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Light Fantasia  作者: 天海六花
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彼方から

     彼方から


       1


 目の前で、無言で飯を頬張るファニィをぼんやり見ながら、俺はゆっくりと香草の茶を啜る。

「……今日はお茶、持ってきてくれなかったね。お昼ご飯がこんな時間になるくらい忙しかったのに」

「んあ? ああ、悪い。今日の俺、駄目だ。全然頭が回らなくてな。昼も些細なミスばっかだった」

 普段俺は、ファニィや元締めが忙しそうだと感じた時は、何も言われなくても執務室に茶を持っていくようにしている。この二人、血は繋がっていなくともさすが親子といった様子で、仕事が忙しい時、作業に集中している時は、周りの人間が気を使ってやらなきゃ、休憩一つ挟もうとしないんだ。自分より周りを優先するタイプってのは、確かに立派だしカリスマ性もある。だがそれじゃいつか体を壊してしまう。だったら周りが気を付けてやらなきゃならないじゃないか。

 俺は組合ではまだ下っ端だが、俺にできる事ならなんだって手伝ってやりたい。俺の事を家名で判断した訳ではなく、『魔法使いのタスク』としての能力を買ってくれた組合には全力で尽くしたいと思っている。

「ホント、今日は忙しかったよ。お茶飲んでる暇があるならハンコ一つでも多く押してないと大変なくらい」

「それでも休憩しないと倒れちまうぞ。元締め様だってもういい歳なんだから、お前がしっかりしてやらなきゃならないだろうが」

「確かにね。これ食べ終わったら交代するよ」

「ああ。すぐ出せるようにしといてやるから、意地でも元締め様を食堂へ引っ張ってこい」


 俺はカップの茶を飲み干した。そしてテーブルに頬杖をついて唇を引き結ぶ。

 駄目だな。やっぱり言葉が続かない。

「……さすがに……今日は手伝いに来いなんて、言えないしね」

 補佐官であるファニィの手伝いをしているのは、書記官の肩書きを持つコートだ。

 俺やファニィがこんなにも滅入っている原因はコートだから、その当人を呼び出そうとは思わないし、コートだって、のこのこと顔を出せるはずがない。もっとも無理に呼び出したとしても、コート自身が一番塞ぎ込んじまってるんだから、仕事どころじゃないはずだ。

「……あの馬鹿が……あの時、エイミィの名前を呼んでやればな」

 俺はつい、ここの所ずっと頭ン中をぐるぐるしていた愚痴をこぼした。

「それはそうだけど、もう今更どうにもなんないじゃない。タスクの事は、あの子なりにちゃんと真剣なんだしさ」

「はぁ……俺には理解不能。アレを寛容できるお前は強いねぇ。俺には真似できねぇわ」

 俺には全くもって理解不能だが、コートには同性愛という性質の悪い性癖がある。俺もオウカに来てつい最近知った事だが、コートの生まれたラシナではそれはさほど珍しい性癖ではないらしい。美男美女が多いので、たまたま好意を持った相手が同性であったという事も多いらしいし、基本的にラシナの民は考え方が奔放な人が多いんだ。

 だからコートとジュラさんのお袋さんも、あんな奔放で身勝手で、しかも凄まじく傍迷惑という性分なんだろう。

 俺は怖そう、気難しそうといった見た目で損している分、誰かに外見を好意的に見られる事は嫌ではないし、むしろ嬉しいくらいだが、同性に恋愛対象として見られるのは御免被りたい。コートは俺にとって、可愛い弟以上の何者でもないし、これからその気持ちが変わる事もない。

 ファニィは唇に付いたソースをペロリと舐め、虹彩の長い赤い目を俺にじっと向ける。俺は一瞬たじろぎ、逃げ腰になった。

「な、なんだよ」

「あたしは強くなんかないよ。エイミィの事は今でも悲しいし、誰かに八つ当たりできたらどんなに楽かなって思うけど……でもそんな事しちゃったら、あたしはあたしじゃなくなっちゃうもの」

 ファニィは自分で言うように、誰もが『ファニィだ』らしいと感じる、もっとも彼女らしい選択をして、その通りに行動している。そしてその選択肢に間違いはない。少なくとも俺は、ファニィの選んだ行動が間違っていた事を見た事がない。

 全てがファニィらしい。

 俺にはそれがファニィの魅力であり、強さなんだと思える。俺がファニィに惹かれる要素だ。

「ねぇ、タスク。タスクの気持ちも分かるよ、あたし。だけどもうコートを責めないでやって。コートだって苦しいの。あたしたち、あの子の頭の良さを頼って大人みたいに扱う部分が多いけど、でもコートは……まだ十歳なの。子供なの。まだまだ何も知らない子供なの」

 ファニィが真摯な目で俺を見つめている。

「……分かってるよ……お前に言われなくてもさ」

 やっぱりファニィは凄い。俺には真似できない程、俺では触れる事さえできない程、ファニィは強い。そして仲間を思う気持ちも誰よりも強い。コートやジュラさんにだけでなく、組合の誰にも同じだけの思いを抱いて、優しさを分け与えている。

 俺は自分のガキさ加減に嫌気が差してきた。

 頭では分かっている事を、いつまでもいつまでもコートを責める事によって、必死になって躍起になって自分の平常心を保とうとしている。ホントに俺……図体だけがでかいままのガキだ。

「……悪かった。もう、コートやエイミィの事は口にしない。俺ン中で気持ちが整理できるまで、もうちょっと掛かるかもしれねぇけど、でもコートを責めるような言葉はもう口にしない」

「うん。ありがと」


 エイミィ……恋をして、天界から落ちてきた天使。幼い頃に聞かされたおとぎ話に出てくる天使なんて者が、本当にこの世にいた事にも驚きだが、それがあんなに小さな少女だなんて。

 天使なんて人外の者に人間の年齢を当てはめるのは見当違いだろうが、でもあんなに小っちゃな体で、命がけで惚れた相手の傍にいようと天界から落ちてくるなんて……エイミィの恋を成就させてやりたかったな。

 コートがもう少し大人だったら、コートが俺なんかに惚れてなければ、結果は違っていたのかもしれないが、それは今の状況ではどうしたって分かるような事じゃない。俺たちにできるのは、エイミィというあの少女の存在を忘れないでいてやる事だけだ。

「……あ……ええと……そうだな。仕事は夜までかかりそうだからさ。お夜食。あたしと元締めの分のお夜食、執務室に出前頼んでもいいかな?」

 ファニィが明るい声を張り上げる。話題を変えたかったのは俺も同じだし、ファニィの気遣いが心に染みる。

 俺はペチッと自分の頬を叩き、無理矢理笑顔を作った。

「任せとけ。お前の選択は正しい。俺に頼むとは目利きだな」

「えへへー、そうでしょ。あ、でも書類片付ける時に邪魔になるような、取り分けが必要な大皿料理は勘弁よ」

「それくらい分かってら。誰に言ってやがる?」

 俺とファニィは軽口を叩き合い、テーブルの上で緩く拳をぶつけ合った。


       2


 もう涙は出ません。でも僕はまだ泣いています。

 僕のせいでエイミィさんは消えてしまったんです。僕がいけないんです。

 タスクさんに叱責されて、ファニィさんに無言で責められて、姉様は僕を庇おうとして、僕はいたたまれなくなって、ずっとベッドで毛布を被って震えて泣いていました。何もかもが怖いんです。部屋の外に顔を出せば、また誰かに責められそうで、怒られそうで、全てが怖くて仕方ないんです。

 姉様だけがずっと僕を心配して、何度も声をかけてくださいます。でもその労わりの言葉の裏側に潜むものが怖くて、僕は大好きな姉様すら信じられなくなっているんです。

 みなさんに迷惑をかけているのは分かっています。でも……僕は……もうがんばれそうにないです。顔を上げて歩くことなんて……できないです。

「……コート。わたくしお稽古に行ってきますわね。いい子でお留守番してるんですのよ」

 姉様が部屋の外から、毛布にくるまった僕に声をかけてきてくださいました。

 僕が不甲斐ないばかりに、姉様はこのごろ、とてもしっかりなさっているんです。僕なんてもう必要ないのかもしれません。

 誰にも……必要と……されていないのかも……しれません。

「……ねぇ、コート。今日のお夕食はご一緒できまして? お昼もわたくし一人で寂しかったんですの」

「……ごめ……なさい……行け……ません……」

 何とか声を絞り出しましたが、でもそれだけ言うのがやっとでした。姉様を気遣う余裕なんて、もう僕にはありません。

「そうですの……でも昨日も一昨日も、ずっとずっとコートはお食事を口にしていませんわ。それでは体を壊してしまうのではないかしら?」

 姉様の気遣いが嬉しくて、だけど今の僕はとても嫌な性格になってしまっていて、姉様の言葉が煩わしくなって、毛布の端をギュッと掴んだまま毛布の中で大きく首を振りました。

「僕のことは放っておいてください!」

 僕……本当にすごく嫌な性格になってしまいました。大切な姉様を邪険に扱うなんて……僕、もうきっと誰からも見捨てられます。姉様だってきっと呆れています。

「わたくし……お邪魔でしたのね。出て行きますわ」

 落胆されたような姉様の声がして、ドアが開く音が聞こえました。そして姉様の靴音が遠ざかっていきました。


 僕……最低です……。

 こんなだから僕はみなさんに怒られたんです。呆れられたんです。一人で不安だったエイミィさんのことを第一に考えなくちゃいけなかったのに、僕は僕のことしか考えてなくて、自分勝手な理想ばかり述べて、そして大切なものをたくさん失ってしまったんです。自業自得です。

 鼻の奥がまた痛くなってきて、僕は嗚咽を漏らしました。涙なんてもう出ません。でもまだ泣き足りません。泣いて、どうにかなるようなことでないのは分かっています。でも、少しでも現実から逃れようと、僕は泣き続けました。

 どれほど時間が経ったでしょうか。カーテンを閉め切っている部屋が薄暗く、伸ばした手の先も見えないくらいになっていました。

 姉様は……戻っておられません。僕、本当に見捨てられてしまったのでしょうか?

