招かれざる訪問者
招かれざる訪問者
1
僕の名前はコートニス・グランフォート。オウカの国にある冒険者組合に所属する、からくり技師です。あっ……からくり技師ですけれど、冒険者でもあります。
組合に依頼されたお仕事を、内容に基づいた必要経費や料金をいただいて、組合に所属する冒険者たちが解決するというお仕事をさせていただいています。
お仕事は商隊さんやその荷物の護衛運搬、魔物退治、簡単なものですと、オウカ以外の外国語で書かれた書物の翻訳や、物品の作成など。町で起こっている事件の真相究明、つまり警護団や探偵の真似事などもします。つまり何でも屋とか、便利屋と呼ばれるお仕事の、各自の能力を生かしたプロフェッショナル集団とでも説明しましょうか。
僕はまだ十歳で、本来ならば組合の規約により、正式には所属することはできません。でも僕は人よりちょっとだけ物知りで、勉強も大好きで、それから姉様の……おひとりで生活なさるには少し不自由で、とてもおおらかな気性をお持ちの姉様の身の回りのお世話をするために、特別に組合に加入させていただいているんです。
姉様……ジュラフィス姉様と僕は、二人で一人扱いという制限付きで、組合への所属をお許しくださった元締め様と補佐官のファニィさんには、感謝してもしきれません。僕これからも、もっともっとお二人のご期待に添えられるようにがんばります。
今日、僕は組合のお仕事はお休みです。
ですから僕は、新しいからくりを考えていました。今回考えているのはそんな大掛かりな仕掛けのないもので、工房で作業するまでもないので、組合の図書館でからくりの設計図を書いていました。そこへファニィさんがやってきました。
「あれ、コート。ここでやってんの?」
ファニィさんはつい先日まで、体調を崩されてお休みなさっていました。精神の摩耗的なご病気だったと聞いていますが、あまり不躾に詳しく聞くのも失礼だと思ったので聞いていません。
でももうすっかりお元気になられたようです。
えへへ。よかったです。ファニィさんのお元気な姿を見ないと、僕もちょっと気分が落ち込んでしまいますもの。
「は、はい。新しい簡単なからくりを作ろうと思って……」
僕の書いている設計図をのぞきこみ、ファニィさんは難しそうなお顔で眉を顰めました。
「相変わらず他人が見ても訳分かんない設計図ね」
僕の書く設計図は誰かに習ったものではなく、僕の独学で作り上げたものです。だから僕以外の人が見てもよく分からないのだと思います。
「うわぁ、よくそんな几帳面に等間隔に線を引けるわね。あたしなんか絶対ズレるよ」
「な、慣れの問題だと思います。定規を使っていますし。それに僕も昔は、まっすぐな線なんて引けませんでしたから」
「それでも凄いわ。うん。偉い偉い」
ファニィさんは僕の頭を撫でてくださいました。えへへ。頭を撫でられるの、ちょっと恥ずかしいですけれど、とても嬉しいです。どんなことでも褒められたら、みなさん嬉しくなりますよね?
「じゃあ、あたし用事あるから」
ファニィさんが片手を挙げて立ち去ろうとするのを、僕は引き留めました。
「はい。あっ……お、お忙しいのでしたら、ぼ、僕もお手伝いしましょうか?」
いつもお世話になっているファニィさんが困っていらしたら、僕はどんなお手伝いでもしたいです。特に今はまだ病み上がりですし、ご無理なさっていないか心配です。
「大丈夫。あんたとジュラは非番でしょ。なんかあったら手伝ってもらうから、今日はゆっくりしてていいわ」
「あ、ありがとう、ございます」
僕はペコリとおじぎしました。そして執務室へ向かうファニィさんを見送りました。
では僕は続きを、と思ったのですが、少しおなかが空いてきました。もうお昼ですし、脳を使うと体内の糖質が減少しますから、そのせいだと思います。
僕は昼食にしようと、書き掛けの設計図を片付けました。姉様は鍛錬室にいらっしゃるはずですから、お声を掛けて食堂へ行こうと思います。
折り畳んだ設計図をファイルに挟み込み、それから文具を片付けて、それらをまとめて抱えて僕は図書室を出ました。鍛錬室なら……二階の渡り廊下を通った方が早いですよね。
僕は二階への階段を登りながら、何気なく窓の外に見える中庭を見ました。
組合本部の主要なお部屋である、執務室や会議室、来賓室、図書室などのある本館と、鍛錬室や食堂のある別館、それから組合員のみなさんが寝泊まりされる男女別組合寮と中庭。それらが順序よく並んでいる様子が一目で分かる窓なんです。他の場所や建物からだと、すべての建物を一望する事はできません。
「……あれ?」
僕は声をあげて、窓に近寄って外をよく見てみました。
姉様のような綺麗な銀髪のかたが中庭にいらっしゃいます。ラシナ以外であんなに綺麗な銀髪を持っていらっしゃるかたは珍しいです。えっと……男性のようですけれど……。
僕は妙な胸騒ぎを感じて、急いで階段を登って渡り廊下から身を乗り出しました。あの銀髪のかたのお顔をどうしても確認したかったのです。
「……ッ!」
僕は手にしていた設計図と文具を落としてしまいました。
姉様のような白くて透明感のある艶やかな銀髪。そしてジーンのかたほどではないですが、浅黒い褐色の肌。宝石みたいな青い瞳……。
「なぜ……あの人が……」
僕は唇を噛み締めました。喉の奥に苦いものがこみ上げてきます。
ラシナの民は、古い時代からの血筋と、地理的な事情による日照時間の関係から、肌や髪の色素が他の国のかたがたと比べて薄いのです。でも僕の見つけたあの人の肌は黒いんです。
銀髪、褐色の肌、青い瞳。
その符号に一致する人を、僕は一人だけ知っています。サヴリン・トヴォイ。姉様の婚約者を名乗る、厚かましく疎ましいかたです。母様と同じくらい、僕の大嫌いな人です。
あの人がオウカに、冒険者組合に何のご用かなんて知りたくもないですし、顔も見たくありません。会話なんてもってのほかです。僕はファニィさんに頼んで、あの人を追い出していただこうと思いました。
……いえ、だめです。ファニィさんは先ほど、お仕事があると仰っておられました。まだお忙しいはずです。僕の身勝手でご無理を言うことはできません。
ではタスクさんは……。
僕は太陽の位置を見て、それからさっきの空腹を思い出して、今がお昼時で、タスクさんも今は食堂のお仕事がとてもお忙しいはずだと推測しました。
僕は考えました。
ファニィさんもタスクさんも、今は頼ることはできません。サヴリンさんを姉様に会わせたくもありません。
ならば……僕がどうにかするしかありません。
僕はぎゅっと両手を握り締め、大きく頷きました。僕がやるしかありません。僕は絶対にやりとげなければなりません。あの人を、姉様に会わせてなるものですか!
「……絶対に……姉様は僕が守ります!」
僕は堅く決意して、とにかくまずは姉様に安全な場所に移動していただこうと、渡り廊下を駆け出しました。さっき落としてしまった書き掛けの設計図や文具に構っている暇はありません。
サヴリンさんなんて、絶対に絶対に、ラシナへ追い返してやります。姉様に会わせてなるものですか!
