグを口に運ぶ。

 前崎ゆずと宮野琴江は、夏葉の親友だった。

 ゆずはイタリア人と日本人のハーフながら、日本生まれ日本育ちであるためにイタリア語が全く話せないが、性格はしっかりとラテン系の少女だ。対して琴江は大和撫子そのものの容姿の可憐な美少女だった。たまたま出席番号が近いことで喋るようになったわけだが、これが意外と気のあう仲間だった。

 ごくたまに弁当を作ることもある夏葉だが、少しでも睡眠を優先すると自然と学食になってしまう。同じくゆずも学食派なのでお弁当持参の琴江も一緒に食べる都合上、学食に行くことが多い。そんな三人ともが揃って、すぐに完売してしまうこの学食の名物プリンとカレーは未だ食したことがなかった。

「じゃ、三人で食いやしょうよ、兄貴! あっしは大丈夫でござんすから!」

「いやいや、遠慮はいらねえんだぜ、お嬢さん」

 夏葉が戻すプリンをゆずが押し返す。

「遠慮なんかしてござんせん。ゆず兄の心、充分あっしには伝わっておりやすよ。だから兄さんも食ってくだせえ」

「ねえ……なんか、喋りが変だよ、ゆずちゃん、夏葉ちゃん。どうしたの?」

「昨日時代劇長時間スペシャル『次郎長』を見たから」

 夏葉とゆずが揃って言うのに、琴江がなるほどと苦笑する。

「わかった。そこまで言うなら、みんなで食いましょう」

 ゆずがプリンを受け取って開ける。

「でもさ、ほんとにどうしたの、夏葉」

「いや、別に、ほんとに何もないんだけどね」

 ――実は、何もないわけではない。ここのところ、希世があまりマンションに帰ってこないのだ。

 それというのも、どういうわけだか同居することになった巨大な生物――銀王のせいだと思われるが、暫く実家から仕事に行くと連絡があった。その為、家に帰ると銀王と二人(?)という、なんとも不思議な空間が出来上がっていた。

 別に銀王が何かをしてくるわけではない。おとなしいもので、殆どソファに寝そべっているのみだ。妖なんていいつつ本当にごくおとなしい犬のようであった。

 ――だが、夏葉にとってはそれが余計に気になるのだ。

 あまり動きもしない銀王はオブジェのひとつと化したような状態で自然と受け入れつつあり、馴染んでしまっている自分に困惑を感じる部分もある。が、しかし、なんといっても妖なのだ。想像の埒外の生物である。何をしだすかわからないから――恐怖とはまた違った意味で――自然と警戒をしているような状態のために緊張のし通しだった。動かないものだから、少しでも動くと逆にびっくりする。そんな状況が酷く疲れるのだ。

「あ、そうだ。あたし保健室行こうと思ってたんだ」

 なんとか早く戻ってくれないだろうか、その交渉の必要性を感じていた。

 このままでは神経が衰弱して死にそうだ。妖と一緒にいて、食い殺されるならまだしも、何もしてこないどころか、全く相手にもされていない妖に勝手に戦々恐々としてというのは情けない話ではある。

「希世先生?」

 貴重なプリンを一口もらい立ち上がると、琴江が問うた。頷いてトレイを持って、机から離れようとした。

 ――その時。

 窓ガラスが割れる派手な音が響いた。夏葉の手からトレイが落ち、食器類が床に錯乱する。窓からの日差しに割れたガラスの破片がきらきらと光って飛び散り、そこここで悲鳴が上がる。一瞬にして学食内が騒然となった。

「夏葉ちゃん!」

 琴江が悲鳴交じりに夏葉を呼び、ゆずが駆け寄った。

「大丈夫、夏葉?」

 何が起きたのかわからなかった。問われるまま頷く。ゆずに助け起こされる形で立ち上がると細かなガラス片が落ちた。

「見て、これ。石だよ」

 ゆずが足元に落ちたものを拾う。

 学食は校舎の一階にあり、廊下と反対側の中庭に面した方はガラス張りになっていた。誰かが学食に向かって石を投げたのに違いなかった。

「誰かのいたずらなの?」

 ゆずと共に夏葉を支える琴江が握られた石を見つめる。

「だろうね。ったく」

 騒ぎに気づいた教師がやってくるのが見えた。ごく平和な昼休みが、一変して不穏なものとなっていた。

「夏葉、手、怪我してる。とりあえず保健室行きな。先生には説明しとくから」

「一人で大丈夫? 一緒に行こうか」

 首を振ると頷いた琴江はハンカチを取り出す。夏葉の右手を取って手の甲を押さえた。

「え、あ、琴江、汚れちゃうよ」

 何言ってるの、と強い口調で琴江が言う。

「そんな場合じゃないでしょう。いい、ちゃんと手当てしてもらうんだよ」



 保健室に希世はいなかった。仕方なくそのまま戻ると琴江によって保健室に連れ戻された。強引に手当てを施され、挙句、包帯をぐるぐる巻きにされていた。何事も器用にこなす琴江だが、恐ろしく分厚い包帯の様子からして、どうやら看護師の素質はなさそうだ。