 強張った体を動かして、僕はゆっくりと毛布から顔を出しました。そして素足のまま、ベッドから降ります。

 カーテンを開くと、あの夜より少し大きな月が見えました。

 まだ……三日。でももう、三日。エイミィさんを失ってから、もう、三日も経ってしまっていて、僕はずっと後悔して立ち止まっていて。

 カーテンを掴んだまま、僕は項垂れました。やっぱり僕はまだ、動けません。がんばれません。

 ベッドへ戻ろうとした時です。サイドテーブルに手が当たり、その上に置かれた物を床に落としてしまいました。僕はのろのろとそれを拾い上げます。

 少し前に、タスクさんからお借りした魔法書です。エイミィさんと一緒にタスクさんに魔法の講義をしていただいた後、タスクさんが「興味があるなら」と貸してくださったんです。ちゃんと読んでいる暇はなかったですけれど……でも、本来の僕の、本が好きという気持ちがその魔法書を開かせました。

「魔法……古代魔法紋章と練習で誰でも使えるようになるもの。魔術……素質がなければ誰も使えないもの」

 あの講義の内容はまだしっかりと覚えています。タスクさんがいて、僕がいて、エイミィさんもいて……本当に、楽しかった講義でした。

 魔法書をパラパラとめくっていると、僕の手がふと止まりました。薄暗くてよく見えないですけど、でも気になる文字が目に入ったんです。

 僕はもう一度窓辺に近付き、月明かりにその文字を照らしてみました。

「死人蘇生……? 蘇生って、生き返らせるって意味、ですよね?」

 僕は驚いてサイドテーブルのランプに火を入れました。そしてその項目をしっかりと読んでみます。

「一度消えた命に再び仮初の息吹の炎を与える術」

 たった一言しか書いていないので、おそらくとても難しい魔法なのだと思います。この魔法書より、更に高等な魔法書によって勉強できる内容なのかもしれません。でも……でもこの魔法が使えれば、僕はエイミィさんにまた会う事ができるのでは?

 魔法……魔法の名前は……。

 僕は必死に指先をその文字の周囲に滑らせました。項目として書かれていないため、ちゃんとした魔法の名前が分からないんです。そして僕はやっと一つの魔法の名前らしき文字を見つけました。

「……ネクロマンシー」

 この魔法なら……この魔法なら僕の罪は帳消しにできる! エイミィさんを再びこの世に呼び戻して、そしてちゃんと謝って、それから本当の僕の気持ちを伝えられる!

 僕は魔法書のページの隅を折り、急いでブーツを履きました。そのまま寮のお部屋を飛び出します。

 タスクさんにお願いして……タスクさんにまず謝って、それからこの魔法を使ってエイミィさんを蘇生させていただけるようにお願いすれば……!

 寮から組合の食堂へ向かって、僕は全力で中庭を走ります。組合の建物が月夜に浮かび上がり、そして僕の足はゆっくりと速度を落として止まりました。

「……でき……ない……きっとまた怒られる。お前の身勝手で命をもてあそぶなって、きっと……」

 そうですよね。きっと怒られます。僕の身勝手で殺したり、生き返らせたり、そんなのきっと、タスクさんはものすごくお怒りになります。エイミィさんだって嫌がるに決まってます。

 両手でぎゅっと魔法書を抱え、僕はその場に立ち竦んでいました。

 帽子もケープも付けずにお部屋を出てきたので、シャツ一枚の僕は肌寒さでブルッと震えました。いいえ、寒さだけじゃないです。恐れ、も……。

 言いようのない恐怖に怯え、僕はその場へしゃがみ込んでしまいました。

 どうしよう……このままお部屋に戻るしか……。

 必死に頭の中で理想と現実とを照らし合わせていると、ふと僕の正面に見たことのない靴の人が立ち止まりました。


「どうしたの、ボク? おなかが痛いの?」

 優しく頭を撫でられ、僕は体を強張らせて顔を上げました。そこには僕の知らない女性がいました。

 褐色の肌と、額に幾何学模様の刺青。黒くて長い髪を束ねて頭の上で綺麗にまとめていらっしゃいます。旅装束は少し汚れていますが、でもとても仕立てのいいもので、その女性のかたも上品で高貴な印象がありました。

「あら、女の子だったかしら? ボクなんて言ってごめんなさいね」

 オウカ標準語ですが、でも少し訛りがあります。

「……あ、あの……僕、男……です。間違って……ないです」

「まぁ、そう」

 目を細めて優しく微笑まれます。姉様やファニィさんとは全然違いますが、とても優しそうなかたです。

「それで坊やはおなかでも痛いの? こんなところに蹲っていたけれど」

「い、いえ……平気、です」

 女性の身体的特徴から察して、タスクさんと同じジーンのかたなのでしょう。刺青もあるということは、おそらくこのかたも魔法使いです。

「あら? 魔法書? 坊やも魔法使いなの?」

「……こ、れは……お借りした……ものです」

「そうなの。坊やはお勉強家さんなのね」

 女性が僕の頭を撫でてから、僕の手を引いて立ち上がらせてくれました。

「坊やはこの組合の誰かの弟さんか子供さんかしら? おねえさんね、冒険者組合にお仕事をお願いしにきたの。でもちょっと迷っちゃって」

 そういえば、ここは組合の敷地内です。関係者か、依頼者のかた以外は入れない場所でした。

「こ、こちらは……組合の寮、です。お仕事の依頼……は、あちら……の、建物の中で……」

「あら。じゃあ私は逆の方向に来ちゃったのね」

 女性がおかしそうに笑いました。不思議とその声で、僕の緊張がほぐれていきました。

「あ、あの……ジーンから……いらしたのですか?」

「ええ、そうよ。坊やは小さいのによく私がジーンの民だと分かったわね。この肌の色でかしら?」

「あの……ぼ、僕の知っているかたに、魔法紋章の刺青をお顔にほどこされるのは……ジーンの風習だとお聞きしたことがあって……」

「まぁ、お利口さんな坊やね。まだ小さいのに。あら?」

 女性が僕の髪を撫で、そして痛くないくらいの力で僕の耳を引っ張りました。

「坊や、ラシナの民だったの」

 僕がコクンと頷くと、女性が再び笑顔になりました。

「道理で綺麗な子だと思ったわ」

 僕は照れてしまって、視線をつま先へと落としました。

「坊やの知り合いは組合にいるの? 内部に詳しいみたいだったけれど」

「……僕も……その……組合員、です」

「え? 坊やみたいな小さな子でも冒険者になれるの?」

「ぼ、僕は特例だそうです。その……姉様と二人で一人の扱いで……ほ、他には十五歳以下の子供はいません」

「そうだったのね。じゃあもし良かったら、私を元締めさんのお部屋に案内してもらえるかしら? 事前にお手紙をお出ししているの」

 僕は困ってしまいました。

 執務室にはきっとファニィさんがいらっしゃいます。お客様がいらっしゃったら、もしかしたらタスクさんもお茶を持って執務室にいらしてしまうかもしれません。姉様もまだ戻っていませんし、どこで誰と会うか分からないのに僕……そんなの怖いです。

「どうしたの、坊や?」

「……あ……あ、の……ごめん、なさい……僕……い、今……組合に入れなく、て……」

 枯れたと思っていた涙がまた溢れ出しました。体が震え出し、僕はまた全身が震えはじめて目元を擦ります。

「まぁ……急にどうしたの? 私、何か悪い事を言ってしまったかしら?」

初対面のかたにも心配をかけてしまうなんて、本当に僕、最低です。やっぱり僕なんて、もういなくなってしまったほうがいいんです。

「ご……めんな……さ……」


 僕が女性に謝ろうとした時でした。

「まぁ、コート! どうしたんですの?」

 姉様の声に、僕は驚いて顔を上げました。姉様が僕を見て目を丸くしていらっしゃいます。そして僕の傍にいる女性を見て、唇を尖らせました。

「そこのあなた! わたくしのコートをいじめましたわね? わたくし、許せませんわ!」

「え……コー、ト? ああ、坊やのお身内の方ですか? 私は坊やに道を聞いただけで……」

「コートはわたくしの大切な弟ですのよ! わたくしがいないと思ってコートを泣かせるなんて、とても酷い事をなさいますのね!」

「い、いえ。それは貴女の勘違い……」

「コート、いらっしゃい! わたくしがこの方をメッてして差し上げますわね!」

 大変です。姉様が泣いている僕のことを勘違いして、このかたに対して怒っていらっしゃいます。

 姉様が僕を片腕で抱き上げると同時に、空いているほうの片腕がすっと高く伸びます。僕は慌ててその腕を押さえました。

「ね、姉様! このかたは無関係で、僕は一人で勝手に泣いていただけでっ!」

「まぁ、そうでしたの? 申し訳ないですわ。わたくし、ちょっと早とちりしてしまいましたのね」

「え、ええ……ご理解いただけたのなら……」

 女性が姉様の平手打ちを警戒したまま、恐る恐るこちらをご覧になっています。姉様に叩かれたら、このかたはきっと骨が折れてしまいます。間に合って良かったです。

「コート、もう平気ですの? じゃあお夕食は一緒に食べられますわね?」

 姉様がいつもの優しい微笑みを僕に向けてくださいます。

 姉様……姉様はやっぱりずっと、僕の味方でいてくださったんですね。僕を怒っていらっしゃらないのですね。

「お姉さん、申し訳ないのですけれど、少しお時間をいただけません? 組合の元締めさんにお取次ぎいただきたいのです」

 姉様はきょとんとして女性を見ています。あ……僕のことに夢中で女性のお話しをちゃんと聞いていらっしゃらなかったのですね。

「姉様。このかたは元締め様とお約束があって、お会いしたいとのことです」

「まぁ、そうでしたの。ではご案内しますわね」

 姉様は僕を抱いたまま歩き出しました。

「ね、姉様! ぼ、僕はお部屋に戻りますから……っ!」

「いいえ、一緒にお夕食ですの。嬉しいですわ、コートと一緒のお食事」

 僕はまだ何かを口に入れたい気分ではありませんし、それに組合へは……。

 僕の願いもむなしく、僕は姉様に連れられて執務室の前まできてしまいました。


       3


 夜遅くに訪れた遠方からの依頼者のために、あたしは彼女を案内してきてくれたジュラに、食堂へ行って四人分のお茶を淹れてきてくれるよう頼んだ。そしてコートを置いて行くように指示した。