2
「あれ? ここにあったハンコ待ちの書類は?」
あたしは執務室の机の上から忽然と姿を消した書類を探して、机の引き出しを上から順番に開け閉めした。
「それならわしが処理しておいた。お前がいつまで寝込んでいるか分からなかったからな」
「ありゃ。ごめんなさい。あたしならもう大丈夫だから、なんかあったら何でも言って」
あたしは養父……元締めに向かって肩を竦めて両手を広げて見せた。
あたしがちょっと体壊してる間、元締めは組合の仕事を一人でこなしてくれてたんだよね? でも今はぼんやり組合登録者リストなんか眺めちゃってる。
あれー? いつもなら書類がちょっとくらいは残ってるはずなんだけど。
「もしかして……暇?」
「ああ、そうだな。お前が休んでいる間、コートニスが気を使っていろいろ手伝ってくれた」
なるほど。やっぱコートの仕業だったか。
超天才児のコートは、対人業務に関しては壊滅的にダメな子だけど、書類整理や調査に関する事務的作業の効率は、あたしや元締めを遥かに凌駕する能力を発揮する。無駄口利かずに黙々と事務作業に没頭させたら、そりゃ組合の書類なんかすぐ片付いちゃうわよね。
元締めは暇そうに頬杖をついたまま、パラリと音をたててリストをめくる。
「一応規則として、定時までは本部にいてもらわなければならないが、適当に内部の視察に行ってみてはどうだ?」
〝視察〟ね。あは。上手い事言うなぁ。
「そう? じゃあ組合の中を『見回り』に行ってくるわ。あたし補佐官だもん」
元締めと補佐官。雁首揃えて、二人して無理に執務室に缶詰になってる必要は全くない訳で、あたしは元締めのお許しを得て、組合の中を適当にブラつく事にした。
どうしよう? お昼ご飯は早めに食べちゃったし、一応あたしも『補佐官』って立場上、あんまり暇そうにしてる姿を見られるのもちょっと問題よね。えーと、コートが図書室で一人でなんかの設計図書いてたって事は、ジュラは一人で鍛錬室にでもいる訳よね? じゃあジュラと模擬戦闘訓練でもしてようかな。
……あたし……今までにジュラに勝った事、一度もないけど。あの頭お花畑のジュラの格闘センスが異常すぎるのよ! 長い髪とドレスひらひらさせながら、ほんの僅かな隙突いて痛烈な一撃食らわせてくるってのは、なんかすっごい腹立つのよね。本人が楽しいだけなんだもん。
あたしは執務室から一番近い出口を出て、組合の中庭に出た。するとそこには見慣れない人影が。
銀髪に……褐色の肌? 銀髪がラシナの民っぽいけど、肌の色がジーンの民っぽい感じもする。混血なのかしら? 閉鎖的なお国柄のジーンが混ざってるっていうのは、なんだか珍しい組み合わせな気もするけど。
でもちょっと困るわ。この中庭、関係者以外立ち入り禁止だもの。依頼なら組合正面入り口の受付を通してもらわないと。
「そこの方。失礼ですけど、どちら様?」
あたしが声を掛けると、その人はあたしの方を振り返った。
銀色の髪の隙間から、ナイフのように尖った耳が見える。やっぱりラシナの民?
「ああ、組合の方ですか? 良かった。少々お伺いしたい事があ……」
あたしは片手を挙げて、その人の言葉を制した。
「この場所は関係者以外立ち入り禁止です。依頼なら組合本部受付を通してください」
「あ、はい。すみません……」
その人は素直に頭を下げた。うん、分かればよろしい。
「本当に申し訳ない。こちらへは人を訪ねてきて、そのまま迷子になってしまって、出ようにも進もうにも道が分からなくて困り果てていたのです。よろしければ案内をお願いできませんか?」
なんだ、迷子か。
でもこの組合の中庭。物凄く頻繁に外部の人が迷い込むのよね。確かジーンの賢者のミサオさんも、ここに迷い込んでコートと会ったんだっけ。迷い込むのとは違うけど、市場の青果屋台のコハク君とかも、厨房の御用聞きに来たついでに、よくここでコートとお話ししてるみたい。ジュラ目当ての町の男の人たちも、こそこそしてるのをこの中庭で何回か見た事あるし。
たしかに組合は増築に増築を重ねたクネクネした建物だけど、そんなに連絡通路はややこしくないと思うんだけどな。初めての人には、やっぱり分かり辛いのかしら?
案内看板増設も必要かもしれないけど、受付の子たちにもっと人の出入りの監視を厳しくするように、一度ピシャリと言っておいた方がいいかもしれない。
「じゃあ案内しますね。外でいいんですか? それともその訪ね人の新規依頼受付ですか?」
外への道を教えて勝手にどうぞって言って、本当に好き勝手に組合の中をうろうろされても困るし、どうせあたし、暇だし。だから案内してあげる事にした。
「依頼……という訳ではないんです。こちらにお世話になっていると聞いて、私が勝手に会いにきただけなので」
あらま、積極的。昔お世話になった恩人とか、その類かしら? ここは冒険者組合だもの。人に感謝される依頼をする事もあるものね。
「その人は組合所属員なんですか?」
「詳しくはちょっと……ですが、おそらくは」
その人は言葉を続けようとして、あっと声をあげた。
「失礼。名乗りもしていませんでした。私はサヴリン・トヴォイ。ラシナの落ちぶれた貴族です」
サヴリンさんは苦笑しながら名乗る。落ちぶれたなんて言ってはいるけど、確かに彼の言動の端々に、貴族らしいちょっと芝居染みた、形式ばったような振る舞いが見え隠れする。あたしは貴族なんてものに、気後れはしないけど。
「あたしはファニィ・ラドラムです。組合の補佐官をしています」
「えっ? その若さで?」
「組合に所属するのに歳は関係ないわ。能力があるかないかですから」
あたしはちょっとだけムキになって反論した。
「……まぁ、一応規約で十五歳以下は加盟できない事になってますけど。でも突出した能力があるなら考慮はします」
ふと頭の中にコートの顔が浮かぶ。
コートが組合に来たのって、確か七歳だったものね。でもあの子は本当に特例中の特例。脳みその作りが常人とは異なってるもの。
「ところでサヴリンさん、ラシナの民なのに肌が黒いんですね」
「ええ、私の祖母がジーンの出身なもので。ですから私はラシナとジーンの混血という事になりますね」
ふぅん、なるほど。じゃあタスクもジーン以外の国の誰かと結婚したら、その子供や孫の肌の色が黒くなるのかしら? ジーンの民の一番の特徴である肌の色が濃くなる遺伝子、なんかやたら強そうだもんね。ふふっ!
「そうなんですか。じゃあそろそろ本題に戻して、サヴリンさんの訪ね人というのは?」
「ええ。彼女の名前はジュラフィス・グランフォート。私と同じような銀髪と、紫色の美しい瞳の女性です」
サヴリンさんの言葉を聞き、あたしは笑顔を取り繕ったまま、全身を強ばらせた。
ジュラフィス……って、ジュラ?
でもジュラはコートと一緒にラシナの実家から家出してきてて、そしてママと揉めてて、二人とももう絶対に家には戻らないと言い張ってて……でも二人のママはコートを誘拐するほど帰ってきてほしいらしくて……。
え? え? じゃあもしかして、サヴリンさんは二人のママの指示でジュラとコートを取り返しに来たって事?
あたしは一瞬でいろんな最悪の事態を頭に巡らせる。
「こちらにお世話になっていないでしょうか、ジュラフィスは?」
「え、ええと……知ってるような、というか……知ってる……んですけど……」
あたしが視線を泳がせつつ、しどろもどろに答えると、サヴリンさんはあたしの腕をガシッと掴んで詰め寄ってきた。うわ、顔近い! 顔近い!
「いるんですね! ジュラフィスに会わせてください! ジュラフィスは私の婚約者なんです!」
ええーっ!? ジュラに婚約者だなんて初耳だよ!
でもこれであたしの戸惑いは更に濃厚になった。
婚約者って事は、二人のママとは当然顔見知りよね。そしたら二人が家出したって事は知ってるだろうし、ママがジュラやコートを連れ戻したがってる事も知ってるだろうし。
もしあたしがここですんなりジュラとサヴリンさんを会わせたりしたら、とんでもない大事になりそうな気がする。なにより、コートに恨まれる。
コート……あの子は普段は気弱でおとなしすぎるほどおとなしくて、内気で超絶に恥ずかしがり屋だけど、実はこの組合の中で、怒らせてはいけない人物ナンバーワン。コートの怒りを買って、その愛らしい容姿にそぐわない、超絶にえげつない容赦ない仕返しに負けて泣いて謝った事は、あたしのトラウマになっている。
そんなコートの逆鱗を全力で撫で回すような真似、あたしはできやしないわ。
「え、ええと……サ、サヴリンさんはどうやって、ここにジュラがいると知ったんですか?」
「グランフォートの奥様に伺いましたが?」
ド直球。わーっ、わーっ! どうしよう!