 ショックの抜けぬまま授業を受けたものの、内容なんて殆ど頭に入るはずもなかった。そしてその後は何事もなく……気がつけば放課後になっていた。

 ざわつく教室から生徒達が帰宅していく。ただぼんやりと眺めている間に教室はいつの間にか空になっていた。夏葉としても本当はすぐにでも帰りたいが、沈んだ気分が重しになっているのか、体が思うように動かなかった。

「夏葉、よかった。まだいたんだね」

 ようやっと、帰り支度をして教室を出ようとしたところで、ゆずが声をかけてきた。

「駅まで一緒に帰ろ」

 琴江もゆずも部活動をしているので帰りは一緒になることはないので珍しい。そう言うとゆずはにんまりと笑った。

「今日ね、部活ないんだ、あたし」

 つい先程、ゆずと同じ部に所属する生徒が練習に向かう姿を見かけている。本当は休みではないだろうに、昼休み以降、元気のない夏葉を気遣ってくれたに違いなかった。

 悪いとは思いつつ、その有難い申し出に夏葉は素直に頷いた。

 傾きかけた日が長い影を作る。まばらに歩く生徒と同じく影を追うように歩きながら、ゆずは夏葉の手に目を向ける。

「びっくりしたね、今日は」

「そだね」

「大したことなくてよかったよ。ほんとに」

 だって、とゆずが言う。

「こんっっなに頭悪い上に、唯一見られる顔まで傷がついちゃったら、夏葉、お嫁にいけなくなっちゃうよ」

 わざとふざけた物言いが優しい。

「……ひどくない、その言い方」

「プリンあげたじゃん」

「関係ないでしょ、今、それ」

 ゆずがくすくす笑う。つられて夏葉も少し笑えた。

「ねえ、うちのクラスって文化祭なにするんだろーね」

「面倒くさくないのがいいなぁ」

 夏葉が力なく言った。

「そう? 喫茶店とかいいじゃない」

「面倒だよぉ」

「何言ってんの。和風喫茶にして、琴江に着物着せて給仕させればバカな男が山ほどくるよ。なんだったら洋風にしてあたしがメイドの格好してもいいわ」

 ゆずが豊かな胸を反らす。確かにゆずは美人でスタイルがいい。それが充分武器になることを理解しているのだが、どうしてだかそんな風に自慢げに公言しても嫌味がないところが、なんというかゆずらしい。

「そしたら儲かるわよ! 山分けしようよ、クラスで」

「稼いだ分は学校側で回収だよ、きっと。学生が金儲けってまずいじゃん」

「なにそれ、けちすぎる!」

 だいたいさ、と言い掛けたゆずが顔を上げた。何かと思う前にゆずが夏葉を突き飛ばし――直後、すぐ目の前を何かが通過する。そして何かが割れる音がした。

「な……に?」

 尻餅をついたまま夏葉は呟いた。ほんの数歩先、二人の間に割れた植木鉢が転がり、中から土がこぼれていた。

 暫くの間、二人はそのまま植木鉢を見つめた。

「……こういうのってさ、漫画だけだと思ってた」

 ゆずが呆然と言うのに、夏葉も頷いた。

「あんた、祟られてるんじゃないの?」

 あんなおかしな生き物と同居しているだけで夏葉のキャパシティは一杯一杯だ。祟られる余裕なんてありはしない。もちろん身に覚えだってない。

「……もしかしたら、ゆずかもしれないよ?」

「まさか冗談でしょ」

 ゆずの手を借りて夏葉が立ち上がる。鞄を拾う際もう一度植木鉢に視線を送る。近くの建物を見上げても、怪しい人影もなければ開いている窓なども特になかった。

「マンションまで送ろうか?」

 恐らく、酷い顔をしていたに違いない。ゆずが夏葉を覗き込むようにして問うた。

「ううん、大丈夫。もう、すぐそこだし」

 ゆずは電車通学だが夏葉は徒歩で通っていた。バスを利用することもあるが、そもそも夏葉の自宅は希世の学園勤務を見込んで購入したマンションであるから、そんなに距離はない。基本的には徒歩で済ませてしまっていた。

「ゆずも、気をつけて」

 マンションが見える辺りまでくると、ゆずがもう一度家まで送ろうか尋ねた。それに首を振って、夏葉は笑顔を向けた。



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