 不満そうだったけれど、ジュラは何度も振り返りながら食堂へ向かった。一応ジュラも、コートがこの組合の書記官であるという事実を認識はしているので、あまり自分の都合最優先な行動は控えてくれてるのがありがたいわ。


「遠路遥々ようこそ、冒険者組合へ」

 元締めが依頼者の女の人に席を勧める。女の人は一礼して腰を下ろした。その向かいに元締め、あたし、コートが座る。

「え……あの、坊やは元締めさんのお子さんか何か……?」

「いやいや。紹介します。ワシが組合総元締めをしておりますトールギー・ドルソー。手前から補佐官で娘のファニィ・ラドラム。そしてコートニス・グランフォートは幼いながらもファニィの書記官を務めておりまして、ワシも大変に信頼を置いた者ですので、どうか同席を許可していただきたい」

「まぁ……こんな小さな子が? お利口そうとは思っていましたけれど……」

 依頼者の女の人は口元に手を当てて、心底驚いた顔をした。そりゃあ驚くのは無理ないよねぇ? あたしくらいの歳でも「まだ若いのに」って言われる事があるのに、コートはまだ十歳、見た目はもっと下に見えるもん。

 コートは分厚い本を抱えたまま、肩を小刻みに震わせてじっと俯いて自分のつま先を見ている。いつもの青い帽子もケープも付けてないし、何だか急いで部屋を出てきましたって感じ。何か言いたい事があったのかもしれないけど、でもこの様子はまだ全然立ち直ってるようにも見えない。

 あたしは黙ってコートの肩を抱き寄せた。ビクッとコートが体を固くする。その体は冷え切って冷たかった。この薄着でずっと外にいたのかしら?

 あたしはコートの耳元に口を持っていって、他の人に聞こえないような小さな声でコートに囁きかけた。

「もう誰もコートを責めたりしないから、もっと堂々としてごらん。いつまでも塞ぎ込んでたら、あたしもジュラもタスクもスゴく心配だよ。それにエイミィだってコートに笑っててほしいんじゃないかな」

 あたしの言葉に、コートがゆっくり顔を上げる。そして今にも泣き出しそうな顔で、じっとあたしを見上げた。

 あたしは無言のまま、唇の端をきゅっと上げて微笑みかける。

「……ご……めん、な……さい……」

「ん。もう謝んなくていいから、元気出してよ。これ終わったら、ジュラと美味しい物でも食べておいで。ジュラが一番心配してたの、コートだって分かってるよね?」

 コートは唇をぐっと噛み締め、無言のままあたしの服の袖を掴んだ。そして小さく頷いた。

 うん。もうコートは大丈夫。すぐには笑えないかもしれないけど、でももう誰にも会わないように部屋に塞ぎ込んだりしないわ。コートは強い子だもん。


「あっ、すみません、私ったら……私、ジーンで賢者をしております、ミサオ・カキネと申します」

「ご高名は聞き及んでおります」

 ジーンの賢者様ね……あれ? でも今『カキネ』って言った?

「さっそく依頼の話ですが、先にお手紙をしたためさせていただいた通りです」

「盗品の捜索、ですな」

「ええ」

 ミサオさんは綺麗な顔に陰りを落として、不思議な赤味を帯びた銀細工の腕輪をした手を頬に当てた。

「お恥ずかしい事なのですが、当家がジーンの女王より賜った貴重な宝石が盗難に遭いまして。私の占術で、どうやらオウカ方面にあるという事までは突き止めたのですが……そこで情報がぱったり途絶えてしまって」

「宝石の盗難品を探し出すのは非常に厄介ですな。盗難に遭った宝石というものは、闇市場に流される事が多々あります」

「それは困りましたね。魔力媒体としてとても価値のあるものなのです。ちなみに台座と宝石はこのような形をしています」

 ミサオさんが羊皮紙を取り出してテーブルの上に広げる。そこには縞模様の動物が黒い球体を咥えている絵が描かれていた。

「派手なシマ猫。獰猛なので注意かしら」

 あたしは思わずポツリと素直な感想を述べる。元締めやミサオさんには聞こえなかったみたいだけど、隣のコートにはあたしの感想が聞こえたみたい。

「……トラ……です。ジーン方面にしか生息していない、猫科の猛獣……です」

 コートが蚊の鳴くような声であたしに説明してくれる。獰猛そうな面構えだけど、猫って感想はあながち間違いじゃなかったのね。

「国宝・タイガーパールと言いまして、大きさは台座のトラを含めても掌に収まる程の大きさです」

「随分小さいんですね。でも魔法使いから見ればスゴいものなんですか?」

「ええ。魔力供給媒体として使えば、初級の魔法使いでも、相当な威力の魔法を放てます」

 ふーん。じゃあタスクが魔法使う時の力の底上げに使えば、もう故郷に帰っても未熟者扱いされないんじゃないかな? あ、でもあいつは炎の魔法しか使えないからダメなんだっけ?

「ファニィ、何か情報はないかね?」

「ええと……そういえば、近い内にオウカの外れの方で闇市場が開催されるみたいだけど、でもこれが出品されるかどうかは、今すぐにはちょっと分からないかな。調べてみます」

 あたしは冒険者組合の補佐官をしてるくらいだから、元締めには絶大な信頼を置かれている。そしてあたし独自のネットワークとか持ってたりするんだよね。だから盗品の売買関係の依頼なんか来たら、ほぼ、あたしが動く事が暗黙の了解となっている。

「ではその闇市場の詳細を教えてください。私、個人で探してみます」

「お待ちください、カキネ殿」

 元締めが操さんを引き止める。

 ジーンの賢者って言ってた割には結構世間知らずみたいね、ミサオさん。脅かすつもりはないけど、でも闇市場の怖さを知らないのはちょっといただけないな。

「闇市場というのは、オウカだけでなくラシナやコスタ、東西南北あちこちの国のならず物や賞金首が寄り集まってくる所なんですよ。ジーンの賢者様といえど、一人で乗り込むにはちょっと無謀過ぎます」

 あたしは、今にも動き出そうとしているミサオさんをなだめるように説明する。

「少し時間をいただきますけど、組合に依頼いただいた件は組合で処理させてください。組合のやり方に従っていただくのが依頼者の道理だと思いますけど」

「ファニィの言う通りです。組合を信頼して依頼いただいたのであれば、組合は全力でご期待に沿えるよう努力しますぞ」

 あたしと元締め二人掛かりで説得され、ミサオさんは浮かした腰を落とした。

「……私は非礼を働いてしまう所でしたね」

 ミサオさんが苦笑する。そして両手を膝に揃えてゆっくりと頭を下げてきた。

「タイガーパール奪還の件、正式に依頼させていただきます。なにとぞよろしくお願いいたします」

「頭を上げてください。ご依頼は正式に受理させていただきましょう」

 元締めがタイガーパールの絵を手に取り、あたしに差し出してきた。

「危険だが君に任せて大丈夫だな?」

「承りました」

 あたしは元締めから羊皮紙を受け取り、もう一度その絵を見た。

 その時、執務室のドアがノックされた。

「遅くなりまして申し訳ありません。お茶をお持ちしました」

 ドアの向こうからタスクの声が聞こえた。あれ、事務の女の子、帰っちゃったのかな? 普段なら女の子がお茶を持ってくるんだけど。

 あたしの隣でコートがそわそわし始める。当然か。コートはエイミィの事で、タスクに思いっきり怒鳴られてるもんね。

 コートはまるであたしの後ろに隠れるように、ぎゅっと額を押し付けてくる。あたしはよしよしと頭を撫でてあげながら苦笑した。


 ドアが開き、タスクが一礼してから室内に入ってきて……ミサオさんの姿を見つけるなり、持っていたお盆を盛大にひっくり返して、目を見開きつつ、あんぐり口を大きく開けた。心なしか顔色も赤黒く、ううん紫色に変わっている。そしてミサオさんもタスクを見て、息を飲んで勢いよく立ち上がる。

 あ、やっぱりもしかして?

「あ、姉貴ッ?」

「タスク! あんたなんでっ!」

 やっぱり姉と弟だったのね!


       4


 お茶を執務室まで運んでもらおうと事務担当の女性陣を捜したんだが、時間も遅いせいか女性陣はみんな帰宅済みだった。女子寮まで呼びに行っても、返ってお茶出しが遅くなるし迷惑だろうと思い、俺は仕方なく自分で運ぶ事にした。行ってすぐお茶出して戻ってくるだけだから、俺でもそう問題はないだろう。

 上客用のとっておきの香茶を淹れて、俺はジュラさんを食堂へ残して執務室へ向かう。そして執務室のドアをノックしたのち、返事も待たずにドアを開けた。

 話に夢中になっている元締めやファニィには、ノックなんて聞こえないという経験は過去に実証済みだったからな。

「遅くなりまして申し訳ありません。お茶をお持ちしました」

 カップを載せたトレイを片手で持ったまま室内へ入り、ソファーで向かい合わせになっている元締め率いるファニィたちと、そして依頼者の位置にいる女性の姿を見て、俺は思わず手にしていたトレイをひっくり返した。それほど意外で衝撃的な人物だったんだ。


「あ、姉貴ッ?」

「タスク! あんたなんでっ!」

 向こうも俺を見て顔色を変えて立ち上がる。

 そう。依頼者とはジーンにいるはずの俺の実の姉、そしてジーン一の賢者として名を馳せるミサオ・カキネだった。


「姉貴がなんで組合に……」

 絨毯に染みを作る香茶を気にしている余裕もなく、俺は姉貴に見つかってしまったという焦燥感と、なぜここに姉貴がいるのかという驚きで口をパクパクさせる。俺より一息早く驚きを収束させた姉貴は、ツカツカと俺に歩み寄り、魔法銀で細工された腕輪をした手を振り上げた。

「そりゃこっちのセリフや! こないなトコで、なんで賄いやっとんねん!」

 ジーン独特の方言で俺をまくし立てて、姉貴は俺に身構える隙すら与えず、その平手を俺の脳天に振り落とした。


 スパーン!