「えーとえーと! ジュ、ジュラに会いに来ただけですよね? まさか連れて帰ろうとか思ってませんよね?」
あたしはとにかく思い付いたままに質問を口にする。ああ、でもなんか墓穴っぽい!
サヴリンさんは訝しげに首を傾げ、あたしの顔を覗き込む。
「私はジュラフィスの婚約者ですよ? 婚約者を連れて帰りたいと思うのは当然です」
わーん、コート! 助けて!
あたしは滝のように汗をかきながら、必死に事態収縮のための思考を巡らせる。
「そ、そのっ……だからですね。ジュラは……あー……家に帰りたくないと! うん、家に帰るつもりはないって言ってますから! だから組合が保護してるっていうか! もうここがジュラの家っていうか!」
言い訳すればするほど、あたし、余計に墓穴掘ってるかもしれない。
そんなあたしの言葉に、サヴリンさんが愉快そうに笑った。
「ははは。ジュラフィスもまだ子供ですね。まだそんな我が儘を? 天真爛漫で可愛い人だな、昔と変わらず」
……。
あたしの頭は急速にクールダウンした。あの天然お花畑なジュラを『可愛い人』だなんて言い放つとは、このサヴリンさんって人、相当器が広い人なのかもしれない。
そういえば……さっきから「ジュラに会わせろ」とは言ってるけど、コートの事には全然触れてない。二人のママの指示なら、二人とも連れて帰るって言うわよね?
焦燥感は消えたけど、もうちょっと深く探ってから、ジュラに会わせるかどうかを考え直した方がいいかもしんない。
「サヴリンさん、ちょっと聞きますけど……コートの事は知ってます?」
「コート……コートニスですか? グランフォート家末弟の?」
「ええ、そのコートです。ジュラと一緒にいるんですけど」
コートの名前を出した途端、サヴリンさんが苦虫を噛み潰したような表情になる。あれ?
「コートニスは……その……どうしても言うのであれば。あ、いや……」
サヴリンさんの様子がどうもおかしい。コートの事はどうでもいいのかしら?
「ジュラにどうしても会いたいって言うのなら、コートも同席させていいならご案内してもいいですけど?」
あたしはちょっと深く突っ込んでみる事にした。
ここですぐ食い付いてくるようならママの差し金。そうでないなら、サヴリンさんの単独行動。そう判断する事にした。
サヴリンさんはかなりの時間、じっと考え込んでいたけれど、渋い顔をしたまま口を開いた。
「申し訳ないですが……コートニスの同席は遠慮していただけませんか? 実は私、コートニスに大変嫌われていまして。顔を合わせるたびに暴言を吐き掛けられるのです。大好きな姉君を娶ろうとする私が憎いのでしょうね」
あたしはちょっと驚いた。
コートがあの強引なママ以外の人を嫌ったりするの? でもサヴリンさんが嘘を言っているようには見えないし。
「はは……初対面の方にこんな事、恥ずかしいですね。でも彼女たちを知る補佐官様ならお分かりになっているでしょう? コートニスは利発で利口な子ですが……ジュラフィスに対しては少々シスコンが酷いというか関係が盲目的過ぎると」
ジュラもだけど、コートのお姉ちゃん大好きっぷりは、確かに傍で見ていてちょっと病的じゃないかとすら思う時がある。あのコートなら……ジュラがお嫁に行っちゃう事になったら、かなり滅茶苦茶しちゃうんじゃないかって事は、容易に予測できる。
なんだかおかしくなり、あたしは口元に手を当て、クスッと笑った。
「分かりました。組合として、ジュラを連れて帰るっていう点はちょっとすぐにはお返事できませんけど、でもジュラに会うだけならすぐにお部屋を用意しますね」
「ええ、ジュラフィスに会えるだけでも私は嬉しいです。彼女を連れて帰るという問題は、彼女を交えて相談させていただければ」
あのジュラがおとなしく〝相談〟に応じるかしらね。おやつでもあればおとなしくしてるかもしれないけど、会話は期待できないと思うなぁ、コートの通訳なしだと。
「ではこちらへ。コートにバレないようにジュラを連れてきますね」
「ありがとうございます」
あたしはサヴリンさんを来賓室へ案内し、それから当初の予定通り、鍛錬室に向かおうと思ったけど、先に食堂へ寄った。
食堂はまだお昼の混雑が解消されているとは言えなかったけど、でもタスクならこれくらいの人数、きっとすぐ捌けるわ。あたしはカウンターに向かった。
「タスク!」
厨房の奥で、タスクが嫌そうな顔をする。そしてフライ返しを持ったままカウンターにやってきた。そのフライ返しをグンとあたしに突き付けてくる。
「なんだよ。お前さっき飯、食っただろうが。もう腹減ったのか? 太るぞ」
そう。確かにあたしは早めにお昼ご飯、食べたわよ。だけど〝食堂に来た=ご飯ねだりに来た〟と思わないでほしいわ! あたしは憤慨した。
「違うわよ! お客さんが来たからお茶の用意してほしいの」
「なんだ。てっきり二回目の昼飯食いにきたかと思ったのに」
タスクはケラケラ笑いながら言う。またからかわれた。コイツ……本気で減給してやろうかしら?
「それでお茶は幾つ、どこへ持っていけばいいんだ?」
「来賓室に三つ。あ、でもあたしは席外した方がいいかな……」
久しぶりに会う婚約者同士の対話に、他人が混ざるのってちょっと迷惑よね。
「ん? お前が席外すなら元締めとお客さんか?」
「違うわ。ジュラの婚約者だって人が、ジュラに会いにきたの」
あたしが答えると、タスクがあたしの袖を掴んでカウンター越しにあたしを引き寄せた。そして声を潜める。
「おい、それマズいんじゃないのか? グランフォートの奥方の命令で、またコートを取っ捕まえにきたんじゃ……」
あはは。あたしとおんなじ発想してる。
「大丈夫、ちゃんと確認したから。サヴリンさんは本当に個人でジュラに会いにきただけで、コートには自分は嫌われてるから遠慮してもらいたいって」
「コートに嫌われてる? ……ああ、そうか。ジュラさんに婚約者とか、そりゃあいつなら激怒するよな」
タスクが何かを思い出したようにクックッと笑う。
「あれー? タスクってばコートの気持ちが分かっちゃうの? ついにタスクもコートの熱烈アタックに陥落しちゃった?」
あたしがからかって言うと、タスクは仏頂面であたしの額を小突いた。
「断じて違う。コートにはジュラさん絡みの前科があるだろうが」
「前科?」
あたしが首を傾げると、タスクはああ、と納得したように頷いた。
「お前は知らなかったんだっけ。じゃあ知らないままでいろ。プライベートな問題だ」
なにそれ。滅茶苦茶含みのある言い方、気になるじゃない。
でもここで話の確信に突っ込んだ押し問答してても、サヴリンさんをずっと待たせる事になっちゃう。あたしはぐっと我慢する事にした。
「とにかくお茶三つ。あたしは頃合い見て抜け出してくるから。あと、コートには絶対秘密。ヤキモチの矛先が向いても知らないからね」
「あいよ。じゃあ手っ取り早くココ片付けないとな」
タスクは厨房に向かって声を張り上げた。
「先輩! 俺ちょっと補佐官の用事ができたんで、あと任せます!」
タスクはあたしの名前を上手く利用してお昼の厨房を放り出す。ぐぬぬ。なんかちょっとカチンとくるなぁ、そういうダシに名前使われるの。
タスクは手にしていたフライ返しを他の人に押し付けて、さっさとお茶の用意を始めた。じゃああたしはジュラを呼びに行かないと。あたしは猛ダッシュで鍛錬室に向かった。
そして鍛錬室のドアを開けたところで、ジュラとコートに出会う。コートはジュラの手を引っ張ってどこかに連れて行こうとしてた。お昼かお茶の時間、それとももう部屋に戻るところだったのかしら?
