天使の花
天使の花
1
昼のラッシュが過ぎ、俺は挽いた豆を濾した茶を啜って食堂の椅子に腰掛ける。全くもって今日もよく働いたぜ、俺。
食堂チーフがすでに俺に厨房の全権を託してくれちまって、今じゃほとんど注文取りくらいしかやってくんねぇもんなぁ。あ、いや注文取りすらサボってるところをよく見掛けるな。
ああ、なんか俺一人が目まぐるしく働いて、フライパンの振り過ぎでどうも腕がプルプルする。別にこういう疲労は嫌じゃねぇけどさ。
しっかしなぁ。少しくらい洗い物の手伝いしてくれたっていいじゃないか。まだ俺は新人だから文句は言えねぇけど、あらゆる意味ですっげー便利に使われてる気がする。
立派な魔法使いになる修行をしてくると大見栄きって家出してきた手前、姉貴や両親にはとても報告できないが、昼間のバイト疲れで夜の魔法の勉強だって最近サボり気味なのがどうにもこうにもマズい。いや、サボり〝気味〟じゃなくて〝サボってる〟だ。現在絶賛サボり進行中だ。
……ううっ……今夜からサボらずやる……自分が情けない。
香ばしい苦みのある熱い豆の茶を啜りつつ、束の間の休息を楽しむ。これが終わったら夕飯の仕込みして、それから……。
と、これからのスケジューリングを頭に描いていた時だ。視界の隅に、コソコソ動く青いモノが引っ掛かった。
……また〝いつもの〟か。
青いモノの正体は、この冒険者組合のマスコットだのアイドルだの言われてる、そりゃもう愛らしさ満点の美幼女……の姿をした坊主だ。そいつが被る大きめの青い帽子が入口の陰から隠れ切っておらず、見切れてるんだ。
もう慣れちまったが、奴にはその愛くるしく可愛らしい容姿から想像できない真逆の悪癖持ちで、まぁいわゆる男なのに男好きというソッチの気があり、俺は奴の好みにドストライクしているらしい。
ま、懐かれる分には別段悪い気はしないんだ。俺自身は普通にしてるつもりでも、俺の容姿はパッと見は人を遠ざける怖そうな容姿だとよく言われ、初対面の相手から大抵壁を作られる。それなのに好意的に見られるというのはどちらかと言えば嬉しい。俺も奴を弟みたいに可愛いと感じてきてるし。
だが断じて! 俺はノーマルであって、ソッチの気は一切ない。何が何でも奴の一方的な片思いで終わってもらう。ここに宣言する。
俺は自分の隣の椅子を引き、その青い帽子の方へと顔を向ける。
「おーい、コート。またのぞき見か? チラチラのぞき見するくらいなら、堂々とこっち来い」
俺の言葉に、慌てて柱の影に隠れてしまうコート。とっくにバレてんだっつーの。
だがそういうピュアな子供っぽい仕種もこれまた恐ろしいほど似合っていて、そりゃあもう愛らしい事この上ない。もはや小動物的可愛くるしさだ。本来ならばこまっしゃくれて憎たらしい盛りである齢十歳にしてこの可愛らしさ。そして俺に向けられるとんでもない悪癖。一体これは何の罰ゲームだ?
俺はカップを置いて、そっと足音を忍ばせてコートに近付く。そして柱の陰に隠れているコートの帽子越しに、奴の頭をパッと押さえ付けた。
「今日も俺の観察日記でも書こうってんだろ!」
「わっ! ち、ちが……違いま……すっ!」
俺が突然現れたかのように驚き、コートはバタバタと両手を振って、真っ赤になって弁解する。おーおー、ラシナの民特融の、尖ったナイフみたいな耳の先まで真っ赤になって、どこからどう見ても恋する乙女然としてるなぁ。
「ほら、落ち着け」
先日のコート誘拐事件から、コートは以前と比較すれば、割とちゃんと俺と対話できるようになってきている。以前なら恥ずかしさと緊張からか、ほとんど会話が成立しなかったからな。
「こっち来い。ジュース飲ませてやるから」
「……す、すみません……」
俺は厨房へ行き、コップに果物の汁を絞ったジュースを淹れて、コートのために引いてやった席の前に置いた。コートはぎくしゃくとしながら、その椅子によじ登るようにちょこんと座る。
はぁ、ホントにこいつ、十歳か? 背丈も体格も仕種も、もっと幼く見えるぞ。俺も最初にこいつを見た時、せいぜい七歳か八歳くらいにしか見えなかった。こいつは頭の中身が異常発達してるせいで、体の方が発育不良起こしてるんじゃないだろうか?
「ジュラさんを放っておいて大丈夫なのか?」
ジュラさんはコートの姉さんで、これまた相当中身に問題のある絶世の美女なんだ。そしてその抜群のプロポーションと美麗さを兼ね備えた容姿からは想像できないくらいの、異常怪力の持ち主。大の男を片腕で軽々吹っ飛ばせる美女なんて、後にも先にもジュラさんしか見た事がない。
コートとジュラさん。頭の中身と外見を、足して二で割れば丁度いいんじゃなかろうか。などと、つい考えてしまう。
「ね、姉様は……今……鍛錬室に……」
ジュラさんは一応武術家だからな。一応毎日の鍛錬は欠かしていないらしい。
「で、お前はお勉強か?」
コートは頭に超が幾つも付く程の天才児。知識量だけなら間違いなく俺や、この組合の誰よりも凌ぐ程のものを持っている。辞書も資料も見ずに、各国の言葉や歴史を即答できる人間なんて、コート以外に見た事がない。
それからコートは、他人との交流は苦手だが、手先もかなり器用で、組合のいろいろなからくりを作っているらしい。
「い、いえ……あの……今日、は……書類の整理を……」
「書類?」
図書館の書物の整理か?
「ファ、ファニィさんのお手伝い……です」
「はぁ? なんだそれ?」
ファニィは組合の補佐官で、実質この組合のナンバーツー。その補佐官の手伝いだなんて、子供のコートには……あー……こいつならできるだろうが、でも個人情報の機密とかどうなってんだ? 頭は良くても子供だぞ。
「おいおい。組合の機密情報の取り扱いを、なんでお前なんかに手伝わせてんだよ、あいつ」
「と、時々ですけれど……お、お手伝いさせていただいてます。その……僕……しょ、書記官……というのをさせていただいてますので……」
書記官! そういや前に聞いた。
「ファニィが信頼してる書記官って、お前の事だったのかよ?」
「え? ええ……たぶん。書記官は……ぼ、僕の他にいませんから」
コートはジュースの入ったグラスに口を付ける。
「いや確かにお前なら難しい書類をどうのこうのって可能だろうけど、でも十歳やそこらのガキの指示に、組合の連中が従うものか?」
「は、はい……あの……み、みなさんちゃんと……聞いてくださってます。そ、その……みなさんの前でお話しするの、すごく恥ずかしいですけど……」
クッ……そういやこいつはここのマスコットでアイドルだったか。ある種、コートのファンというか、信者のような組合員がいてもおかしくはない。どうなってんだ、この組合の連中は。みんなちょっと変な奴ばかりか?
「あー、ったく……じゃあ俺も、ファニィになんかあった時は、お前の指示には従わなくちゃなんねぇ訳?」
「そ、そうなり……ます、ね。ファニィさんがご不在の時とか……お部屋に閉じ篭っていらっしゃる時とかは……」
ん? 部屋に閉じ篭る? ファニィがか?
「ファニィが部屋に閉じ篭るってどういう事だ? たまに仕事放棄しやがるのか?」
責任感だけは強いと思ってたんだが、あいつもやっぱまだ若いし、遊びたい盛りなんだろうか?