 やたら小気味いい音が執務室に響く。

「っでーっ! 何すんだよ!」

「あんた修行や言うて家飛び出して、そのまま連絡一つ寄越さんと何しさらしとんねん! 図体ばっかりでっかーなりおって、ちんたら言い訳ばっかり女々しゅうて、姉ちゃん情けないわ!」

 俺は非難を一言口にしただけで、決してちんたら言い訳した覚えはない。

「あんたの修行言うんはここでの賄いなんか? 魔法の修行はどないしてん? 一つくらいマトモに使えるようになったんかい?」

「べ、勉強はして……」

「うっさいわ! 姉ちゃんの話ちゃんと聞かんか、このデクの坊が!」

 そっちが質問した事に答えようとしたんじゃねぇかよ! 昔っからそうだ。俺が一言でも不満を口にすれば、姉貴はその五倍は言い返してくる。俺は姉貴にとって、体のいい言葉のサンドバックだ。ついでに言えば手も出てくる。

 姉貴がまた手を振り上げる。ほらやっぱりまたぶん殴ろうと……。

その背後に、ポカンとしたまま俺と姉貴を見ているファニィと元締め、そしてコートの姿が見えた。ちょっ……みんな呆気に取られてるじゃんかよ! 恥ずかしいじゃねぇか!

「姉貴待てよ! ファニィたちと話の途中じゃねぇのかよ!」

「そんなしょーもない言い訳で姉ちゃんの話逸らそうとし……」

 姉貴もふと我に返ったのか、頬に一筋の汗を滴らせて動きを止める。そしてジリジリとファニィたちの方へ向き直った。ポカンとした元締め、ファニィ、顔を真っ赤にしてファニィにしがみついているコートの姿を見て、姉貴は小さく咳払いする。そして俺の後頭部を掴んで、無理矢理俺の頭を下げさせる。

「す、すみません。まさかうちの愚弟がこちらでお世話になっているとは思いもしませんでしたので」

「猫かぶるなよ、姉貴!」

「黙らんか! アホ!」

 姉貴がぴしゃりと言い放つ。

「お、お話しの途中でしたわね」

「いえ……一応、依頼は受理しましたって事で終わってますけど……」

「オホホ……そ、そうでしたわね。で、では私は一旦これでお暇させていただきますわね。明日、改めてお伺いいたします。タスク、ちょっとこっち来ぃ」

「な、ちょ……離せって!」

 俺は姉貴に耳を引っ張られたまま廊下へ連れ出された。

 姉貴は普段、賢者として振る舞っている時の、高貴で清廉潔白然とした姿から想像できない程、弟なぶり、いや、俺いじめが凄まじい。本人はただじゃれてるつもりだとほざくから、余計に始末が悪い。

元々気性の荒い性格なんだよ、姉貴は。そして俺は自分への被害を最小限に留めるべく絶対服従。少々情けないが、これが一番簡潔で平和的解決法だ。


 廊下へ出た俺と姉貴は、向かい合って立った。両腕を組んで仁王立ちになった姉貴が……怖い。

「で、あんたはなんでこんなトコで賄いやってんねん?」

「食堂の料理人はただのバイトで、俺は組合に正式登録された冒険者だよ。依頼を誰かと一緒にこなさせてもらいながら、ちゃんと魔法の修行もやってる」

「なんやその気色悪い喋りは。やたら標準語かぶれよってからに」

「俺はもうこっちの話し方の方が普通なんだよ。だいたいジーンの方言じゃ、会話が通じない事もあるだろうが」

 姉貴は目を細めて俺を見上げてくる。背丈は俺の方がでかいんだが、姉貴の威圧感は半端じゃない。魔力も技術も超一流の魔法使いと劣等生、賢者と出来損ないの魔法使い、そして……魔法に関する知識豊富さと女王のご意見番という身分でカキネ家の名をジーン中に知らしめた姉貴と……忌まわしき魔術師としてジーン中に知れ渡る俺の悪名。

 姉貴と俺とは、何もかもが違い過ぎる。俺が姉貴の前で萎縮するのは当然だ。

「……まぁ……偶然は偶然でも」

 姉貴が照れ臭そうに結った髪を掻き上げた。

「行方知れずのあんたが見つかって、ウチちょっとホッとしたわ」

「……俺こそ悪い……黙って家、出て来て……」

 「魔法の修行をして、立派な魔法使いになって戻ってくる」と、そう書き残して俺は五年前、実家と故郷のジーンを逃げるようにして出てきた。それからずっと、オウカのあちこちの町を転々としてきたんだ。

「修行ははかどってるんか?」

「ち、知識だけ……かな。どうしても炎以外の魔法の構築式は、いくら頭に叩き込んでも、いざ実際に構成しようとしても、上手く具現化しないんだ。でかい口叩いて家出てきたのに……その……」

「まぁ、しゃあないんちゃう? あんた不器用やし」

 ジーンにいた頃の姉貴なら、こんな会話を交わしたら散々俺を馬鹿にしてきたもんだ。だけど今の姉貴は、俺の言葉を聞いても手を上げようとしてこない。

「姉貴、なんか丸くなったな」

「なんや、寂しいんか? ほな昔と同じようにビシビシ言うたってもええねんで」

「いや、遠慮しとく」

 姉貴がすっと俺の方に手を差し出してきたので、俺は思わず体を強張らせて身構えた。姉貴の細い指が俺の右頬を撫でる。

「……魔術は、まだ制御できてるんか?」

「あ? ああ。今のところは」

「そうか……」

 姉貴の視線がなんか優しい。姉貴ってこんなだっけ?

「依頼の事でまだ話あるさかい、明日も組合に来るわ。あんたとも、もうちょっと話したいしな。ほな、今日は帰るわ。町で宿とってんねん」

「そ、そうか。じゃあ……」

 姉貴は純粋に俺との再会を懐かしんでいるような、そんな笑みを残して組合を去った。


 俺はぶちまけてしまったカップとトレイを拾いに、執務室へ戻った。執務室では、元締めとファニィがすでに依頼書の作成を始めている。コートは一人でソファーに座ったまま、慄くような目で俺をチラ見していた。

「やはり君の姉君だったか。最初の手紙のサインを見た時にもしやとは思ったのだが」

 元締めが俺に声を掛けてくる。

「あ、はい。すみません。まさか姉貴が組合に依頼を持ってくるなんて思ってなくて。ジーンは元々あまり国交が盛んでない国なんで、余計にここへ依頼を持ち込むなんて思ってもいなくて……」

「久しぶりの姉弟の対面だったようだね。君は……ぷっ……家出中だし」

 元締めが肩を震わせて笑い出した。確か面接の時にも笑われたよな、俺。

「姉貴の依頼って何なんですか? ……って、下っ端の俺が聞いたらマズイですよね」

「守秘義務があるからね。まぁ君は依頼者の身内だし、いいだろう。タイガーパールという宝石が盗難に遭ったらしく、その探索依頼を組合で受けたんだ」

「ははぁ、あれですか。姉貴も親父たちも随分油断してたんだな」

 タイガーパールはジーンにいた時、俺も何度か見た事がある。女王から賜った有り難い宝石だが、それの魔力媒体としての力は俺では到底持て余す物だったので、そう何度も目にした訳じゃない。

 魔器での魔力底上げにも適さないって、俺、どんだけ出来損ないなんだよ。マジで凹むぜ。

「他言無用で頼むよ」

「はい」

 俺は割れたカップをトレイに載せ、すっかり絨毯に染み込んでしまったお茶はそのままにすることにした。色の濃いお茶じゃなかったし、完全に乾けば染みはさほど目立たなくなるだろう。

「では俺はこれで」

 最後にチラリとコートを一瞥すると、コートはソファーの背に隠れるように身を屈めて視線を逸らした。どうやら部屋からは出てこられるほどには、こいつも回復したらしい。俺としてはまだ複雑だけど。


 食堂に戻ると、ジュラさんの姿は消えていた。一人で待つのが苦手な人だし、寮に戻ったんだろう。ここのところ、コートに構ってもらえないせいか、一人で帰る事を覚えたようだったし。

 俺は厨房の掃除をしてから寮の部屋に戻り、ベッドにごろりと横になった。

 今日は疲れた。コートの事でモヤモヤするし、姉貴はオウカに来ちまうし。

「おーい、タスクー」

 突然ファニィの声とノックが聞こえた。俺は慌てて体を起こす。

 何度も言うが、男子寮は女人禁制だ。ドアを開けると、案の定ファニィがいた。

「ファニィ。お前は聞かないと思うが一応言っておく。ここ、男子寮だぞ?」

「うん、知ってる。でもあたし、補佐官だから」

 やっぱり言っても意味がなかった。

「お姉さん、綺麗な人なのにタスクにはすっごい剣幕で喋るのねー」

 そう言いながら、ファニィは微塵の遠慮もなく、ズカズカと室内に入り込んできて、狭い室内に備え付けのベッドの端にどっかと座り込む。夜中に男の部屋に平然と入ってくる態度も、男のベッドに躊躇なしに腰を下ろす行動も、こいつにとっちゃ俺は男扱いされてないって事なんだろうか。

「お姉さんが喋ってたの、ジーンの方言?」

「ああ。ちょっと癖が強い語調だから、お前、何言ってたのか分からなかったろ? 年寄り連中になると、もっと何言ってるか分からなくなるぞ」

 閉鎖的なお国柄のジーンだからこその、独自の発展をした言語になるからな。オウカ標準語圏で育った者には、ジーンの方言は、ある種の暗号や隠語として認識されてもおかしくはない。