うーん、ここにコートがいちゃマズイのよね。じゃあ、あたしもきっちり仕返ししてやろうじゃない。覚悟なさい、タスク。ふっふっふ。
「ジュラ、ちょっと用事頼まれてくれない? コートはお留守番ね」
「あ、あの……ファニィさん。僕、姉様と行くところがあって……」
「ごめん、あとにしてくれないかな?」
コートが困ったように口元に手をやり、上目使いにあたしを見る。
「……で、でも僕も本当に急いでるんです……」
「えーっとね。コートの事、タスクが呼んでたよ。何か言いたい事があるって。食堂で待ってるんじゃないかな」
「えっ……タ、タスクさんが、ですか?」
コートの顔がみるみる赤く染まる。あはは。出ました、恋する少女のような反応!
「そうそう。コートは先にタスクの用事を片付けておいでよ。あたしはジュラに用事があるから」
タスクの名前を出したんだから、コートはすぐ行動を起こすと思ったんだけど、でもコートは困ったようにジュラを見上げる。
「コート、わたくしは構いませんから、タスクさんの所へお行きなさいな。でももしタスクさんがおやつをくださったのなら、必ずわたくしも呼んでくださいましね。わたくし、体を動かしていたので少しおなかが空いていますの」
ジュラは少し腰を屈め、コートの頬を優しく撫でながらにこりと笑う。
「は、はい、分かりました。あ……で、でも絶対誰にも会っちゃだめですよ、姉様? さっき約束しましたよね」
あれ。もしかしてコート、サヴリンさんが来てる事、知ってる? 「誰にも会うな」なんて言い方、まるで……。
でもサヴリンさんがコートに先に会ってたなら、中庭にはいないわよね。コートが苦手なら見付け次第逃げるだろうし。うーん、考え過ぎかな。
「姉様、もう一度約束です。ファニィさんの用事が終わったら、寄り道せずにまっすぐにお部屋に戻ってくださいね。僕、タスクさんのご用事を急いで終わらせて、先に戻って待ってますから」
珍しくコートが強くジュラに念押ししている。ジュラはいつも通り、ぽよーんと聞いてるけど。
「分かってますわ。コートのお願いですもの。わたくし、しっかり覚えましてよ」
コートはジュラの手を離し、ペコリとあたしに向かって頭を下げた。そしてパタパタ駆け足で食堂へ向かった。やっぱりコートを言い含めるには、タスクの名前使うのが効果的よね。
タスクー、うまくやりなさいよー!
「よし、コートは行ったわね」
「ファニィさん。それでわたくしは何をすればよろしいんですの?」
ジュラがのんびりとした口調で質問してくる。
「うん、それなんだけど。サヴリンさんって知ってる?」
細くて綺麗な指を唇に当て、ジュラはゆっくり首を傾げた。
「どこかで聞いた事があるようなお名前ですけれど……よく覚えていませんわ。コートなら知っているかもしれませんから、わたくし、聞いて参りますわね」
と、ジュラはいつもの調子でコートを追いかけようとする。あたしは慌ててジュラを引き止めた。
「ちょ、ちょっ……ちょっと待って! サヴリンさんはジュラの婚約者なんでしょ? 貴族って言ってたから、きっと豪華な婚約パーティーとか開いて、美味しい物いっぱい食べたでしょ! 覚えてない!?」
ジュラなら何か食べ物を引き合いに出せば、普段はトロトロプリン並の記憶力でも、恐ろしいほどの記憶力っていうか、食べ物に対する凄まじい執念を見せる。もしこれでも知らないって言ったら……あたし、サヴリンさんにジュラを会わせるって判断誤ったかも。
「そうですわねぇ……そういえば……昔、何のお祝いの席でしたか忘れてしまいましたけれど、まだラシナにいた頃に出席したパーティーで、どこかの殿方にお食事を戴きましたの。鴨のローストにオレンジソースを掛けて戴きましたわ。ふっくらしたとても素晴らしい焼き加減でしたの。他にも鯛のムニエルに、甘くてふんわりでカリカリに焼けたクロワッサンと、デザートにリンゴのタルトと木苺のパイを……」
「分かった! もういい! 食べ物の説明はもういいから、とにかくサヴリンさんって人と婚約したのね?」
「ええ、多分。毎日美味しいお食事を用意してくださると仰っていた方だと思いますわ」
サヴリンさんがちょっと可哀想になった。婚約パーティーだなんて一大イベントが、ジュラにとっては食べ物の事以下の記憶にしか留まってないなんて。でもやっぱり食べ物を引き合いに出して正解。サヴリンさんの名前だけじゃ、ジュラは絶対思い出してくれなかった。
「そのサヴリンさんがジュラに会いに来てるの。だから会ってあげて」
「わたくしは構いませんけれど……どうしてコートは一緒ではありませんの? コートがいませんと、わたくし難しいお話が理解できませんわ」
「サヴリンさんがコート抜きでって言ってるの。ジュラ、サヴリンさんに会った事はコートには秘密だからね」
あたしは念を押して、ジュラを連れて来賓室へ向かった。
来賓室ではサヴリンさんが、そわそわとジュラを待っていた。そしてあたしの連れてきたジュラを見た瞬間、ばっとジュラに駆け寄って、彼女を抱き締めた。
「ジュラフィス!」
「あら、まぁ……」
……あたし、やっぱりちょっと邪魔かも。
「随分お久しぶりですわね。いつ以来でしたかしら? わたくし、サヴリンさんを今、少しだけ思い出しましたわ」
わ。ジュラの記憶に残ってるって、ある意味稀少じゃないかしら?