「い、いえっ……そ、そういう訳ではなくて……その……えと……時々なのですけど……た、体調を崩される時があって……」
あ、俺、今すっげー下衆な事、考えた。女には月に数日、そういう時があるんだっけ。姉貴も理由もなくいきなり不機嫌になったり、酷い時は寝込んだりしてたからな。
ここにファニィ本人がいなくて良かったぜ。あいつの前でこんな事を言ったら絶対に「助平!」とか喚きながら平手打ちが飛んできただろう。
「あー、わり。そういう理由か。俺が悪かった」
コートの前で手をひらひらさせると、コートは不思議そうに小首を傾げる。コートはまだそういうのは理解できる歳じゃない、か。
「で。お前が手伝いに来てるって事は、ファニィは部屋にいるのか?」
「いえ……ま、まだ執務室にいらっしゃいます。でも今夜辺りからきっとだめですって……仰ってました」
うわ、俺また自爆。
もうこの話題は避けよう。で、とりあえずファニィにはなんか腹に優しい軽食でも持ってってやるか。
「あー、もういいぜ、その話。とりあえずあいつがいない時はお前の指示に従えって事だよな。はいはい、ガキんちょに使われてやりますよ。俺まだ新人だし」
「そ、そんな! タスクさんに……め、命令するなんて……僕……」
謙虚なんだか遠慮なんだか訳わかんねぇが、でもコートならファニィほど突拍子もなく傍若無人な命令なんかはしてこないだろう。
「それで? お前がここに来てるって事は、今日の仕事はもう終わりなのか?」
「……あと少し、です。も、元締め様に休憩してきなさいって言われたので……」
元締めもコートを結構可愛がってるからな。
「よし。じゃ、もう一息頑張ってこい。晩飯はジュラさんと二人、特別コース作っといてやるよ」
「あ、ありがとうございます」
コートが嬉しそうにぺこりと頭を下げた。
2
コートのお仕事が終わるのを待っているの、わたくし、本当はとても苦手ですわ。でもコートはお利口さんでとても頑張り屋さんなんですの。わたくしだけが我が儘を言っていてはいけませんわね。わたくしはコートの姉ですもの。
ですから今日はちょっとだけ、いつもよりトレーニングを頑張ってみましたの。そうしたら、わたくしのお相手をしてくださった皆さんは、すでに息も絶え絶えに、鍛錬室の思い思いの場所でおやすみなさってますわ。
うふ。みなさんまだお若いのに、だらしがないですこと。わたくしはまだまだ元気ですのに。
「姉様」
「まぁ、コート! お仕事は終わったんですの?」
わたくし、コートが迎えに来てくれた事が嬉しくて、すぐにコートに駆け寄りましたわ。
コートは浮かない顔をしたまま、わたくしのドレスの裾を掴みましたの。
「あの……ファニィさんが……」
「ファニィさんがどうかなさって?」
コートは小さな手をグーにして、口元に当てましたの。難しい事を考えているか、困っている時の仕種ですわ。
「あの、いつものお辛い日です。でも今日は急にご気分が悪くなったと仰られて」
「あら大変ですわね」
わたくしはコートの手を握りましたの。
「もうお部屋には戻られて?」
「いえ、まだ……」
「そうですの。ではわたくしもご挨拶してこなくてはいけませんわね」
ファニィさんはわたくしの大切なお友達でお仲間ですもの。大切な方が困ってらしたら、わたくしに手伝える事は何でもして差し上げたいですわ。
わたくしはコートの手を引いて、執務室の少し先にあるファニィさんのお部屋を目指しましたの。道すがら、コートがわたくしを見上げてきましたわ。
「僕、今夜はこちらに泊まります。だから姉様、申し訳ないんですけど、姉様は一人でお部屋に戻っていただけますか?」
「寂しいですけれど、ファニィさんが大変ですものね。仕方ありませんわ」
ファニィさんが体調を崩されている時は、コートがファニィさんのお仕事の代わりをしていますの。ですから一緒にいられないのは仕方ありませんわ。
「あっ! で、でもタスクさんが夜に特別なお食事を用意してくださるそうです。だから姉様、お一人で大丈夫ですよね?」
「まぁ特別なお食事ですの? 嬉しいですわ」
わたくし、なんだかうきうきしてきましたわ。特別なお食事だなんて。わたくし、食べる事は大好きですのよ。とても嬉しいですわ。
ファニィさんのお部屋をノックすると、ファニィさんの苦しそうなお返事が聞こえましたわ。わたくしは少し心配になって、なるべく音を発てないようにそっとドアを開けましたの。
するとファニィさんはぐったりと椅子に深く腰を下ろしたまま、ゼェゼェと肩で大きく息をしていましたの。
「お辛そうですわね」
「う、ん……今回キツイ。よっぽど綺麗な満月なんだね」
ファニィさんは青白いお顔で、でも健気に笑顔を作ってわたくしに見せてくださいますわ。
「ジュラ、悪いけど……コート借りるね」
「大丈夫ですわ。コートはお利口さんですし、わたくしも、もう一人でお留守番できるようになりましたのよ。ファニィさんは安心してお休みになってくださいましね」
「ん、ありがと」
ファニィさんがポケットから補佐官の印をコートに差し出しましたわ。コートはそれを両手で受け取りましたの。
「あたしの机の、右端に置いてある書類はそのハンコ押すだけにしてある。他の緑のラインが入った書類は一通り目を通しただけだから、悪いけどサインとハンコの両方をお願い」
「はい、分かりました。ファニィさん、もうご無理なさらないでください」
「うん……」
ファニィさんはお辛そうに椅子の背もたれを杖にして立ち上がり、ベッドへ向かいますわ。そしてその更に奥に作り付けてある、小さな扉を開きましたの。
「……あ、コート。今回、鍵、一個多めに付けといて」
「分かりました」
ファニィさんはそう仰って、その小さな扉の中に入って内側から扉を固く閉ざしましたの。そしてコートはその扉に鎖を掛けて、更にたくさんのお手製の錠前を付け始めましたわ。
「……えっと……あ、姉様。この閂を抜けないように曲げていただけますか?」
「これですの?」
わたくしはコートに指示された通り、一番大きな錠前の閂を折り曲げて動かなくしましたわ。でもこうしてしまったら、わたくし以外には開けられなくなってしまうのではないかしら?
ええと……でもこれでいいのですわよね? ファニィさんは〝錠前を多く〟と仰っていましたもの。絶対に〝自力で出られないように〟したいのだと思いますわ。
「これで大丈夫です」
コートは全ての錠前の鍵を掛け終えて、鍵束をポッケに仕舞い込みながらわたくしを見上げてきましたの。
「じゃあ僕はファニィさんのお仕事のお手伝いを終わらせてきます。夕食の時間になったら姉様を呼びに行きますので、姉様はまた鍛錬室か、図書室でご本を読んでいていただけますか」
「分かりましたわ。ファニィさんが元気になったら、また一緒にお食事しましょうね」
「はい」
わたくしはコートを連れてファニィさんのお部屋を出ましたの。
ファニィさん、早く良くなるといいのですけれど。
3
夕食の後片付けも終わり、俺は厨房の最終点検をしてから、パンと冷製スープの器をトレイに乗せて厨房を後にした。体調を崩してるというファニィへの夜食だ。晩飯も食いに来なかったくらいだから、相当具合が悪いんだろう。
ファニィは女子寮ではなく、組合本部の奥、執務室の更に向こうに私室を持っている。夜中に女の部屋を訪ねるなんて、まぁ俺の感覚ではとんでもなく失礼だとは思うんだが、ファニィはさほど気にしやしないだろう。飯を持ってってやるだけで、下心がある訳でもないし。
必要最低限の灯りだけが灯った組合本部の、しんと静まり返った夜の廊下は何となく薄気味悪い。昼間、人の行き来が盛んだし活気があるから、余計にそう思えるのかもしれない。なんだか化け物でも出そうだ。
化け物? 馬鹿らしい。何ビクビクしてんだか。
俺は内心苦笑しつつも小さく身震いしながら、手持ちランプを片手に、もう片方の手にはファニィの夜食のトレイを手に、組合の奥へと向かった。
すると執務室の奥、ちょうどファニィの部屋がある辺りから、激しく何かを叩くような音が聞こえてきた。檻か何かに閉じ込められた動物が、外に出ようと中で暴れているような音だ。
何の音かと疑問に思いながらファニィの部屋へ向かうと、その音はファニィの部屋の中から聞こえてくるようだった。
俺はランプを床に置き、空いた手で部屋のドアを遠慮気味にノックする。
「ファニィ、俺だ。夜食持ってきてやったぞ」
返事の代わりに、またさっきの音だ。
「ファニィ? 何騒いでるんだ? 入るぞ」
鍵は掛かっておらず、ファニィの部屋のドアはあっさりと開いた。俺は床に置いたランプを手にして、背中でドアを押して開ける。
バシ! バシ!
うわ、びっくりした! 真っ暗な部屋の隅からいきなり、さっきから聞こえる打撃音だ。そりゃあ誰だって驚くだろう。
ファニィの部屋に入るのは初めてだが、作りは寮とさほど変わらない。少し広いくらいか。でもなんで夜なのに照明が点いてないんだ?
「ファニィ、どこだ?」
夜食のトレイを部屋の隅のテーブルに置き、俺はランプで室内を照らす。するとベッドの脇に小さな扉を見つけた。その中から、激しく暴れる何かがいる事がはっきりと分かる。その小さな扉を、誰かが内側から激しく叩いていたから。
「なんだ、これ?」
夥しい数の錠前がその小さな扉に取り付けられ、内部からは絶対に開かないようにしてある。その扉を開けようとしているのか、中で何かが暴れているんだ。どんな狂暴なペットを飼ってるんだよ、あいつ。
室内のベッドにも椅子にもファニィの姿はない。どこかへ行っているのか?
バシ! バシ!
また扉を激しく叩く音がする。
……まさかとは思うが……この中にいるのがファニィなのか?
「……ファニィ、中にいるのか?」
「……け、て……開け……」
聞き取りにくい擦れた声が聞こえた。
間違いない! ファニィはこの中に閉じ込められている!
誰がこんな事をしたのか……コートか? 元締めか? この開けるのが厄介そうな頑丈な錠前、コートの仕業だとしか思えない。
「ファニィ! どうして閉じ込められてるんだ?」
部屋にこんな、人一人を軟禁できる小部屋がある事自体が異常なんだが、この時の俺はファニィが閉じ込められているという事実と、彼女を助け出さなければという無責任な正義感で頭がいっぱいだった。その〝異常さ〟が、〝ある原因〟に基づいたものだと理路整然と考える余裕もなかったんだ。
「クソッ! 鍵……鍵はないのか?」
辺りをランプで照らしたが、錠前を開く鍵は見つからない。こうなれば……。
「ファニィ、少し下がってろ! 焼き切る!」
俺はランプを床に置き、錠前の前で両手を合わせた。指を絡めて複雑な印を組み、そして頭の中で炎の魔法の構成紋章を構築させる。かなり頑丈そうな錠前と扉だ。俺の魔法だけじゃ焼き切る事は難しいかもしれない。ならば……。
「炎の魔神よ! 俺と契約を!」
俺の右の頬がカッと熱を持った。俺は奥歯を噛み締めてその熱さを堪え、そして掌から火炎を発した。
炎の魔神は暗黒の神の一人。そんな魔の神との契約は、魔術師のみが許される行為で、自身の魔法との混在具現による魔法と魔術の融合技を遂行できる。デメリットも多いが、今は非常事態だ。
ジャラジャラと焼き切れた錠前が、予想以上に大きな金属音を発して床に落ちる。その音を聞き付けたのか、幾つかの足音が近付いてきた。
「不審者か! 補佐官様の部屋に何の用だ!」
「俺はタスク・カキネ! 組合の人間だ! この中にファニィが閉じ込められてるんだよ!」
火炎は次々に錠前を焼き落としていく。
「……っあ……だめ! だめですっ! 僕の錠前を壊さないでください、タスクさん!」
「新人! すぐにやめろ!」
コートの声がして、小さな手が俺のショールを引っ張った。
「お前がやったのかっ?」
俺が怒鳴り付けると、コートはビクッと体を竦めて、慄く目で俺を見上げてきた。
「なんでファニィを閉じ込めるんだ!」
「それ、は……あっ……」
最後の錠前が焼き切れた。俺は自分の手が焼けるのも無視して、熱く熱された扉をこじ開ける。火傷の痛みに喘ぐより、ファニィの無事を一秒でも早く確認したかったんだ。
「だめです! あ、あのっ! 姉様を……ジュラ姉様を呼んできてください!」
コートが夜警の組合員に慌てて指示を飛ばす。夜警の組合員はコートの指示通り、大慌てで部屋を飛び出していった。
「あっつ……ファニィ、無事か?」
扉をこじ開けると、中からか細いうめき声が聞こえてきた。俺の火炎の熱でやられたちまったのか?