「半分くらいはなんとなく雰囲気で理解できたけどね。へー……でもあたしや元締めと話す時はオウカ標準語使ってたけど、あんたと話す時は方言になるのね」

「お前たちにだけじゃない。姉貴は賢者として振る舞ってる時は、いつだって猫かぶって、知的で清楚なフリしてんだよ」

 頭がいいのは本当だが、まさか本来の性格があんなキワモノだとは、ジーンの女王ですら気付いてないだろう。

「あんたもあの言葉、話せるの?」

「まぁ、そりゃ……俺もジーン生まれのジーン育ちだし」

 俺はポリポリと頭を掻いた。

「だけど俺は使わない」

「なんで?」

 額を押さえ、俺は長い溜息を吐いた。

「俺はちゃんとした魔法使いになるまでジーンには戻らない。戻らないと誓った。だからジーンの言葉は使わない。それにもうこっちの言葉の方が慣れてる」

 ファニィは膝の上に肘を付き、そして組んだ両手の上に顎を乗せる。

「あんたにはあんたの事情があるのね」

「まぁな。俺は魔法使いにならなきゃいけない。それがジーンのカキネ家に生まれた者としての使命だからな」

 女王に仕える魔法使いやご意見番を多数輩出してきたカキネ家。両親や姉貴は当然ながらジーンに名を馳せる魔法使いだ。だが俺だけが……俺だけが、カキネ家の名を貶めている。俺は何が何でもそれを挽回しなくちゃいけないんだ。

「カキネ家って、名家なの?」

「系統は違うが、ラシナのグランフォートみたいなもんだ。ジーンの女王に仕える魔法使いを過去に多く輩出した家柄ってだけでも凄いんだぜ。それに加えて、両親は高名な魔法学士で、祖母は伝説の魔女とまで謳われた超一流の魔法使い、そして姉貴はジーン随一とも称される賢者。そんな身内の中で、俺だけが炎の低級魔法しか使えない出来損ないで、そして……魔術師なんだ。分かるだろ、俺の肩身の狭さが」

「うん……『魔術師がダメ』っていうのはよく分かんないけど、でも魔法に関しては、タスクの努力がまだまだ足りないんじゃないの?」

「馬鹿言え! 努力で補える部分は人一倍やってきたさ。だけど俺の場合はどうしても炎系以外の魔法は駄目なんだよ。行使できないんだ」

 俺はショールの留め金を外す。

「彫り込むだけで力を発する強力な魔法紋章だって彫り込んださ。幾つも、幾つもな。ほら」

 俺は上着を脱ぎ、ファニィに背を向けた。


 俺の背には、水、風、土に関する古代魔法紋章が複数彫り込まれている。背中だけじゃない、ほぼ体中にだ。ファニィに言ったように、中には刺青として体に彫り込むだけで巨大な魔力を発揮する紋章もある。だが……俺にそれらの魔法は全く行使できなかった。魔法の構築式も構成原理も全て覚えて理解してるのに。

 古代魔法紋章を刺青として彫り込む時、麻酔は使わない。痛みによって、潜在的な魔力を呼び覚ます効果もあると言われているからだ。

 俺はこの体中の全ての刺青を彫る痛みを耐えた。俺だって必死だったから。だが……駄目だったんだ。全て、無駄になった。無駄な努力にしかならなかった。

「魔法使いであるという事は俺の目標であり、誇りだ。だけど同時に俺の精神を圧迫する重責でもある。そして「あいつは魔術師だ」という言葉は、俺という魔法使いの存在を否定されたようにも聞こえる。ジーンに戻れば俺はカキネ家の長男として家名を継ぐか、姉貴の補佐をしなければならない。だけど俺はそれが……耐えられない。両親や姉貴が認めてくれても、己の未熟さが……情けないから……ジーンの民の目が、魔術師を許していないから……」

「ふーん、大変なんだ」

 他人事のように言うファニィ。ああ、お前にとっちゃ他人事だよな。

 俺の苦労や心の重荷は他人に理解してもらえないというのは分かってた。だけど魔物との混血であるという宿命を負ったファニィなら、と思ってたんだがな。俺がファニィの心情を完全に理解できないのと同じか……。

「ヒースと同じだね。あいつもあれでいて、結構影で努力してたんだよ」

「俺をあんなクソ野郎と一緒にすんな」

「酷ぉい。人の彼氏を悪く言わないでくれる? ま、能無しは事実なんだけど」

 ファニィの書面上のクソ兄貴と同類視された事に憤慨し、俺は振り返ってファニィを睨む。

「でも家出先が見つかったんじゃ、あんた、無理矢理にでも連れ戻されるんじゃないの? ジーンの民に認められなくても、親御さんは連れ戻そうとするんじゃないかな?」

「……いや、それは……大丈夫だと思う」

 さっき姉貴と話した時、姉貴は俺を無理に連れ戻したいというような事は言ってなかった。第一、姉貴が本気で俺を連れ戻したいなら、風の転移魔法で俺を問答無用でジーンに強制転移させてたはずだ。「明日も来る」なんて言い方したんだから、俺を無理にジーンに帰そうなんて気持ちはないんだろう。

「そっか。じゃあ好きなだけここにいればいいんじゃないの? 組合はあんたの炎の魔法使いって能力を買って加入させたんだし、特に問題起こしてる訳でもないしね。あ、初っ端からあたしと大喧嘩して食堂の壁焦がしたっけ」

「あ、あれはお前も悪かったんだぞ!」

 俺は焦ってファニィを指摘する。こいつは自分の口の悪さを自覚してないんだろうか? 俺だけが悪者にされてたまるか!

「ま、問題起こさない程度に、好きなだけ組合にいれば? 他に働き口、見つけてないんでしょ」

「……そ、そりゃずっと居ていいって言ってくれるなら、俺も助かるが……」

「組合はカキネ家って家名を買った訳じゃないよ。『魔法使い』っていう能力を買ったの」

 ファニィはそう言ってにこりと笑った。

 ファニィは……多分だが、俺が凹んでるか悩んでると思って気を使って話をしに来てくれたんだろう。事実ファニィと話して、俺の陰鬱な気分は随分まぎれた。

 大雑把なようで、実は細かい部分まで神経を使ってくれる。誰かが困っていたら、率先して相談役に回る。そんな気遣いを見た目には微塵も感じさせない。ファニィがファニィらしい、彼女の一番魅力的な部分だ。

 俺……やっぱりこいつが好きだ。

前述したような気遣いはもちろん好意を抱くには充分だし、それなりに可愛い面をしてると思う。口と性格の悪さは辟易するが、俺はそういう気の強さも嫌いではない。


 俺は感情の昂ぶりを抑えきれず無言のまま、ファニィを引き寄せて抱き締めていた。ファニィは黙ったまま、じっと俺に抱かれている。

 さっき刺青を見せるために上着を脱いだせいで、剥き出しの肩にファニィの息がかかる。俺の腕の中のこいつは、俺が思っていた以上に華奢だった。ジュラさんと比較しちゃ可哀想だが、凹凸が無いと言うより、全体的にスレンダーなんだな。初めて、知った。

 じっとファニィを抱き締めていて、ファニィが身じろぎ一つしない事に、なぜか少し不安になった。

「……抵抗しないのか?」

「抵抗してほしい?」

 俺の腕の中から、ファニィが顔を上げる。赤い瞳に、俺の顔が映る。

「ヒースは嫉妬深いよ。コートだって怒らせると怖いって知ってるでしょ」

「だ……だったら……!」

 俺はファニィを突き放す。

「だったら夜中に男の部屋に一人でのこのこ入ってくるな!」

 俺はそれだけ叫び、ファニィに背を向けて上着を羽織った。このクソアマ、俺がこいつに対して、友好以上の好意を抱いてると知ってて、当然のようにからかってきやがる。扱いにくいったらありゃしねぇ。

 俺の肌が褐色でなければ、顔が火照るくらい全身が気恥ずかしさで真っ赤になっている事に気付かれただろう。滲み出す脂汗が気持ち悪い。動悸が治まらない。

「お姉さんに見つかってガツンと言われて、しょげてるんじゃないかって思って来てあげたのに、全然元気なんだもん。心配して損しちゃった」

 恩着せがましい言い方をしているが、やっぱりファニィは俺を気遣って来てくれたのか。

「でもさ、あんただけだね」

 ファニィがつま先をトントンと床に打ち付ける。俺が横目でファニィを見ると、ファニィはおどけて両手を広げて見せた。

「あたしが魔物との混血だって分かってて、そんだけ好意的な目で見てくれるのは、組合じゃ元締めとジュラとコートだけだよ。ヒースだって……あたしの事、ちょっとだけ怖がってるもん」

 ファニィは少し寂しそうに目を伏せる。

「血……血は関係ないだろ。その……お、俺のお前に対する気持ちは。今あるお前がどうかって、ただそれだけなんだからよ」

「じゃ、タスクも同じじゃない?」

 ファニィが回り込んできて、俺をぐいと見上げてくる。俺はたじろぎ、顔を背けて横目で奴を見た。

「あたしは詳しくないから見当違いな事言ってるのかもしれないけど、タスクはタスクである事が重要なんであって、魔術師がどうっていうのは関係ないじゃない。組合だって魔法使いとしてあんたを迎え入れた訳だし、魔術師だからって自分で自分を除け者にしても、魔法だの魔術だのって概念の薄いここでは意味ないんじゃないの?」

 俺はファニィから視線を逸らした。視線を合わせられなかったんだ。

 口は悪いは自分の都合ばかり押し付けるわで、傍迷惑な問題大ありの補佐官だが、ファニィは立派過ぎるほど立派な補佐官でもある。組合員の気持ちをちゃんと汲み取り、そして明瞭で確実なケアができる。コートの事にしても、俺の事にしても、ファニィがしてくれる心のケアは優しく温かい。

 よくよく考えれば、ファニィは今日、朝から補佐官として多忙を極め、飯すら満足に食っている暇がなかったほど、忙しかったんだ。疲れていて当然なのに、俺へのケアのためにこうしてやってきてくれた。