「うふふ。サヴリンさんはいつも美味しいお菓子をたくさん、おみやげにくださいましたわよね。わたくしいつもとても美味しく戴きましたのよ」
やっぱり思い出したのは食べ物だったか。
「ジュラフィス、私はそういう話をしにきたのではなくて」
サヴリンさんがもどかしそうにジュラの顔を見る。
「そうですわ。きっとコートも喜びますの。わたくし、コートを呼びに行って参りますわね。少しお待ちになっていらして」
「あー!」
あたしは慌ててドアの前に立ち塞がる。
「コートは別の用事があるからってさっき言ったでしょ。あたしが様子見てきてあげるから、ジュラはサヴリンさんと二人で話してなさいよ」
「ジュラフィス。私はコートニスには……」
サヴリンさんが苦笑しながら説明しようとした時、あたしの背後でドアがゆっくり開いた。ドアにトンと背中が押されてあたしが振り返ると、頬をヒクヒクと引き攣らせたタスクが、片手にティーカップを〝四つ〟乗せたトレイ、そして片手をお詫びするかのように顔の横に挙げて立ち尽くしていた。
「タスク……?」
「……悪い……うっかり口が滑った……」
タスクの背後から、普段はぐりぐり丸っこくて可愛らしい目を、怒りで般若のように吊り上げたコートが現れた。
3
俺の背後から、並々ならぬ殺気が発せられている。殺気の根元は……コートだ。
ファニィに言われた通りにお茶の準備をしていると、焦った様子のコートが食堂に飛び込んできた。そして組合のマスコット登場に沸き立つ観衆を余所に、いつも通りもじもじしつつも、俺に向かって満面の笑顔で、おおはしゃぎして言ったんだ。
「あ、あのっ……ぼ、僕にご用事……って……その……一生懸命、が、がんばります!」
いきなり訳の分からない事をほざくので、俺はついファニィとの約束を忘れ、口を滑らせた。
「……は? なんかよく分かんねぇけど、飯ならちょっと待ってろ。ジュラさんの客にお茶出ししてくっから」
「姉様のお客様……ですか?」
「そ。婚約者だってファニィが……あっ!」
俺が口を塞いだ時はもう遅かった。
一瞬呆けたような表情になったコートだが、次の瞬間、頭から湯気でも出そうな勢いで顔を真っ赤にし、ダンッと床を踏み鳴らした。
「ファニィさんは僕にうそを仰ったんですね!」
「い、いや、違……違う。そうじゃなくて……」
「いいえ、今はそんな事どうでもいいです! 姉様は僕の姉様なんです! 姉様を守るのは僕なんです! 僕、行きます!」
いつもは気弱に小声でボソボソ喋るコートだが、この時は子供独特の甲高い声で怒声を撒き散らしていた。
そして睨むような目付きで俺の後を着いてきたんだ。俺はもうどうしていいのか分からず、何をトチ狂ったのか、コートの分を含めたつもりのお茶を四つ用意して、のこのこ来賓室へやってきて、今に至る。
「まぁ、コート。いらっしゃい。わたくしちょうどコートを呼びに行こうと思っておりましたのよ。ほら、サヴリンさんがわざわざラシナから、わたくしたちに会いにきてくださいましたの。コートもご挨拶なさいな」
ジュラさんはコートの殺気にまるで気付いていないかの如く、ニコニコ女神の微笑みを湛えたまま、浅黒い肌の男性を紹介する。
この人がジュラさんの婚約者? 肌の色が黒いラシナの民なんて初めて見たな。おそらくは血統の中にジーンの人間が混ざってるんだろう。
「どうしてあなたがこんな所へいらっしゃっているんですか?」
コートが怒りに震える声音で問い詰める。怖ええぇ……コート、マジギレしてやがる。
「……今ならまだ許してあげます。このまま黙ってラシナへ帰ってください」
丁寧な口調ながらも、コートは明らかにジュラさんの婚約者、ええとサヴリンさん? ──に露骨なまでの敵意剥き出しで真正面から彼を睨み付けている。
俺とファニィはこの修羅場に、どう介入すればいいのか、それとも介入すべきでないのか、ビクビクと怯えながら様子を伺うしかなかった。
「コ、コートニス。わ、私はただジュラフィスに会いに……」
「その汚らしい声で気安く呼ばないでください! 名が穢れます!」
そこまで言うかーッ!?
ファニィが俺の傍へ逃げてくる。俺だって逃げてぇよ!
「猶予をあげます。五秒以内に立ち去りなさい!」
そう言うが早いか、長めの袖をポンと叩いて手の中に火薬玉を転がす。
すでに完全武装済みかよ! ってか、まだ五秒経ってねぇ!
俺はとっさにカップを乗せたトレイを放り出し、ファニィの腕を引っ張ってソファの陰に飛び込んだ。刹那、頭上を火薬の熱風と、キナ臭さの混じる爆煙が通り過ぎる。
あ……危ねぇ。あと一息待避が遅てれたら、完璧に巻き添えだったぞ!
ファニィは驚いて頭を抱えてしゃがみ込んでいる。俺がそっとソファの陰から顔を出すと、当然ジュラさんは無事として、サヴリンさんもすかさず向かいのソファの陰に待避していた。
その身のこなしを見て俺は、彼が相当コートに恨まれ、数々の辛酸を舐めさせられてきているのだと悟った。そうでなきゃ、コートの予告無視前置きなしの突然の発破を避け切れるはずがない。あいつ意外と素早いからな。ああ、慣れってコワイ……。
「コート、いきなり何してんのよ!」
「サヴリンさんの抹殺です!」
可愛い顔をしてサラリとえげつない事を間髪入れずに叫ぶコート。
え、あ……ま、抹殺……? 抹殺って、あの抹殺か?
ファニィは口をパクパクさせて、二の句を次げなくなっている。口の達者なファニィを一言で黙らせるとは……。
「おい、コート! お前、嫉妬にしてもやりすぎぞ!」
「抹殺がだめなら、この世からこの人の存在自体を永久消滅させます!」
意味同じだよ!
駄目だ。コートは完全に頭に血が昇っていて、こっちの言葉に耳を貸す気配もない。この面子でおそらく唯一コートをおとなしくさせる事ができるのは……。
俺は縋るようにジュラさんを見た。ファニィも俺の隣で両手を祈りの形に組んで、コクコクと何度も頷きかけている。ジュラさんは不思議そうに首を傾げたまま、ゆっくりとコートを羽交い絞めにするように、背中から腕を回してその小さい体を持ち上げた。
「コート、少しおイタが過ぎますわ。やんちゃさんも可愛らしいですけど、事を大きくし過ぎたらメッですわよ」
悪戯だとかヤンチャだとかいうレベルをすでに越えてるんだが、今、ジュラさんに説明してる状況でもなきゃ、説明して通じるとも思えない。
だってこの部屋、もう改修工事入れなきゃ二度と使えないほどにボロボロだから。壁やら床は焼け焦げ、窓ガラスにはヒビが入って、天井の照明も今にも落ちてきそうだ。
「コ、コートニス。君が非常に姉思いなのはよく分かるが、私はただジュラフィスに会いに来ただけで……」
「気安く呼ぶなと言ったでしょう!」
コートがジュラさんの腕の中で、ジタバタもがきながら叫ぶ。そのまま掴まえといてくれよ、ジュラさん。次に爆破物投げられたら隠れる場所がない。
サヴリンさんは少しビクビクしながら、真っ向からコートと話し合いをしようと思ったのか、ソロリソロリと二人に近付く。
「お、落ち着いて話し合お……うごっ……」
「あなたなんかと話し合うことなんて何もないです」
不用意に近付いてきたサヴリンさんを、コートはジュラさんに抱えられたまま情け容赦なく蹴り飛ばしていた。サヴリンさんの顔面にコートのブーツの底がモロに入っている。
あの……さ。コートもれっきとしたラシナの資産家の血筋なんだよな。つまり家出中とはいえ、育ちがいいはずなんだ。そんないいトコ育ちの上流階級のおぼっちゃんが、真顔で土足で一切躊躇なく人の顔面、真正面から蹴飛ばすか? 普通?