「ファニィ?」
「タスクさん、だめです!」
コートが懸命に俺の服を引っ張って扉から引き離そうとする。俺は苛立ち、コートを突き飛ばした。コートは小さく悲鳴をあげて尻餅をつく。
「ファニィ!」
小さな扉に上半身を押し込んで、真っ暗な中を探る。するとファニィの腕を掴む事ができた。俺はいそいで奴を引っ張り出す。
ハラリといつもの赤いバンダナが外れる。俺はファニィを助け出し、ぐったりとした彼女の体を抱えて頬をパチパチと叩いて意識を取り戻させようとした。
「ファニィ、俺の炎くらい、お前なら何でもないだろ! 起きろ!」
「起こさない、で……ください!」
コートが再び俺に纏わりついてきた。なんなんだこいつは! ファニィと仲が良かったんじゃないのか? ファニィを姉みたいに慕ってたんじゃないのか? 一体なんなんだよ、この酷い仕打ちは!
「あう……」
ファニィが小さく身じろぎして、薄く目を開いた。
「ファニィ?」
「タスクさん離れて!」
だからコートは一体何を……。
そう口にしようとした刹那、ファニィの目がカッと開かれた。爛々と光る血の色をした真っ赤な瞳に、猛獣のような長い虹彩が淡く光っている。その瞳が俺を捕えた。
これ……いつものファニィの目じゃない?
「アアアァッ!」
まるで魔物のような唸り声をあげて、ファニィが俺を弾き飛ばす。ちょっ……? 今の、あいつの腕力じゃない!
俺が驚いて身構えると、ファニィは俺の背後にいたコートを見つけ、タンと床を蹴った。凄まじい跳躍で一気にコートとの間合いを詰めると、ファニィは小さなコートの体を床へ引きずり倒し、頭と胸を押さえ付けた。
「ファニィさっ……こほっ……」
胸を強く押さえられているせいか、コートが苦しそうに咳き込む。そこへさっきの夜警の組合員と、ジュラさんとが室内へ飛び込んできた。
「まぁファニィさん。コートへのおイタはいけませんわよ」
優雅にのんびりと、だが素早くジュラさんはファニィに詰め寄る。そして渾身の力でコートを押さえ付けている腕を掴み上げる。だがその手が、引く力と押す力の相反によってブルブルと震えている。
ジュラさんの腕力と対等って、ファニィの奴、一体どうしたんだ? 何が起こっているんだ?
「いけませんと、申しているでしょう!」
ジュラさんがファニィの肩に掌打を打ち込み、そして足払いを仕掛けて転ばせた。その隙にコートをファニィの下から引っ張り出し、軽々と俺の方へと放り投げてくる。俺はコートの体を受け止め、そのまま反動で後ろへ尻餅をついた。
「……っと……どうなってんだ?」
「けほっ……はっ……は……」
コートは喉を押さえ、俺の服を掴んで今にも泣き出しそうな表情で俺を見上げてくる。
「ファ、ファニィさんは満月の夜、魔物化するんです。だから僕の作ったからくり扉の向こうに閉じ篭って一晩過ごされるんです」
そうか、すっかり忘れてた! ファニィは魔物との混血だったんだ。だからこういった惨状を作り出さないためにも、魔物化する日は鍵付きのあの小部屋に閉じ篭って……。
ああ! 俺、何を勘違いして馬鹿な真似しちまったんだ! 魔物化したあいつを止められなきゃ、俺はコートをジュラさんの目の前で殺させちまうところだったじゃないか! ファニィの手を汚させちまうところだったじゃないか! あまりの
思慮に欠ける行為、猛省してもまだ足りない。
「……くぅっ……コート……どう、します……のっ?」
ファニィを押さえ付けたまま、ジュラさんが苦悶の表情を浮かべる。あのジュラさんをも上回る力で、ジュラさんの拘束を跳ねのけようとするとは、魔物化したファニィの奴、一体どんな怪力なんだよ!
「コート! どうすりゃファニィを助けられる?」
「で、できない……です……分からない……僕、分かりません! ファニィさんも分からないから、いつもお一人で閉じ篭って堪えてらしたんです!」
ジュラさんの方を心配そうに見ながら、コートは今にも泣き出しそうな表情で絶望的な事を口にする。
「……コート……わたく、し……駄目です、わ……っ!」
「姉様! ファニィさん、姉様を殺さないで!」
ファニィがジュラさんを跳ねのけた。そしてジュラさんの喉に牙を剥いて食らいつこうとする。コートは錯乱し、ジュラさんの元へ駆けて行こうとするのを、俺は必死に押さえつける。
「駄目だ! お前じゃ役に立たない!」
「姉様! 姉様! やだ……嫌です……助けて……姉様を助けて……ファニィさんを助けて……」
コートがしゃくりあげながら頭を抱えて膝をつく。
その時だ。室内が一瞬昼間のように真っ白に光り、俺たちの視界を遮る。俺が手で目を庇うと、チラチラと何者かの影が動いた。
「う……聖刻……?」
指の隙間からファニィとジュラさんを見ると、彼女らの頭上に『聖刻』と呼ばれる、俺の使う暗黒魔術と対を成す『純白魔術』を行使する時に現れる聖刻の影が見えた。
室内をまぶしく照らす光が治まり、俺の落としたランプの灯りだけの、薄暗い室内に戻る。
「何が……」
「姉様? ファニィさん?」
コートが俺の手からするりと抜け出す。馬鹿! まだ……。
だが俺の心配は杞憂に終わった。
肩で息をしているものの、無傷のジュラさんがコートに付き添われて蹲っている。そしてそのすぐ傍には、意識を失ったファニィがいた。
薄く開いた唇からは魔物化していた時にあった牙は消え、普通の人間より少し長いだけのいつもの八重歯が見える。僅かに尖った耳も普段通りだ。
「ジュラさん。無事ですか?」
「……ええ……なんとか……でも何が起こりましたの?」
「ファニィさんは……」
コートはおっかなびっくり、意識を失っているファニィの様子を見る。
「魔物化の兆候が……消えています」
コートが振り返ろうとすると、ベッドの影から見慣れない少女が立ち上がった。今までこんな子、いたか?
オレンジ掛かった金髪を耳の両サイドで輪っかにして、フリルのたっぷり付いた可愛らしいワンピースを着ている。そして俺を見て、そして小さくコクンと頷いた。
「ん? 俺?」
少女がまた頷く。そしてファニィの側へふわりと座り、いつもの赤いバンダナを手首にリボンのように結んでやっていた。
「あなたは……?」
少女はコートを見て、僅かに口元を綻ばせる。笑った、のかな?
俺はファニィに近付き、彼女を助け起こした。そしてコートを見る。
「魔物化は一晩で治まるのか?」
「は、はい。長くても二日くらいで……でももう耳が尖ったり、目が光ったりする……ま、魔物化の兆候が完全に消えてしまっているので……」
俺はさっき光の中で見た聖刻を思い出した。そして少女の方を見る。
「……純白魔術か?」
ゆっくりと、少女が頷いた。
やっぱり!