「……ファニィ」

「ん? どしたの?」

「……ああ、うん……その……サンキュ」

「うん」

 ファニィはポンと俺の肩を叩いた。

「明日からまた美味しいご飯ね。それでチャラって事で」

「ああ。そういう事なら任せとけ」

「じゃあ、あたし戻るから」

 部屋を出て行くファニィを、俺は見送れなかった。今またファニィを見てしまったら、きっと俺はファニィを呼び止めて、そして情けない姿の俺をさらけ出してしまいそうだったから。

 ファニィ、マジで……ありがとな。


       5


 姉様は、今日はファニィさんと体術のトレーニングです。その間、僕は一人で組合の図書室にいました。

 エイミィさんの事でとても落ち込んだ事もありましたけど、でも今は少し元気が戻ってきました。か細い光明の光が見えたからです。

 でもまだ、タスクさんとお話しはできません。まだちょっとだけ……怖いんです。もしかしたらまた怒られるかもしれないと、どうしても萎縮してしまうのです。

 エイミィさんが消えてしまったのは僕が原因です。だから僕の力でどうにかしたいのですが、僕だけではどうする事もできない方法なんです。


 タスクさんの姉様であるミサオさんが組合にお仕事を依頼して、今日で四日目です。しばらくオウカに滞在されるという事なので、その間にファニィさんも、捜索依頼対象であるタイガーパールという宝石について、ミサオさんからいろいろお話を聞くそうです。

 僕はタスクさんにお借りしている魔法書と、組合の図書室で埃を被っていた魔法の入門書を使って、独学で魔法について勉強しているところです。タスクさんやミサオさんのように魔法を使う事はできませんが、知識として魔法というものを勉強しておくのも大事だと思ったんです。


 僕が魔法にこれほど強く興味を持ったのは、エイミィさんの事がきっかけです。まだ完全に理解するまでには至っていませんが、ネクロマンシーという魔法が、亡くなってしまったかたを蘇らせるらしいと分かったことは大きな進展でした。

 ネクロマンシーを使ってエイミィさんを蘇らせることができたら……僕は今度こそ、ちゃんとエイミィさんに伝えようと思っています。

 僕もエイミィさんが好きなんです、と。


 このことに気付いたのは、エイミィさんを僕の言葉をきっかけとして失ってしまってからでした。一人の女性を好きになるということがよく理解できていなかったんです。タスクさんを好きな気持ちや、姉様やファニィさんを好きな気持ちとは違うものだって、失ってから初めて気付いたんです。

 僕が好きになることができるのは男性だけだと思っていました。事実、僕はエイミィさんを一人の女性として好きだと気付いた今でもタスクさんが好きで、どきどきして向かい合ってお話しすることができません。

 僕はまだ子供で、ちゃんとした男女の恋愛というものはできないですから、気持ちを伝えることができればそれでいいんです。きっとエイミィさんもそれを望んで、僕に逢うために天界からいらしてくださったんだと思います。

 何度も読み返した魔法書をもう一度読み返し、そしてネクロマンシーの文字を指先でなぞります。そして対して役に立たなかった図書室の入門書を棚に戻し、僕は考え込みました。

 やはりいくら知識を吸収しても、それが使えなければ意味がありません。この魔法を使って……僕は早く、エイミィさんにもう一度逢いたい。

 僕は一つのことを決心して、魔法書を抱え、図書室を出ました。

 タスクさんとお話しするのはまだ怖いですけれど、ミサオさんなら多分お話しできます。ミサオさんは賢者様ですから、僕なんかよりずっと知識も経験も豊富だし、そして人格者でいらっしゃると思うんです。

 今は確か……ミサオさんは組合にいらっしゃっていたはずです。オウカにいる間、組合の大会議室などを使って、何度か魔法や各国についての講義をしてくださる予定だったはずですから。


 僕はミサオさんが休憩に使われている小部屋のドアをノックしました。すぐにドアが開いて、ミサオさんが出てきてくださいました。

「あら、コートニス君」

「こ、こんにちは。あの……ご、ご相談したいことがあって……」

 僕がぺこりと頭を下げると、ミサオさんが優しく微笑まれて僕を室内へ通してくださいました。

「相談って、私でいいの?」

「は、はい。あのっ……ま、魔法の事なので、ミサオさんにしか……お、お願いできなくて……」

「うふふ。確かにタスクじゃ少し役者不足かもしれないわね」

 ミサオさんは僕に椅子を勧めてくださり、そしてご自身ももう一つの椅子に腰を下ろされました。

「あ、あの……ある魔法が使いたいんですけど……その……」

「まぁ、コートニス君も魔法使いになりたいの? ジーンに来てくれたら歓迎するわ。私の知ってるとてもいい先生も紹介してあげられるわよ」

「いっ、いえ、そうじゃなくて……その……魔法をすぐに使いたいんですけれど、でも……使えないのは分かっています。古代魔法紋章……持ってないですし……」

「あら、随分お勉強したのね。確かに紋章の刺青を彫らないと魔法は使えないわ。それに練習だって必要ね」

 僕はコクコクと頷き、そして持ってきた魔法書をミサオさんに見せました。

「こ、この本の中のある魔法を……ぼ、僕の代わりに……使っていただけないでしょうか?」

「え? 私に?」

 ミサオさんが驚いたように僕を見ました。僕はその視線で少し萎縮してしまいましたけど、でもここで引いてはいけないんです。エイミィさんのために。

「す、すみませんっ! とてもあつかましいお願いだとは存じてます。でも……でもどうしても、僕には魔法使いになって修行している時間はないんです!」

「何か事情がありそうね」

 僕は魔法書のページを繰り、そしてネクロマンシーの乗っているページを広げて見せました。するとミサオさんの表情が強張りました。僕があまりにもあつかましいお願いをしてしまったので、ご立腹されたのでしょうか。

「あの……お怒りはごもっともですが、お話を聞いてください。ぼ、僕にとって、とても大切な人なんです。そのかたを……このネクロマンシーという魔法で蘇らせていただきたいんです。僕にはゆっくり魔法の修行をして、この魔法が使えるまで待つことができなくて……」

 ミサオさんは僕の手から魔法書を乱暴にひったくりました。そしてネクロマンシーの魔法のことが書かれた部分を読んでいらっしゃいます。

「……コートニス君。これ、組合の本なんか?」

「い、いえ……あの……タスクさん、に……お借りした……ものです……」

 僕が答えると、ミサオさんは魔法書のページを急いで繰り、最後のページにあったタスクさんのサインを見つけてギリッと奥歯を噛み締めました。

「あンのドアホ……子供になんちゅうモン、貸しとんねん……」

 魔法書をパタンと閉じ、ミサオさんは立ち上がって僕の前に膝を折りました。そして僕の両肩に手を置きます。

「よう聞きな。ネクロマンシー言うのは魔法やない。魔術なんや」

「魔術……素質がないと使えないという……難しいほうの魔法ことですよね?」

「魔法と魔術の違いはおぼろげに分かってんのやね」

 そこまで言い、ミサオさんはジーンの方言に戻ってしまっていることに気付いて、小さく咳払いされました。

「魔術は魔術でも、禁断の暗黒魔術と分類されるのよ、このネクロマンシーは。なぜ禁断なのか。それは人の生と死を歪める、あってはならない魔術だからなの」

「……で、でも……一度きりです。たった一度だけでいいんです。あのかたを蘇らせられるのなら、僕はどうなっても……」

 僕が涙声で訴えると、ミサオさんは声を低くして、けれどはっきりとした声で言葉を紡ぎ出しました。

「ネクロマンシーは死者を生き返らせる魔術じゃないの。死体に仮初の命を与えて傀儡として操る魔術。死者に安らかな眠りを与えず、操り人形として使役させるだけで、死者が蘇る訳じゃないの」


 僕の僅かな希望、ただ一筋見出していた光明の光は……断たれました。

 僕はエイミィさんを傀儡としたかった訳じゃない。僕の人形にしたかった訳じゃない。ただもう一度逢って、好きだと伝えたかっただけで……エイミィさんの死を……冒涜したかった訳じゃないんです。

 僕の頬を涙が伝いました。

「……でも……蘇生って……書いています……」

 勘違いだったと否定してほしくて、僕は弱気な反論を口にしました。

「表記の便宜上ね。暗黒魔術のネクロマンシーを使って死者をこの世に呼び戻したとしても、生きていた頃の記憶も知性ももう無いのよ。術を使った者を主として、その体が腐って壊れるまで淡々と主の命令を聞くだけの、自然の摂理を覆す存在となるだけなの。ええと……魔物の種類に、マミーやゾンビっていうのがいるでしょ? あれと似たような、知識を持たない死体人形のような者になってしまうの」

 僕は俯いて唇を噛み締めます。

「誰を失ったのかは聞かないけれど、でもその人もこちらの都合で無理に生き返る事を望んではいないんじゃないかしら?」

「……くが……僕が……殺した……んです……」

 あの時タスクさんに言われた言葉が、声が、僕の頭の中に蘇ります。「お前がエイミィを殺したんだ!」って。

 不思議と涙が止まりました。だけど体が小刻みに震えて、僕の心臓が痛いくらいにバクバクと脈打つのがはっきり分かります。

「坊やみたいな子供……が? 人を殺すって、どういう意味か分かっているの?」

「わ、分かって……ます……で、でも消えてしまうなんて……天使だなんて……」

「天使?」

 ミサオさんが眉を顰めたその時です。ドアがノックされてミサオさんの返事も待たずに開きました。そこに立っていたのはタスクさんです。

「姉貴。俺だってそう暇じゃないんだから、急に呼び出されても困るんだけど」

 そう言いながら入室され、そして室内に僕がいるのを見つけて目を丸くされました。

「なんでコートが姉貴の部屋に?」

 ミサオさんはテーブルの上の魔法書を掴み、大股でタスクさんに歩み寄りました。そして勢いをつけ、その魔法書でタスクさんの横っ面を張り倒したんです。タスクさんは不意の一撃によろめき、壁に寄りかかります。