最愛の姉であるジュラさんが絡むと、普段の冷静さやおとなしさが多少無くなっちまう事は認識できてたが、でも今回の一件は嫉妬と言うにはあまりにも行動が度を越してるだろう。俺はコートのまた新しい一面を発見した気分だった。
……決して晴れやかなものとは言えないが。
「まぁまぁまぁ。コートったらヤンチャさんですわね。サヴリンさんのお顔が滑稽になってしまいましてよ?」
「ジュラフィス。君まで私を笑い者にするのか?」
サヴリンさんが蹴られた顔を押さえて、指の隙間からジュラさんを見ている。
「なぁコート。一方的に毛嫌いするんじゃなくて、三人でよく話し合ったらどうだ? ほら、まず謝りな」
俺がコートを促すと、コートはまだジュラさんに抱えられたままジタバタしている。
「姉様を利用しようとしている卑劣で下衆な人に、どうして僕が謝らなくちゃいけないんですか!」
げ、下衆とまでこき下ろすか……。
「誰も気付いてません! 『子爵』という爵位をチラ付かせて母様に取り入り、姉様との婚約を利用してグランフォートの富を狙って近付いてきたことに、誰も気付いていないんです!」
グランフォート家の資産はもうすでに底を尽いており、そして一家を建て直す程の価値ある曽祖父の遺産の秘密を握っているのがコートだけだという事実を知るのは、この中では俺とコートだけ。
コートの言う事が事実だとすれば、グランフォート家の資産がもう無いのだとサヴリンさんが知っているのなら、ジュラさんに固執するメリットは何もない。サヴリンさんは知らないんだ、おそらく。
だからこそ、純粋にジュラさんを迎えに来ただけという、彼の言葉を信用してもいいかもしれない。断定するには、まだ何か引っ掛かる嫌な予感のようなものがあるんだが……。
「グランフォートなんてあんな家、どうなっても構いませんけれど、姉様を利用するのだけは許せません! 姉様は僕が守ります!」
ファニィがクイクイと俺のショールを引っ張った。
「どういう事? 状況がよく飲み込めないんだけど」
「ええとだな……コートが言うには、サヴリンさんはグランフォート家の資産を狙ってジュラさんに近付いたんだと」
「それは違う! 私はただ純粋にジュラフィスとの婚姻を望んだ訳であって、グランフォートの富は……あぐっ!」
俺とファニィの会話に待ったを掛けようとしたサヴリンさんは、うっかりコートの間合いに入って奴の二度目のキックを顎に食らっていた。学習しろよ……。
「まぁ、コート。顎を狙うのは基本中の基本。お見事ですわ」
「はい姉様」
コートはジュラさんに向かってにっこり。変わり身早いな! でも火に油を注がないでくださいよ、ジュラさん。
「んー……ねぇコート。誰も気付いてないってあんた言うけど、じゃあなんで、あんたはそれを知ってるの? 証拠とかあるの?」
ファニィの問い掛けに、いつも用意周到なコートが珍しく一瞬言い淀む。
「し、証拠なんてありませんけれど、僕ははっきり聞きました。サヴリンさんが母様と密談していて、姉様と婚姻関係を結ぶ事によって、グランフォートの資産をトヴォイ家へ、トヴォイ家の爵位をグランフォート家へと共有できるって……僕ははっきり聞いたんです! 信じてください、ファニィさん!」
コートの悲痛な訴え。
「補佐官様。もしコートニスの戯言を信じると仰るなら、それはコートニスが幾つの時の話ですか? コートニスがジュラフィスと家を出て行ったのは、コートニスが四歳の時ですよ。そんな『幼児が聞き違えた寝言のような話』に、真実味がありますか?」
「僕は一度見聞きしたことは忘れません!」
四歳と言えど、コートニスの場合は一般的な四歳児じゃないからなぁ。なんせ曽祖父の遺産の謎を解いたのも四歳でだぞ。普通の子供なら、読み書きすら覚束ない年頃だ。
ファニィは親指の爪を噛みながら、コートとサヴリンさんの話を自分の頭の中で天秤に掛けているようだ。
こんな事になるのなら、ファニィにもグランフォート家の資産と曽祖父の遺産の話、ちゃんとしておくんだった。俺だけが悩まなくちゃならないなんて、あまりに荷が重い。ひとまず今、簡単に説明しておくか。
「ファニィ、ちょっと聞け」
「あとにして」
俺がグランフォートの事を打ち明けようとすると、ファニィは素っ気なく俺を突っぱねる。ファニィにはファニィなりの考えがあるんだろうが、判断材料になる話を聞かないでおく事は、誤った決断を下し兼ねない。
「ファニィ、いいから聞け」
「うるさいわよ! ちょっと黙ってて!」
ファニィは俺を睨み付けてくる。
「ねぇ、コート。さっきからコートは、どうしてサヴリンさんにおイタばかりしますの? サヴリンさんはいつもお土産をくださったし、わたくしやコートの事をいつでも気遣ってくださったでしょう?」
「あんな人に騙されないでください、姉様!」
コートは肩越しに振り返ってジュラさんを説得に掛かる。
「姉様は騙されやすい人だから、僕が姉様を守るんです! 姉様は僕の言葉だけを信じてくださったらいいんです! 姉様は僕とサヴリンさんのどちらを信用してるんですか?」
返答に困っているのか、それとも意味が理解できなかったのか、ジュラさんは黙ってコートを見つめている。そしてサヴリンさんも二度のキックを食らってようやく学習したのか、コートに近付かないようにしつつも、ジュラさんに何か言おうとまごまごしている。
果たしてコートの言っている事は事実なんだろうか? それともサヴリンさんの言葉を信じるべきなんだろうか?
俺も少し考える。
「……サヴリンさん。あたしの目を見て、コートの言葉がウソだと言えますか?」
ファニィが思考を巡らせた末に出した結論なんだろう。全ての答えを、彼に委ねる事。
なぁ、ファニィ。それは危険なんじゃないか? それをするくらいなら、俺やお前も交えて話し合った方がいいんじゃないか?
「もちろん言えますよ。コートニスの言葉は虚言です」
「うそつきはあなたです!」
ファニィはどちらかと言えば、サヴリンさん側に付いたんだろう。そしてジュラさんはどちらでもない中立。俺はどちらも選べない中立。コートだけが……この小さなコートだけが、必死にジュラさんからサヴリンさんを遠ざけようと躍起になってるんだ。
「コートニス。私に話をさせてくれないか? 君は私を勘違いしている。ちゃんと話し合えば理解が深まるだろう?」
コートが唇を強く噛んで、キッとサヴリンさんを睨み付ける。手足の届かない範囲だから、コートができる事といえば睨むくらいか。
「……決めた。コート、こっち見て」
ファニィがコートに呼びかけると、コートは今にも泣き出しそうな顔になって、それでも必死に涙を堪えてファニィを見た。
「ジュラとサヴリンさんと、静かに穏やかにキチンと話し合いしなさい。一切の手出し暴力行為は無用。これは補佐官命令です」
「ファニィさん!」
「命令です」
ファニィは、今までたった一人で必死に頑張ってきたコートにとって、一番無情な結論を出した。
「コートの言葉に後ろ暗い事があるなら、サヴリンさんの声には揺らぎが生じるはずよ。だけどそんなの感じなかった。コート。あんたにだって、聞き違いや誤解があるかもしれないじゃない。だから話し合うんだよ」
「……僕を……信じて……」
ついに堪え切れなくなったのか、コートがしゃくり上げ始めた。
「まぁコート。どうしたんですの? おなかが痛いんですの? 誰かに意地悪されたんですの?」
「姉様、僕を信じてください。サヴリンさんは姉様を騙してます。利用しようとしてるだけです」
「……コート。わたくし、難しいお話は苦手ですの。でも一生懸命お話を聞きますわ。だからコートもわたくしと一緒にお話しましょう。ね?」
ジュラさんがコートを床に降ろし、自分も膝を折ってコートの視線と自分の視線を重ね合わせる。ぽろぽろと涙を零すコートの頭を撫でながら、柔らかく微笑みかける……そんないつもの光景。
「ファニィ。ここは俺やお前も話に加わった方がよくないか? 第三者の目がある方が、コートもサヴリンさんも、腹に一物抱えるような事はできないだろうし」
「ダメ。これはジュラとコートの問題なの」
ファニィと、この姉弟との付き合いは長い。だからこそ、ファニィはこういった決断を出したのかもしれない。だがファニィはグランフォートの真実を知らない。
俺は食い下がるべきか、ファニィに従うべきか、躊躇していた。
「コート、くれぐれももう一度言うわ。あたしの『命令』よ」
コートは答えず、ただ悔しそうに唇を噛んでいた。
「あたしたちは外にいます。何かあれば呼んでください。ほら、行くよタスク」
俺はファニィに腕を掴まれ、来賓室から引っ張り出された。
4
あたしは来賓室の外で壁に寄り掛かったまま、まだ考え込んでいた。
あたしの判断は……正しかったんだろうか?