死を司る俺の暗黒魔術は、不用意に扱えば相手に死をもたらす。だが純白魔術はそれとは逆で、相手に生と癒しを与えるんだ。扱いは暗黒魔術以上に難しく、能力保持者も極希少で、純白魔術を完全に扱える術者はほとんどいない。俺も初めて見たくらいだ。
だから一口に『魔術師』と言えば、大抵は俺のような『暗黒魔術師』の事を指す。それほど純白魔術師の存在は稀有なんだ。ファニィのような混血の混血並に稀な存在かもしれない。
この少女がファニィの魔物化を、純白魔術で抑えたと考えたなら全て説明がつく。
「お前さんがファニィを助けてくれたんだな。ありがとう」
少女は少し照れたように、小さく首を振る。
「ところで君はどこから入ってきた?」
俺の問い掛けに、少女は口元を指先で抑え、困ったように細い眉をしかめる。そして首を振った。
「どうした? 答えられないのか?」
少女はためらいがちに口をパクパクさせ、再び首を振る。
「……喋れないのか?」
俺の問い掛けに少女は頷いた。そしてファニィを指差し、自分の耳を軽く引っ張り、また首を振る。何か訴えているのは分かるが、そのジェスチャーだけでは何を言いたいのかさっぱり分からない。
「……あの……もしかしてそのかた、ファニィさんはもう魔物化しないと……仰っているのではありませんか?」
コートが小首を傾げると、少女はコクコクと頷いた。
「そうか。お前がファニィの魔物の血を薄めてくれたのか」
少女が首を振る。
「……違うって仰っているみたいです」
「じゃあ、封じただけか?」
少女が少し考えてから頷いた。
「……そのようです」
口をきけない少女の言わんとしている事を、コートは的確に判断して通訳してくれた。コートも無口で引っ込み思案だから、少女の言いたい事が理解できるのかもしれない。
「わかった。じゃあ、もう今夜は魔物化しないようだから、このままこいつは休ませてやろう。でも念のため、ドアには外から鍵を掛けた方がいいかもな」
知らなかった事とはいえ、俺の失態のために、コートやジュラさんには迷惑を掛けてしまった。
「……あの、タスクさん」
「なんだ?」
「純白魔術というのは……?」
こういった不可思議な事には強い興味を示すコートが、遠慮気味に俺に問い掛けてくる。
「ああ。俺の使う暗黒魔術と対を成す魔術の事だ。あー……っと、説明は明日してやるよ。魔法との違いもひっくるめて、今ここで説明するにはちょっと長くなるから」
「はい」
ジュラさんがゆっくりと立ち上がり、ふうふうと胸を押さえながら深呼吸しているこの人がこれだけ消耗するのも珍しい事だ。
「あ、この子……組合員か?」
俺はコートに少女の事を尋ねる。
「いえ。お見掛けしたこと、は、ありませんから……」
「夜中に一人で帰すのも可哀想だしな。部屋、貸してやれますか?」
すっかり存在を忘れていた夜警の組合員に声を掛ける俺。組合員は頷き、少女を連れて行こうとした。だが少女は嫌々と首を振り、コートのケープを掴み、その場を動こうとしない。どうやら一人でどこかへ連れて行かれる事が不安らしい。
「大人ばっかりだしな、ここ。なぁ、コート。お前、面倒見てやれるか?」
「は、はい」
「じゃあ、頼むわ。警備員さんは元締め様を。俺がお詫びと説明をします」
コートはジュラさんに手を引かれ、少女はコートのケープを掴んだまま、ファニィの部屋を出て行った。俺はファニィの体をベッドへ横たわらせ、すやすやと眠りこけているファニィを見た。
「またお前、俺に嘘吐いたな。魔物化するなんて聞いてねぇぞ」
俺は苦笑しながら、元締めの到着を待った。
4
あたしの背後から、カラカラと台車を押す音が聞こえてきた。振り返ると可愛らしい二人組が、背丈ほどもある台車を二人で協力して押している。コートと、あたしを助けてくれた女の子。
「おはよ。そんなもの押してきて、高い所にある本でも欲しいの?」
「おはようございます」
コートがぺこりと頭を下げると、女の子も慌てて、ならうように頭を下げた。
昨日の夜、あたしは魔物化した。そしてあたしの魔物化を知らなかったタスクが、あたしの閉じ篭ってた小部屋をこじ開けてあたしを外へ解放し、ジュラ、コートを巻き込んで大騒動になったらしい。魔物化してる時、あたしはほとんど記憶がなくなるから、人伝てで聞いたんだけど。
でもその時、どこからかやってきたこの女の子が、純白魔術とかいうものを使ってあたしの魔物化を鎮静化させてくれたらしい。
あたしは今朝、気分爽快清々しく起きてピンピンしている。いつもなら魔物化した翌日はちょっとブルーな感じなんだけど。
女の子は喋れないらしくて、まだ名前も聞いていない。なら筆談で、とも思ったんだけど、彼女の書く文字は知識豊富なコートでも見た事もない珍しい文字で、組合の誰一人読む事ができなかった。だから身元も完全に不明。
でも不思議な事に、こっちの言ってる言葉は理解できるらしいの。それなら標準語圏の文字も書けそうなものだけど、でも書けないみたいなのよね。
「高い所の本が取れないなら、あたしが取ってあげようか?」
「え……お、お手間ではありませんか?」
「本取るくらいお安いご用よ」
あたしは二人の運んできた台車を図書室の隅に寄せ、コートの指し示す一番高い書棚の本を取ってあげた。ふむ、植物の図鑑ね。
「植物図鑑なんてどうしようっていうの?」
コートに本を手渡しながら言うと、コートは女の子の方を見ながら口を開く。
「お花が見たいと……仰るので」
「喋ったの?」
「いえ、なんとなく分かりました」
コートには不思議と、彼女の言いたい事が理解できるらしい。
女の子は今朝、家に送り届けてあげようとしたんだけど、どうやっても家の場所を教えてくれようとしなかった。さっきのとおり筆談も無理なので、ひとまず組合で彼女を保護する事にしたの。だって自警団に任せて放り出すのは簡単だけど、でも物凄く寂しそうな顔するんだもの。あたしの恩人でもあるし、できれば最後まで面倒みてあげたかったし。
「せめて名前くらいは教えてほしいな」
女の子は困ったように唇に指先を当てて考え込んでいたが、ふと思いついたように、コートの手の中から花の図鑑を取って広げた。そして一つの花を指差す。
「あ……あじ……あじぇり……?」
よ、読めない……。エルト地方の文字だというのは分かるんだけど、今使われてる文字より、随分古い文字でその花の名前は書かれていた。
この図鑑、エルト地方のものだったのね。ウチの図書館、あっちこっちの国のいろんなジャンルの本がごちゃごちゃに詰め込まれてるから。
「……アイジェルフロウ、と読みます。エルト地方で、百年くらい前まで使われていた文字ですが、今の言葉に訳せばエイミィフラワーになります」
「なるほど。で、その花がどうしたの?」
少女が図鑑の花の名前の真ん中を指先で切るようになぞり、それから自分を指差す。
「……エイミィ、と仰りたいのですか?」
コートが聞くと、少女が嬉しそうに頬を染めてコクコクと頷いた。
「もしかしてエイミィっていう名前なの?」
あたしも確認すると、女の子があたしを見上げてまた頷いた。
「あはっ! エイミィちゃんか! 可愛い名前だね」
「エイミィさん。素敵なお名前ですね」
コートが言うと、エイミィは照れたように頬を染めた。
「……ええと、エイミィフラワーはこの形が、天使の輪と羽根に似ている事から天使草とも言われていて、エルト地方ではお祭り事があると、祭壇にこの花が飾られるそうです」
「なるほどなるほど。さすがコート。物知りだね」
あたしが褒めると、コートも赤くなって俯いた。
「よし。じゃああたしは仕事に戻るね。コートもエイミィも仲良くしてるんだよ」
あたしは両手で二人の頭を撫でてやり、図書室を出て執務室へ向かった。途中、タスクに会う。タスクはあたしを見て、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ファニィ、昨夜は悪かった。お前があんなになるなんて知らなくて、俺が余計な事をしたばっかりに、お前にジュラさんとコートを襲わせるような事になっちまった」
「いいのいいの。二人は無事だったんだし。ま、あたしはああなっちゃうのは満月の夜だけだから、今後は気を付けてくれればいいわ」
「ああ、そうする。でも何か俺に手伝える事があるなら、何でも言ってくれ」
タスクは酷く反省してるようだけど、でもあたしを異質な目で見るような事はしていない。ジュラやコートと同じだね。なんかちょっとだけ嬉しいかな。
「そうねー……じゃあ、今日のお昼ご飯は大盛りで」
あたしが言うと、タスクの表情が固まった。だけど次の瞬間、いきなり盛大に吹き出した。
「……ぷはっ! お前の食い意地は緊張感のカケラもないな」
「一晩なーんにも食べないで閉じ篭るから、次の日すっごくおなかが空くのよ! いいじゃない、あんたが役に立てる唯一の方法なんだから」
「俺はお前の専属飯炊き係かよ。まぁ、いいや。絶対美味いと唸らせるモン、食わせてやる。見てろよ」
「期待してるよー」
あたしはタスクの肩をポンと叩いた。
「あ、あの女の子の名前、分かったよ。エイミィって言うんだって。なんかエルト地方の花と同じ名前なんだって。植物図鑑見せてくれて、教えてもらったの」
「エイミィ……エイミィフラワー。天使草か。純白魔術師だし、よく似合ってる名前じゃないか」
「今、コートと一緒に図書室にいるよ」
「ああ。魔術と魔法、それから暗黒魔術と純白魔術の違いを講義してやるって約束したんでな。ちょくら先生してくるよ」
「タスク先生ねぇ? 大丈夫なの? コートは頭の回転早いよ」
「コートほどじゃないが、俺だってそこそこに勉強は得意なんだぞ。魔法方面に関してだけだけどさ」
憤慨するようにタスクが言う。あたしはケラケラと笑ってタスクの肩を叩いた。
「じゃ、頑張って先生しておいでよ」
「おう」
あたしはタスクと別れて、執務室へと向かった。
5
「まあ簡単に言えば、炎、水、風、土という象徴が四大元素と言われるもので、これらを様々な形で具現化した力が魔法だ。炎の槍とか水鏡の映写とかだな。この魔法というものは、古代魔法紋章と言われる刻印を刺青として体のどこかに刻んでおけば、ごく初歩的なものなら訓練と勉強次第で誰でも使えるようになる。ジーンでは生まれた時から魔法使いとして育てられる事が常とされるから、一番目立つ顔に刺青を彫る風習があるんだ。俺のコレがそうだな」
と、タスクさんはご自身の右頬を指差します。炎と円環を象った抽象的なものです。これが古代魔法紋章というものらしいです。
僕とエイミィさんは、午後の空いた時間を利用して、タスクさんに魔法の講義をしていただく事になりました。
僕もタスクさんと出会ってから、魔法というものに以前より強く関心を抱くようになっていましたし、昨夜の事件の事もあって、とても緊張しましたけれど魔法の事を教えてくださいとお願いしたんです。僕に魔法は使えなくても、知識として身に付けておけば、いつか何かの役に立つと思ったんです。
「……あ、あの……体のどこかに刺青を彫れば、い、いいと仰いましたが……タスクさん、は……見やすい所……お顔に刺青を彫る事で……えと……魔法の威力が強くなったりするの、でしょうか?」
「んあ? ああ、それはないな。顔に彫るのは、ただ単にジーンの昔ながらの風習ってだけだ。俺も詳しい由来は知らないが、元を辿ったら『ジーンは魔法国家だ!』とか、相手に主張するためだったとか、結構単純な理由だったりするのかもな。初歩の基本的な魔法が使いたいなら、腕でも足でも、とにかく体のどこかに古代魔法紋章を刻み付ければいい」
なるほど、よく分かりました。
「で、では……えと……僕もタスクさんと同じ刺青を彫ったら……炎の魔法が使えるようになるのでしょうか?」
僕は自分の右頬を指先でぎゅっと押してみました。刺青って……なんだかちょっと痛そうですけれど……。
「はぁ? やめとけやめとけ。お前の可愛い面を、わざわざ刺青なんかで傷付ける必要はないさ。な、エイミィもそう思うだろ?」
僕の隣でエイミィさんが強く頷かれています。
タスクさんに可愛いなんて言われて……ちょっと恥ずかしいですけれど……でも、僕もタスクさんと同じ刺青、ちょっとだけ興味あります。魔法を使うって、どういった感覚なのでしょう? 興味もありますし憧れます。
「ま、とにかくだ。魔法はこういった理由から、誰でも使える可能性はあるんだが、魔術は違う」
タスクさんはご自分の服の襟に指を差し込み、ぐいと引き下げられました。
あっ……タスクさんの鎖骨……。
「ここンとこ。赤い逆三角形の痣があるだろ。俺の頬の炎の部分もまぁ似たような赤なんだけど。この痣が魔術を扱える者の証『黒印』(こくいん)だ」
そう仰いながら、タスクさんは襟を正しました。ど、どうしましょう。どきどきしてきました。タスクさんがあんな事をなさるから……。
僕は顔が火照るのを隠すように顔を伏せます。
「魔術ってのは、魔法使いがどんな努力をしたって使えない。生まれながら魔術師としての才能がなければ、何をどうやったって絶対に行使する事ができないんだ。俺が使える暗黒魔術は、俺だけが持つ特殊技能みたいなもんだな。大雑把に言えば、ファニィの不死身の体と同じようなもんだ。個性って言い方をすりゃ聞こえがいいかな」
タスクさんが手を伸ばしてきて、エイミィさんの頭を撫でました。タスクさんはこうやってよく頭を撫でてくださるんです。僕もそうやって褒められるの、恥ずかしいけど嬉しいです。
「エイミィの純白魔術もそうだ。生まれながらに純白魔術師であるという才能がなければ絶対に誰にも使えない。エイミィ、お前も体のどこかに痣があるだろ? 純白魔術師の証『聖刻』が?」
エイミィさんにそう尋ねるタスクさん。エイミィさんは顔を真っ赤にして俯いてしまいました。
むっ……僕、ちょっとだけ苛立ちました。
エイミィさんは僕と同年代でまだ子供ですけど、でも女性なんです。なのに体のどこかに、とか、そんな失礼な質問をするなんて、タスクさん、無遠慮すぎます!