「い、いきなり何なんだよ!」

「このドアホ! 事の善し悪しも分からん子供に、とんでもないモン貸すんちゃうわ!」

 ミサオさんは持っていた魔法書をタスクさんに叩き付けます。

「魔法のマの字も知らん子に、こんな高等学書なんか見して、何考えさらしとんねん! アホが!」

「あっ、俺の魔法書!」

 タスクさんは僕に貸してくださっていた魔法書を見てから僕を見ました。

「姉貴は知らないだろうけど、コートは組合きっての天才児なんだぜ。入門書程度の本じゃ納得しないと思って、これを貸したんだよ」

「関係あらへん! この子なぁ、よりにもよって、ネクロマンシーに手ェ出そうとしとってんで!」

 床を踏み鳴らし、ミサオさんはなおもタスクさんに詰め寄ります。ネクロマンシーという言葉を聞いた瞬間、タスクさんも顔色を変えて息を飲みました。

「なっ! そんな所まで理解してたのか、コート! でもなんでそんな……ッ!」

 タスクさんは額を片手で抑え、小さく首を振ります。

「……エイミィか……?」

 僕は膝の上で強く両手を握り、一度だけ頷いて唇をぎゅっと噛み締めました。

「馬鹿野郎。ネクロマンシーでエイミィを蘇らせたって、術者の傀儡になるだけだ。それに所詮は死体、すぐに腐って手に負えなくなる」

「傀儡の事はウチが説明したった。コートニス君はそれを魔法や思て、ウチに代わりに使こてくれ言うてきてんで。もしウチが魔術使えたら……まぁ行使はせんけど、でももしウチが訳も分からんとコートニス君の言うとおりに魔術使てたら、どないなってたと思うねん?」

「お、俺だってまさかコートが、魔術の領域まで理解するとは思っちゃいなかったんだよ」

 僕はまたタスクさんのお怒りを買ってしまったのですね。

 僕がネクロマンシーなんて見つけなければ、ミサオさんに無茶なお願いをすることもありませんでした。僕が魔法に興味をもたなければ、タスクさんとミサオさんを言い争わせるようなことにはなりませんでした。そして未遂とはいえ、エイミィさんを侮辱するようなことにはならなかったんです。

「……ごめん……なさい……ごめんなさい……僕が……浅はかでした……」

 ポタポタと僕の目から零れた涙が膝の上に落ちます。僕には謝ることしかできませんでした。

「コートニス君は謝らんでもええのんよ。タスクのアホが不注意なモン貸したんが悪いんや」

「コート。エイミィの事は忘れろ。過ぎた事だ」

 僕は驚いてタスクさんを見上げました。タスクさん、酷いです。僕の罪は消えないのに、エイミィさんを忘れろなんて……。

「エイミィの存在した、一緒に過ごした時間を大事にしてやれって意味だ。今はもう消えたエイミィの事をどんなに振り返っても、エイミィは戻ってこない」

 タスクさんの言葉がまた僕の心に突き刺さりました。

 エイミィさんは……もう、戻ってこない……。

「タスク。さっきコートニス君、天使がどうとか言うたんやけど?」

「ああ。コートが蘇らせたいって思ってる女の子は、天界から落ちてきた天使だったんだ。ほら、姉貴もガキん時に聞いたおとぎ話があるだろ。人間に恋をした天使は天界から落ちてくるっていう。エイミィはどうやら本物の天使で、それでコートへの想いが遂げられなくて、羽根になって消えちまったんだ」

「そうなんか……天使……なおさらネクロマンシーとは相性悪いやん」

 ミサオさんが僕の傍へ寄ってきて、そして結った髪を押さえながら僕に優しく教えてくれました。

「コートニス君。ネクロマンシーは人間に対して使うにも厄介で難しい暗黒魔術なの。暗黒魔術と対を成す純白魔術のエキスパートである天使には、多分凄い実力の魔術師が使ったとしても効かなかったと思うわ」

「俺は暗黒魔術を使える魔術師だが、ネクロマンシーなんて高等魔術は使えない。姉貴だって賢者としても魔法使いとしても一流だが、魔術師でないからネクロマンシーは使えないんだ」

 ミサオさんとタスクさんの言葉を聞き、僕は黙ったまま頷きました。本当にもう……諦めるしかないんですね。

「……タスクやったら……」

 ミサオさんが苦々しく口を開きます。

「……タスクやったら……ネクロマンシー、多分……使えると思うわ」

「は? 俺じゃ、そこまでの高等魔術は……」

「それは魔術の力を抑えてるからや。封印外れたら……多分あんたはウチでも敵わん魔術師になる」

 封印? 魔術の力を抑える? 僕は何のことかわからず、ミサオさんを見上げました。

「タスク。あんたを呼んだんは、魔術の事で言わなあかん事があったからや」

「俺の魔術がどうしたんだよ」

「コートニス君。君はお利口だし、ここにいるついでに聞いてほしいの。そして私の頼みを聞いてくれないかしら?」

「僕……魔法のことなんて、何も……お手伝い、できません……けど……」

「タスクの封印が外れて、体の中に封じられた炎の魔神が憑依してタスクが自我を失ってしまいそうになったら、コートニス君が止めてやってほしいの。君のその純白魔術で」

 魔神? 僕の純白魔術って……?

 僕は意味が分からず、そしてタスクさんもミサオさんの言葉が分からなかったようで、きょとんとしてミサオさんを見つめていらっしゃいました。


       6


 姉貴の言葉は、俺にはすぐには理解できなかった。

 いや、個々の単語の意味は分かるんだ。魔法学をやってる人間なら、基本事項から発展応用の知識として学ぶ内容だから。

 だがそれらが繋がった時、姉貴の言葉は俺の理解の範疇を超えていた。

「炎の……魔神? 憑依って……俺が、か?」

「タスクには……ずっと隠しとった。ウチもおとんもおかんも……みんな、あんたを追い詰めんようにってな」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺、意味……分かんねぇ……」

 今まで見た事もないような神妙な面持ちで、姉貴は憂いを含んだ視線を俺に投げかけてくる。

「タスク。あんたは気ィ付いてへんはずや。あんたの中には炎の魔神がいてて、そいつはあんたの精神食い破って表に出てこよと、何べんも行動起こしかけとんのや。だからウチらはあんたに封印をかけた。そうせな、あんたの自我が失われる危険性があったからや」

「そんなの……俺、聞いた事、ないぜ」

「覚えてへんか? 小さい頃、あんたの周りで小火ぼや騒ぎ多かったやん? あれは全部炎の魔神の呪いや」

 俺は絶句して、口元をぐっと片手で抑えた。

「あんたの右頬の炎の刺青な、それ刺青ちゃうねん。炎の魔神が取り憑いとる証拠の痣なんや。あんたはこの世に生まれた時からその炎の痣持っとった。そして暗黒魔術の痣もな。あんたが炎以外の魔法が使えんで、暗黒魔術師であるのは、炎の魔神の呪いがあるからやねん。その呪いはごっつう強力で、あんたがあんたでおるために、魔神の呪いやら魔術の力やらを封じようとしたら、弊害で炎以外の魔法の力も封じられてしまう事、おとんが調べて分かったんや」

「じ、じゃあ……タスクさんが炎の魔法しか使えないと仰っていたのは……魔力の大部分を封じてしまっているから、ということですか?」

「そうや」

 姉貴はコートの頭を撫でる。そしてコートの体を背中から抱き締めた。

「炎の魔神の呪いは日に日に強うなってる。封印を更に強力な多重封印にしてしまおか、そうしたらタスクは完全に魔法使いとして生きていかれへんようになる。そんな事をおとんらと話し合ってる内に、あんたは家を黙って出て行った。魔神の呪いなんて一切知らんねんもん。魔法の修行して、一人前になるなんて言うて。ウチら必死にあんた探してんで。けど魔神があんたの中で小細工しとんのか、ウチの水鏡の占術にも引っかからんかった。それから……もう五年経った」

 ありえねぇ……そんなのねぇよ。

 俺は魔術師で、ただそれだけでジーンの民から色眼鏡で見られてて……だけどあのカキネ家の長男だからと必死に勉強して、立派な魔法使いになろうと他人の何倍も勉強してきたのに……俺の中で魔神の呪いがくすぶっていて、俺という存在は俺が自我を失うまでのヤドリ木にしかならないなんて。俺が今までやってきた事はなんだったんだよ!


 声を出す事ができなかった。ただ目の前にぶら下がった絶望が、鎌首をもたげて俺を睨んでいる。俺は俺の全てを否定されたようなショックを受けていた。

「……タスク。悪い事は言わん。ジーンに戻って、おとんとおかんから多重封印を受けて、魔力を全て封じてしまい。そうすればあんたは自我を失わんと生きていく事ができる。魔法使いは……諦め。ウチらはあんたさえおればええねん」

 俺が唇を噛み締めると、口の中に血の味が広がった。どうやら唇を噛み切ってしまったらしい。

「炎の魔法、最近威力強うなってへんか? 暗黒魔術を使こた後の疲労、軽くなってへんか? それはあんたの修行の成果やのうて、炎の魔神の能力が大きゅうなってるって意味やねんで。そんな状態で魔法やら魔術やらの外部からの刺激、受けてみ。魔神の力はますます大きくなっていくの、あんたも分かるやろ」

 俺はよろめいて壁に背を付けた。息苦しい。心臓が痛いほど脈打つ。

 俺は……俺はどうすればいい? 魔法使いになりたいという、俺の夢は完全に潰えるのか?