「ねぇタスク。あんた……ミサオさんとは仲、良かった?」
「ん? ああ……仲がいいっていうか……身内の中じゃ一番信用してた。歳が近いきょうだいって、どこもそんなもんだろ。まぁ、鬱陶しいほど口も手も出してくるが、姉貴が一番、俺の事を理解してくれたな。だから俺は姉としても、そして魔法使いの先輩としても、姉貴を尊敬してた」
「そっか……じゃあ、誰かに取られちゃうのって、弟として嫌な気持ちになる?」
タスクはふっと笑って頭を掻く。
「お前には初めて話すけど……俺もコートをとやかく言える立場じゃない。俺が十二、三の時、姉貴の婚約話を俺がブチ壊しにした」
「えっ」
「ジーンの風習で、十五を越えた女子には許婚が決められるんだよ。その話を俺が破談にした」
あたしはタスクの言葉に驚いて、だけど急におかしくなって声をたてないように笑った。タスクもあたしの様子を見て肩を竦めている。
タスクもなんだかんだ言って、結局お姉ちゃんっ子なんだ。あたしには偉そうにするくせに、なんだかおかしい。
「じゃあ弟としては、やっぱり姉を取られちゃうのはどこも嫌なものなのね。そうだとすれば、コートの行き過ぎたヤキモチも分かんなくないね」
あたしが自分の判断に太鼓判を押されたような気分になってると、タスクは急に真面目な顔になって、あたしに向き直る。
「お前はさっき突っぱねたが、これはお前も知っておくべきかもしれない話だ」
タスクはそう前置きして、グランフォート家の資産がもうほとんど残って無いって話をし始めた。そしてコートはすごく価値のある遺産の秘密を知ってて、それが原因でママに何度も誘拐されそうになってたって事も。
あたしの胸が急にザワつき始める。
「ちょっと……それって……」
「ああ。コートの話、まんざら嘘じゃないかもしれない。彼がジュラさんに固執する理由は、コートもろともラシナに連れ帰るためという推理もできる。本気でジュラさんを娶る気があるのか、グランフォートの奥方に唆されてるのか、今の段階じゃ判別できないから、できれば第三者である俺たちが介入した上で話し合いさせた方が良かったかもしれないな。ただの杞憂で終わってくれればいいんだが……」
あたしの頭から血の気が引いた。
「や、やだ……どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ!」
「話そうとしたらお前が突っぱねたんだろうが」
「もっと早くによ! もっと前に知ってたんでしょ、タスクは!」
確かにあたしも組合も、組合員の過去やプライベートにはあまり踏み込まない方針を取ってるわよ。だけどジュラとコートの事は、あたしは知ってるべきだったでしょ! あの二人とあたしは家族みたいなものなんだから! タスクはどうしてあたしに話してくれなかったのよ!
「あんたの言う通り、あたしたちも入って話し合った方がいいかもね」
「……チッ……もう遅いかもな」
タスクが表情を硬くして来賓室のドアを見る。
「お前、中の声、聞こえるか?」
「何にも聞こえないけど……」
あたしの不安はどんどん膨らんでいく。
「あれだけ騒いでたコートの声すら聞こえないっておかしいと思わないか? そりゃいつもみたいにグスグス泣いてるだけならいいんだが、ガキの喚き声は大人の声より通りやすいだろ。それがさっきからまるで聞こえない」
更にあたしの全身から血の気が引いた。タスクの言う通り、さっきまであれだけ騒いでたコートの声が全く聞こえないのはおかしいわ。
「踏み込むわよ!」
あたしは勢いよくドアを開けた。
「ジュラ! コート!」
ビュウッと風があたしの頬を撫でる。窓が開いてるの。そして誰の姿もない。
「ジュラ、コート! どこ?」
「こっちだ!」
タスクがソファーの影に飛び込む。
「ジュラさん? しっかりしてください、ジュラさん!」
意識のないジュラの肩を抱いて、タスクは緩くジュラの頬を叩いている。だけどジュラが目を覚ます気配はない。
「まさ、か……」
「いや……意識がないだけだ。ファニィ、コート捜せ」
あたしは開きっぱなしの窓に駆け寄り、身を乗り出した。すると中庭のずっと向こう、組合の裏門へ通じる植え込みに沿うように、走り去る人影が見えた。
銀髪と褐色の肌。間違いない、サヴリンさんだ! そして彼は小脇に小さなものを抱いている。
「コート!」
サヴリンさんが抱えてるのはコートだわ。
「逃がさない! タスク、ジュラお願い!」
「分かった! 俺もすぐ追う!」
あたしは窓から飛び出して、全速力でサヴリンさんを追った。
サヴリンさんは知ってたんだわ、グランフォートの資産の事。だからコートを連れ去った。ジュラに言い寄ってたのは、コートをおびき出すため。あたしはまんまと騙されたのよ。
「許せない……ジュラとコートを……ッ!」
あたしの体が怒りで震える。
「見つけた! コートを返しなさい!」
「チィッ!」
さっきまでの貴族然とした優雅な立ち居振る舞いはどこへやら、サヴリンさん……いえ、サヴリンは舌打ちして振り返る。その手には大振りのダガーが握られていた。
「それ以上近付かないように。大事な獲物に傷を付けたくはないので」
ダガーの切っ先を意識のないコートのうなじに当てる。
「あんたの声には揺らぎが無かった! だから信用したのに!」
「経験の浅い、汚れる事を知らないお嬢ちゃんが相手で、こちらとしても大助かりだよ」
あたしの胸がチクリとする。
この組合で、あたしは誰より修羅場をくぐってきてると思ってた。だけどそれはあたしだけの手柄じゃなくて、みんなに助けられて培ってきたものだと思い知らされた。あたしはサヴリンが言うように……自分が汚れる事を知らない、まだまだ経験の浅い子供だった。
「あんたは知ってるの? グランフォート家の資産の事」
「ああ、知っている。だからコートニスが必要なんだ。私のような爵位だけの貧乏貴族に、グランフォート家の富……おっと、コートニスの持つ遺産の金は、喉から手が出る程欲しいものなのでね」
この人もお金……二人のママもお金。友達や家族、他人を陥れてまで、奪う必要のあるものなの、お金なんて? あたしの考え方も、子供の戯言だっていうの?
「あんたは最初、ジュラに会いに来ただけって言ったのに!」
「そうだとも。私の計画がコートニスにバレているのは事実。だから真正面からぶつかっても、コートニスは口を割らないだろうから、コートニスが最も信頼を置くジュラフィスを利用したまでだ」
コートの言葉は事実だった。
ごめんね……ごめんね、コート。あんたを信用してあげられなくて、本当にごめんね。
「そのままコートを連れ去っても、コートは絶対に喋らないわよ。守ってあげなきゃならないくらい弱い子だけど、でも誰も敵わないくらい強い子だもの」
サヴリンがふっと笑い、ダガーを持つ手で自らの服の襟を大きく開く。そこには幾何学模様の刺青があった。まさかその刺青……。
「祖母が魔法使いだと言わなかったかな?」
魔法でコートを無理矢理喋らせる気だわ! 魔法については詳しく分からないけど、多分タスクが使えない炎の元素系統以外の魔法!
「コート目を覚まして! そこから逃げ出して!」
「無駄だよ。マインドシードで眠らせてある」
「マインド……シード?」
聞いた事のない名前。薬?
「ジーンでしか取れない特殊な麻薬だ。ごく微量で簡単に人を廃人にできる。『入れ物』が壊れていても、深層心理に働きかける魔法を使えば、コートニスの意思は関係なく情報が手に入る」
あたしは両手で口元を押さえて息を飲んだ。じゃあジュラやコートの意識がないのって……。
ゾワゾワと、あたしの全身を何かが逆流してくる。でも凄く、神経が五感が、鋭敏に研ぎ澄まされていく。
「入れ物……って……コートの事を言ってるの?」
自分の声じゃないほど、自分の声が遠くに聞こえた。
サヴリンがダガーの腹で、ペタペタとコートの白い首筋を叩く。
「入れ物、さ。遺産の秘密が隠された『入れ物』だよ」
コートは……入れ物なんかじゃない! コートは人間で、あたしの仲間で、あたしの大切な家族なの! 入れ物なんて言い方、物扱いするなんて、絶対に許せない!
「許、せない……」
コートを物扱いしたサヴリンも、コートの事を信じてあげられなかった自分も許せない。許せないよ、何もかも。許せない許せないゆるせない……ユルセナイ……。
全身の血が一気に逆流したような気がした。
サヴリンとコートの姿が、出来の悪い不透明なレンズ越しに見ているような錯覚に陥った。
あたしは怒りと自己嫌悪でその場に蹲った……ような気がしていた。
何も、考えられなくなっていた。
何も、分からなくなっていた。
あたしがあたしでなくなっているような……気がした。
「……ッ!」
恐怖に歪んだ青い瞳に、爛々と赤い瞳を輝かせた何かの影が映り込んでいる。
赤い……瞳……赤い目の、魔物……は……あたし?