「タ、タスクさんっ! あのっ……じっ、女性にそ、そういうこと、を言う、言うなん、て……エイミィさんに、し、失礼ですっ!」
僕は精一杯タスクさんに抗議しました。何も言えないおとなしいエイミィさんの代弁です。
「あ……ああ、ええと……悪かったよ。謝る……」
タスクさんは少し驚いた表情で僕を見ていました。ぼ、僕を見ている暇があるなら、エイミィさんにきちんと謝っていただきたいです。
僕がムッとしていると、僕の袖をエイミィさんが小さく引っ張りました。首をそちらへ向けると、エイミィさんは少し笑って小さく頷かれました。僕にお礼を言ってくださっているんですね。そんな大したことはできませんでしたけど……。
「あー、うん。とにかくすまなかった。じゃあ聖刻の事は置いておいて、話を戻すぞ」
タスクさんは無意識になのか、ご自身の右頬を指先で擦ります。
「暗黒魔術は死を司り、純白魔術は生を司る。全く正反対の性質を持っているから、両方を同時に行使できる魔術師はいない。俺がいくら純白魔術の知識や構成紋章を覚えたとしても、暗黒魔術師である俺に純白魔法は使えない。逆にエイミィも、暗黒魔術の知識や構成紋章を覚えたとしても、暗黒魔術を行使する事はできない。こればかりは素質がモノを言うんだ」
魔法は誰にでも使うことが可能な能力のことを指し、魔術は素質に左右される特殊な能力、ということですね。タスクさんがご自分を魔法使いにして魔術師でもある、と仰る意味がようやく理解できた気がします。
「ここまでで質問は?」
「あ……ええと……で、では、タスクさんは炎の魔法、しか使えない、と仰っていましたけれど……そ、その……ほ、他の系統の、魔法紋章は彫られていない、から使えないのでしょうか?」
僕の質問に、タスクさんの頬が引き攣りました。こめかみに青筋が浮かんでいます。
も、もしかして僕、触れてはいけない話題に触れてしまったのでしょうか。
「……彫ってるよ、全部。悪かったな……未熟者の不出来な魔法使いで……」
タスクさんが低い声で吐き捨てるように呟かれました。
「あっ、あのっ……す、すみません……悪気はなくて……あの……その……」
「はいはい。俺は未熟者ですよ。ミソッカスですよ。カキネ家の恥さらしですよ。風も水も土も、どの系統の魔法も死ぬほど勉強してきたさ。構成紋章だってそこいらの中級魔法使い以上に頭に入ってるよ。だけど行使できねぇんだよ。いくら努力しても、炎以外はまったく具現化できない不器用なヘタレ魔法使いなんだよ。悪かったな、未熟者の魔法使いが偉そうに魔法講義なんかして」
タスクさんが子供のように不平を漏らしながら拗ねてしまいました。タスクさんの機嫌を完全に損ねてしまったんです。僕の不用意な一言で。
僕のつまらない好奇心から出た質問が、僕の大好きな人を愚弄して困らせてしまう結果になってしまうなんて……僕はなんて浅はかで愚かなんでしょう。僕、最低な人間です。タスクさんを傷付けてしまうなんて僕……僕は……。
激しく後悔した僕は耐えられなくなり、つい泣いてしまいました。涙が止まらなくなってしまって、僕は声を詰まらせて泣き出してしまったんです。
泣き虫だと、ファニィさんにもよく言われます。でも悲しくなって涙が出てしまうのは仕方ないじゃないですか。
「わっ! コート、泣くなよ! 逆切れした俺が悪かったよ。図星刺されてつい苛々してお前に当たっちまって……泣かすつもりじゃなかったんだよ」
「僕……タスクさん……怒らせて……」
「怒ってない。もう怒っちゃいないから泣くなって」
タスクさん、僕の心配をしてくださってます。あまり泣いてばかりいたら、本当に嫌われてしまうかもしれません。
僕はそう思って一生懸命泣き止もうと目を擦りました。そしてゆっくり顔を上げようとすると、パチンと乾いた音が響き渡りました。
驚いて目を開くと、テーブルの上に膝立ちになったエイミィさんが、ぷっと頬を膨らませてタスクさんの頬を叩いていました。今度はエイミィさんが僕を庇ってくださったの、ですか?