 肩で息をしている内に、ふと過去のある事が頭を過った。

「魔鏡……それから……契約による混合魔法……」

「ん?」

「……魔鏡の呪いを……ファニィたちを守ろうとして、俺……吸収した……」

 俺が組合で初めてもらった仕事だ。古代文字の解読要員としてファニィたちに同行して、洞窟の奥にあった古い魔術師の研究室にあった魔鏡を砕き、そしてその魔力を俺はファニィたちを守るために自分の中へと取り込んだ。

「魔術の呪いを吸収したんか?」

「それしか手が無くて! 俺にはそれしかできなくて!」

 姉貴はコートから手を離し、俺に詰め寄ってきた。そして俺の襟首に手を突っ込んで服をこじ開け、俺の肩にある暗黒魔術の痣を見る。

「大きなっとる……」

「姉貴、俺……一度魔力の底上げのために、炎の魔神との契約による混合魔法も使った! どうすりゃいい? 俺、どうしたら……ッ!」

「アホ……何アホな事やってんの! 今すぐジーンに戻り! そんで多重封印してもろて、魔法使いは諦め!」

「嫌だ!」

 俺は思わず即答していた。姉貴が驚いて俺を見る。

「俺は、魔法使いになりたいんだ。それが俺が今までやってきた事の成果で、全てだから。ジーンにも……俺は帰りたくない」

 昨夜のファニィとのやり取りを思い出し、俺は駄々っ子のように首を振る。

「組合は俺を魔術師としてではなく、魔法使いとして雇ってくれたんだ! 俺はまだ組合に恩を返してない! 魔法使いとして、助けてもらった組合に恩を返してないんだ! それを途中で投げ出してジーンに逃げ帰り、挙げ句、魔法を取り上げられて生き永らえても、それは俺じゃない! 俺はタスク・カキネ! 炎の魔法しか使えない未熟な魔法使いだが、その俺を組合は拾ってくれたんだ!」


 姉貴はゆっくりと目を閉じ、小さく深呼吸した。

「……そう言うと……思たわ。あんたは」

 姉貴が腕の銀細工の腕輪をなぞる。

「あんたはもうジーンに戻って来おへん。そう思てた。あんたに再会した時から、あんたはもう自分の人生を見つけたんやと感じてたんや」

「……姉貴、ごめん。でも俺……このままじゃ、魔神の呪いで俺じゃなくなるんだろ?」

「そうや。それだけは変わらへん」

 姉貴がさっきから執拗に「ジーンに戻って親父とお袋から多重封印を」と言うには、おそらく姉貴単独ではその多重封印がかけられないからなんだろう。術者が複数で行う大掛かりな魔法もある。おそらく多重封印はそういったお大掛かりな魔法なんだ。

「もう金輪際、暗黒魔術を使わないでいたり、関わらないようにっていうのも駄目なのか?」

「……意味ないやろね。魔神を完全に封じる事以外は、ホンマ意味ないはずや」

 魔神を封じる事。つまりは魔神が魔術を使えないように、封印によって体内の魔力供給を完全にシャットダウンしてしまう事。

「でもそれだと俺は魔法の力を失うんだろ?」

「そうや。だからウチ、さっきコートニス君にお願いしたやろ。コートニス君がタスクを止めたってほしいって」

 突然名前が挙がり、コートが驚いたように姉貴を見上げた。天才児のコートでも、今までの俺と姉貴の会話は、内容が専門的過ぎて理解できていなかったらしい。

「え、あ……ぼ、僕……が? 魔法使い……じゃない、僕が……どうやってタスクさんを……?」

 姉貴が腕輪をしゃらんと鳴らした。

「魔術に対抗するには魔術しかあらへん」

 魔術に対抗するには魔術。その理屈は分かる。

 だが姉貴は何が言いたいんだ? この面子で魔術師なのは俺だけじゃないか。炎の魔神が原因で魔術師となった俺を、その力で封じるなんてできる訳がないじゃないか。自分で自分を殺す馬鹿がどこにいる。

「タスクの暗黒魔術に太刀打ちできるんは、対である純白魔術だけやろ? コートニス君、純白魔術師やんか」

「え……僕、が?」

「はぁ? コートお前、魔術師の痣なんかあったっけ?」

 魔法使いが魔法使いの魔力を感じ取れるように、俺には暗黒だろうが純白だろうが、魔術を扱える者の気配を感じ取る事ができる。エイミィの時も純白魔術の気配は聖刻という形ではっきり見えた。でもコートからはそんな気配は全くなかったはずなんだが……。

「タスク、気付いてへんかったんか? ウチにははっきり分かんのに」

 コートがパタパタと自分の体を叩いて痣を確認する。コートにも自覚症状がまるで無いらしい。そして長い袖を肘の辺りまでめくりあげると、そこには小さな羽根のような痣があった。

「あれ? 前までこんな所に何も……」

 俺はあっと声を上げ、コートの腕を掴んでその痣をまじまじと見た。

「聖刻の一部だ」

「一部?」

 コートが頬を染めて俺を見上げてくる。

「ああ。エイミィが純白魔術を使った時、聖刻が浮かび上がるんだが、これはその一部だ」

「エイミィちゃんて、さっき言うてた天使かいな?」

「ああ。多分……多分だけど、コートに純白魔術の力が宿ったのはつい最近だ。つまりこれは……エイミィが残した、エイミィの忘れ形見だ」

 エイミィは最期にコートにしがみ付いた。その時に自分の魔術の力をコートの中に残したとしたら、突然浮き出てきたこの痣の説明が付く。

 生まれつきでない魔術師だなんて初めて聞くが、他に説明しようがない。


「エイミィ……さんが……」

「自分を忘れてほしくなくてなのか、俺の事を見越してなのか、もしくはファニィの事を見越してなのかは今はもう分からない。だけどコートにこの痣があるという事は、コートは純白魔術が使えるという事だ」

「どういう理由かは分からへんけど、でも暗黒魔術に対抗できる純白魔術師が傍におるいうのは、タスクにとっては好都合やん。タスクがもし今後、炎の魔神に自我が食い潰されそうな事があっても、コートニス君の純白魔術で一時的にも暴走を止める事ができる。そやろ」

「……あ、ファニィさんを……エイミィさんが止めたような……事、ですか?」

 魔物化したファニィを、エイミィは純白魔術で抑え込んだ。エイミィは天使で、純白魔術のエキスパートだからあんな高等な魔術を容易くやってのけたが、コートは自覚すらまだしてないんだろ? 今から魔術を教え込むとなると、相当時間が必要なんじゃないだろうか。いくら天才児とはいえ、魔法や魔術の行使には得手不得手があるものだし。

「姉貴、コートに魔術の基礎を一から教えるのは、あまりに時間がかかり過ぎないか?」

「全部覚えろ言うてへんわ。あんたの魔神の暴走を食い止める術だけ教えるんやったら、そない時間かからんやん。コートニス君、それで構わんかな?」

「は、はいっ……! ぼ、僕でタスクさん、の……お役に……た、立てるなら」

 コートの表情が徐々に明るくなる。さっきまでの、完全に血の気の失せた死人みたいな顔とは全く正反対だ。

「よっしゃ。じゃあ魔神の封印術覚えるまではウチが世話したろ。コートニス君はお利口さんやし、可愛らしいし、教え甲斐ありそうやわ」

「ま、待てよ。姉貴は魔術師じゃないだろ。魔術の事、教えるなら俺が……」

「アホ。あんたに魔術の使い方教えたんは誰やったか思い出してみ」

「う……姉貴……です……」

 そうだった。ガキの時、魔術の力を持て余していた俺を、魔術師でもない姉貴が指南してくれたんだった。魔術師でなくても魔術の知識にも長けている。それが賢者というものだ。


 あれ? そういやあの魔鏡の依頼の時、もう一つ気になる事があったな。

「コート、お前本当にその痣、今までなかったのか?」

「は、はい……気付きません……で、した……けど……」

 魔鏡のあった部屋に入る時に入り口にかけられていた、ヘルバディオ時代の封印。『若き純潔者の生贄』が必要だったあの封印に対し、コートが触れただけで扉は開いた。若き純潔者はたいてい女子を示すはずなのに、男であるコートが触れただけで封印が解かれたという事は……。

「……コートには潜在的な純白魔術の素質があったのかもしれない」

 だとすればあの時、封印解除の純白魔術を無意識に発動していたのかもしれない。暗黒魔術で封じられていたあの扉が開いたという事実もある訳だし。

 きっとそうだ! 生まれつきでない魔術師なんて、やっぱり存在自体が矛盾している。潜在的な純白魔術師であったコートの能力を、エイミィが引き出したんだ。そうとしか考えられない。

「潜在的な? なんかの切っ掛けで魔術師になるっちゅう事か?」

「コートの場合はエイミィが能力を引き出したと考えられる。そうでなきゃ、今まで生まれつき能力を持った者しか魔術師になれないとされてきた理由や理屈が説明できない」

「なんかコートニス君に純白魔術師らしい予兆でもあったん?」

「ああ。無意識にだろうが、ヘルバディオ時代の魔術の封印を解いた」

「はぁん。そりゃ本物やね」

 姉貴は口元に手を当てて、うんうんと頷いた。

「ほな、魔術師の歴史も含めて講義したらんとな。なぁ、ウチが……コホン。私がコートニス君の先生するけど、それでいい?」

「は、はい。よろしくお願いします!」

 姉貴……口実作ってまだオウカに留まる気かよ。

「ジーンの賢者様がのんびり観光してていいのかよ」

 俺がボソッと呟くと、姉貴は俺の胸倉を掴んでニィと笑った。

「実弟の心配したってる優しい美しいお姉様の心配りに、あんたは水を差したいようやね。今ここでしばき倒したってもええねんで?」

「ごめんなさいお姉様。俺が悪かったです……」

 俺は素直におとなしく詫びた。

「棒読みが気に入らんけど、まぁ許しといたるわ」

 コートにとって純白魔術の痣は、エイミィとの唯一の思い出の形となって残り、それはきっと何より嬉しい彼女からのプレゼントとなるだろう。やらなくてはならない事ができたという事も、落ち込んでいたコートの今後の励みとなる。

 そして俺はエイミィが残してくれたコートの純白魔術によって、炎の魔神の呪いから救われる。

 全てをエイミィが見越していたのかは今となっては分からないが、でも結果は全て良い方へ転がり始めた。


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