あたしはあたしの意思で動いていなかった。おなかの底から突き動かされる本能に従って、動いていただけ。
嫌、だ……やだ……あたしの意思じゃない。こんなのあたしじゃない! あたしは見たくない! あたしは知らない! あたしのせいじゃない! あたしは何もしてない!
褐色の肌の、人型の『モノ』が、断末魔の絶叫をあげながらゆっくり壊されていく。『赤い目の魔物』より大きな体の『モノ』を、大した苦も無く、躊躇もなく、『赤い目の魔物』はへし折り、引き裂き、『それ』から吹き出した生暖かい液体啜り、零れ落ちた血肉色の塊を貪り、『食べ物』をただただ喰む。本能のままに、『食べたい』という衝動に逆らわず、目の前の『食べ物』を無感情に喰らう。
……あ、ああ……そうだ……知って……る。知ってるよ。あたし。これと同じ光景、あたし……ずっと前に見たの。あたしが……食べたの。味を覚えてる。舌の先が、心の奥が、覚えてる。だから……知ってる……。
知らないって言ったけど……覚えてないつもりだったけど、あたし、知ってたの。覚えてたの。本能が、この味を求めていたの。
「ファニ……ッ!」
誰かが駆けてくる足音。それがあたしの少し後ろで止まる。
……邪魔、しないで。あたしは今、『食事』してるの。もっと食べたいの。
「……ファニィ! やめろ! もう終わってる!」
何が『終わってる』の? あたしの『食事』はまだ終わってないわ。
あたしから『食べ物』を取り上げ、誰かはあたしの体を強く抱き締めた。
どうして邪魔するの? あたしは渇きを、飢えを、満たしたいだけ。あたしの本能が求めるものに従いたいだけ。だから……あっちがダメならこっちでもいい。
あたしは目の前にある喉笛に噛み付いた。口の中を潤す『美味しい蜜』が広がる。温かくて、甘くて、しょっぱくて、活力に満ちた、あたしの乾きを潤してくれるモノ。すると誰かは何も言わず、悲鳴もあげず、更に強くあたしを抱き締めてくる。
「……気は、済んだか?」
あたしの頭を誰かが優しく撫でてくる。あたしは噛み付くのをやめて、ゆっくりと顔を上げた。
黒い瞳が、優しい顔であたしを見つめてる。あたしの『本能』が消えた。
「……タ、ス……ク……」
あたしの体が急に震え始めた。怖くて恐ろしくて不安で、どうしても誰かに縋りたくて、あたしは目の前のタスクの服をぎゅっと掴んで不安な気持ちを素直に打ち明けた。
「……タスク、怖い、よ……あたし、怖いよ!」
「大丈夫だ。お前が落ち着くまで、そうしてていいから」
あたしはこくりと頷き、状況を把握しようと振り返る。だけどタスクはさっとあたしの目を片手で押さえた。
「お前は見るな。目を瞑ってろ」
「……うん」
あたしはタスクに言われた通り、素直に目を閉じた。
あたしの体を抱えたまま、タスクがゆっくり歩き出す。あたしは目を瞑ってるからちょっと歩くにも足許が覚束なくて、怖くて、だけどタスクがいるから安心して彼に付いていく。少し歩いた所で、タスクは屈み込んだ。
「コート、起きろ。コート」
タスクがコートを揺さ振ってるのか、少し体が揺れた。
「……あ……」
あたしはサヴリンの言葉を思い出して声をあげる。
「タスク。マインドシードって知ってる? それ使ったって、あいつ言ってた」
「なっ……」
タスクが喉の奥で唸る。
その時、複数の足音が近付いてきた。あたしはビクッと体を強張らせる。
「大丈夫だ。お前を追ってくる前に呼んできた組合の人たちだから、お前に危害を加えるような人たちじゃない」
「おい、こっちか!」
誰かの声。
「これ……ウッ!」
複数の足音が途切れる。
「誰か、イノス先輩に連絡を取ってください。あの人確か薬師でしたよね?」
「そ、そうだが……それ……し、死んでるのか? それにお前も……」
『死』 という言葉に、あたしはまた恐怖で慄え出す。
「コートは眠らされてるだけです。イノス先輩に、マインドシードという麻薬の解毒をお願いしてください。多分ジュラさんも同じ麻薬を使われたはずです」
「わ、分かった。その……補佐官、は?」
みんなの動揺が手に取るように分かる。あたし、きっと汚れて……。
「ファニィは落ち着くまで俺が見てます。俺のコレはただの返り血ですから」
「一人で大丈夫か? じゃあコートニスを連れて行くぞ。も、元締め様にも連絡しておく」
「お願いします」
足音が来た道を戻っていく。あたしはタスクにしがみ付いたまま、後ろが見えないように顔をタスクの肩に押し付けてそっと目を開いた。そこには、真っ赤に染まったあたしの手と、タスクの服。彼の首筋には、あたしが噛み切った傷跡。あたしが引き裂いた服の皺のたるみに、まだまだ溢れ出る血が溜まっている。
あたしの体の慄えが酷くなる。血の臭いで息が詰まりそう。ついさっきまで、こんなのを満足そうに飲み、食べてただなんて……。
そういえば、さっきからサヴリンの声がしない。気配もない。
……当然、だよね。だってあたしが……殺した、から。
「……タスク……知ってるよ、あたし」
「何を?」
脳裏に蘇る、あの日の記憶。知らないって思い込んでた、パパたちがいなくなった日の記憶。
「知らないって思ってたけど、覚えてないって思ってたけど……あたし、知ってるの。覚えてるの」
目から熱いものが零れてくる。
「……あた、しが……やったの。あたし……が……パパとママと、ヒースのママを殺……」
「ファニィ、ごめんな」
タスクがあたしの言葉を遮るように詫びの言葉を口にする。そしてあたしの体をもっと強く抱き締めてくる。
「辛い『作業』お前一人に任せてごめんな」
「……タスク?」
「お前がやらなきゃ、俺がやるはずの『作業』だった。俺の代わりをお前一人に押し付けちまって、本当にごめんな」
違う……それ、違う。あたしが……あたしの中にある、魔物の血の本能が……。
だけどあたしの考えは声にならず、あたしは身じろぎも出来ずに、タスクにしがみ付いている。タスクはただの仲間の一人のはずなのに、ただそれだけの存在のはずなのに、あたし今、タスクがいないと一人で立ってる事もできない。息苦しくて、体に力が入らなくて、支えてもらわないと、あたしがあたしの形を留めている事もできないような、そんな……錯覚に陥ってる。
「お前は知らなくていいから。だからもう、何も言わなくていい。何も思い出さなくていい。全部忘れていい。ファニィ、本当にごめんな。すまなかった」
なんで……タスクが謝るの? なんであたしのした事を責めないの? なんであたしが事実を知る事を拒むの? なんで……何も、思い出さなくて……いいなんて言うの? あんたが謝る事なんて……なにも、ない、のに……っ!
「……うく……ひぐっ……っ!」
涙が込み上げてきて、あたしはそれを抑える事ができなかった。誰かの前で泣いた事なんてなかったのに、誰かに縋るなんてあたしの柄じゃないのに、あたしは声をあげて、泣きじゃくった。
肉を千切り取って血で汚れた手で、血を啜って肉を貪った顔で、タスクにしがみ付いて、あたしは泣いた。だけどタスクは自分の服が汚れても嫌な顔一つせず、むしろパパみたいに優しく何度もあたしの頭を撫でながら、「もう怖がらなくていい。泣いていい」そう言ってあたしが泣きやむまでずっと、温かく抱き締めていてくれた。
泣いていいんだ……あたし、ここで泣いてていいんだ……。