「あっ……」
エイミィさんはテーブルから降り、僕の腕を引っ張って椅子から降ろしてくださいました。そして僕の手を引いて図書室を出て行こうとしました。そのまま振り返ってタスクさんに思いっきり舌を突き出します。
エイミィさんが僕を庇ってくださったのは嬉しいですけど、でも僕、ちょっとだけ情けないです。
すっかりタスクさんを敵視したエイミィさんに連れられて、僕たちは図書室を出ました。タスクさんは頭を掻きながら、僕たちを見送ってくださってました。
6
俺はすっかりエイミィに嫌われてしまったようだ。
ちょっとした事でコートを泣かせたせいで、エイミィはことごとく俺を敵視するようになった。廊下ですれ違おうものなら、さっと自分の体を盾にしてコートを俺の視界から隠し、コートの日課である厨房での俺の姿ののぞき見も、しっかりきっちりエイミィが同伴だ。で、うっとり俺を眺めるコートの後ろから、可愛い顔に目一杯の敵対心を浮かべて俺を睨み付けている。
そりゃ別にコートと二人で会いたいとか思っちゃいないが、あれだけ付きまとわれていたコートがいないのも、なんかこう、ちょっと物足りないというか落ち着かないというか。
俺は豆の茶を啜りながら、目の前のファニィとジュラさんを見た。この二人もどうやらエイミィがコートから遠ざけているらしい。
彼女はコートと同じでおとなしい性格かと思っていたが、意思はかなり強くてしっかり者の行動派。口が利けたらきっとファニィと意気投合するんじゃないかって感じかな。まるでコートの私兵か番犬だ。
「コートがちっともわたくしと遊んでくれませんの。わたくしショックでお食事が喉を通りませんわ」
ジュラさんがそう言いながら、二箱目のクッキーの箱を空にする。この勢いで毎日菓子を平らげてるんだ。飯が入らないのは当然だと思う。しかしそれでも俺やファニィ以上に、一度に食う飯の量は多いんだが。
本当にこの人、相当な量の飯を食うのに太らない体質なんだなぁ。のんびりした……いや、能天気な性格だからストレスとも無縁そうだし。
「あたしも仕事手伝ってもらおうと思ってここに来たんだけど、なんかここ、コートに相手してもらえない同盟の掃き溜めみたいな感じ?」
「うるさい。お前は仕事あるなら、とっとと執務室に戻れ」
「休憩くらいさせてよ」
ファニィは自分でカップを取ってきて、ジュラさんの前にあるティーポットからハーブティーを淹れる。
「エイミィって、結構積極的な子だったんだね」
「だな」
「コートを一発で男の子だと見抜いてたっていうのも驚きだけど、でもなんかかなり押せ押せムード? エイミィ、コートの事がすっごい好きみたいね」
ファニィは両手でカップを持って、ハーブティーを啜る。
「そうなんだよ。あれくらい気の強い女の子ってのは、『デモ・ソノ・エット』って感じのコートみたいな気弱なのが好みなのかねぇ?」
エイミィがコートに好意を寄せているというのは、傍で見てれば一目瞭然だった。コートにちょっかいかけるような奴には、エイミィの平手打ちや脛蹴りが容赦なく飛んでくる。俺なんか、最初の平手打ちを皮切りに、事ある毎に睨まれ蹴られしている。非力な小さい女の子だからさほど痛くはないんだが、露骨な敵意剥き出しの攻撃は、精神的にかなり『クるもの』がある……。
だから俺はコートに対しての気持ちは、ただの弟分としてしてか見てなくて、コートが一方的に傍迷惑なソッチの目で見てるだけじゃねぇかよぉ……。
「完璧な三角関係勃発よね」
「面白がって言うな。俺が一番被害被ってんだから」
「コートがわたくしとお話ししてくれませんの。わたくし悲しいですわ」
ジュラさんが三箱目のクッキーを平らげてぼやいた。
「あはっ、四角関係ね」
「だから面白そうに言うな!」
完全に蚊帳の外のファニィが面白がって笑ってやがる。くそっ、こいつの減らず口、絶対いつか黙らせる。
「俺はとにかくエイミィからの敵視をどうにかしたくてだな」
「コートのタスク・ラブは筋金入りだもんねぇ。エイミィ可哀想」
「あのなぁ、コートだってまんざら……あれ?」
俺はエイミィに最初の平手打ちを食らった時の、魔法講義の時の様子を思い出した。
「どうしたの?」
ファニィが小首を傾げる。
「……もしかしてコートの奴、エイミィの事が好きなんじゃないか?」
「なんで? ちゃんと日課のタスク観察日記は付けにくるんでしょ」
「そんなモン付けられてたまるか。いや、とにかく聞けよ」
俺はポンポンとファニィの肩を叩く。
「俺さ、エイミィにちょっと行き過ぎた質問を投げかけたんだよ。そしたらあのコートが必死になってエイミィ庇って、俺に抗議してきたんだ。あのコートがだぜ? もしかしたら無意識にでもエイミィに好意抱いてて、惚れた女を守ろうとしたんじゃないか?」
「タスクに反論? コートが?」
ファニィも心底驚いた顔をして俺を見る。
「それはちょっと驚きね」
ファニィが腕組みをして考え込む。そしてチラリと俺を見た。
「タスク。あんた、コートに捨てられて平気?」
「どういう意味だ、どういう!」
「あはは、ごめんごめん。つまりね。コートがタスクを好きって目で見なくなっても平気かって意味」
「何度も言ってるが、俺は至ってノーマル。コートの趣味と同一線上に俺を当てはめるな」
ファニィはパチンと指を鳴らして、俺を指差してきた。
「よし。じゃあコートとエイミィをくっつけちゃう作戦兼、新しい仕事の依頼よ」
ファニィが立ち上がり、ジュラさんと腕を組んだ。
「ラシナ関係で一件、コートの助けを借りないとこなせない依頼があるの。その依頼をこなしつつ、コートがエイミィをどう思ってるか確認できると思うわ。ジュラ、コートにちゃんとした彼女できるかもよ」
「コートはわたくしの弟ですのよ」
ジュラさんが不満を述べながら、四箱目の……あ、いや、五箱目のクッキーの箱を空にしていた。
マジで一度ちゃんと聞きたいんだが、大食いで間食しまくりのジュラさんだが、モデル真っ青なその素晴らしいプロポーションを維持しつつ、どこにそんだけの食い物が入るんだろうか? 胃袋が魔界の底なし沼にでも繋がってるか? 謎だ。
「もちろんそれは変わんないよ。でもちょっとくらい、弟離れしなよ」
ファニィは何かを企むような笑みを浮かべて、ジュラさんの額を突っついた。
7
ラシナをぐるっと迂回する形で海を進むと、オウカのその港町はある。ラシナから運ばれてくる荷物を引き取って配達するのが今回の仕事。でもその荷物っていうのが、ラシナの地方の一部でしか使われていない独特の文字で書かれているの。組合でそれが読めるのは、たぶんコート一人だけ。ジュラはラシナの標準文字か、オウカの標準文字くらいしか読めないしね。
その仕事に、あたしはエイミィを同行させる事にした。
もちろん部外者を同行させて何かあった時は組合の名前に傷が付くし、純白魔術が使えるって言っても、エイミィは何の訓練も受けてないただの女の子だから危険が無い訳じゃない。
だからこそ、コートがエイミィをどこまで守り切れるか試してみたいと思ったの。エイミィを最後までちゃんと守り切れたら、コートはきっとエイミィの事が好き。多分タスクに対する憧れよりも。
もちろん子供のコートに先陣切って戦えって言ってるんじゃないわ。魔物や盗賊との危険な戦闘となれば、ちゃんと自分よりエイミィを優先して逃げるなり隠れるなりしてあげられるかを見たいの。
本当に危なくなったら、あたしかタスクが二人を守るけどね。ジュラには一人で最前線を任せる事になっちゃうけど、でもコートを守るためだからジュラも分かってくれると思うわ。あたし一人じゃさすがに二人を庇うのは辛いから、タスクを同行させる事にしたって意味もあるし、自分を守ってくれるタスクに対するエイミィの誤解を解いてあげたいからって意味もある。
あたしだって色々考えてるんだからね!
ゴトゴト揺れる馬車の御者はあたしとタスクで交代でしている。腕力のないコートやエイミィには馬を操るなんて無理だし、ジュラの馬鹿力で手綱を引っ張ったら、馬の首が折れちゃうわ。
今はタスクに御者を任せてあたしは馬車の中でくつろいでいた。ううん。くつろぐって言っても、板敷きの馬車の荷台が揺れてお尻が相当痛いんだけど。
「ジュラ、退屈そうね」
「コートがお話ししてくれませんの……」
「……なんか食べてたら? おやつ持ってきてるでしょ」
「お菓子よりコートとお話ししたいですわ……」
駄目だ。ジュラは完全にコート欠乏症になってる。
港町で引き取ってきた荷物に背を預けるように、コートとエイミィが並んで座っている。
港町へ向かう時に一度魔物の襲撃があったけど、コートはちゃんと率先してエイミィを安全な場所へ誘導して隠れてやり過ごした。やっぱりタスクの言う通り、コートはエイミィが好きなのかもしれないわ。
今はオウカへ戻る帰り道。このまま何事もないのが一番だけど、でもまだコートの気持ちを知る決定打ってものがない。もう一回くらい魔物の襲撃があってくれれば、その時のコートの行動で、コートのエイミィに対する気持ちははっきりするような気もするんだけど。
馬車の中で、二人でおとなしく並んで座ってるけど、特に会話してる風でもない。あ、エイミィは話せないからコートが一方的にお喋りする事になるのか。その光景は想像できないなぁ。
あたしは二人に近付き、ウェストポーチの中からキャンディーを取り出した。
「ただ座ってるだけでも疲れるでしょ。甘い物でも食べてたら?」
「あ、ありがとう、ございます」
コートが受け取り、エイミィに手渡す。エイミィはぺこりと頭を下げ、そのキャンディーを持ったまま、ぼんやり馬車の外を見ている。エイミィの様子、ちょっと変じゃないかな。
「エイミィ、もしかして馬車に酔った?」
「そうなのですか? すみません、僕、全然気付かなくて……」
あたしが言うと、エイミィははっとして首を振る。だけど青白い顔は全然大丈夫そうじゃない。
「ちょっと休憩しよう。ね?」
「でも急ぐのでは……」
「コート。女の子は労わってあげなきゃ」
あたしは御者台のタスクの方へと移動する。
「タスク! 近くに川があったでしょ? ちょっと休憩しよ。エイミィが酔っちゃったみたい」
「分かった」
ゴトゴトと荷台が左右に揺れて、馬車の進路が変わる。
しばらくして馬車が止まり、川のせせらぎの音が聞こえてきた。あたしは一足先に降り、馬車の方を振り返る。
よしよし。コートはちゃんとエイミィをエスコートしてるわね。いつもならジュラに抱っこされて降りてくるのに。これは期待しちゃっていいのかしら?
