「とりあえず、死んでみようか」
と、突然言われて面食らった。
夕暮れに染まる教室は閑散としており、開け放した窓から、どこかの教室でブラスバンド部が楽器を演奏している音が、やけに大きく響いていた。
1曲目が終わり、次の曲はなんだか聴き覚えのある曲で、耳を澄ませてみると『紅蓮の弓矢』だった。なるほど。ぼくはうなずいて、シャープペンシルを1回、手の中で回転させ、カチ、カチ、と芯を出し、開いたノートに乗せようとした──ところでさっ、と机の上からCampusの大学ノートが奪い去られる。
「ガン無視はひどいんじゃないかなっ!? ただの幼なじみジョークなのに!」
幼なじみジョーク?
なにを言っているのだこいつは。
ぼくがむける白けた視線に耐えかねたのか、ミサキは目を逸らした。だがすぐに睨み直すと、訊ねてくる。
「アサトが、死ねばいいって思うときって、どんなとき?」
……死ねばいいと思うとき、か。
日常を振り返ると、案外思い当たる事柄は多いものだが、あえてふたつに絞ってみる。
たとえば。
「あれ? なんでこっち見てるのかな?」
「いや別に。とりあえずノート返してくれないかな」
「あ、うん」
意外と素直に引き渡すミサキを見ながら、ぼくは考えた。──たとえば、自分が勉強しているときに邪魔されると殺意が湧くかな……。
試験1週間前で切羽詰まっていた。実際のところそう根を詰めるほどの成績ではないのだけど、今回はなんとなく頑張ってみようかな、とちょっと張り切っている。
そこでちょっかいを出してきたのが、家が隣にある関係で、幼い頃からの顔見知りであるミサキだ。ミサキは1学年上の高3である。なぜ、この教室にいるのかはわからない。というより、受験生なのだから、ミサキこそ勉強しなければならないと思う。他人ごとだけど、将来が心配だった。
……残りのひとつは、『週間少年ジャンプ』最新号のネタバレをされることだ。ぼくが買ったジャンプなのに、勝手に読み、ネタバレをされるということ以上に殺意を抱く瞬間というものはない。『黒子のバスケ』最終回の前の回だったろうか、「これ完全にスラダンのパクりだよねー」とか言われたときは絞め殺してやろうかと思った。読んでみて納得したけど。
改めて考えてみるとどっちもこいつ絡みだな……。
「……そういう、きみはどうなの?」
結局、ぼくは答えずに、逆にミサキに問い返した。
「あたし?」
「うん」
「あたしはね……」
ミサキは目を伏せた。言おうか、言うまいか、躊躇っているようだ。会話がなくなると、教室内は驚くほど静かだった。いつのまにかブラスバンド部によるBGMが途絶えていて、息が詰まるほどの沈黙に満ちている。
ぼくは呼吸を強く意識した。
ミサキが顔を上げて、言った。
「ねえ、アサトってなんで突然、勉強に目覚めたんだっけ」
「モテたいからだけど」
ぼくはそう答え、ノートにシャーペンを走らせる。ペン軸の持ち方や、文字を追う顔の角度に気を遣った。いま、この場にはミサキしかいないが、普段から心がけることが肝心だと考える。
ミサキは飲みこみ難いなにかを無理に飲み下したあとのような顔つきで少しのあいだ黙っていたが、まなじりを決し、やがて言った。
「死ねばいいのに」
「いや、生きるけど」
死んじゃったらモテれないじゃないか。
ぼくが冷静に返すと、ミサキはうら若き婦女子がしてはいけないようなすごい顔をした。鬼の形相という比喩表現を正しく認識させられる、そんな表情だった。しかしそれも一瞬のことである。「こひゅー」と過呼吸でも起こしたのかと危ぶまれる息をついて、それからミサキは心を鎮めようとしてか、ぎゅっ、と強くまぶたを閉じた。ほっとする。これ以上、ミサキのあんな顔を見ていたら、近所づきあいに支障が出るところだった。お隣のおばさん、おじさんに娘さんの学校での様子を訊ねられたとき、どう対応していいかわからない。「実はぼく、最近ミサキさんが恐いんです……」とか言えないだろう、普通。だが、目を閉じているミサキはどこにでもいるような美人の上級生で、恐怖のあまり疎遠な関係になるような心配は、どうやらなさそうだった。ミサキは瞳を閉ざしたまま、頭痛を堪えるように額に手を当て、ぼくに訊いた。
「……えーと、なんでまたそんなことを言い出したのかな?」
「そんなこと? って、『モテたい』ってこと?」
「ぐっ……う、うん。そう。なんで? 去年まで別に気にしてなかったよね? 急に、どうして……」
どうして、か。
ぼくは言葉を選びながら言った。
「好きな子ができたから」
「あ……」
「──ってわけでもなくて」
瞬きするほどの僅かな時間、切なげな光を瞳に宿らせたミサキは、ぼくが言い直したとたん、きょとんと目を丸くした。
「え?」
「高校になってからは、頭がいいやつがモテるって聞いて、どうせなら1回くらい、モテ気分を味わいたいと思って」
……言葉を重ねていく内に、次第にミサキの丸くなっていた目が細く、半眼になっていく変化が見て取れた。聞き終わり、ミサキは再び目を閉じた。1秒、2秒……教室の前方にかかる時計の秒針が一回りしたところで、ミサキはまぶたを開けないまま、たとえようもない威圧感をこめた声色で、厳かに言った。
「言いたいことは、それだけ?」
「アッハイ」
ミサキは目を薄く開いて「ひとつだけ」と、なぜか片言の返答をしたぼくの胸に、立てた右手の人差し指を突きつけた。
「ひとつだけ、言いたいんだけど」
「う、うん……なに……?」
やばい、なにかマズっただろうか。不安に駆られるぼくに、ミサキは叩きつけるように叫んだ。
「あたしがいるじゃん!」
突然のセリフに、反応が遅れる。
辛うじてつぶやいた。
「え……それって、どういう……」
「わからないかなっ? あたしが・アサトのこと・ずっと好きだったって・言ってるんだけど!」
ミサキが一言発声する度に、人差し指の先がぼくの胸の中心に突き刺さって、痛い。ヒットする位置は、みぞおちのほんの数センチ上なだけである。ちょっとでも動けば、息が詰まってしまうだろう。だからぼくは、微動だにせず、ミサキの気が済むまで待つことにした。
♪♪♪
紙の擦れる音が聞こえる。
教室は再び静まり返っていた。だが、今度は不愉快な沈黙ではない。ぼくはノートにペンを乗せ、問題を解く。書くときの姿勢などは、特に意識しなかった。
休憩が終わったのか、また金管楽器の音色が響きだした。覚えのある曲調で、ぼくは手をとめ、耳を傾ける。じっと聴いていると、サビに入った。『コネクト』だ。なるほど。選曲した人間とは、仲良くなれそうだ。
ふと目を上げると、ぼくのバッグから勝手に抜き出したジャンプを広げ持ったミサキと視線が合う。
ミサキは笑って言った。
「ローも“D”だったんだね!」
「とりあえず、死んでみようか」