ジュラもすぐ後から馬車を降りてきて、コートがエイミィに付きっきりなのを見て、拗ねた様子であたしの所にやってくる。
「コートがわたくしを無視しますの。コートはとても意地悪さんになってしまいましたわ」
「あのね、ジュラ。今、コートはすっごく大事な時なの。だからちょっとだけ我慢してあげて。すぐにまた『姉様姉様』って言ってくれるようになるから」
「本当ですの? ではわたくし、あとどれだけ我慢すればよろしいのかしら?」
「うーん、どれだけっていうのは分かんないけど、でもホントにあとちょっとだから。それまであたしやタスクがジュラの相手したげるから。ね?」
あたしはにっこり微笑みかける。だけどジュラは唇を突き出して不機嫌を露わにする。
「……コートがいいですわ。コートはわたくしの弟ですのに」
「もうっ……」
ジュラのコート依存は一筋縄じゃ治らないわね。
川の冷たい水で手を洗おうとしてるのか、コートとエイミィが川へ向かって歩いていく。その様子を見て、ジュラは胸を誇張するかのように、バストの下で両腕を組んだ。
「わたくし、エイミィさんは嫌いではありませんわ。でもわたくしのコートを独り占めするのは不愉快ですの」
ジュラがエイミィに対してヤキモチ妬いてるわ。でも今回ばかりはジュラに我慢してもら……いいえ、ジュラも成長してもらわないとね。ジュラって実際の年齢はあたしより上だけど、中身はコート以下だもの。
「ジュラの気持ちは分からないでもないけど、でもコートだっていつかは独り立ちするんだし、ジュラだってそろそろいい人がいれば、お嫁に行く気もあるんでしょ?」
「わたくしはコートがいれば結構ですの。コートとずっと二人で暮らしますの。そのつもりでわたくしとコートは二人で家を出てきたんですもの」
ぷいと顔を背けて拗ねてしまい、ジュラは馬車に戻ってしまった。
あらまぁ。本当にジュラはコートしか見てないんだね。弟大好きな姉と、姉大好きな弟で、お互い過剰姉弟愛が過ぎて、ジュラにもコートにも、それってあんまりよくないような気がするんだけどなぁ。
今回のエイミィの事は、お互いを成長させるいい機会だと思うわ。
「ファニィ。コートはどうだ?」
馬を休ませてきたのか、凝った肩をグルグル回しながらタスクがやってくる。
「うん。なんかいい感じ。でもジュラが完全に拗ねちゃった」
「ジュラさんのコートに対する過保護っつーか、べったり感は相当だからな」
タスクは苦笑して腰に手を当てる。そして川べりのコートとエイミィの姿を、目を細めて眺めた。
「寂しいの?」
あたしは茶化して意地悪く言う。
「馬鹿言え。俺はコートの初恋応援派だ。チビ共見ててお前は何とも思わねぇ? 微笑ましい限りじゃないか」
「確かにね」
今はまだパッと見た目は可愛らしい女の子が二人でいるように見えるけど、でもコートがもうちょっと成長して、男の子らしくなってきたらバッチリお似合いの二人よね。
エイミィをいつまで組合で保護してるかにもよるけど、でも帰る場所が分からないなら、将来的にこのまま組合の事務員か何かとして、置いておいてあげてもいいかもしれない。そしたらずっとコートと一緒にいられるし。
うーん……でもエイミィのご両親はやっぱりエイミィを捜してるわよね。まさかエイミィも家出中とは考えにくいし。
ハッ……絶賛家出中の人間が、あたしのチームに部外者含む四人……って、うわぁ……ウチは駆け込み寺なの? あたしは家出人担当者?
ゾッとしてあたしは頭を抱えた。
ふいにコートが何かをエイミィに告げ、トコトコとあたしたちの方へと走ってきた。そして不安そうな顔であたしを見上げてくる。
「ファニィさん、すみません……」
「どうしたの?」
コートが戸惑うように胸を両手で押さえる。
「……あの……エイミィさん、本当はすごく体調が……悪かったそうです。出発の前から、少し……熱が出ていたそうで……それでも今までずっと我慢……していたそうです」
「やだ……風邪か何かなの? 今は大丈夫なの?」
あたしは慌ててコートに問い掛ける。エイミィはあたしが思っていた以上に頑張り屋さんだったのかも。あたしが誘って連れ出しはしたんだけど、でも具合悪いなら無理して付いてくる事なかったのに。
それだけコートと一緒にいたかったのかしら?
「あの……その……ですから……」
「分かった。ちょっとペース上げて急いでオウカへ戻ろう」
タスクが言うと、コートは慌てて首を振った。
「いっ、いえ……あのっ……ゆ、揺れるほうが、お、おつらい……みたいなんです。揺れると余計に気分が悪くなってしまうようで……」
やっぱりまだタスクと話す時は顔を真っ赤にして緊張してる。うーん、エイミィとタスクのどっちにコートの気持ちの天秤が傾いてるのか、まだ微妙だなぁ。
「そっか。じゃあゆっくりの方がいいね。休憩いっぱい取ろう」
街道と言っても、町中みたいに舗装された道じゃないから、馬車の車輪から荷台に伝わる振動は、あたしでも辛いもんね。
あたしが言うと、コートはぺこりと頭を下げた。
「は、はい。勝手、を、言って……すみません……お仕事なのに……」
「コート。お前はしっかりエイミィの傍にいてやれ。なんかあったらすぐ、ファニィか俺に言うんだぞ」
「あ、ありがとう……ございます」
コートはもう一度頭を下げて、またエイミィの元へと戻っていった。
せめて解熱のお薬でもあれば良かったんだけど、でもそういうのってあんまり使わないし持ち歩かないもんねぇ。エイミィ、大丈夫かしら?
8
日のある内に何度が休憩を取ったが、夕刻にはエイミィの様態は悪化してしまった。顔色は血の気が失せて紙のように白くなり、呼吸も乱れ、そして咳き込むようになっていた。
馬車の速度がゆっくりでも、とにかく少しでも早くオウカに戻れれば医者に診せるという事もできたんだが、休憩を何度も挟んだせいで、オウカへ着くまでまだまだだというのに、すっかり日が暮れてしまった。エイミィの様態の事もあるし、夜道を強行軍で進むのは賢明でないと判断し、俺たちは川辺で野営をする事にした。
ファニィとジュラさんは今、食糧になりそうなものを探しに行ってる。俺は手持ちの少ない薬草をあれこれと煎じて、少しでもエイミィの解熱にならないか足掻いていた。くそっ……外傷用の薬草ばかりじゃ駄目だ。もっと内服できる、解熱や胃薬になる薬草も、常に持ち歩いていた方が良かったな。
手持ちの薬草の組み合わせで、ごく微量だが体の毒素を抜く作用がある薬を煎じる事ができた。だが解熱の効果はなく、毒にやられた訳でもないから意味はないのかもしれないが、ほんの気休めにでもなればいいんだが。
俺はそれをコートとエイミィの元へ持っていく。
「エイミィ、少し苦いが薬だから飲んでくれ」
組合にいた時は、コートをいじめる敵と見なされていた俺だが、さすがに弱っている時は気弱にもなるのか、エイミィはおとなしく俺から薬の器を受け取る。そして辛そうな表情を俺に向けた。俺はゆっくりと頷く。
「エイミィ、コートを泣かせて悪かったな。これからは気を付けるから」
俺がポツリというと、エイミィは小さく首を振って、ゆっくりと器に口を付けた。
細い眉を顰め、懸命に飲みにくいだろう苦い薬を飲む。
薬を飲み終えたエイミィは器を俺に差し出そうとして、激しく咳き込んだ。そして地面に器を落とす。
「エイミィさん!」
コートが慌ててエイミィの背を擦る。だが今にも泣き出しそうな表情。その様子は返ってエイミィを不安にさせるだけだ。こいつは何も分かっちゃいない。
「コート、ちょっとこっち来い。エイミィ、少しだけコート借りるぞ」
俺はコートの腕を引っ張ってエイミィから離れた。そしてコートの前にしゃがみ込み、奴の頭を帽子の上から押さえつける。
「お前、なんて顔してんだよ」
俺が言うと、コートはついに堪え切れなくなったようで、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
「だ……だって……僕……エイミィさん、治せない……から……」
「馬鹿野郎。誰も治せねぇんだよ。治すのはエイミィ自身。お前や俺はその手伝いしかできないんだよ」
俺が言うと、コートは顔を、涙を、拭おうともせず顔を上げる。
「お前は自分がエイミィを治してやろうなんて驕ってたのか?」
「そっ、そんなこと……ないです……」
「今エイミィが頼れるのはお前だけなんだよ。お前に絶対の信頼を抱いてるんだ。だからお前はエイミィを治す手伝いを全力でやってやれ」
俺が言うと、コートは胸に手を当ててコクコクと頷いた。
「だから返ってエイミィが心配するような顔するな。泣くな。不安そうな態度を取るな。お前は笑ってエイミィの手をずっと握っててやれ。一晩中傍にいてやれ」
「えっ……で、でも姉様でない女性のそばに、夜通しいるなんて……」
ふーん。ラシナとジーンの考え方はどこか似てるのかな。未婚の男女が一夜を共にするのは、あまり褒められた行為ではないっていうような考え方。
いや、ラシナの民は基本、自由奔放な民族だし、そういった思考は照れ屋なコートだけのような気もする。
「いいんだよ。エイミィはお前が好きなんだから。お前がいる方が嬉しいんだよ。病気で気弱になっている時だからこそ、惚れた男の存在が必要なんだよ」
「エ、エイミィさんが、ぼ、僕を……?」
おいおい、気付いてなかったとでも言うのかよ。自分はやたら惚れっぽい性格のくせして。
「ほら行け。エイミィの額をちゃんと濡らした布で冷やしてやれよ」
俺はコートの頬の涙をぐいぐいと乱暴に拭ってやってから、ポンと奴の背をエイミィの方へと押した。コートは戸惑いながらも俺に一礼して、エイミィの元へと戻っていく。
よし、これでいい。
ガキの心配するなんて、子供が苦手な俺らしくないが、でもコートもエイミィも、もう俺にとってはかけがえのない仲間なんだ。ファニィやジュラさんもいるここが、俺の第二の故郷だとすら思えてきてる。まだたった数ヶ月しか過ごしてない場所なのにな。
コートとのやり取りからしばらくして、ようやく戻ってきたファニィとジュラさんは、予想以上の食糧を持ち帰ってきた。
木の実は炒って潰してから水でこねて焼けば簡単ながらもパンになるし、携帯食として持っているジャムを添えれば立派な主食になる。そしてファニィは小魚を捕まえてきたので、スープの具材としては充分だ。
エイミィも食う物をしっかり食っておけば、オウカまでは何とか持つだろう。オウカに戻ったらまず何よりも医者に連れてってやらないとだな。
「ねぇ、タスク。葉っぱをね。いっぱい、お布団みたいに被ってたらあったかいかな?」
ファニィが突然俺に問い掛けてきた。
「ん? まぁ空気の層を纏うという意味になるから、そのまま外気に直接当たるよりかはマシだと思うが……」
「じゃああたし、葉っぱいっぱい集めてくるから、それ、馬車の中に敷き詰めてエイミィ寝かせてあげようよ。野宿する予定じゃなかったから毛布とか持ってきてないし」
確かにこのまま野ざらしの野営じゃ、熱のあるエイミィには辛いかもな。
「よし、俺も行く。一人じゃ大変だろ」
俺が立ち上がろうとすると、ファニィは片手を俺の顔の前に翳して制した。
「駄目だよ。ジュラしか残ってなかったら、何かあった時に対処しようがないじゃない。あんたはコートとエイミィ見ててよ」
「お前一人で危なくないか?」
「うん、平気。あたしは野生の狼に襲われたくらいじゃ死なないから。噛まれたらちょっと痛いけど」
さすがと言うか、やたら頼もしいセリフだな、おい……。
ファニィは軽く片手を挙げて森の方へと歩き出そうとした。その時だ。
コートが露骨に狼狽しながらこちらへ駆けてきた。そしてもどかしそうに言葉を紡ぎ出す。
「す、すみませんっ! ぼ、僕どうすればいいですかっ? あのっ……エイミィさん……大変で、僕……どうしていいか分からなくて……っ!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて! エイミィがどうかしたの?」
いつもならどもったり口籠りながらも、自分の意見はちゃんと筋道立てて話せるコートが、慌てふためいて何を言いたいのかまるで理解できない。エイミィが大変だっていうのは分かるんだが。
「い、痛そうに……む、胸を押さえてて……呼吸も乱れてて……何か訴えてらっしゃるんですが、僕、全然分からなくて……」
俺はファニィと顔を見合わせ、馬車の方にいるエイミィの元へと駆け出した。
エイミィの傍にはジュラさんがいた。コートはまず姉であるジュラさんに助けを求めたのかもしれない。
エイミィはコートが言うように、胸を押さえてゼェゼェと荒い呼吸を繰り返している。目に涙を浮かべ、ただひたすらに痛みを堪えて僅かな空気を貪っているようだった。
「エイミィ! 胸が苦しいの? 落ち着いて、ゆっくり深呼吸できる?」
ファニィがエイミィの小さな体を支えながら、彼女の背を優しく擦る。
「姉様、エイミィさんは?」
「さっきからこの調子ですの。ファニィさんとタスクさんなら何とかしてくださいますわよね?」
ジュラさんもこの状況がただならぬ状況だと理解しているらしい。エイミィの傍に膝を着いて、じっとファニィを見つめている。
「寒いんですか? ずっと震えてます」
コートが素早くエイミィの異変を感じ取り、声を掛ける。エイミィはコートの方へと震える手を伸ばしてきた。
ファニィがさっと自分の身を引き、コートをエイミィの隣に座らせる。
コートはエイミィの手を取り、そのまま身を固くした。
「コート?」
さっきまでの狼狽はどこへいってしまったのかという程、コートは突然妙なまでに落ち着いてしまった。そしてじっとエイミィを見つめている。ただ……その視線は虚ろで、青い瞳は作り物の硝子玉のように、苦しむエイミィの姿を映しとっているだけだ。
「コート、どうした?」
「……冷……たい……」
「冷たい?」
「手……? が、冷たい……です」
抑揚のない声音で、コートは「冷たい」と繰り返す。
片手をエイミィの手に添えたまま、ただ茫然とエイミィを見下ろしている。その視線はまるで……異質な無機物を見ているかのような、虚ろな視線だった。
「ちょっとコート! エイミィが寒がってんなら、あんたが抱き締めて温めてやればいいじゃない! 何ぼーっとしてんのよ!」
ファニィが思わず怒鳴り付ける。
「だって……このかた、冷たくて、何も……無い、から……」
コートはまるでうわ言のように、感情のこもらない声音で呟く。
「だから! エイミィはあんたのぬくもりを欲してるの! コートが好きなの! 誰よりも!」
「お前だってエイミィが好きなんだろっ? はっきり気持ちを伝えてやれ!」
「……コート、わたくし……コートが望むのなら……」
ファニィ、俺、ジュラさんがコートに詰め寄る。ジュラさんもようやく気持ちに余裕ができたようだ。
何を焦っているのか? 全く自分の思考が分からないんだが、俺たちはどうしても、コートの口からエイミィを好きだと言わせてやりたかった。俺もファニィも、エイミィに心底入れ込んでたんだ。エイミィが可愛くて、エイミィの想いを成就してやりたくて、そしてコートに自分に素直にならせてやりたくて、俺たちは口々にコートを追い立てた。
「コート、あんたが本当に好きなのは誰なのよ!」
ファニィがコートの腕を掴んだ。エイミィも縋るような表情で、荒い呼吸のままコートを見つめている。
「……ぼ、くは……僕……は……」
揺らぐコートの視線が俺から伸びる影に貼り付いた。
……やめろ……それ以上言うな……エイミィの前で、それ以上……ッ!
「僕、は……タスクさん、が……好き……です」
エイミィがコートの手を強く引き、コートにしがみ付いた。だがコートはそれを拒絶するかのように、まるで同極の磁石が跳ね除けあうかのように、エイミィを突き放した。
この行動に俺もファニィも思わず動揺し、二人して倒れたエイミィに駆け寄る。
「エイミィ、大丈夫か?」
「コート! あんたって子は!」
俺はエイミィの体を抱きかかえ、震えるその背を擦ってやる。だが彼女背の感触に違和感を覚えた。
「背中に突起? 隆起……? エイミィ、お前背中に何入れて……?」
「……っは……」
喋れないはずのエイミィの口から微かな音が漏れる。そして縋るような視線をコートに向けた。
「……ート……」
細くか弱く、だが鈴を転がすような愛らしい声は、小さく儚く、だがまっすぐに、コートに向かって言葉という『翼』を羽ばたかせた。
「……は……さよ、なら。コートニス……私……ずっと……あな、たを見てた……空から、ずっと……」
レースのたっぷり付いたワンピースの背が、強い力で引き裂かれるような音を立てて破れる。そして穢れなき純白の羽根を周囲に撒き散らした。
エイミィの背に栄える翼から抜け落ち、舞い散る羽根。エイミィのその姿はまるで本物の……。
「なっ……」
視界を覆う純白の羽根、羽根、羽根。俺の腕の中から噴水のように吹き出す羽根は視界や周辺を白く染め、エイミィの姿を視界から消し、そして重力に従ってゆっくりと舞い落ちた。
静寂が辺りを包み、俺たちは無数の純白の羽根の海の中にただ佇んでいた。
エイミィの姿はない。俺はエイミィの代わりに、数枚の純白の羽根を握り締めていた。そして無数の羽根が地面を覆い隠している。
「……エイミィ……は?」
ファニィが幻でも見ていたかのような声音で、首を左右に振って彼女の姿を求める。
「わたくし、何も見えませんでしたわ」
長い銀髪に付着した羽根を払いながら、ジュラさんがファニィに声を掛ける。
「……エイミィ……エイミィは? エイミィはどこに行ったの?」
ファニィが地面に山となった羽根を掻き分ける。
俺の脳裏に、古い記憶が蘇る。俺と姉貴がまだ幼かった頃。お袋に聞かされたおとぎ話だ。
「……人間に恋した天使は天界から落ちてくるんだ。ただ一人の人間に逢いたいがために、天使である事を捨てて……落ちてくるんだ。そしてその恋が報われなかった時、天使は……恋した者の前から消える」
俺の言葉にファニィの手が止まる。そしてコートが狼狽した目で俺を見上げてきた。
「天使……だったの?」
誰が、とは、ファニィは言わなかったが、俺もコートも、ファニィが言わんとしているのが誰か、はっきりと分かっていた。
「……ぼ、く……」
コートが両手で自分を抱き締めるように、二の腕をぎゅっと掴んで震えた声音を絞り出す。
俺はわなわなと震える手の中の羽根を潰すように握り締め、この気持ちを限界まで堪えようとした。だが、俺の意思はそれを無視して弾けた。
「お……前が……お前がエイミィを殺したんだッ、コート!」
「タスク! コートを責めないで!」
俺の叫びを打ち消すかのように、ファニィが悲鳴染みた声をあげる。だがファニィも俺と同じ気持ちだったんだろう。俺の非難の声に怯えて、とっさに縋り付こうとしてきたコートを、ファニィは力任せに振り払った。よろめいたコートはジュラさんに支えられて転倒を免れる。
「……コート。わたくし……わたくしね。エイミィさんの事、嫌いではありませんでしたの」
「……ぼ、僕、じゃ……ない……僕のせいじゃ……!」
コートは声を詰まらせ、その場に、羽根の上に蹲る。
「コート、てめぇ……」
「ぼ、僕がタスクさんを好きなのは本当のことです!」
コートが子供特有の甲高い声で、血を吐くように叫ぶ。
「お前を見損なったぜ!」
「タスク!」
俺は思わず腕を振り上げ、ギリギリと奥歯を噛み締め、その腕を思い切り馬車に叩き付けた。ファニィの声が聞こえなきゃ、俺の拳はコートを殴り付けていたと思う。
俺は舌打ちし、コートに背を向けた。すぐにファニィも俺を倣って顔を背ける。その表情は固く、必死に何かを堪えているようだった。きっと俺も同じような表情をしているだろう。
「僕、は……自分のこと、分からないんです。こんな気持ち、初めてで……エイミィさんのこと、すごく悲しくて、守ってあげたいって思ったのに……でも僕は嘘を吐きたくなくて……嘘かも分からなくて……どうしていいのか……分からなくて……全然……分からなくて……」
今更クソガキの、保身のための見苦しい言い訳なんか聞きたくもない。
背中に聞こえる声を無視して、俺は地面を踏みにじるように歩き出した。少しでも馬車から……コートから離れないと、また俺の体は俺の理性を無視して乱暴な行動に出てしまいそうだったからだ。
「……でも……今、分かりました」
コートのしゃくり上げる涙声が聞こえてきた。
「僕は……エイミィさんが……好きでした……」
もう遅いんだよ……もう、何もかもが!
コートを弟のように可愛がっているファニィも何も言わず、唇を引き結んで、いつの間にか俺の隣を歩いていた。
夜風は……地面に落ちた無数の純白の羽根を再び夜空に舞い上げた。健気に、儚く、美しく、夜空を白く染め、霧散した。